2020年4月6日月曜日

天明三年(一七八三)六月二十日

 灰の混じった雨が降り続いた。
 惣八の騒ぎがあった次の日も五つ(午後八時)頃、浅間山が焼けて、物凄い音と共に地面が大揺れした。その時、市太は珍しく家にいて、祖父の離れで、市左衛門から狂歌(きょうか)を教わっていた。今、江戸では狂歌が流行(はや)っているという。狂歌ができれば、有名な文人たちとも付き合える。有名な文人と付き合えば、何とかなると都合のいい事を考えている。
 突然、家が大揺れしたと思ったら、霰(あられ)でも降って来たかと思うほど屋根の音がうるさくなって、話し声も聞こえなくなった。明かりを消して外に飛び出したら、痛くてたまらない。よく見ると降って来たのは霰ではなく、なんと小石だった。驚いた事に、石が雨に混ざって降っている。こんな事があるのか信じられなかったが、痛みは本物、市太は慌てて、家の中に飛び込んだ。
 大揺れの後、小揺れが何度もあり、小石は半時(はんとき)(一時間)近くも降り続いた。軽い石だったが、大きい物は直径が五分(ごふ)(約一、五センチ)程もある。半時で、大小様々な小石は三寸(約九センチ)ばかりも積もった。
 翌日、村は大騒ぎ、田畑の作物はすべて、石にやられて全滅してしまった。惣八の間男(まおとこ)騒ぎではなくなった。昨日、朝から晩まで、顔を合わせれば、惣八とおまんの事をあれこれ噂していた村人たちは、一夜明けると二人の事などすっかり忘れて、ゴーゴー音を立てて黒煙を噴き上げている浅間山を恨めしそうに睨(にら)みながら、絶望した顔付きで、もうダメだ、もうダメだと嘆いていた。
 雨が小降りになった昼過ぎから、村総出で小石掃きが始まった。積もった石をどけなければ、馬がまともに歩けない。用水の中に溜まった石も浚(さら)わなければならない。市太も若衆組(わけーしぐみ)のみんなと一緒に作業に加わった。お山から降った小石は驚くべき量だった。通りの脇に石を積んだ小山がいくつも並び、それはまた、面白い景色でもあったが、何の役にも立たない石だった。
 さらに、悪い事が重なった。山守(やまもり)の長太が山から帰って来ないと家族が騒ぎ出して、若衆組を中心に村総出の山狩りが始まった。前日の小石掃きで腰が痛くてしょうがない市太もブツブツ文句を言いながら山の中に入って、山守の親爺を捜し回った。
「惣八の奴、土蔵に閉じ込められちまったらしいな」と安治が棒で灰を被った草をかき分けながら言う。
「そいつアしょうがねえだんべ。金で片を付けるにしろ、世間体ってもんがあるからな。それより、おまんの方はお頭んちにいるようじゃねえか。八兵衛と別れるんかな」
「八兵衛の方は中居にいる親父が危篤(きとく)で、それどころじゃねえんだんべ」
「まったく、惣八の奴もとんだ事をしてくれたぜ」
 市太は「いてて」と言いながら腰を伸ばす。安治も腰を伸ばすと傍らにある石に腰掛ける。
「結局んとこ、奴はうまくやったんかなア」
「わからんな」と市太も倒れている木の幹に腰掛ける。
「お頭がおまんから聞いた話によると、おまんは縫い上がった路考の衣装を試しに着ようとしただけだそうだ。惣八に頼まれて、おまんとしても十二単衣が着てみたかったんだんべ。帯を解いた時、大揺れが来て、表に出ようとアタフタしてたら路考が来たそうだ」
「何でえ。それじゃア、惣八は何もしてねえんじゃねえか」
「おまんの話によるとそうなるけど、真相は闇(やみ)ん中だ。やる前(めえ)に大揺れが来たんかもしれねえし、やった後に来たんかもしれねえ」
「それにしたってよう、亭主の親父が危篤だってえのに間男なんかするか」
「それがよう、八兵衛の親父の危篤は初めてじゃねえらしい。親父の危篤をだしにして、何度も追分の女郎と会ってたらしいんだ」
「そういやア、馴染みの女郎がいたっけ」市太は腰をたたきながら、「確か、甲州屋だっけかな」と思い出す。
「それで、今回も女郎のとこに泊まりに行ったに違えねえとしゃくになって、惣八を追い返さねえで一緒に酒を飲んでたそうだ」
「それじゃア、お山が焼けなけりゃア、うまくやってたかもしれねえってわけだな」
「多分な」
「まったく、ついてねえ野郎だ」
「これで、惣八の負けだな。奴が蔵に入ってる隙に、おろくをものにすりゃア、おめえの勝ちだ」
「ふん。奴が土蔵に押し込められたんじゃ、賭けはやめだ」
「そんな‥‥‥念仏講(ねんぶつこう)はどうなるんだ」
「何を調子のいい事を言ってやがる。おめえの企(たくら)みに乗った俺たちが馬鹿だったよ。おめえの企みをおさやに言ってやるぞ」
「そいつはうまくねえや」
「おい、おめえら、何やってる。もっと真剣に捜せ」
 お頭の杢兵衛に怒鳴られて、市太と安治は深い山の中へと入って行った。
「それにしてもよう、山守のとっつぁんはどうして、お山が焼けてんのに、お山ん中に入(へえ)って行きやがったんでえ」
「そいつは違うぜ。とっつぁんがお山に入った時は何ともなかったんだ。その晩、突然、焼けたんだんべえ」
「そうか。それにしたって世話を焼かせやがる。どうせ、怪我でもして、どっかの炭焼き小屋にいるんじゃアねえのか」
「炭焼き小屋にはいねえそうだ」と言ったのは勘治だった。いつの間にか、市太たちの側で草をかき分けていた。
「丑に聞いたんだが、お山ん中の炭焼き小屋はみんな捜したそうだ」
「勘治、おめえ、あの後、草津に行ったのか」と市太は聞く。
「ああ、行って来たよ」
「どうだ、おゆうは」
「相変わらずさ」と言って、勘治はニヤニヤ笑う。「毎日(まいんち)、草津の湯に入ってるせいか、肌がしっとりとしていやがった」
「なに、のろけてやがるんでえ。親の方は説得したのか」
「ああ、大丈夫だ。草津で客商売に慣れてくれりゃア、丁度いいと言ってらア」
「家柄の方はどうなんでえ」
「そんなの平気さ。おゆうがいる宮文(みやぶん)の旦那に頼んで、養女になってから嫁いでくりゃアいいのさ」
「ほう。そういう手があったか」と市太は勘治の顔を眺めながら、一人うなづく。「成程なア、おめえも色々と考えてんだな」
「おゆうと一緒になれなけりゃ、俺も草津に行くって親を脅したんさ」
「そうか」
「おめえは最近、おろくに夢中になってるようだが、おろくと一緒になるつもりなのか」
 市太は勘治の質問に驚くが、そんな素振りは見せずに、「そんな事ア考えちゃいねえよ」とさりげなく答える。
「所帯(しょてえ)を持つつもりなら、おろくはいいかもしれねえぜ。だが、遊ぶだけなら、やめた方がいいな」
「どうして」
「おめえは遊びでも、向こうは真剣になるからさ。ああいう女は思い詰めると恐ろしいぜ」
「それは言えるかもしれねえな」と安治も言う。
「おめえんちは金持ちだ。おろくの家族を抱えたって、女中を雇えば何とかなる。いっそ、身を固めちまえよ」
「そうは行かねえ。所帯を持っても俺にゃアやる事がねえ」
「問屋は継げねえし、つれえとこだな。いっその事、おろくを連れて村を出たらどうでえ。おろくの家族は女中に任せてよ」
「おろくが承知しねえだんべ」
「まあな。おめえも厄介(やっけえ)な女に惚れたもんだ」
 市太、勘治、安治の三人はのんきに女の話をしながら山守を捜していた。三人が腹減ったなアと一休みしている時、「おーい、見つかったぞ」と誰かが怒鳴った。
 山守の長太はすでに冷たくなっていた。頭や顔にひどい傷があり、顔には乾いた灰がこびり付いていた。三日間の雨で、血はすっかり流れてしまったようだ。長太の側にお山から飛んで来たらしい五、六寸もある石がゴロゴロ転がっている。その石が長太の頭に当たって亡くなってしまったようだ。
 伜(せがれ)の八蔵と丑之助の話によると、長太は十七日、雨が小降りになった昼過ぎから山に入って行った。御山見役の黒長の旦那から、近いうちに大笹の関所の橋の掛け替えがあるので、必要な用材を調べてくれと頼まれていたらしい。その日は帰らなかった。山に泊まるのはいつもの事で、普通なら家族も心配などしないが、その夜、お山が焼けたので心配になった。翌日、八蔵と丑之助の兄弟は父親を捜しに行こうとしたが、お山はまだゴロゴロ唸っている。祖父の長兵衛に止められて、二人は諦めた。その夜もお山が焼けて、石が降って来た。十九日の昼過ぎ、雨も小降りになり、お山も静まって来たので、二人は父親が泊まりそうな炭焼き小屋を捜し回った。どこにもいないし、父親がいたという形跡も見当たらない。山の事なら隅から隅まで知っている父親だから心配ないと思うのだが、その夜も帰って来なかった。山守が山で行方知れずになったなんて恥ずかしい事だが、八蔵は意を決してお頭の杢兵衛に父親の事を告げ、山狩りが始まったのだった。
 長太の遺体が村に運ばれると、また大騒ぎとなった。お山が荒れ狂うのは、明礬(みょうばん)捜しをしている錦渓がお山のあちこちを掘り返したせいだと言い出す者がいて、四月以来、何度も繰り返す浅間焼けに不安と恐れを抱いていた村人たちが同調した。錦渓のいる『江戸屋』は大勢の村人に囲まれ、錦渓の言い分も聞かなかった。錦渓が明礬の事を詳しく説明しようと難しい事を言えば言う程、村人たちの反感を買った。市太たちが何とか押さえようとしても無駄だった。田畑が全滅し、お山に対する怒りを何にぶつけていいかわからなかった村人たちが山守の死によって、その怒りを一気に爆発させてしまった。その対象に錦渓が選ばれてしまったのだった。まるで、何かに取り憑かれたかのように、村人たちは錦渓に怒りをぶつけていた。運の悪い事に、江戸屋の脇に小石の山があった。村人たちは小石をつかむと江戸屋に投げ付けた。これ以上、ここにいると江戸屋がつぶれてしまうと、錦渓は仕方なく、荷物をまとめて村から逃げ去った。逃げる錦渓に石を投げ付けて、村人たちは勝ち誇ったように鬨(とき)の声を挙げた。
 村人たちの先頭になっていたのは長太の伜、八蔵だった。八蔵の祖父、長兵衛がやめさせようとしても八蔵は聞かなかった。狂ったように村人たちを煽(あお)っていた。
 八蔵は父親の跡を継ぐため、父親と共に山の中にいる事が多かった。普段は物静かな、おとなしい男だった。村芝居でも表に出る役者ではなく、ツケ拍子(びょうし)を担当している。ツケ拍子とは舞台の上手(かみて)に座って、拍子木(ひょうしぎ)で舞台上に置いた板を打つ事で、芝居の進行に欠かせなかった。地味な役だが、ツケ拍子を間違えれば芝居は台なしになってしまう。責任感のある役だった。そんな役をこなしている八蔵が父親の突然の事故死によって、あんなにも変わってしまうなんて市太には信じられなかった。

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目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...