2020年4月4日土曜日

天明三年(一七八三)六月十三日

 市太は珍しく、家の仕事を手伝っていた。祖父に江戸に行きたいと言うと、そうかとうなづいて、江戸にいる知り合いを紹介してやろうと言った。そして、お前は一体、何がやりたいんだと聞いて来た。
「おまえはわしによく似ている。兄貴の庄蔵は父親そっくりの真面目一方だ。まあ、問屋の跡継ぎには丁度いいのかもしれんが、わしから見ると、もの足らん。何かこう、こじんまりとしていてな。おまえにはそうなって欲しくはない。何をやってもかまわんが、ほんとに夢中になれるものを捜せ」
 ほんとに夢中になれるものは何なのだろうと考えながら、市太は仕事をしていた。別に問屋の仕事が嫌いなわけではない。だが、跡を継ぐのは兄だった。父親の弟、市太からみれば叔父もいるし、従弟(いとこ)もいる。自分の出番なんかなかった。要するに、この村にいても自分のやるべき事は何もない。だから、村から出る。村を出るなら江戸に行きたい。でも、江戸に行って何をする。祖父の知人のもとに行けば数日間は何とかなるだろう。しかし、その後はどうする。俺は何をやったらいいんだ‥‥‥わからなかった。
 今日は朝から小雨が降っているのに、大笹から松代(まつしろ)藩の武家荷物が次々に送られて来て大忙しだった。村の男衆(おとこし)はほとんど馬方をして狩宿(かりやど)へと出掛けて行った。昼頃、鉄蔵が帰って来たとおかよが知らせに来た。
「なに、兄貴が帰って来たのか」
「今、うちでお昼を食べてるわ」
「そうか。そういやア、俺も腹が減ったな」
 市太は側にいた叔父の弥左衛門に一声掛けて、おかよと一緒に向かいにある『巴屋』に向かった。
「大丈夫なの。忙しそうだったじゃない」とおかよは心配する。
「どうせ、俺なんか当てにしちゃアいねえよ」
「そう? 叔父さん、やな顔をしてたわよ」
「年中、ああいう面なんだ。気にすんな」
 大笹から来た馬方たちで店の中は混んでいた。おかよの兄嫁おべんと妹のおこうが手伝っている。鉄蔵は座敷の隅の方で茶漬けを食らっていた。市太が声を掛けると手を上げて笑った。
「兄貴、お帰り。いい絵は描けましたか」
「まあな。旦那は喜んでくれたよ。たっぷりとお礼をくれたんで路銀(ろぎん)が助かった」
「そいつアよかった。兄貴がいねえもんだから、何か面白くなかったよ」
「よく言うぜ」
「ほんとさ」
「この前、おなつと大喧嘩しちゃったしね」とおかよが嬉しそうな顔して鉄蔵に教える。
「へえ、あんなに仲よかったのに、どうしてだい」と鉄蔵が不思議そうに聞く。
「それがね」とおかよが市太を見て、笑いながら、「この若旦那、他の女に手を出したのよ」
「なに言ってやがる。まだ、手も足も出しちゃアいねえ」と市太はおかよを睨むが、
「でも、そのうち出すんでしょ」とおかよは平気な顔して言う。
「へえ、あんな可愛い娘(こ)を振ってまで、手を出す娘(むすめ)がいるのかねえ」
「それがね、まったく以外なのよ。村でも一番目立たない娘なの。お母さんが寝たきりだからしょうがないんだけどね、何となく暗い娘なのよ」
「ほう。一度、会ってみてえな」
「きっと、今晩、会えるわよ、ねっ」
「多分な」と市太はうなづく。
「今晩、何かあるのかい」
「お芝居のお稽古」
「ああ、そうか。今日は半(奇数)の日か」
「うちからちっとも出ない人が、どうした訳か、ここんとこ、お芝居を見に来るのよ」
「うまくやってるようじゃねえか」
「今んとこはな。先はわからん」と言いながらも、市太の顔は自然とニヤニヤ。
 市太も茶漬けで昼飯を済ませると、鉄蔵に聞いてみた。
「兄貴はどうして絵を描いてんです」
「どうしてだと? そんなの理由なんかねえや。描きてえから描いてんだ。描かずにいられねえからさ」
「描かずにいられねえから‥‥‥」
「そうさ。絵だけじゃねえ。俺は戯作(げさく)も書く。大(てえ)して売れねえが、自画自作の黄表紙(きびょうし)を三つ売り出した。わ印(じるし)(春本)も一冊出したよ」
「へえ、兄貴は戯作も書くですか。こいつアたまげた」
「何もたまげる事アねえ。俺より年下の北尾政演(まさのぶ)なんか、自画自作の黄表紙が売れに売れて吉原でも大持てだよ」
「へえ、そんな奴がいるんですかい」
「ああ、紅葉山の東に住む京屋の伝蔵で山東(さんとう)京伝(きょうでん)だとさ。ふん、奴には負けたかねえ」
「大丈夫ですよ。兄貴は負けやしません」
「おめえに言ってもらってもしょうがねえや」
「兄貴、俺ア何をやったらいいんだんべ」
「やりてえ事をやりゃアいいさ」
「そのやりてえ事がわからねえんだ」
「そういう時ア、旅に出りゃアいい。俺もな、自分の絵がわからなくなっちまったのよ。てめえの絵が売れねえもんだから、師匠の真似したり、重政(しげまさ)の真似したり、清長(きよなが)の真似したり、結局、自分の絵がわからなくなっちまった。おめえたちと出会って、しばらく、江戸を離れようと思ったんだ。旅に出て、ようやく、自分の絵ってえもんを思い出したぜ。他人の真似なんかしたってダメなんだ。自分の描きてえように描きてえ絵を描きゃアいいのさ。その描きてえ絵を描くってえのが、一番難しいんだがな」
「自分が描きてえ絵を描くんですか」
「そうさ。それしかねえのよ」
「描きてえ絵を描くか‥‥‥」
「絵だけじゃねえよ。何だってそうだ。最初は誰でも他人の真似から始まる。だが、真似ばかりしてたって始まらねえ。自分のものってえもんを出さなくちゃアな」
「自分のものか‥‥‥」
 馬方たちが入れ替わり立ち代わり入って来るので二人は店を出た。まだ、小雨がシトシト降っている。
「兄貴、観音堂でも行きますか」
「例の小屋か。それより、おめえが惚れた女ってえのに会ってみてえな」
「えっ、おろくにですかい」
「おかよの話じゃ、年中、うちにいるってえじゃねえか。うちに行きゃア会えるんだろ」
「まあ、会えるには会えるんだが、親父がうるせえからな」
「親父もうちにいるのかい」
「こないだの浅間焼けで怪我して、まだ、仕事ができねえんだ」
「そういやア、そんな事を言ってたな。甚太夫(じんだゆう)とかいう盲(めくら)の義太夫語りのうちだな」
「ああ、そうなんだ」
「よし、行こう」と鉄蔵は南の方に足を向ける。
「兄貴、本気なんですか」と市太は後を追う。
「ああ、本気さ」
「まいったなア」
「何がまいるんだ。おめえだって会いてえんだろ」
「まあ、そりゃア会いてえけど‥‥‥」
「会いたけりゃ会えばいいんだ。何も遠慮する事アねえ」
「別に遠慮してるわけじゃねえけど」
「ちょっと待て」と鉄蔵は急に立ち止まった。「その娘だけど、そこんちに、ちょっと気のふれた野郎がいねえか」
「ええ、いますよ」
「ああ、あの娘か。会った事あるぜ。そうか、あの娘に惚れたのか‥‥‥よし、行こう。この前、絵に描こうとしたら断られたんだ」
「えっ、兄貴がおろくを」
「あれは絵になるぜ。是非とも描かなくちゃアならねえ」
 市太は鉄蔵に引っ張られるようにして、おろくの家に行った。うまい具合に、おろくは用水の水を汲んでいた。市太が近づいて来るのに気づくと、顔を上げて微かに笑った。
「やあ」と市太は声を掛ける。
「お出掛けですか」とおろくは聞いて来た。
 おろくの家は村の南の外れの方だった。真っすぐ行けば山の秣場(まぐさば)へ、左に曲がれば沓掛(くつかけ)道だった。市太が鉄蔵と一緒に追分宿に行くとでも思ったのだろう。
「いや、おめえの顔を見に来たのさ」と市太が照れ臭そうに言う。
「えっ、昼まっから酔ってるんですか」おろくは市太と鉄蔵の顔を見比べる。
「若旦那はおめえさんに酔っちまったらしい」と鉄蔵が口を挟む。早くも手帳を広げ、矢立てから筆を出していた。
「兄貴がおめえを絵に描きてえってんで連れて来たんだ」
「そんな、あたしなんか」
「すまねえな。ほんのちょっとの間だ。じっとしていてくんねえ」
 鉄蔵はスラスラと筆を動かした。市太は後ろから手帳を覗き込んだ。あっと言う間に、おろくの顔が写された。
「やっぱり、兄貴は大(てえ)したもんだ」
 鉄蔵はおろくに絵を見せた。
「これがあたしなの。信じられない。わざと綺麗に描いたんですね」
「そうじゃねえ。紛れもなく、こいつアおめえだよ」
 市太がそっくりだと言っても、おろくは信じない。
「そうだ」と市太は手を打った。「おめえにいい物(もん)をやる。先生のお師匠、源内先生が考え出したっていうビイドロ(ガラス)の鏡だ。『自惚(うぬぼれ)鏡』と言ってな、銅の鏡よりずっと綺麗に写るんだ。そいつを見りゃア、おめえも信じるだんべ」
「そんな‥‥‥」
「今晩、持って来るよ」
「そんな、いいんです」
「なに、遠慮するなよ」
「あの、あたし、もう行かなくちゃ」
「今晩、迎えに来るからな」
 おろくは恥ずかしそうに、うなづいて家の中に入って行った。
「いい娘だな。おめえに気があるようだ。だが、厄介(やっけえ)な女だな。寝たきりの母親に怪我した父親、盲の兄貴に気のふれた野郎までいたら、おめえと遊ぶ暇もねえ。わざわざ、難しい女に目を掛けるたア変わった野郎だな、おめえも」
「別に変わっちゃアいねえ。好きになった女がたまたま、そうだっただけだ」
「そうかねえ。まあ、いいや、おめえの事だ。好きにするがいい」
 鉄蔵は市太の顔を見ながらニヤニヤ笑う。
「兄貴、何がおかしいんでえ」
「何となく、俺に似てると思ってな」
「兄貴に似てる? 俺が」
「そうさ。簡単に手に入(へえ)る物にはすぐに飽きて、わざわざ難しい物に取り組む所がな」
「へえ、兄貴もそうなのかい」
「まあな。ちょっと臍(へそ)が曲がってるらしい」
 二人は顔を見合わせて笑うと道を引き返して、観音堂裏の若衆小屋へと向かった。

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目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...