2020年5月2日土曜日

目次





1.四月八日   今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。

2.四月九日   宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。

3.四月十三日   観音堂の若衆小屋で、市太、惣八、安治は芝居の稽古に飽きて、ゴロゴロしていた。

4.四月十六日   山守の爺さんは市太、惣八、勘治をちゃんと座らせ、六十年前の浅間焼けから延々と話し始めた。

5.五月十二日   五月に入ると、いよいよ芝居の稽古も本格的になり、立ち稽古が始まった。

6.五月十九日   大行燈に照らされて、この世の者とは思えない美しい女たちが艶やかな着物をまとって座っていた。

7.五月二十五日   畑に出ていた村人たちは立っている事もできず、地にひれ伏しながら不安そうに浅間山を見上げた。

8.五月二十六日   揺れる石段を這うようにして登り、浅間山を見ると、そこには信じられない光景があった。

9.五月二十七日   そのまま治まるかに見えた浅間の噴火は、次の日の夕方、またもや、大音響と共に大揺れした。

10.六月一日   おろくの父親が怪我をしてから、市太は毎晩のように見舞いに行って、おろくと会っていた。

11.六月六日   大笹宿の六斎市は、近在は勿論の事、信州からも商人たちが訪れて来て賑わっていた。

12.六月八日   市太は諏訪の森をじっと見つめていたが、月を見上げると、おろくの家へと足を向けた。

13.六月九日   いがみの権太の衣装ができたので、市太は惣八を誘って、小道具を見に八兵衛の家に向かっていた。

14.六月十三日   朝から小雨が降っているのに、大笹から武家荷物が次々に送られて来て大忙しだった。

15.六月十七日   地面の揺れは治まらず、これ幸いと市太はおろくの肩を抱き寄せ、恋の道行きと洒落る。

16.六月二十日   突然、家が大揺れしたと思ったら、霰でも降って来たかと思うほど、屋根の音がうるさくなった。

17.六月二十一日   市太はおろくを抱き上げると若衆小屋の中に入って行った。

18.六月二十三日   芝居の稽古も終わり、勘治、安治、仙之助、おさやとおみやもやって来て、鉄蔵の送別会が始まった。

19.六月二十四日   おゆくに連れられて裏にある若衆小屋に行くと、小屋の中に錦渓がいた。

20.六月二十七日   浅間山が唸り続け、紀州熊野の山伏、永泉坊が今朝から観音堂で祈祷を始めた。

21.六月二十八日   浅間山はゴーゴー唸り、大地の揺れは続いている。おまけに空から砂が降って来た。

22.六月二十九日   慌てて身を伏せて浅間山を見ると、黒煙は勢いよく天高くまで昇りつめ、時折、火柱が立っていた。

23.七月一日   突然、大音響と共にグラッと揺れた。浅間山を見ると黒煙の中に稲光が走っていた。

24.七月四日   草津でも雷のような音が響き渡り、夜になると客たちは浅間焼けの火柱を眺めに出掛けて行くという。

25.七月五日   まるで、花火のように火が空に飛び散って、火口辺りは真っ赤に燃えていた。

26.七月六日   呆れる程の物凄い量の黒煙が東の方に棚引いている。軽井沢方面の空は真っ暗だ。

27.七月七日   山頂付近は真っ赤に燃え、天に向かって勢いよく吹き出す黒煙から火の玉が四方に次々に飛び出している。

28.七月八日   ゴーゴーという唸り声とパチパチと何かが弾けるような異様な音が響き渡り、ドスーンと何かが当たった‥‥

29.七月九日   山裾の原生林はすっかり土砂に埋まって、所々に倒れた大木が転がり、焼石からは煙が立ち昇っていた。

30.七月十三日   閉じ込められて五日が過ぎ、水ばかり飲んでいた生存者は皆、病人のようになっていた。

31.七月十四日   太い木の幹は好き勝手な格好で埋まっている。こんな物がよく流れて来たと呆れる程の大きな岩がゴロゴロ‥‥

32.七月十五日   庭に大釜を出して女衆が炊き出しをしていた。仮普請の小屋の中には年寄りや子供たちが疲れきった顔‥‥

33.七月十六日   市太は焼け石に埋まった村を眺めながら、ここに村を作るなんて不可能だと思っていた。

34.七月十九日   半兵衛は毎日、鎌原村に通っていた。雨が降っていた昨日も一人で出掛けて、村の再建の事を考えていた。

35.七月二十二日   名主の妻だったおさよは干俣村の父親の屋敷の縁側に座って、ぼうっと庭の池を眺めていた。

36.七月二十三日   資材運びは続いていた。女たちは大笹の若い者たちのために昼飯の支度が忙しかった。

37.七月二十五日   今日はお諏訪様の祭りだった。本来なら諏訪明神の参道に露店がズラリと並び、笛や太鼓が鳴り響き‥‥

38.十月二十四日   あれから百日も経ったのに、まともな家に住む事もできねえのかと村人の心はバラバラになってしまい‥‥

天明三年(一七八三)十月二十四日

 祭りから三ケ月が過ぎた。
 秋も過ぎて、厳しい冬が近づいている。村人たちは一致団結して新しい村作りに励んでいた。表通りもでき、大笹と鎌原を結ぶ道も、鎌原から狩宿を結ぶ道も普請(ふしん)が始まっていた。
 表通りに面して、皆、平等に十間幅の屋敷割りもできていた。そして、今、十一軒の家を建てている。誰がそこに住むかは、まだ決まっていない。
 祭りの時、村人の心は一つにまとまって、そのまま、うまく行くかに見えたが、順調に行ったわけではなかった。残念な事に、村を去って行った者もいた。長い共同生活は初めの頃こそ、うまく行っていたが、やがて、皆に疲れが見えて来ると些細(ささい)な事でも言い争いが始まった。
 用水の水を飲んで感動していた油屋の一家は、もう耐えられないと村を出て行った。長女が大笹の商家に嫁いでいるので、大笹で暮らすという。百姓代だった仲右衛門はおさよを口説いたが振られて出て行った。市太の家の分家である立花屋の親子も原町の妻の実家を頼って出て行った。その点、祭りの時、あれだけごねた扇屋の旦那はあれ以来、文句も言わずに一緒に働き、夜はみんなに義太夫を語って聞かせて満足していた。
 十月十八日には観音堂で百日忌(き)が行なわれた。永泉坊に祈祷を頼みたかったが、怪我も治って旅立ってしまった。大笹の無量院(むりょういん)の和尚に頼んで法要をしてもらった。その日は仕事を休み、気分転換になるかと思ったが、逆効果だった。昔の事を思い出して、何でこんな苦労をしなけりゃならねえんだ。あれから百日も経ったのに、まともな家に住む事もできねえのかと、村人の心は一つになるどころかバラバラになってしまいそうだった。
 百日忌から四日後、市太はみんなの心を一つにまとめるために、ここらで一つ、祭りをやろうと半兵衛に提案した。
「何じゃ。今度は観音様の祭りでもやるのか」
「そうじゃねえ」と市太は首を振った。「今度は人間様の祭りをやるんだ」
「一体(いってえ)、何をするつもりなんじゃ」
「祝言(しゅうげん)さ。三ケ月、一緒に暮らして来て、誰と誰がうまく行ってるか、わかるだんべ。そいつらをまとめて一緒にさせちまうんだ。伯父御たちが言ったように、家族を作らなきゃア、みんなバラバラになっちまう」
「早え話が、若旦那がおろくと一緒になりてえんだんべ」と半兵衛はニヤニヤする。
「若旦那って呼ぶなって言ったんべ」
「つい癖でな、どうも、市太郎とか市太とか、呼びづれえ」
「呼びづらくても頼むぜ。みんな、平等って言っときながら、若旦那もねえもんだ」
「ああ、わかった。で、市太とおろくはわかるが、あとは誰でえ」
「まずは、惣八とおまんだんべえ」
「うむ」と半兵衛も納得してうなづく。「あの二人は早くくっつけた方がいいな。最近は大っぴらにいちゃついていやがる」
「次に、丑之助とおしめ」
「うむ。あの二人もいいだんべ。おしめのような器量よしが、あんなウドの大木とくっつくたア一体(いってえ)、どうなっちまったんでえ。わしには信じられねえ」
「丑が優しいからさ。おしめの言う事ア何でも、はいはいだ。おそめの面倒味もいいし、いい親子ができらア」
「そうだな。これで三組だ。他にもいるのか」
「伊八とおつねだ」
「ああ、あの二人か。二人ともおとなしいが真面目な夫婦になりそうじゃな」
「それと長治とおしま」
「おしまも草津に行ってから随分と活発になった。どうも、おしまの方から長治に近づいてったようじゃな」
「長治の奴はおなつが好きだったんだ。なかなか立ちなおれなかったらしいが、おしまのお陰で、その傷も癒(い)えたようだ」
「賑やかな祝言になりそうじゃな」
 半兵衛が指折り数えていると、「まだ、いる」と市太は言う。
「なに」と半兵衛は顔を上げて、「誰だ」と聞いた。
「次郎右衛門とおふきだ」
「おうおう、そうだったな。二人とも子持ちでお似合えの夫婦になる。こうやってみると、夫を亡くした者と妻を亡くした者同士ってえのは、この二人だけか」
「男の方は独り者だが、おまんもおしめも夫を亡くしてる」
「まあ、そうじゃが、黒長の旦那が言うように、うめえ具合にゃア行かねえもんじゃな」
「連れ合えを亡くして、まだ三月余りだ。あせる事アねえさ。自然に任せときゃア、そのうち、くっつくべき者はくっつくさ」
「そうじゃな。それで、その六組の祝言をいつやるんじゃ。吉日(きちじつ)を選ばなけりゃならねえな」
「そう早まるなよ。もう一組いるんだ。こいつが一番肝心だ」
「何でえ、まだ、いるのか」
 半兵衛は考えるが思いつかなかった。市太も勿体をつけてなかなか言い出さない。
「おい、一体、誰と誰なんじゃ」
「半兵衛とおさよさんだよ」と市太は笑いながら言った。
 半兵衛はポカンとした顔で市太を見ていたが、急に我に返ったかのように手を振った。
「なに馬鹿な事を。冗談にも程がある」
「いや、こいつア絶対(ぜってえ)にやらなきゃならねえ」と市太は真剣な顔付きで言う。「二人の祝言に比べたら、後のみんなは前座みてえなもんだ」
「おいおい。勝手に、そんな事を決めるなよ」
「おさよさんは名主のおかみさんだった。対して、半兵衛はただの馬方だ。この二人が一緒になる事によって、村の者が皆、平等だってえのが身をもってわかるんだよ」
「何を都合のいい事を言ってるんだ」
「おさよさんはみんなと対等に付き合っている。でも、みんなの方は未だにそうじゃねえ。名主のおかみさんだったってえのを忘れきれねえで接してる。おさよさんのためでもあるんだ。おさよさんが半兵衛と一緒になって初めて、みんなと同じ立場になれるんだよ。なア、半兵衛、頼む、おさよさんと一緒になってくれ」
「頼むって言われてもしょうがねえ。俺は勿論、文句アねえが、向こうが俺なんか相手にするわけがねえ」
「そいつアわからねえよ。最初(はな)っから諦めてちゃア何も始まらねえ。たった一人で村作りを始めた半兵衛じゃねえか。何もしねえで諦めるってえ手はねえぜ」
「そんな事、言ったってなア」
「俺アちょっと、おさよさんを呼んで来るからよう、うまくやれよ」
「おい、待て、ちょっと待ってくれ」半兵衛が慌てて引き留めても、市太は行ってしまった。
「畜生め、勝手な事を言いやがって。一体、どうしたらいいんでえ」
 日暮れ間近だった。朝晩はめっきり冷え込んで来ている。半兵衛は建て掛けの家の前を行ったり来たりして、どう言い出そうか考えていた。突然の事だったので、頭は混乱していて考えはまとまらない。どうしよう、どうしようと思っているうちに、おさよがやって来てしまった。
「半兵衛さん、あたしにお話があるんですって」
 襷(たすき)を取りながら、おさよは笑った。
「えっ、まあ」
 半兵衛はおさよの顔がまともに見られなかった。毎日、顔を合わせて一緒に暮らし、半兵衛の心はおさよの虜(とりこ)になっていた。亡くなった妻の事を思うと申し訳ないと思うが、おさよに惹(ひ)かれて行く自分の気持ちを抑える事はできなかった。半兵衛がおさよに惹かれたのは初めてではない。おさよが鎌原村に嫁いで来る時、半兵衛は仲人を務めた市左衛門の供として干俣村まで何度も通い、おさよを見て、この世にこんな美しい娘がいるのかと一目惚れをした。しかし、相手は名主のお嬢さん、高嶺の花と諦めるより仕方がなかった。あれから十七年が経ち、高嶺の花は相変わらず美しく、しかも、すぐ身近にいた。市太が言うように、おさよと祝言を挙げられたら、どんなに素晴らしい事だろう。だが、所詮(しょせん)、夢じゃと諦めていた。
「寒くなりましたねえ。お正月には、うちもできるといいですね」
「そうじゃな」と言いながら半兵衛はおさよを見た。
 おさよは夕焼け空を眺めていた。
「市太の奴がな、みんなの心をもう一度、一つにまとめるためにも、祭りをしようって言うんじゃよ」
「まあ」とおさよは半兵衛を見て笑った。「それはいいかもしれませんね。最近、やたらとみんな、イライラしてるみたいだし」
「そうなんじゃ」
「どんな、お祭りをするんですか。観音様かしら」
「いや、そうじゃねえんじゃ。あの、頼みがあるんじゃが」
「何です」とおさよは半兵衛を見つめる。
 半兵衛は耐え切れずに視線をそらした。
「あの、怒らんで聞いてくれんか」
「何です。怒るなんて、何か悪い事でもするんですか。まさか、博奕(ばくち)をするんじゃ」
「いや、そうじゃない。そうじゃないんじゃ。実は、実は‥‥‥」
「実は何なんです」
「おさよさん、わしと一緒になってくれ」
 半兵衛は言ってしまってから、体中が熱くなって来た。おさよはじっと半兵衛の顔を見つめている。
「ダメか、ダメじゃな。いいんじゃ」
 半兵衛は急に恥ずかしくなって、おさよに背を向けた。
「いいえ」とおさよは小声で言った。「あたしのような者でよかったら、喜んで」
「何じゃと」半兵衛は振り返った。おさよは俯いていた。
「今、何と言ったんじゃ」
「あたしでよかったら、喜んで半兵衛さんと一緒になります」
「信じられん‥‥‥」
 おさよは顔を上げた。目が潤んでいるようだった。その潤んでいる目がじっと半兵衛の目を見つめた。
「信じられない事を始めたのはあなたです。あなたがいたから、あたしはずっと、ここにいたんです」
「半兵衛、やったじゃねえか」と市太とおろくが顔を出した。
「何じゃ、聞いてたのか」半兵衛は照れ臭そうに苦笑する。
「振られたら、慰めてやろうと思ってな」
「このう、畜生め」
「俺たちは邪魔なようだな」と市太はおろくの手を引いた。
「おめでとうございます」とおろくが言って、二人は去って行った。
「まるで、夢でも見てるようじゃ」半兵衛は首に掛けていた手拭で冷や汗を拭く。
「あたしだって」とおさよは恥ずかしそうに目を伏せる。「夫も子供も亡くして、何もやる気がなくなっていた時、あなたの名前を聞いたのです。あなたとは一度も話をした事はなかったけど、何となく気になって、ここに戻って来たんです。そして、あなたが一生懸命働いている姿を見て、あたしの心はときめきました。三十女が馬鹿なとお笑い下さい。まるで、娘のように胸が熱くなって‥‥‥これが恋っていうものかって、あたし、初めて知りました。それからはもう、自分でも何をやってるのかわからないくらい夢中になっちゃって‥‥‥」
「おさよさん‥‥‥」
「半兵衛さん‥‥‥」
 おさよは半兵衛の胸に飛び込んで泣いた。半兵衛は優しく、おさよを抱き締めた。
 十月二十四日の吉日、観音堂において、七組の祝言がささやかに行なわれた。その日、村の代表として百姓代に半兵衛、組頭に市太が選ばれた。


 あれから二百年余りの月日が流れ、鎌原村の下には当時の人々が安らかに眠り続けています。亡くなった人々の御冥福を心からお祈り致します。


合掌

2020年5月1日金曜日

天明三年(一七八三)七月二十五日

 朝早くから観音堂は賑やかだった。女衆(おんなし)は食事の支度を始め、男衆(おとこし)は小屋の中を片付けたり、庭の掃除をしたり、大笹から借りた提燈(ちょうちん)を飾り付けている。
 今日はお諏訪様の祭りだった。本来なら、諏訪明神の参道に露店がズラリと並んで、笛や太鼓が鳴り響き、境内にある舞台で芝居が上演されるはずだった。今はお諏訪様も舞台もない。それでも、ずっと働き詰めだった者たちの気分転換と、助けてくれた大笹の人々に感謝するため、観音堂において、ささやかな祭りをしようと皆で決めたのだった。
 芝居はもうできない。三幕目で生き残ったのは、知盛(とももり)役の杢兵衛と典侍(すけ)の局(つぼね)役の権右衛門だけで、義経も弁慶もいなかった。四幕目で生き残ったのは、いがみの権太役の市太と若葉の内侍(ないし)役の権右衛門、駕籠(かご)かき役の丑之助と仙之助だけで、権太から金をだまし取られる小金吾(こきんご)も、権太の妻の小せんもいなかった。そこで、前座にやる予定だった娘義太夫をやる事に決まった。おなつも、おきよも、おなべもいなかった。でも、おゆうがいた。おかよもできるし、おさやとおみやもいた。皆、稽古をしていないので自信がないと辞退したが、舞台もないし、稽古のつもりでやってくれればいいと言われて引き受けた。
 やがて、大笹からゾロゾロと人々がやって来た。おみのが祝いの酒を持って来てくれた。藤次は香具師(やし)を連れて来てくれた。露店も並んで、大分、祭りらしくなって来た。まだ足の火傷(やけど)が治らない永泉坊も来てくれ、観音堂で亡くなった者たちの冥福(めいふく)を祈る祈祷(きとう)をしてくれた。大笹や干俣(ほしまた)にいた村人も集まって来た。
 市太の家族たちも来た。祖父の市左衛門は馬の背に乗ってやって来た。もう七十を過ぎているのだから当然だが、急に老け込んでしまったようだった。
「わしもみんなと一緒に村作りをしたいんじゃが、体の方が言う事をきかん。すまんのう」
「いいんだよ、爺ちゃん。ちゃんとしたうちができるまで、大笹にいてくれよ」
「おまえと半兵衛が村作りを始めたと聞いた時は本当に嬉しかったぞ」
「爺ちゃんが言ってた、本当にやりてえ事ってえのが、やっと見つかったんだ」
「そうか、そうか」
 市左衛門は目を潤ませながら、何度もうなづき、孫の姿を見つめていた。
「爺ちゃん、村を見てくれ。まだほんの少しだけど、焼け石も掘り返して、今、新しい小屋も建ててるんだ。藤次のお陰で、大笹の若衆が毎日、手伝ってくれる。みんな、喜んで、ただ働きをしてくれるんだ」
「そうか。無駄に喧嘩ばかりしてたんじゃなかったな」
「うん、いい奴さ」
「市太郎、あたしはもう何も言いませんよ」と市左衛門の隣にいた母親が言った。
「おさよさんから、おまえがしている事をよく聞きました。もし、お父さんが生きていたとしても、おまえと同じ事をしたでしょう。村のために頑張って下さい。それと、おろくの事も反対はしません」
「母さん‥‥‥」市太は心の中でお礼を言った。
 母親は祖父を連れて、村の方に降りて行った。
「兄ちゃん、よかったね」と笑うと妹のおさやとおくらは女衆の所に行って、手伝い始めた。
「市太、わしも仲間にいれてくれ」と叔父の弥左衛門が言った。
「仲間だなんて、村の者はみんな一緒だ」
「子供たちを失って二人だけになり、馬方たちも死なせてしまった。思い出すのが辛くてなア。村を離れて、二人だけでどこかで暮らそうと思ってたんだが、どこに行ったって忘れる事などできやせん。もう、逃げるのはやめにしたよ。わしらも村に戻る事に決めた。亡くなった者たちのためにも、新しい鎌原を作らなけりゃならんと気づいたんだ。わしも一緒に働くよ」
「叔父さん‥‥‥」
 弥左衛門は市太にうなづくとやつれた妻を連れ、祖父たちを追って村に降りて行った。
 怪我をした父親の手当をするために大笹にいたおゆうとおまちの姉妹も来た。
「今日は頼むぜ」と市太が言うと、
「任せといて」とおゆうは胸をたたいた。「おなつやおなべも、きっと聞いてるだろう。二人に負けないように頑張るよ」
 扇屋の旦那も三味線を抱え、家族を連れて、ニコニコしながらやって来た。
「おまえたちのやってる事は気に入らないが、今日は祭りじゃ。その事は忘れてやって来た。わしにも義太夫をやらせてくれ」
 以前、甚太夫から義太夫を習っていた旦那衆は皆、亡くなり、生き残っているのは扇屋の旦那ただ一人だけだった。
「お願いしますよ、旦那。久し振りに自慢の喉を聞かせて下せえ」
 市太は逆らわなかった。娘義太夫だけでは間が持たず、祖父の市左衛門にもやってもらおうと思っていたのだった。
「おさよさんをうまく騙(だま)したようじゃが、わしはそう甘くはない。今に見ておれよ」
 市太は何も言わなかった。
 油屋の家族も来た。山守の家族も来た。丑之助の兄、八蔵はまだ正気に戻らないらしい。
 伯父の長左衛門と干小(ほしこ)の旦那が揃ってやって来た。驚いた事に、大戸(おおど)の加部(かべ)安左衛門も一緒だった。三人は吾妻郡(あがつまごおり)の三分限者(ぶげんしゃ)と呼ばれる金持ちだった。加部安(かべやす)は四十年配、黒長は五十年配、干小は七十に近かった。
「結構な祭り日和(びより)じゃ」と長左衛門は言って、甥の市太を干小の旦那と加部安の旦那に紹介した。
「昨日、加部安の旦那が被災地を見にやって来てな、祭りの事を話したら、是非、行きたいと言ったんじゃよ。加部安の旦那も、この村のために援助したいと言っておる」
「しかし、ひどいもんじゃな」と加部安は顔をしかめて首を振った。「村がそっくり埋まってしまうとは、まったく信じられん事じゃ。大戸にも様々な噂が流れて来て、天と地が引っ繰り返ったような騒ぎじゃったが、実際に見てみると予想以上の悲惨さじゃ。新しい村を作るそうじゃな。わしもはばかりながら力になろう」
「ありがとうございます。三人の旦那にそう言っていただけりゃア、みんなの励みになりますよ」
「市太、祭りの前にちょっと話があるんじゃが、村の者を皆、集めてくれんか」と長左衛門が言った。「見たところ、大笹と干俣に分かれていた者たちも、今日はほとんど、来ているようじゃ」
「はい、わかりました」
 三人の旦那が今後の村作りのための話をするのだろうと、市太は村人たちに新しい小屋の方に行ってくれと声を掛けて回った。
 村人たちは何事だと、ゾロゾロと石段を降りて行った。石段に被っていた焼け石も剥(は)がされて、十三段だった石段が十五段になっている。一尺程の厚さの焼け石が掘り返されて、細い道が続いていた。村人たちはその細い道を歩いて行き、焼け石の中に用水が流れているのを見て、歓声を挙げた。
 大笹や干俣にいて、ただ嘆き悲しんでいた者たちにとって、それは信じられない光景だった。黒い焼け石の中を綺麗な水がキラキラ輝きながら流れている。それは希望の光だった。村人たちは用水に掛け寄ると、水を手ですくって飲んだ。それはまさしく、鎌原の水だった。大笹や干俣の水とは微妙に違う。生まれてから、ずっと飲んでいた水だった。村の者たちはその水を飲んだだけで感動して、知らず知らずに涙が流れて来た。
 まだ、柱と屋根だけの小屋に鎌原村の生存者が集まった。怪我人と病人を除き、村人たちが集まるのは久し振りだった。
「みんな聞いてくれ」と長左衛門が言った。
 ざわついていた村人たちは黙って、三人の旦那の方を見た。
「まあ、座って、話を聞いてくれ」
 村人たちが座ると長左衛門は話し始めた。
「わしら三人で相談したんじゃが、この村の再建のために、惜しまず協力する事にした」
 村人たちの拍手と歓声が挙がった。
「そこで、みんなに頼みがあるんじゃ。新しい村を作るというのは大変な事じゃ。まして、村人のほとんどは亡くなってしまった。まだ正確な数はわからないが、生存者は百人前後じゃと思う。以前は六百人近くいたのじゃから、五百人近くは亡くなった勘定となる。これだけの者が亡くなってしまえば、以前のような村に戻す事は不可能じゃろう。家族がみんな揃ってるうちもあるまい。鎌原村は古い村で、家柄だの身分なども古くからの掟に従って来た。しかし、今、そんな古い掟に縛られたら何もできなくなってしまう。そこで、ただ今から、ここにいる者たちは皆、血のつながった一族だと思い、今後、身分差などなく、皆、平等だと思うようにお願いしたい」
「そんな馬鹿な」と扇屋の旦那が反対した。「わしが持ってた土地はどうなるんじゃ。家財産を失って、土地まで失ったんでは生きては行けん。たとえ、旦那方の意見でもそればかりは聞く事はできん」
「扇屋の旦那の言う事もわかる。先祖代々伝えて来た土地を失うのは辛い事じゃろう。しかし、その土地もすっかり焼け石に埋まってしまっている。焼け石を掘り起こしても、その下はお山から流れて来た土砂がある。耕してみたところで、以前のような田畑に戻るとは思えん。山にしたってそうじゃ。樹木はほとんど土砂に流されてしまっている。以前のごとく、森に戻るのは何十年、いや、百年以上掛かるかもしれん。そんな土地にこだわって、村作りに反対しても仕方ないじゃろう」
「しかし‥‥‥土地の事は百歩譲って諦めたとしよう。しかし、身分差を無くさなくても」
「いや。新しい村を作るには、まず、家族を作らなければならん。子孫を残さなければ、せっかく作った村も潰れてしまう。そのためには、夫をなくした者は、妻を亡くした者と、親を亡くした子供は、子供を亡くした親と一緒になって、新しい家庭を築かなくてはならん。家柄が違うだの、身分差があるなどと言ってはおれん。今、ここにいる者たちは皆、財産もなく、はっきり言って無一文じゃ。皆、同じ所に立っているんじゃ。皆、平等の立場から新しい村を協力して作って行くんじゃよ」
「そんな‥‥‥よう、油屋の旦那、旦那も反対してたんべ。何か言ってやれ」
 扇屋の清之丞は油屋の八弥を促した。
「ああ、わしも反対していた。だが、考えが変わった」と八弥は言った。
「何じゃと。どうして考えを変えるんじゃ。土地をすっかり取られちまうんだぞ」
「ああ、わかってる。ここに来るまでは、わしもはっきり反対じゃった。しかし、あの水を、用水の水を飲んだ時、わしは目が覚めたんじゃよ。わしはまだ生きてるってな。わしの隣に住んでた駒屋の一家はみんな死んだ。久兵衛の一家も、弥五左(やござ)の一家も、桶屋の一家も、桔梗屋の一家も、塩屋の一家も、みんな死んじまったんじゃ。生きてるだけでも感謝せにゃアいかんのじゃ。あの水がまた飲めるだけでも感謝せにゃアいかんのじゃよ。土地や家柄なんか、もういい。みんなで新しい村を作って行こうじゃねえか」
 亡くなった者たちを思い出して、皆、目を潤ませていた。それでも、油屋の旦那が言った事に、そうだそうだと言いながら拍手をしていた。清之丞はまだ諦めず、村役人でただ一人生き残った仲右衛門を促した。
「わしは家族をみんな失った。今はまだ、村の事まで考えられねえ。百姓代の役は返上する。もう、わしを頼りにしねえでくれ」
「村役人の事はまた後で決める事にしよう」と長左衛門が言った。「こうなると、反対しているのは扇屋の旦那だけになるが、まだ、一緒に村作りをしようという気にはなれんかな」
「そんなのなれんわ。お上のお役人様に訴えてやる」
「それは無理じゃと思うがな」
「そんな事はない。土地を奪い取るなど、無理難題が通るはずはない」
「お上のお役人様もやがて来るじゃろう。お役人様の役目は早いうちに村の再興をはかり、年貢が滞(とどこお)りなく納められるようにする事じゃ。ただ一人、村作りに反対しているとなると、逆にお咎(とが)めを受けるかもしれんぞ」
「そんな‥‥‥」
「扇屋の旦那」と干小の旦那が声を掛けた。「去年、旅籠屋を建て直した時、貸してあった金があったのう。あれはいつ返してくれるのかな。確か、期限は来月じゃと思ったが」
「旦那、何も今、そんな事を」
「話を聞いていると、皆、無一文じゃという。もしかしたら、返してもらえんのじゃないかと心配になったんじゃ。確かに、来月、返してくれるんじゃな」
「いや、それは‥‥‥旦那、冗談はやめて下せえ。村がこんな有り様だってえのに、そんな事、無理に決まってるじゃねえですか」
「なに、返せないのか。返せないとなると困った事になる。お上(かみ)に訴えなくてはなるまいのう」
「そんな、旦那、何を言ってんです」
「確か、土地が抵当じゃったな。焼け石に埋まった土地など貰っても役にも立たんが、まあ、いいじゃろう。おまえが持っていた土地をすべて貰おう。そうすれば、借金は帳消しにしよう」
「そんな無茶な」
「どうする」と長左衛門が聞いた。「干小の旦那が帳消しにしてくれるそうだ」
「そんなの無茶苦茶だ」
「そうとは思えんぞ。今の状態じゃア、いつになったら借金が返せるか、まったくわからんじゃろう。この先、家を建てたりすれば借金はなお、かさむ事になる。役に立たん土地を手放して借金が帳消しになれば、何の負担もなく生きて行けるぞ」
「畜生、みんなで寄ってたかって‥‥‥」
「親父、みっともねえよ」と伜の清三郎が言った。「みんなが必死になって、新しい村を作ろうとしてるのに、土地なんかにこだわって。俺はみんなとやるよ。親父が反対したって、俺はやるよ」
「清三郎‥‥‥」と言いながら、清之丞は妻の顔を見た。
 妻は泣きながら首を振っていた。
「わかったよ‥‥‥帳消しにしてくれ」
「やったぜ」と惣八が叫び、市太に向かって拳を振り上げた。
「よし」と長左衛門は干小の旦那を見ながら、満足そうにうなづいた。「これで反対する者はいなくなった。村人が一つになったわけじゃ。前にも言った通り、血を分けた一族だと思って、今後は皆、平等だと思うようにしてほしい。急に言っても無理じゃろうが、夫を失った者は妻を失った者と一緒になって、家庭を築いてほしい。言いたい事はそれだけじゃ。みんなが一つになった所で、祭りを始めようか」
「当然の事じゃが、鎌原様は例外じゃ」と干小の旦那が付け足した。
 皆、ゾロゾロと観音堂へと戻った。
「うまく行ったな」と半兵衛が市太の側に来て言った。
「ああ、よかった。まさか、三人の旦那があんな事を言うたア思ってもいなかった」
「おさよさんじゃよ」と半兵衛は笑った。「おさよさんが旦那たちを説得したらしい」
「そうだったのか。昨日、大笹に帰っちまったから、やっぱり、こんなとこで一緒に暮らすんは無理だったんかなって思ってたんだ」
「いや、そうじゃねえ。あの人は頭のいい人じゃ。俺たちが村の者をまとめるのに苦労してたのに、あっと言う間に、村を一つにまとめちまった」
「そうだなア。まさしく、あっと言う間だ。おさよさんがここに来たのは三日前(めえ)だ。たったの三日で村人をまとめ、新しい小屋まで立て始めた。大(てえ)した人だ。あんな人が今まで表に全然、出て来なかったなんて信じられねえ」
「何が信じられないの」とおろくが口を出した。一緒におさよがいた。
「なアに、いい村ができそうだって話してたのさ」
「あたしたちもよ。でも、みんなが戻って来ちゃったら、あの小屋だけじゃア足らなくなるでしょ。三人の旦那さんがいるうちに、もう一つ、小屋をお願いしようって言ってたの」
「おう、そうだな。おさよさん、お願えしますよ。そういう事ア、おさよさんに任せるのが一番だ」
「ええ、頼んでみるわ」
 祭りが始まった。祝い酒が配られ、キビ餅(もち)も配られた。
「大(てえ)した事アできねえが、今日は存分に楽しんでくれ」と市太は藤次に感謝を込めて言った。
「娘義太夫が出るそうじゃねえか。大笹には義太夫を語る娘はまだいねえ。また、鎌原に先越されちまったな」
「なアに、まだ真似事さ。ほんとは、おなつがやるはずだった。真剣に稽古に励んでたのに残念だ」
「おなつってえのは、あのおなつか」
「そうさ。村の代表に選ばれたんだ」
「へえ、あいつがなア。そいつア是非、聞きたかった」
「おなつの代わりにおゆうがやるよ。是非、聞いてやってくれ」
「おう、楽しみだ」
 若衆小屋の奥の部屋を舞台に見立て、おゆうが義太夫の弾き語りを始めた。
「故郷(ふるさと)は大和(やまと)五条に名のみして、今は浪速(なにわ)の上塩町(うえしおまち)、格子作りも小作りに、三輪の山本ならね共、杉立つ軒(のき)の酒ばやし~」
 草津で覚えたという『艶姿女舞衣(あですがたおんなまいぎぬ)』の『酒屋』の場。今日の招待客、大笹の者たちは手前の部屋と縁側に座ってもらい、入り切れない者たちは土間に座って聞いてもらった。村の者たちは庭に座り込んで聞いている。
 伜と妻に裏切られて、一人すねていた扇屋の旦那も三味線の音を聞くと我慢できなくなって来た。もう何でも好きにするがいい。それより、わしにもやらせてくれとイライラして来た。おゆうが終わると無理やり割り込んで、奥の部屋に座り込んだ。座は白けかけたが、そんな事はお構いなし、清之丞は真剣な顔をして三味線を弾き始め、自慢の喉を披露(ひろう)した。
「夜ごと日ごとの入船(いりふね)に、浜辺賑わう尼ケ崎、大物(だいもつ)の浦に隠れなき渡海屋(とかいや)銀平(ぎんぺえ)、海を抱えて船(ふな)商売、店は碇帆(いかりほ)木綿(もめん)、上り下りの積み荷物、運ぶ船頭(せんどう)水主(かこ)の者、人絶えのなき船問屋、世をゆるがせに暮らしける~」
 演目は『義経千本桜』の『渡海屋』の場だった。ざわついていた者たちも声をひそめて、じっと耳をそばだてた。去年の祭りで義経千本桜の序幕と二幕目を演じたので、村の者は勿論、大笹の者たちも、ここまでの経緯を知っている。皆、今年の今日、続きを見るのを楽しみにしていた。諦めていたのに、扇屋の旦那が続きを語ってくれた。一同、シーンとなって聞き入っていた。
 扇屋の旦那は一気に四幕目の下市村の場まで、無心になって語り続けた。語り終え、ホッと肩の力を抜くと、聞いていた者たちから喝采(かっさい)が起こった。中には泣いている者もいる。登場人物に亡くなった者たちを重ね合わせて聞いていたのだろう。清之丞は照れながら、
「来年の今日は、舞台の上で村の若衆(わけーし)によって、必ずや、演じられる事じゃろう。幸いな事に、いがみの権太と知盛、そして、路考は生きている。この三人がいれば、あとは何とかなるだんべ」
 喝采はいつまでもやまなかった。
「これで大丈夫ね」とおろくが市太の耳元で囁(ささや)いた。
 市太はおろくを抱き寄せて、うなづいた。

2020年4月30日木曜日

天明三年(一七八三)七月二十三日

 昼近く、おさよとおろくが戻って来た。一緒に来た藤次に率いられて、大笹の若い衆が角材や板を運んで来る。
 昼飯の支度をしていた女衆が驚いて、おさよとおろくの回りに集まって来た。
「うまく行ったわ」とおろくは笑った。
「干小(ほしこ)の旦那さん?」とおかよが聞く。
 おろくはうなづいて、「黒長の旦那さんも協力してくれたの」と言った。
「さすが、おかみさんね」とおかよたちは感心して、おさよを見る。
「わたしはただお手伝いしただけよ。みんなの気持ちが通じたのよ」
 そう言っている間にも、小屋作りの資材が次々に運び込まれた。
「あの人たちにもお昼、お願いね」とおろくはおかよに言うと、藤次を連れて市太の所に向かった。
 用水を掘り起こす仕事は順調に進んでいた。藤次は小屋の事を市太たちに説明した。小屋の大きさは間口(まぐち)三間(さんげん)、奥行十間で、冬に備えて囲炉裏を四ケ所つけるという。
「ほう、そいつア助かる」と市太たちは喜ぶ。
「それだけの大きさがありゃア、当分は間に合うだんべ」とうなづきあった。
「明日から建て始めようと大工(でえく)たちも集めてあるんだ」と藤次は気の早い事を言う。
「明日からか」と市太は驚く。
「早え方がいいだんべ」
「そりゃアそうだが」
「そこでだ、どこに建てる」
 市太は半兵衛を見た。
「観音堂よりはこっちの方がいいだんべな」と半兵衛は言った。
「そうだな」と市太もうなづいた。
 市太は昼飯にしようと仕事をやめさせ、皆を観音堂に返した後、半兵衛と藤次と一緒に、小屋を建てる場所を捜した。今後、皆の家を建てる予定もあるので、邪魔にならない場所を選ばなければならない。村の中央に当たる諏訪明神の境内にしようかとも思ったが、やはり古井戸に近い方がいいだろうと村の南の端、おろくの家のあった辺りに決定した。
 昼飯を食べながら、市太はおろくから、昨日、ここを出てからの事を聞いた。
「昨夜(ゆうべ)はおみのさんのお部屋に泊めてもらったのよ」とおろくは楽しそうに言った。
「へえ、一晩中、話し込んでたんだんべえ」
「ええ。市太さんと藤次さんの喧嘩の事とか色々話してくれたわ」
「あいつ、余計な事は言わなかったんべえな」
「余計な事も教えてくれたみたい」とおろくは笑った。「兄貴は女好きだから気をつけなさいって」
「あの、馬鹿が。そういやア、おみのの姿が見えねえが、今日は来ねえのか」
「向こうで、ここに運ぶ荷物の指図をしてるの。最後に来るはずよ」
「そうか。それで、名主のおかみさんは真っすぐ、干俣(ほしまた)に帰(けえ)ったのか」
「いいえ。おさよさんも黒長さんのお屋敷に泊まったのよ。市太さんの家族を説得してたみたい。その前に、あたしと一緒に、みんながお世話になってる旅籠屋に行って、おみやちゃんの叔母さんや油屋の旦那さん、立花屋の善次さんたちを説得して回ったの」
「成果はあったかい」
「枡屋さんとこは大丈夫。うるさい大人は叔母さんしか残ってないし、生き残っただけでも感謝しなくちゃって。おみやちゃんもお兄さんの怪我が治ったら、すぐにでも来るって言ってたわ。油屋さんとこは難しいわね。かなりの土地を持ってたから、やっぱり、それにこだわってるの。息子さんたちは、そんな事を言っている時じゃないって言うけど、あそこの旦那さんはイッコク者だから難しいわ」
「立花屋の善次はどうなんだ」
 立花屋というのは橘屋の分家だった。市太の祖父、市左衛門の弟、武左衛門が分かれて、笹板(ささいた)と呼ばれる屋根を葺(ふ)く板を扱っていた。善次は武左衛門の伜で、村が埋まった日、妻と一緒に妻の実家のある原町に行っていて助かった。妻の母親が突然、倒れて、村が埋まった日も危篤(きとく)状態が続き、妻を原町に残したまま、善次は一人、村に向かった。大戸から須賀(すが)尾(お)を抜け、万騎(まんき)峠を越えて狩宿まで行ったが、そこから先は行けなかった。狩宿で鎌原の馬方たちと出会い、再会を喜んだが、村は全滅したという。仕方なく、原町に戻ると妻の母親も亡くなっていた。
 村を失い、家族も失い、嘆き悲しんでいた時、大笹に鎌原の生存者がいるという噂を聞いた。母親の初七日を済ませた二人は大笹へと向かった。須賀尾通りでは大笹まで行けないし、吾妻川沿いも危険だという。二人は暮坂(くれさか)峠を越えて草津に行き、中居に降りて大笹に向かった。大笹に伜の松次郎が生きていた。伜と再会できて二人は喜んだが、実家の母親は亡くなり、嫁ぎ先の両親も亡くなり、家も村も失い、あまりにも衝撃が強かったため、妻のおつたは倒れてしまった。今も具合が悪く、大笹の旅籠屋で寝込んでいる。
「一応、話はしたんだけど、それどころじゃないみたい。それにあの時、村にいなかったから、村の状況もわからないんじゃないかしら。ここに来て、この有り様を見ればわかってくれると思うけど」
「そうなりゃいいけどな」
「そして、今朝早く、干俣村に行ったのよ。干小の旦那さんが作ってくれた小屋に、みんないたわ。百姓代の仲右衛門さん、扇屋の旦那さん、宮守(みやもり)の杢右衛門さんを説得したの。仲右衛門さんは一人だけ生き残った村役人さんなのに、村の事なんか考えられる状態じゃなかったわ。家族を失った悲しみから立ち直れないみたい」
「若え嫁さん貰って、子供ができたばかりだったからな」
「ええ。扇屋の旦那さんは、弟の吉右衛門さんはこっちに来てるけど、難しいわね。持ってた土地は絶対に手放さないって強気だった。おさよさんが説得しても無駄だったわ。おさよさんもついに頭に来て、旦那さんの土地はそのままにして置きます。お好きになさいと言ったの。旦那はそれでいい。誰にも渡さんと言ったわ。おさよさんは新しい村を作るにあたって、土地はすべて村の物とみなして、みんなで焼け石を除いて整地をします。旦那さんの土地はそのままにして置きますので、家族の皆さんと一緒に掘り返して下さいって。旦那さんは困ったようだったけど、まだ強気で、お上のお役人様が来れば、そんな勝手な事をさせんて言ってたわ」
「へえ、あのおかみさんが扇屋の旦那を脅したのか。そいつア見物(みもの)だったな」
 市太はおさよが清之丞をやり込める場面を想像して、声を出して笑った。
「旦那さんは無理でも、息子さんは来るような気がするわ」
「そうか、あの旦那は一番手ごわそうだな」と市太は無精髭を撫でる。「宮守の旦那はどうなんだ」
「お諏訪様もなくなっちゃったけど、必ず再建します。是非とも宮守を務めて下さいって言ったら、引き受けてくれたわ。でも、娘のおみなちゃんの具合が悪くて、おみなちゃんがよくなったら行くって約束してくれた」
「そいつアよかった。あっ、そうだ。俺んとこはどうなんだ」
「お爺様はそれも仕方ないじゃろうって言ったようだけど、お母さんと叔父さんは反対してるみたい」
「そうだんべな。おふくろは黒長の妹だから、くだらねえ誇りってえもんを持ってる。叔父御も土地を持ってたからな、それにこだわってんのかもしれねえ。跡継ぎの五郎八は死んじまったが。叔父御はまだ、馬方たちを死なせたんは自分のせいだと思ってんのかな」
「さあ、そこまでは聞かなかったけど。でも、おさよさんが村作りに加わったと聞いて、びっくりしていたそうよ」
「そりゃアそうだんべ。俺だって驚いたぜ。ところで、おかみさんは何だって、おめえを連れてったんだ」
「それがよくわからないのよ」とおろくは首を傾げる。「もしかしたら、市太さんと半兵衛さんの事を詳しく聞きたかったのかもしれないわ。市太さんの事は村一番のゴロツキ、半兵衛さんの事はただの馬方の一人としか知らなかったみたい。その二人がどうして、中心になって村作りをしてるのか理解できなかったんじゃないの」
「そうかもしれねえな。それで、おめえ、俺たちの事をちゃんと教えてやったのか」
「勿論よ。それに、おみのさんがあたしたちの事を教えたら驚いてたわ。おさよさんたら、家柄の違う者同士が一緒になれないって事も知らなかったのよ」
「本当かよ、そいつア」
「ほんとなのよ。鎌原様と村役人さんたちは別として、他の人たちはみんな同じだと思ってたみたい」
「信じられねえな。だって、村の祝言(しゅうげん)には名主夫婦が立ち会うんだぜ。そんな事を知らねえなんて」
「あたしも信じられなかったけど、ほんとなのよ。それで、あたしたちが身分差のない村を作るっていうのは、そういう事なのかって、やっとわかったみたい」
「何だ、それじゃア、おかみさんは新しい村の意味もわからずに仲間に入ったのか」
「昨日はね。でも、今はちゃんとわかってるわ。市太さんの事も半兵衛さんの事も、勿論、新しい村の事も」
 おさよを見ると半兵衛と話をしていた。おさよと話をするのは初めての半兵衛は小さくなって、やたらと恐縮しているようだった。
「何を話してるんだんべ」と市太が二人の方を見ながら言った。
「おさよさん、色々な事を知りたがってるのよ」とおろくも二人の方を見た。「十年以上も住んでたのに、村の事は旦那さんに任せっきりで、何も知らなかったのを恥じてたわ。もっと、村の人たちと接していればよかったって。今までの穴埋めをしようと必死なんじゃないかしら」
「俺もあまり話した事アねえが、いい人みてえだな」
「そりゃアいい人よ。あたしだって、兄さんを名主さんちに連れてった時、挨拶をするくらいで話したのは初めて。昨日、一緒に来てって言われた時はどうしよう、何を話したらいいんだろうって心配したけど、おさよさんの方から色々と聞いて来てくれて。あたしが名主さんのおかみさんて呼んでたら、みんな、平等なんでしょ、おさよって呼んでくれって。何か、とても張り切ってるみたい」
「おさよさんか‥‥‥年増(としま)だが、いい女だ。半兵衛の奴、まいっちまうんじゃねえのか」
「いいんじゃないの。お互いに連れ合いを亡くしちゃったんだから」
「羨ましいわね、仲がよくって」とおかよが顔を出した。
「あれ、おめえ、おそめはどうしたんだ」
「おしめさんに預けたわ。おそめったら、おしめさんの事をお母さんだと思ってるみたい。おしめさんもおそめの事を気に入ってるみたいだし、このまま、おしめさんの子供にしちゃおうかしら」
「それもいいんじゃねえのか。おめえも子持ちじゃア嫁の貰い手もいめえ」
「なに言ってんのよ」とおかよは市太の肩を小突く。「あたしには鉄つぁんがいるさ。早く、お茶屋を開いて、鉄つぁんが来るのを待ってなくちゃアね」
「この村の事は江戸にも伝わったのかなア」市太が言うと、
「わからないわ」とおかよは首を振る。
「兄貴の事だ、今頃、こっちに向かってるかもしれねえ」
「いいのよ。そんな気休め言わなくても」
「気休めなんかじゃねえ。本気でそう思ってる」
「そうなら嬉しいけど」おかよは寂しそうに笑った。
 資材運びはまだ続いていた。女たちは次から次へと来る大笹の若い者たちのために昼飯の支度が忙しかった。昼飯を食べ終えたおろくとおさよは食べていない女たちと交替した。
 男たちは食事の後、一服すると小屋を建てる場所に向かった。大笹から来た者たちにも手伝ってもらい、夕方までには焼け石を掘り起こし、整地もできた。
「明日は大工を連れて来るからな」と藤次は言って、若い衆を引き連れ帰って行った。
「兄貴、おさよさんのお陰でうまく行ったね」と最後の荷物と一緒に来たおみのが笑った。
「おさよさんが伯父御に頼んだのか」
「あたしも頼んだけど、こんなに事が早く運んだのは、おさよさんのお陰なのよ。おさよさんが干小の旦那を大笹に連れて来てね、村中にある資材を集めさせて、大工さんも呼んで、これでどういう小屋が作れるかって聞いて、納得すると次々に運ばせたのよ。まったく、小気味よかったわ。うちの親父と干小の旦那だけだったら、まだ、何だかんだ言ってて、今日のうちに資材を運んで、建てる場所の整地までできやしないわ」
「そうだったのか。結構、やるじゃねえか、あのおかみさん」
「そうね、強い味方ができたわね」
「大笹のみんなにも何かお礼をしなきゃアならねえが、今の俺たちにゃア何もできねえ。まったく、歯痒(はがゆ)いぜ」
「そんな事、気にすんなって。人並みな暮らしができるようになってから考えな」
「すまねえ」
「いいのよ」とおみのも手を振って帰って行った。
 おさよは残って、みんなと一緒に小屋に寝泊まりする事になった。不自由な生活だが、食べ物のなかった、あの六日間に比べたら何でもないと気にしなかった。

2020年4月29日水曜日

天明三年(一七八三)七月二十二日

 鎌原では新しい村作りのための共同生活が始まっていた。市太とおろく、半兵衛父娘、安治、仙之助の六人で始まった村作りは、次の日には惣八とおまん、丑之助とおしめ、おかよとおそめ、伊八と新五郎とおいちの兄弟、路考こと権右衛門も加わり、噂を聞いて干俣村からも杢兵衛、清之丞の兄の吉右衛門、孫八と富松の兄弟がやって来た。今では二十人の大所帯になっていた。市太が最初に決めたように皆、平等という事を守り、うるさい事を言う者もなく、和気あいあいと朝から晩まで仕事に励んでいた。
 その頃、干俣村の名主、干川小兵衛の屋敷で、鎌原村の名主、儀右衛門の妻だったおさよは縁側に座って、ぼうっと庭の池を眺めていた。
「おさよ」と呼ばれて振り返ると父親の小兵衛が後ろに立っていた。
「いい天気じゃな」
「はい」
「鎌原では大変な事をやってるらしいのう」
「大変な事?」
 おさよが不思議そうに、父親を見ると父親はうなづいて、おさよの隣に座り込んだ。
「さっき聞いて驚いたんじゃが、問屋の伜が中心になって、身分差のない、みんな平等な村を作ると張り切ってるそうじゃ」
「身分差のない平等な村‥‥‥」
「ああ。もっとも村人のほとんどが亡くなってしまったんじゃから、身分だの家柄だのと言ってはおられまいがのう。今朝もここから何人かが鎌原に行ったそうじゃ。おまえはここにいていいのか」
「あたしが行ったって、何もできない」おさよは力なく俯いた。
「亭主が亡くなり、子供も亡くなったので、もう村の事はどうでもいいのか。一人だけ残されたのは、おまえだけではあるまい。おまえにもやるべき事はあるはずじゃ」
「あたしに何をやれって言うの」
「それはおまえが自分で考える事じゃ。ここにいたければいてもいい。だがな、おまえは鎌原村の名主の妻だったんじゃ。村の者たちは皆、その事を知っている。おまえがいつまでも悲しんでいたら、村の者たちも立ち直る事はできんのじゃぞ。よく考えろ」
 父親が去った後もおさよは呆然としていた。家族を失った悲しみから立ち直れないのに、村のために何かをやるなんて不可能だった。これ以上、苦しみたくはなかった。早く、何もかも忘れてしまいたかった。それでも、父親が言った皆が平等な村というのが気になっていた。名主の娘に生まれて、名主のもとに嫁いだおさよに取って、身分差のない村など想像すらできなかった。
 おさよは重い腰を上げると村の者たちが避難している小屋に向かった。何も考える事もなく、ただの気分転換のつもりだった。父親が鎌原村の避難民のために建てた小屋なのに訪れるのは初めてだった。
 避難小屋には四十人近くの村人たちが不自由な生活をしていた。おさよを見ると皆、丁寧にお礼を言って来た。自分は何もしていないのに、お礼を言われるなんて後ろめたかった。具合の悪そうな者も何人かいたが、思っていたほど多くはなく、大部分の者たちは元気になっていた。ゲッソリしていた扇屋の旦那、清之丞もすっかり血色がよくなって、のんきに三味線を弾いていた。
「やあ、名主のおかみさん、大分まいってたようじゃが、元の別嬪(べっぴん)に戻って何よりじゃ。わしもようやく元気になったわい」
「それはよかったですね。旦那さんは村の方には戻らないのですか」
「あんなとこに戻れるか。ワルガキの市太が半兵衛の奴と一緒になって、身分差のねえ村を作るとほざいておる。みんな平等で、土地持ちや山持ちは認めんとほざいておるんじゃ。先祖代々伝わって来た、わしの土地はどうなる。ふざけやがって。おかみさんもそう思うじゃろう。名主さんちも土地持ちじゃった。今更、それを取り上げられてたまるもんか。なア、そうじゃろうが。まったく、ふざけやがって。今、あの村に集まってる奴らは土地なんか持ってねえ奴らばかりさ。市太と半兵衛に躍らされて、村作りなんかやってるが、そのうちに、お上(かみ)のお役人様がやって来りゃア、そんな事通用せんわ。以前のごとく、わしの土地はわしの物になるじゃろう、ハハハ」
 おさよは清之丞と別れるとそのまま、大笹に向かった。どうして、大笹に向かったのか、自分でもわからなかった。名主の妻としての自覚がそうさせたのかもしれなかった。
 大笹の問屋に顔を出して、鎌原までの道を聞くと、丁度、おみのと藤次が鎌原に運ぶ荷物を馬に積んでいた。人々が何往復もしたので、ようやく、馬も通れるようになっていた。
 おさよはおみのたちと一緒に鎌原に向かった。
「確か、あなたは名主さんのおかみさんではありませんか」とおみのが聞いてきた。
「はい。さよと申します」
「あたしは黒長の娘、みのです」
「まあ、あなたが黒長さんの」とおさよはおみのの姿を見て驚く。
 男のような格好をしていて、どう見ても名主の娘には見えなかった。
「気を付けて下さい。足元が悪いですから」
「ええ、大丈夫よ」
「この辺りは焼け石も冷めて、歩けるようになったんですけど、お山の裾野の方は、まだ燃えているんです」
 おさよはおみのが示す浅間山の山麓を見た。観音堂から大笹に連れて来られた時、半ば、気を失っていて、回りの景色なんて見ていなかった。改めて眺め、被害の大きさに驚くばかりだった。
「煙が上ってるのが見えるでしょ。夜になると火が燃えてるのがよくわかります。お山は相変わらず、唸っていますし‥‥‥あのう、おさよさんも村作りに加わるのですか」
「えっ」とおさよはおみのを見た。そんな事は考えてもいなかった。「いえ。ちょっと様子を見に」
「そうですか。おさよさんが加われば、村の者たちもみんな、従うと思います。家柄のよかった人たちは、どうしても身分差のない村作りに反対してしまいます。村がなくなってしまったのに、昔の事が忘れられないのです」
「市太郎さんが始めたのですか」
「はい。市太郎兄貴と半兵衛さんです」
 半兵衛と聞いて、おさよはドキリとした。世間知らずのおさよでも、馬方の頭である半兵衛の事は知っていた。話をした事もないはずなのに、なぜか、半兵衛という名が心の片隅に引っ掛かっていた。
「兄貴も最初は無理だって諦めていたんです。見た通り、辺り一面、焼け石で埋まってますものね。これを掘り返さなくては村なんてできません。誰だって、そんな事できないって思います。でも、半兵衛さんは毎日、一人で出掛けて行って、焼け石を掘り返していたんです。それを見て、兄貴もやらなきゃならないって思ったみたいです」
「半兵衛さんが一人でやっていたのですか」
「はい。皆を説得して回ってたけど、誰も従わなかったんです。でも、諦めないで、雨の日も一人で出掛けて行って‥‥‥兄貴が動いたら従う者も出て来ました。大笹の問屋には江戸に運ぶ荷物が溜まっています。それを運ぶにはどうしても、鎌原に問屋が必要なのです。兄貴が問屋をやれば、村人たちも馬方稼業ができます。畑がダメでも、馬方ができれば、あの村は立ち直れます」
「そうですか‥‥‥」
 一時(いっとき)余りで観音堂に着いた。八日前、もう二度とここには戻って来ないだろうと去って行ったのに、なぜか、戻って来てしまった。なぜだか、自分でもわからなかった。
 観音堂にお参りして、若衆小屋の方に行くと女たちが昼飯の支度をしていた。小屋の脇には洗濯物が干してあり、潰れていた物置も直っている。女たちは皆、若く、避難小屋にいる者たちに比べて、ずっと明るい顔をして仕事に精出していた。
「あら、名主さんのおかみさんじゃない」とおそめをおぶったおかよが気づいて驚いた。
 女たちが手を止めて、おさよを見て頭を下げる。皆、以外そうな顔付きだった。
「おかみさんも来てくれたの。助かるわ」
「そうじゃないんだけど‥‥‥」
「まあ、お茶でも飲んで休んで下さいな。道が悪いからお疲れでしょ」
 おかよがおさよを縁側に連れて行くと、おろくがすぐにお茶を出した。
 小屋の中を見ると綺麗な筵(むしろ)が敷き詰められて、部屋の隅には布団が積まれ、役者絵を貼り付けた枕(まくら)屏風(びょうぶ)、燈明台(とうみょうだい)もいくつもあり、火鉢(ひばち)や煙草(たばこ)盆(ぼん)まで置いてあった。
「みんな、ここで寝泊まりしてるの」とおさよはおかよに聞いた。
「そうなんですよ。でも、だんだんと人が多くなっちゃって。ねえ、おかみさん、干小(ほしこ)の旦那さんに新しい小屋を建ててくれるように言ってくれません」
「それは構わないけど」
「うちの親父にも言っとくわ」と荷物を降ろしたおみのが来て、口を出した。「二十人を越えちゃったもんね。ここじゃア狭いわよ」
「御苦労様」とおろくはおみのにもお茶を差し出す。
「お酒を持って来たわ。みんな、久し振りでしょ」
「ありがとう。みんな、喜ぶわ」おろくはお礼を言った後、「あれ、藤次さんは」とおみのに聞く。
「兄貴たちの方に行ったんじゃない。うちの若え者を連れて来て、手伝わせるかって言ってたから、その事を相談しに行ったのよ」
「荷物を運んでもらうだけで充分ですよ。これ以上、みんなに迷惑をかけちゃア悪いわ」
「そんな事、気にしないで。逆の立場だったら、兄貴は真っ先に飛んで来て助けてくれるわ。困った時はお互い様よ。兄貴と藤次はお互いに男気(おとこぎ)を競って来たから、助けたくってしょうがないのよ」
「どうも、すみません」
 フフフとおみのはおろくを見ながら笑った。「もうすっかり、兄貴のおかみさんみたい」
「あら、そんな意味で言ったんじゃ」
「いいのよ。あたしも応援するからね、頑張ってよ」
「ありがとう」
 おさよはおかよとおろくから、ここの生活振りを聞いた。おろくも、おしめも、惣八も、安治も、権右衛門も家族を失って、たった一人になっていた。それでも、ここに来て村作りをやっている。村の事も家族の事も、悲しい事は何もかも忘れて、実家で静かに暮らそうとしていた自分が情けなく思えて来た。亡くなった家族のためにも、この地に戻って来なくてはならないと、おさよは強く感じていた。
 話の後、おさよはおみのの案内で、焼け石を掘り返している男たちの所へ行った。男たちは汗と泥にまみれて用水の溝を掘っていた。おさよが来た事に気づくと皆、手を休めて頭を下げた。
「皆さん、御苦労様です。どうぞ、続けて下さい」
「あの、おかみさんもここに来てくれるんですか」と市太が汗を拭きながら聞いた。
 おさよは皆の顔を見回した。皆、生き生きとした目をしていた。その中に半兵衛の姿もあった。半兵衛は日に焼けた顔で、おさよを見つめていた。
 おさよは突然、鎌原村に嫁いで来た当時の事を鮮明に思い出した。おさよは十六歳で、半兵衛は二十二、三歳だった。半兵衛は花嫁行列を手伝ったり、その後も名主の家に出入りしていた。十二歳も年上の儀右衛門に嫁ぎながらも、おさよは時々、見かける半兵衛に淡い恋心を抱いていた。その後、半兵衛も嫁を貰い、おさよも子育てが忙しく、そんな事はすっかり忘れていた。それが今、十六歳の時に戻ったかのように、半兵衛に見つめられ、胸がときめいていた。おさよは慌てて半兵衛から視線をそらすと、市太を見て、力強くうなづいた。
「わたしにも手伝わせて下さい。あなたたちの村作りを」
「手伝うなんて。おかみさんはいてくれるだけで結構ですよ」
「いいえ。みんな平等なんでしょ。わたしも一緒に働きます」
「おかみさん‥‥‥ほんとにありがてえ。おかみさんが来てくれりゃア、もう百人力だ」
「おだてないで下さい。わたしなんか何もできないのよ」
「いやいや、おかみさんにしかできねえ事があるんだ」
「えっ」と驚くおさよに市太は、新しい村作りに反対している者たちの説得を頼んだ。市太や半兵衛が説得しても反発してうまくは行かない。名主の妻だったおさよから説明すれば、うまく行くような気がした。
「来ない人は来なくてもいいんじゃないの」とおさよは聞いた。
「そうは行かねえんだ。村がある程度、できてから、この土地は俺のだって駄々をこねられると困るんだ。それに、できれば生き残った者はみんな、戻って来てほしい」
「そうね、その方がいいかもしれない」
 おさよは快く引き受けて、おみのと藤次と一緒に大笹に戻って行った。なぜか、その時、手伝ってもらう事があるからと、おろくを連れて行った。

2020年4月28日火曜日

天明三年(一七八三)七月十九日

 半兵衛は毎日、鎌原村に通っていた。山守の八蔵を連れて来た次の日も、一日中、雨が降っていた昨日も、半兵衛は一人で出掛けて、村の再建の事を考えていた。夕方、大笹に戻って来ると、あそこに新しい村を作ろうと毎晩、市太を説得した。
 土砂の上を覆(おお)っている焼け石の厚さは一尺(約三十センチ)程度だから、掘り返せば畑もできるだろう。古井戸も掘り返してみたら、あふれる程の水が出て来た。以前のように表通りの中央に用水を引けば村は復活する。半兵衛は強い口調で言うが、市太は乗り気ではなかった。村一面を覆っている焼け石をどけるだけでも容易な事ではない。村の者が総出でやっても、いつまで掛かるか見当もつかない。用水だの表通りだのというのは、その後の話だった。
 市太だけでなく、村の者たち、みんなに説得して回ったが、半兵衛の言う事にうなづく者はいなかった。それでもくじけず、半兵衛は今日も一人で出掛けて行った。
 雨もやんで、いい天気だった。長左衛門の炊き出しはまだ続いている。大前村や西窪村の被災者たちのほとんどは自分の村に帰って、それぞれ小屋掛けして新しい生活を始めていた。大前村も西窪村も家屋はすべて、土砂に埋まるか流されていた。それでも、生存者が多く、田畑もいくらか残っていたので、皆、自分の村に帰っている。今、炊き出しの世話になっているのは鎌原の被災者と怪我をして動けない者たちだった。
「おはよう。今日はいいお天気よ」とおろくが市太の側にやって来た。おろくは毎日、炊き出しを手伝っていた。
「半兵衛さん、今日も一人で出掛けたわ」
「そうか」と市太は気のない返事をする。
「たった一人だけでも、焼け石をどけるんですって」
「そんなの無理だよ。できっこねえさ」
「ねえ。あなたは前にあたしに言ったわ。無理だって最初から諦めるなって。無理かどうかやってみなけりゃわからないって」
 市太はおろくの顔を見つめた。おろくは何かを訴えるように市太をじっと見つめている。
「おめえ、俺に行けって言いてえのか」
「あの村は馬方で持ってた村でしょ。問屋がなければ、村の人たちも安心して戻れないわ」
「俺に問屋をやれってえのか」
「あなたしかいないじゃない。あなたがやればみんなついて来るわ」
 市太はおろくから目をそらして、煙を上げている浅間山を見た。
 おろくの言う通り、問屋をやるのは市太しかいなかった。叔父の弥左衛門も生き残ったが、多くの馬方たちを死なせたのは自分のせいだと落ち込んでいる。三人の子供も失って、立ち直るのは難しい。
 市太はおろくに視線を戻すと、「おめえの気持ちはどうなんでえ」と聞いた。「おめえも村に戻りてえのか」
 おろくは力強くうなづいた。
「半兵衛さんと同じように、あたしにもあの村しかないもん。家族が埋まってるあの土地を放っておいて、他所(よそ)の土地で暮らすなんて考えられない。他所の土地で幸せに暮らしたとしても、きっと、後悔すると思う」
「畜生め!」と市太は大声で怒鳴った。「結局はあそこに戻るしかねえのかよお」
「行くの」とおろくは期待を込めて聞く。
 市太は仕方ねえという顔付きでうなづいた。「まずは腹拵(はらごしれ)えだ」
 雑炊(おじや)を食べると市太とおろくは半兵衛の後を追って鎌原村に向かった。
「この道も馬が通れるようにしなきゃアならねえな。大笹から鎌原まで二里、鎌原から狩宿までも二里、それに、六里ケ原を通って追分や沓掛(くつかけ)までも掘り返さなけりゃならねえ。まったく、気の遠くなるような話だぜ」
「でも、誰かがやらなきゃア。みんなで力を合わせれば、できない事はないのよ」
「おめえ、やけに強気になったじゃねえか」
「市太さんが教えてくれたんじゃない。家柄が違う者同士が一緒になるなんて、できっこないって諦めてたのに、市太さんは絶対にできるって、決して諦めなかった。諦めない限り、必ず、できるんだって、あたし、市太さんから教わったのよ」
「なに言ってんでえ。俺ア他人(ひと)様に教えるような柄(がら)じゃねえ。でもよう、これから作る新しい村に下らねえ掟(おきて)なんかいらねえな。身分差なんかねえ平等な村を作ろうぜ」
「でも、そんな事できるかしら」とおろくは少し弱気になる。
「できるかしらじゃねえ。作るんだよ、俺たちで」と市太は言った。
 ようやく、いつもの市太に戻ったようだと、おろくは嬉しそうに笑う。
「鎌原様が持ってたっていう人別帳とやらも埋まっちまった。家柄なんかわかりゃアしねえ。新しい村にそんな物はいらねえんだ。よーし、こいつア面白くなってきやがった。やる気が出て来たぜ」
「そんな村ができたら、ほんと、素敵ね」
「ああ、やりてえ事ア何でもできるぜ。早え者勝ちだ。旅籠屋をやりてえ奴は旅籠屋をやりゃアいい。お茶屋がやりたかったらやりゃアいい。土地持ちも山持ちもそんな者はいねえ。みんな、平等に一から始めるんだ。畑が欲しけりゃ、焼け石をどけて畑にすりゃアいい。切り取り御免てえ奴だ」
 市太は久し振りに浮かれていた。何だか知らないが、体中から力が湧き出て来るようだった。市太はおろくを抱き上げるとグルグルと振り回した。おろくはキャーキャー言いながら、市太に抱き着いていた。
「おろく、俺ア今までずっと、自分が何をやりてえのか、わからなかった。やりてえ事が見つからねえんで、江戸に行くなんて言ってたんだ。でも、今、やっと、やりてえ事が、いや、やるべき事が見つかった。命懸けでやるべき事が見つかったんだ」
「なアに、命懸けでやるべき事って」
「村作りさ。新しい村作りだ。この果てしもねえ焼け石を掘り起こして道を作り、村を作るんだ。一生を懸けても終わらねえかもしれねえが、一生を懸ける値打ちはあるぜ。おめえも手伝ってくれるな」
 おろくは市太に抱かれたまま、うなづいた。「あたしも懸けます。市太さんにあたしの一生を」
「おめえならわかってくれると思ってた。畜生め、やっと俺の出番が来やがった」
 半兵衛はたった一人で焼け石を掘り起こしていた。市太とおろくを見ると、
「若旦那、きっと来てくれると思ってたぜ」と汗を拭きながら、嬉しそうに笑った。
 市太は来る途中で考えた、新しい村の構想を半兵衛に話した。
「身分差のねえ平等な村か。うむ、そいつアいい思いつきじゃ。だが、反対する者もいるじゃろうのう」
「真っ先に反対しそうなのは扇屋の旦那だんべ。土地も山も持ってたからな。納得させるなア容易じゃねえが、やれねえ事アねえ。決して諦めなけりゃア何とかなる」
「そうじゃな。こうやって少しづつ掘り返して行くだけじゃ」
「半兵衛、ところで、この縄(なわ)は何なんだ」
 半兵衛は縄を一直線に張って、それに沿って焼け石を掘り返していた。
「こいつは用水じゃ。まず、用水を掘って、その両脇に以前のように表通りを作る。そして、通りに面して、うちを建てるんじゃ」
「成程。用水を作るのはわかったが、こんなとこから掘るより、上流から掘った方がいいんじゃねえのか」
「わしもそう思って、上流の方からやり始めたんじゃがな、昨日、古井戸んとこを掘っちまったんで、びしょびしょに濡れちまうんじゃ。半ば、涸れてたんに、あんなにも水が出て来るたア思ってもいなかった。用水ができてから古井戸を掘りゃアよかったと後悔してんじゃよ」
 半兵衛に連れられて古井戸の所まで行くと、水が驚く程、湧き出ていて焼け石の中に染み込んでいた。
「こいつアすげえ。しかし、勿体(もってえ)ねえなア」
「ああ、失敗(しっぺえ)した」
「ねえ、これだけ水があれば、もう、ここに住めるんじゃないの」とおろくが言う。
「住むって、また、あの小屋に住むのか」
「いちいち、大笹から通うよりはいいでしょ。あっちにいてもやる事はないんだし」
「そうだ。おろくの言う通りじゃよ。道が悪(わり)いんで夜は歩けねえ。日が暮れる前(めえ)に向こうに着くように帰(けえ)らなけりゃアなんねえ。ここにいりゃア、夜明けから日暮れまで、びっしりと仕事に掛かれる」
「そうか、そうだな」と市太も同意する。「大笹から食料を持って来りゃア、ここでも暮らせる。いつまでも、伯父御の世話になってるわけにもいかねえ。よし、明日、食料を運ぶべえ。明かりや布団もあった方がいいな」
「いや、そんな贅沢(ぜえたく)はできめえ。まだ馬は通れねえんだからな」
「伯父御に頼むさ。いや、藤次に頼んべえ。奴なら人足を出してくれるだんべ」
「藤次ってえのは、あの藤次か」と半兵衛が不思議そうに聞く。
「そうさ。さんざ、喧嘩したあの藤次さ。半兵衛に仲裁してもらった事もあったっけな」
「ああ、あん時はまったく、ひでえ目に会った。しかし、あの藤次に頼むたアどうなってんでえ」
「まあな。この前(めえ)、仲直りをしたんさ」
「ほう、そうじゃったんか。確かに、奴に頼みゃア、布団だんべが、竈(へっつい)だんべが、何でも運んでくれるだんべ」
「今晩、帰(けえ)ったら、みんなに声掛けべえ。惣八と安は来るだんべ。おかよとおゆうも来るかもしれねえ」
「みんなで一緒に暮らすなんて楽しそうね。あたし、あの小屋のお掃除をしてるわ。住むとなれば綺麗にしなくちゃ」
 おろくは観音堂の方に戻って行った。
「働き者(もん)じゃな」とおろくの後ろ姿を見ながら半兵衛が言った。
「ああ、朝から晩まで動いてねえと気が済まねえらしい」
「働き者なんは前(めえ)から知ってたが、おろくは若旦那と仲よくなってから変わったよ。明るくなったし、強え女になった。若旦那、嚊天下(かかあでんか)になるぜ」
「半兵衛だって、嚊天下だったんべえ」
「ああ、嚊天下じゃった‥‥‥わしはな、かみさんを草津に連れてってやる事もできなかったんじゃよ。若旦那はおろくを連れてったんだってな」
「どうして、それを知ってんだ」
「桐屋の蔵に避難した時、おろくの姉ちゃんから聞いたんじゃ。毎日、毎日、忙しいって、かみさんにいい思いもさせてやれなかった。それだけが悔やまれてなア。今頃、言っても遅えやなア。さてと仕事に掛かるか」
 半兵衛と市太は八つ半(午後三時)頃まで焼け石と格闘して汗を流し、おろくが綺麗に掃除した小屋で一休みしてから大笹に帰った。

2020年4月27日月曜日

天明三年(一七八三)七月十六日

 浅間山は相変わらず、黒煙を吹き上げながら唸っていた。それでも、以前に比べれば、煙の量は半分程に減っている。このまま、静まってくれと祈るばかりだった。
 市太とおろく、半兵衛、おゆうの四人は焼け石の上を歩いていた。おみのたちが二往復したので、すでに足跡が道になっていて、思っていたよりも歩くのは楽だった。
 昨日のようないい天気ではなく、空は雲が覆っていて蒸し暑い。砂が降って来るのを警戒して菅笠(すげがさ)を被り、焼け石を警戒して下駄を履いている。半兵衛が先頭を歩き、おゆう、おろく、市太と一列に並んで観音堂を目指した。惣八、安治、丑之助も誘ったが来なかった。あんな所に行っても何もねえ。昨日、狩宿まで行って疲れたから、今日はのんびりしたいと言う。惣八はおまんと、安治はおさやと、丑之助はおしめと、改めて再会を喜びたいのだろうと無理には連れて来なかった。
 観音堂から大笹に行った時、あんなに苦労したのが嘘のように、一時(いっとき)余りで観音堂に着いた。当然の事だが、観音堂の中は永泉坊が祈祷した時のままだった。この狭い中に、二十人もの人が六日間も寝起きしていたとは、とても信じられなかった。裏に回って若衆小屋を見ると無残な姿で建っていた。何度も潰(つぶ)れそうになって、みんなで必死に補強してきたのだった。雨降る中、屋根に積もった砂や石をどけたり、雨漏りの修理をしたのが、遠い昔の事のように思い出された。みんなの命を救ってくれた汚い桶に雨水が溜まったまま置かれてあった。
「ひでえとこにいたもんだ」と半兵衛が感慨(かんがい)深げに呟(つぶや)いた。
「ここに四十人も‥‥‥」とおゆうが驚いた。
「そうさ。俺たちはその土間にギュウギュウ詰めになってたんだ。揺れは来るし、石は降るし、しかも、食う物(もん)はねえ。雨は降り続くし、まったく、生きた心地(ここち)もしなかったぜ」
「腹を減らしながら、あんた、ここで、ものにした女の数を数えてたんでしょ」
「おめえ、何て事、言うんでえ」
「だって、ここは、あたしたちの逢い引きの場所だったじゃない。あたしと勘治だって、何度もここで‥‥‥」
 おゆうは涙ぐんでいた。
 市太も勘治の事を思い出していた。一緒に悪さをして、一緒に江戸にも行った勘治がいないなんて、信じろと言っても無理だった。
「しかし、この小屋は頑丈じゃったなア。さすが、棟梁(とうりょう)じゃ。これだけの腕を持ちながら、まったく、残念な事じゃ」
 四人は若衆小屋を離れ、観音堂に両手を合わせると石段を降りた。あれだけあった石段はたったの十三段しかない。そこから広々と焼け石が広がっている。
「何これ、こんなにも埋まっちゃったの‥‥‥」
 村の姿を初めて見るおゆうは呆然と立ち尽くした。勘治がどこかに生きているかもしれないという希望は目の前の景色によって、一瞬のうちに吹き飛んでしまった。
「信じられねえが、これが現実なんだ」と市太がおゆうに言う。
「みんな、埋まっちゃったのよ」とおろくが言った。
「一瞬の内だった。みんな、逃げる暇もなかったに違えねえ。誰も、こんな土砂がお山から攻め寄せて来るなんて思いもしなかった。うちの爺ちゃんだって、山守の隠居だって、こんな事ア初めてだと言っていた。どうする事もできなかったんだ」
 半兵衛が埋まった村に向かって両手を合わせていた。市太もおろくもおゆうも両手を合わせて、亡くなった者たちの冥福(めいふく)を祈った。
 まずは、ずっと続いている足跡に沿って歩いてみた。大きな岩や大木があちこちに埋まっている。表通りがどの辺にあったのかもわからない。
「あれがお諏訪様の屋根じゃな」と半兵衛が指さした。
 神社特有の屋根の上部が焼け石の上に顔を出している。諏訪明神の本殿は小高い丘の上にあったので、すべて埋まらなかったのだろう。
「あそこがお諏訪様なら舞台はあの辺だな」と市太が指をさす。
 落葉松(からまつ)の枝が顔を出しているだけで、舞台の屋根は見えなかった。市太は足跡のない焼け石の上に一歩踏み出してみた。下駄が焼けた様子はない。手で触って見ても熱くはなかった。
「もう大丈夫みてえだぞ」と市太は半兵衛に言う。
「それでも気をつけた方がいい。中の方は熱(あち)いかもしれねえ」
 市太はうなづくと一歩一歩確かめながら、舞台があったと思える辺りに行ってみた。焼け石はすっかり堅くなっていた。
「もう大丈夫だ」と市太は皆に言った。
 半兵衛はうなづくと焼け石の上に踏み出した。思い切り焼け石を下駄で蹴ってみた。砕けた焼け石の中をよく見てみたが燃えている様子はなかった。
「大丈夫のようじゃな」
 おろくもおゆうも恐る恐る焼け石の上に上がった。四人は足元に気をつけながら、村の上を歩き回った。この辺りが表通りだ、この辺りが俺の家だ、あたしの家だと確認し合ったが、空しさがつのるばかりだった。だんだんと皆、口数が少なくなって、観音堂に戻ると石段に腰を下ろした。
「何だかんだ言ったってしょうがねえ。もう、村はなくなっちまったんだ」市太が言うと、
「村はこの下にちゃんとある」と半兵衛は強い口調で言った。
「そんな事アわかってる。だが、もうダメだ。こんなとこに戻っちゃア来られねえ」
「若旦那、わしはな、ここで生まれたわけじゃアねえ。はっきり言やア来たり者(もん)じゃ。だが、わしはこの村に骨を埋めるつもりで、今まで生きて来た。わしに取って、この村は故郷(ふるさと)なんじゃ。ここより他に行くとこなんて、どこにもねえんじゃ」
「そんな事、半兵衛に言われなくたってわかってらア。俺アこの村で生まれて、この村で育ったんだ」
「いいや、わかってねえ。故郷ってえもんが、どんなもんだか、若旦那にゃアわかってねえ。わしは故郷を捨てた。追い出されたんじゃ。無宿者(むしゅくもん)にされて、あちこちさまよった。江戸に出た事もある。だが、何をやってもうまくは行かねえ。結局は旅から旅への流れ者じゃ。六里ケ原で行き倒れになって、馬方に助けられて、この村に来た。今まで、人並みに扱ってもらった事なんかなかったんに、大旦那(市太の祖父)は、わしを人並みに扱ってくれた。大旦那のお陰で、わしはこの村で人並みな暮らしができたんじゃ。嚊(かかあ)も貰って子供もできた。亡くなった嚊や子供のためにも、わしはここに戻って来なくちゃならんのじゃ。大旦那に恩返しするためにも、もう一度、ここに鎌原村を作らなけりゃアならんのじゃ」
 市太は焼け石に埋まった村を眺めながら、ここに村を作るなんて不可能だと思っていた。
「若旦那は江戸に出るって言ってたな。それもいいじゃろう。だがな、今、江戸に行っても若旦那にゃア、もう故郷はねえんだぜ。帰るとこはどこにもねえんだぜ。無宿者と同じじゃ。帰るとこがねえってえのは辛え事じゃ」
 市太は黙っていた。おろくもおゆうも何も言わなかった。
 ガタッと何かが倒れる音がした。四人は一斉に振り返った。
 観音堂の中に人影が見えた。
「誰かいるわ」とおゆうが脅(おび)えた声で言った。
 市太と半兵衛は警戒しながら観音堂に近づいた。観音堂にいる人影もじっとしたまま、こちらを見つめている。
「あれ、おめえは山守の八蔵じゃねえのか」と半兵衛が声を掛けた。
 ボサボサのザンバラ髪で、着ている着物もボロボロだった。腰にナタをぶら下げ、自分で作ったのか奇妙な下駄を履いている。脅えたような目付きでこっちを見ていた。変わり果てた姿だが、間違いなく八蔵だった。
「おめえ、生きてたのか」と半兵衛が言うと、八蔵は逃げるように観音堂の中に隠れた。
 暴れ回る八蔵を二人はやっとの事で捕まえ、観音堂の外へ連れ出した。八蔵は脅えきっていた。目付きが虚ろで、何を聞いても、アーアーウーウー唸るばかりだった。
「生きてたなんて信じられねえ」と市太は八蔵を見ながら言う。「あん時、延命寺の和尚たちと一緒に、お山に登ったはずなのに」
「余程、おっかない目に会ったのね」とおゆうが言った。
「怪我してる。早く洗った方がいいわ。あたし、水を汲んで来る」
 おろくは観音堂にあった桶を持って古井戸の方に向かった。
「おい、ちょっと待て。一人じゃ危ねえ」
 市太は八蔵を半兵衛とおゆうに頼むとおろくの後を追った。
「大丈夫よ」
「いや、八兵衛のように、お山で生き残った獣が出て来るかもしれねえ。奴らは凶暴になってるからな、何をするかわからねえ」
「脅かさないでよ」
「おめえに怪我されたかアねえんだよ」
 市太はおろくから桶を受け取った。
 市太が汲んで来た水を見ると八蔵はむさぼるように飲んだ。水を飲んで安心したのか、おろくが傷口を洗っている間も騒ぐ事はなかった。切傷が何ケ所もあったが、それ程、深い傷はなく、歩く事はできそうだった。
「さて、今日のとこは、これで帰るか」
 半兵衛が言うと皆もうなづいて、八蔵を連れて大笹に向かった。
 大笹に戻ってみると鎌原村の生存者たちのおよそ半数の四十人余りが、一里半程北にある干俣(ほしまた)村に移っていた。
 鎌原村の名主(なぬし)、儀右衛門の妻おさよは干俣村の名主、干川小兵衛の娘だった。家族全員を失い、たった一人で生き残っていた。娘が生きていると聞いて、飛んで来た小兵衛は大笹に来て、長左衛門が鎌原村の避難民を旅籠屋に入れて面倒を見ている事を知った。長左衛門だけに負担させるのは申し訳ないと半数の者を引き取って行ったのだった。
 干俣村に行った者の中に杢兵衛夫婦もいた。杢兵衛の妻おすみは干俣村の生まれだった。百姓代の仲右衛門や扇屋の家族、おしまの家族、孫八の家族らが干俣村に移っていた。
 山守の家族は大笹に残っていた。祖父の長兵衛も母親も弟の丑之助も幽霊でも見ているかのように八蔵を見た。八蔵には家族もわからなかった。脅えたような目で自分を囲む者たちを眺めて、アーウー唸っている。変わり果てた姿に驚きはしたものの、生きていてよかったと母親は八蔵を抱き締めると泣き出した。

目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...