2020年4月10日金曜日

天明三年(一七八三)六月二十七日

 朝から浅間山が唸り続けていた。
 二日前にひょっこり現れた紀州熊野の山伏(やまぶし)、永泉坊(えいせんぼう)が今朝から観音堂で祈祷(きとう)を始めた。永泉坊は市太の祖父、市左衛門の古くからの知り合いで、厳しい修行を積んだ偉い行者(ぎょうじゃ)様だという。見るからに厳しい顔をしていて、浅間山の鬼退治には持って来いだった。
 市太はすっかり、おろくに夢中になっていた。自分ちの畑仕事などした事もないくせに、おろくんちの畑仕事に精出している。おろくの父親は、そんな事をしなくもいいと恐縮しているが、まだ、ろくに歩けないのだからしょうがない。松五郎は銭を稼ぐために馬方をしているし、甚太夫や三治では畑仕事はできない。おろく一人ではとても手に負えなかった。せっかく、小石をどけたのに、放ったらかしじゃア勿体ねえ、俺がやるしかねえじゃねえかと張り切っている。
 朝早くから夜遅くまで、おろくの所に入り浸りで、家に帰るのは寝る時だけ。まるで、おろくの婿(むこ)になったようだ、と村ではもっぱらの評判になっていた。
 おろくの作った夕飯を当然のように囲炉裏端に座り込んで、おろくの家族と一緒に食べる。父親は仏頂面(ぶっちょうづら)だが何も言わない。甚太夫も何も言わないが、こっちは仏面(ほとけづら)、松五郎と三治はすっかり身内のように接している。寝たきりの母親は時折、見舞うと両手を合わせて拝むばかりだった。
 夕飯が済むとおろくを誘って芝居の稽古。時には三治を連れて松五郎も付いて来る。甚太夫も義太夫の稽古のない日は顔を出す。芝居の稽古のない日は観音堂へ行ったり、市太の家の土蔵の中にしけこんだり、とにかく、二人だけの時を持つ。今日は芝居の稽古があり、仲よく寄り添って諏訪の森へと出掛けて行った。
 永泉坊の祈祷が効いたのか、日暮れと共に浅間山の唸りはなりをひそめた。灰や小石が振って来る事もなく、村人たちは一安心して諏訪の森へと集まって来た。
 舞台の前に仲間に囲まれて惣八がいた。少しやつれた顔をして、市太を見ると照れ臭そうに笑った。
「やっと、娑婆(しゃば)に出られたぜ」
「よかったなア。こっぴどく、やられたようだな」
「それ程でもねえが、まいったぜ」
「とにかく、よかった。だけどよお、芝居(しべえ)の役は降ろされちまったなア」
「しょうがねえや」
「まあ、俺の権太を見ててくれ。そして、今晩は飲もうぜ。大丈夫なんだんべ」
「ああ、平気さ。昼間、真面目に稼業に精出したからな」
「そうか。話す事が一杯(いっぺえ)あるんだ。楽しみにしてるぜ」
 稽古が終わると市太たちはゾロゾロと巴屋へと向かった。途中、市太は惣八を誘って、みんなから離れて話を聞いた。
「おまんの事だけどよ、先生から聞いたぜ」
 そう言うと惣八はニヤッと笑った。
「ああ、うまく行ってたんだ。言おうと思ったんだけどよ、何か、言いづらくてな。それでも誰かに言いたくて、たまたま先生に会ったんで、内緒にしてくれって言っちまったんだ。村の者が誰も知らねえとこを見ると、先生はほんとに内緒にしてくれたらしいな」
「俺だけだんべ。知ってんのは」
「今、思えば、先生から村の者に伝わって、噂になってくれりゃアいいと思ったのかもしれねえ」
「本気で惚れちまったのか」
 惣八は立ち止まって、遠くの方を見つめながらうなづいた。
「八兵衛の留守に、愚痴を聞かされてなア、八兵衛なんかにゃ勿体ねえ、俺が幸せにしてやるってな、本気になっちまった」
 惣八は市太の顔を見て苦笑すると歩き出した。
「元の鞘(さや)に納まっちまったぜ」と市太は教える。
「ああ、聞いたよ」
「どうすんでえ」
「もう、どうするもこうするもねえよ」
「おなべはまだ一人だぜ」
「おなべか‥‥‥いい娘だけどな」
「おまんのがいいのか」
「忘れられねえんだ。土蔵ん中で、おまんの事ばかり考えてた」
「そうか‥‥‥例の賭けだけどよう、ありゃアもうやめだぜ」
「ああ、念仏講なんてとんでもねえや。それで、おめえの方は一体(いってえ)、どうなってんでえ。おろくの婿になる気なのか」
「そうじゃねえよ」
「村の者はみんな言ってるぜ。三代目(さんでえめ)の権太は初代(しょでえ)の権太に婿入りしたってな」
「へっ、言いてえ奴にゃア言わしておくさ」
「それじゃア、やっぱり、江戸に行くのか」
「当たり前(めえ)よ」
「おろくは、それまでの遊びってわけか」
「そんなの決まってべえ」と市太はつい勢いで言ってしまった。惣八のように本心を告げる事はできなかった。「勘治は堅気(かたぎ)になっちまうし、おめえは蔵ん中だし、退屈しのぎに畑仕事をしてたんさ」
「そうか、そうだんべなア。俺アもうしばらくは親の機嫌を取らなくちゃアならねえ」
「わかってるよ。俺はアホの三治をからかって遊んでらア」
「アホの三治か。ガキの頃、よくからかって遊んだっけ。あそこんちの親父、鬼のような面して追っかけて来やがった。おめえ、あの親父、大丈夫なのか」
「ああ、今は怪我してるからな、追っかけて来る事もできねえ。まあ、いつも、苦虫(にがむし)をかみ殺したような面アしてるから苦手だがな」
 巴屋の前で、おろくが待っていた。
「おろくの奴、やけに色っぽくなったんじゃねえのか」と惣八が肘で市太を突く。
「長え事、蔵ん中にいたから、そう見えるんだんべ」
「そうかもしれねえ。娘たちがみんな、可愛く見えるぜ」
 惣八が店に入ると、おめでとうとみんなが迎え、蔵出し祝いの宴が始まった。
「ねえ、おなべを呼んで来ようか」とおかよが気を利かす。
「いいよ。どうせ、怒ってんだんべ」
「そんな事ないみたいよ」
「でもよう、おなべは今、義太夫の稽古に忙しいんじゃねえのか」と幸助が言う。
「そうか。明後日(あさって)だっけ、代表を決めるの」と市太は思い出す。
「おなつとおきよの二人が競うんじゃなかったのか」と惣八が聞く。
「そうだったんだけど、あんたが閉じ込められちゃってから、おなべもやる気になってね、おなつと毎日、お稽古に励んでるのよ」
「そうか。でも、おなべは無理だんべえ」
「あたし、三人共、聞いてみたけど、五分五分ってとこじゃない」
「ほんとかよ」と幸助が驚いた顔をする。「おきよが一番だと思うけどな」
「おめえにゃア、何でも、おきよが一番さ」
 安治に冷やかされて、幸助はむきになる。
「そうじゃねえよ。前評判はそうだったんべ」
「前評判はね。でも、おなべもおなつもほんとに真剣にやってるの。当日になってみなけりゃわかんないわね」
「ほんとかよ。そいつはやべえな。おきよの奴、もう自分だと思って安心してやがる」
「もし、おきよが選ばれなかったら、あんたのせいかもね」
「そうだぜ。おめえがちょっかい出したから、おきよの腕が鈍ったんだ」
「そんな‥‥‥」
「ねえ、若旦那、おなつの事だけどね、もう、はっきりと別れたんでしょ」
 おかよが急に言い出し、市太はまごついて、おろくを気にする。
「おめえ、なに言ってんでえ、今更」
「いえね、おろくさんのためにもはっきりしといた方がいいと思ってね」
「そんなの、もうとっくに別れてらア。顔を合わせたって口もきいちゃアいねえよ」
「実はね、うちの兄貴がさ、どうも、おなつの事、好きみたいなんだよ」
「なに、長治がか」
「そう。でも、若旦那がおっかなくって、おなつに声も掛けられないのさ」
「なに言ってやんでえ。長治がおなつとどうにかなったって、俺が怒る筋アねえ。好きにしろい」
「兄貴に言っとくわ。まあ、うまく行くかどうかはわからないけどね」
「長治とおなつか‥‥‥難しいかもしれねえな」と安治がもっともらしい顔で言う。
「安とおさやはどうなんでえ」と勘治が二人を見て笑う。
「俺たちは‥‥‥」と安治はおさやを見ながら口ごもる。
「おさやは安治さんの事、好きなんですよ」とおみやが口を出す。
「おみやったら、なに、そんな事、言うのよ」
 おさやは顔を赤らめて、おみやをぶつ真似をする。
「だって、本当じゃない。見てられないのよ。あたしはちゃんと言ったのよ。仙さんに好きだって」
「いよおっ、仙の字」
 みんながキャーキャー囃し立てる。仙之助は真っ赤な顔して照れている。
「みんな、いいのね、好きな人が側にいて」おかよが溜め息をつく。
「兄貴はまだ、江戸に着かねえだんべなア」
「おかよ、俺だって側にいねえんだぜ」と勘治が言うと、
「おめえ、おゆうに会いに行ってるのか」と惣八が聞く。
「ああ、行ってるよ。十日に一度ぐれえしか行けねえけどな」
「一緒になるつもりなのかい」
「当たり前(めえ)だ。家柄だの身分違えだの、くそくらえだ」
「実は俺もそいつで悩んでんだ」と幸助が勘治を見る。「おきよの親父は組頭だからな、どうも、身分違えらしい」
「そんなの、くそくらえって言ったんべ」
「だってよう、うちはもう二親共いねえし、おきよの両親に断られりゃアそれまでだ」
「馬鹿野郎、そんな情けねえ事でどうする。大人たちと戦って、うまくやるんだよ」
「そう言ってもなア、俺にゃア自信がねえ」
「しっかりしなさいよ、もう。こうやって見れば、若旦那とおろくさんだって身分違いじゃない。安治さんとおさやだって、仙さんとおみやだって、みんな、そうじゃないさ」
 おかよに言われて、皆、初めて気づいたように回りを見回す。
「そう言われてみりゃア、みんな、身分違えだ。どうなっちまったんでえ」
「誰かが誰かを好きになるのに身分なんて関係ないのさ。そんな古いしきたりなんか、あたしたちでぶち壊してやろうじゃない」
「おう、そいつアいいぞ」と勘治は張り切る。「でも、俺たちだけでやってもダメだ。若衆組を動かせりゃアいいんだが」
「そいつは難しいぜ」と市太は言う。「すでに所帯(しょてえ)を持ってる奴も多いからな。奴らの中にゃア身分違えで諦めて、他の奴と一緒になった奴もいるだんべ。そいつらが何と言うかだな」
「まずは市太、おめえたちだんべ」
「勘治、何を言ってるんでえ」
「問屋の伜のおめえが最初に掟(おきて)を破りゃア、後は何とかなるぜ」
「掟破りか、破るのは好きだけどよう」
「おめえたちが見本を見せりゃアいい。そうすりゃア、幸助とおきよも一緒になれるし、安とおさやも、仙とおみやも一緒になれるってえもんだ。勿論、俺アおゆうと一緒になる」
 その夜、市太たちは村の身分差をなくすという事を熱くなって語り合った。

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目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...