2020年3月23日月曜日

天明三年(一七八三)四月九日

 静まり帰った真夜中、突然、ドカーンと物凄い音と共に家が揺れ、市太は目を覚ました。隣に寝ていたお浜は目を丸くして市太の腕にしがみついている。
「おい、なんだ、地震か」
「何なの、一体。さっき、物凄い音がしたわ。こんな夜中に雷が落ちたのかしら」
「雷だと? 馬鹿言うねえ。雷と地震が一緒に来たってえのか」
 雷の方は治まったようだが、地震の方は治まらない。部屋がミシミシ揺れて、障子(しょうじ)がガタガタ言っている。
「おい、こいつア危ねえぞ。うちが潰れるかもしれねえ。早く、外に逃げた方がいい」
「逃げるったって、こんな格好じゃア」
「ゴタゴタ抜かしてねえで、さっさと着ろ。死にてえのか」
 そう言いながら市太も素早く、着物を着る。隣の部屋から勘治が顔を出した。
「市太、すげえ地震だぜ。どうする」
「なに、のんきな事言ってやがんでえ。さっさと支度しやがれ」
 廊下からドタバタと騒ぐ音が聞こえて来る。みんな、慌てて逃げ出しているらしい。
「おう、行くぜ」と市太はお浜の手を引く。
「ちょっと待ってよ。まだ帯が」
「帯なんか後でいい」
 綿入を羽織っただけのお浜を連れて、市太は部屋を飛び出した。
 揺れはちっとも治まらない。暗い廊下を壁にぶつかり、人にぶつかり、やっとの思いで通りに飛び出した。外に出れば大丈夫だろうと思ったが、地面までがグラグラ揺れている。
 表通りは旅籠屋(はたごや)から飛び出して来た者たちでゴッタ返している。怒鳴り声や女の悲鳴、馬のいななきで騒々しい。
 宿場の若い者が提燈(ちょうちん)を振り上げて、「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。
「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。
 人々は一斉に浅間山の方を見る。暗くてよく見えないが、煙がいつもより増して吹き上げているようだ。ゴロゴロゴロという不気味な唸りも聞こえて来る。
「恐ろしい‥‥‥話には聞いてたけど‥‥‥」
 お浜は震えながら市太にしがみついている。恐ろしくて、やっと立っているかのよう。
「ぶったまげたぜ。まさか、お山が焼けるたアなア」と勘治がお滝と一緒に人込みを分けて市太たちの側に来た。
「おい、勘治、もし昨日焼けてたら、俺たちゃア真っ黒焦げだぜ」
「ああ、吹っ飛ばされてたかもしれねえ‥‥‥恐ろしいもんだ」
「姉さん、こんな恐ろしい事、よくあるの」
 追分宿に来たばかりのお滝が浅間山を見上げながら、お浜に聞いた。
「あたしだって、こんなの初めてよ。時々、灰が降る事はあるけど、こんなに揺れるなんて、もう、一体、どうなってんのよ」
「お山開きになったんで、お山の鬼どもがドンチャン騒ぎをしてんだんべ」と勘治が冗談口を聞く。「酒が足らねえ。女子(おなご)が欲しいってな」
 勘治は自分で言いながら自分で笑っているが誰も笑わない。皆、心配そうな顔をして浅間山を見つめている。
「どうやら、地鳴りもいくらか治まったようだな」と市太はしがみついているお浜の手を握った。
「もう大丈夫かしら」
「ひとまずは安心だんべ」
「助かったなア」と言い合いながら、皆、ホッと胸を撫で下ろす。
「あれ、惣八の奴はどうした」と市太は回りを見回した。
「声は掛けて来たぜ」と勘治も惣八を捜す。
 揺れが弱まったので旅籠屋に明かりが燈り、回りの様子が見え出した。皆、慌てて飛び出したとみえて、ふんどし一丁の者や湯文字だけの女郎、布団を被っている者や裸のくせして荷物だけは大事に抱えている者、腰を抜かして起き上がれない年寄りと様々な者がいた。
 宿屋の者たちが、もう大丈夫だと言いながら、客たちを促している。惣八の姿はどこにもなかった。
 市太たちも旅籠屋に戻った。惣八の部屋を覗くと、お政が部屋の隅で丸くなり、惣八は布団の上であぐらをかいている。
「おい、おめえら、何やってんだ」
「おう、みんな、無事だったか」惣八は皆の顔を見てホッと溜め息をつく。「まいったぜ、もう。お政の奴、気が違ったみてえになりやがって、あそこからちっとも動きゃアしねえ」
「お政ちゃん、大丈夫」とお浜が駈け寄って、お政に着物を掛けてやる。
 お浜が何を言っても、お政は何も言わない。じっと何かを見つめたままだ。勘治が行燈に火を入れた。いつもより青白い顔をしたお政はブルブル震えている。
「おい、おめえ、しっかりしろ」
 市太がお政の体を揺すった。お政はビクッとして、今まで気を失っていたかのように、目をキョロキョロさせた。
「おい、大丈夫(でえじょうぶ)か」
 お政は市太の顔を見ながらうなづいた。
「もう、終わったのね」
「ああ、終わった。もう、大丈夫だ」
「あたし、どうしたのかしら。何だか、急に気が遠くなって‥‥‥」
「まったく、脅かさないでよ」とお浜がお政の肩をたたく。
 お政はようやく、自分が裸だった事に気づいて、恥ずかしそうに着物で体を隠した。
 夜中に叩き起こされ、もう一度、眠る気にもならず、惣八の部屋で酒盛りを始めた。
「ここがこれだけ揺れたとならア、鎌原も揺れたんべえな」と勘治が心配する。
「ああ」と惣八はうなづく。「みんな、慌てて、うちから飛び出したに違えねえ」
「みんな、無事だんべえか」
「大丈夫だんべ。ここより鎌原の方がお山から遠いからな」
「そうだな。ここが大丈夫だったんだ。鎌原は無事に違えねえ」
「これだけ揺れたんは、ほんと久し振りだぜ」
「ああ。この前、焼けたんはいつだっけ」
「ありゃおめえ、七、八年も前だんべ」
 市太がその日を思い出したように、「確か、村祭りの二日前だったぜ」と言う。
「そうだっけ」と勘治は首を傾げる。「よくそんなの覚えてんな」
「俺たちが若者組(わけーしぐみ)に入(へえ)った年だ。芝居(しべえ)の支度をしてる時だったんだ。揺れたんは四つ(午後十時)頃で、舞台(ぶてえ)に行ってみると、台(でえ)なしになっていやがった」
「おう、そうだ、そうだ、思い出したぜ。次の日、大慌てで舞台を直したっけ。あん時の芝居は『堀川夜討(ようち)』の『弁慶上使(べんけえじょうし)』だった」
「そういやア、思い出したぜ」と惣八はニヤニヤする。「市太、おめえ、そん時、枡屋(ますや)んちのおりんといい思いしてたんじゃねえのか」
「そうさ。あん時ゃア、ぶったまげたぜ。うめえ事、おりんを諏訪の森に誘い込んで、やっとの思いでうまく行ったと思ったら、辺りが騒々しくなりやがった。おりんは慌てて、うちに帰(けえ)っちまうし、俺ア仕方ねえから舞台のとこに行ったんさ。そしたら、せっかく作った舞台が台なしになってたってえわけよ」
「おめえ、ほんとはしくじったんじゃねえのか」
「馬鹿野郎、そんなヘマはしねえ。だがよ、初めてだったからな、興奮しちまってよう、地面が揺れてるなんざ、まったく気づかなかったぜ」
「あれだけ揺れたんに気づかねえたア、てめえも大揺れだったんだんべえ」
「ねえ、そのおりんさんて今、どうしてんのさ」とお浜が少し険のある顔で聞く。
「なアに甚助(じんすけ)(嫉妬)する程の事じゃアねえ。もうとっくに嫁に行って、子持ちのババアよ」
「ねえねえ、その時もさっきみたいにあんなに揺れたの」とお政が聞く。すっかり落ち着いたようだ。
「そうさなア、さっきよりもひどかったかもしれねえ。みんな、うちから飛び出したんはいいが、立ってられなくて、地べたに這いつくばってたからな」
「もう揺れないかしら」
「揺れはすぐには治まらねえ。あと二、三回揺れるかもしれねえ。だがよう、あれ程の揺れはもうあるめえ」
 惣八が言ったように、夜明けまでに何度か揺れたが、外に飛び出す程ではなかった。揺れる度に、お政は身を縮めて怖がった。それでも、皆が側にいるので、先程のようにおかしくはならなかった。
 外が明るくなってから浅間山を見ると、いつもより数倍もの黒い煙を上げていた。山はゴロゴロ鳴っていて、まだ、完全に治まってはいない。もう一度、大焼けするかもしれなかった。寝不足で目がショボショボしていたが、市太らは帰る事にして、女たちと別れ、鎌原村に向かった。
 追分宿から鎌原(かんばら)村までは六里(約二十四キロ)余り。鼻田峠(峰の茶屋)で沓掛(くつかけ)(中軽井沢)からの道と合流し、分去(わかされ)茶屋で道は三つに分かれ、右に行くと狩宿(かりやど)(応桑)の関所、左に行くと大笹(おおざさ)の関所、真ん中を行くと鎌原村へと行く。浅間山北麓一帯は六里ケ原と呼ばれ、原生林と荒れ果てた草原が延々と続いている。三人は眠い目をこすりながら、時々、浅間山の不気味な煙を見上げ、鎌原村へと道を急いだ。
 途中から雨が降って来た。浅間焼けの灰の混ざった薄汚れた雨だった。ずぶ濡れになった三人が鎌原村に着いたのは正午近く、寝不足と空腹と憎らしい冷たい雨にやられて三人共フラフラしている。夜中の騒ぎで、飲み食いの出費がかさみ、途中の茶屋で飯を食う銭も残っていなかった。
 上州吾妻郡鎌原村は標高が九百メートルもある山村で、米などろくに採れなかった。あちこちに点在する狭い畑で粟(あわ)、稗(ひえ)、蕎麦(そば)、大麦、小麦などを作っているが、それだけでは、とても生計は成り立たたない。山から木を伐り出して屋根板や天秤(てんびん)棒(ぼう)なども作り、炭焼きもしているが、それでも間に合わない。にもかかわらず、六百人近くもの人々が住み、生活して行く事ができたのは信州街道と沓掛道が鎌原村で交わっていたからだった。
 信州街道は大戸(おおど)通りとも呼ばれ、中山道の高崎の城下から分かれて、下室田、三ノ倉、大戸の関所を通り、本宿(もとじゅく)、須賀尾(すがお)、万騎(まんき)峠を越え、狩宿の関所を通って鎌原へと来る。鎌原から大笹の関所を通り、田代、鳥居峠を越えて信州善光寺へと向かう。沓掛道は中山道の沓掛宿、あるいは追分宿から鼻田峠を越え、六里が原を通って鎌原に出て、吾妻川を渡って中居(三原)、前口、草津の湯へと行く。
 鎌原は正式な宿場ではないが、宿場の機能を持った村だった。信州の飯山藩、須坂藩、松代(まつしろ)藩の年貢米や武家荷物が鎌原村を通って江戸に行く。草津温泉で消費される物資も鎌原を通って行った。それらの荷物を馬の背に乗せて運ぶ、馬方(うまかた)稼ぎで現金収入を得ていたのだった。世はまさに田沼時代の真っ只中、貨幣経済が村々まで浸透し、平成のバブル期のように景気がいい。村人の男衆(おとこし)のほとんどが馬方をしていて、それを仕切っている問屋が市太の家だった。
 村の中央に浅間山の中腹から引いた用水が流れ、その両側に街道が通って家々が建ち並んでいる。旅籠屋や茶屋もあり、旅人も行き来している。上方(かみがた)から草津に行く者、江戸から草津に行く者が追分宿、あるいは沓掛宿からやって来る。上方の情報も江戸の情報もいち早く伝わり、両方の文化を吸収して活気のある村だった。
 村の外れの二本松で三人を待っている者がいた。蛇(じゃ)の目傘をさして、市太たちと同じように丈の長い半纏(はんてん)を来た若い娘たち。髪は江戸で流行っているという櫛巻(くしまき)にして、揃いの簪(かんざし)を差している。市太たちといつもつるんで遊んでいるおなつ、おなべ、おゆうの三人娘。年は十八、村でも評判の器量よし揃いだった。
「出迎え御苦労」
 市太は三人に手を上げるとおなつの傘の中に入った。
「慣れ慣れしいわね、もう、やめてよ」とおなつは逃げる。
「おい、随分と冷てえじゃねえか。風邪ひいたらどうすんだい」
「自分たちが悪いんでしょ。あたしたちというものがありながら、お女郎たちと遊んで来るんだから。もう、知らないわよ、ねえ」
「そうよ、まったく。夜中にえらい騒ぎがあったってえのに、のんきに遊んでんだから、もう、勝手にするがいいわ、ふん」とおなべは傘を回して惣八に水滴を飛ばす。
「畜生、冷てえなア」
「おめえは怒っちゃアいねえよな」と勘治はおゆうの肩を抱くが、おゆうも鬼のような顔をして勘治を睨んで肘鉄(ひじてつ)を食らわせる。
「そう怒るなよ。俺たちだってとんだ目に会ったんだ。まったく、遊びどころじゃねえ。お江戸見物に行く大人数と出くわしてな、女どもはいくら待っても来やしねえ。しけた面して三人で酒飲んで寝ちまったら、夜中に叩き起こされてよお。そうだ、おめえたち、村は大丈夫(でえじょぶ)だったのか」
「大丈夫なはずないでしょ。あんなに揺れたんだもの。みんな、大騒ぎよ。お頭(かしら)があんたたちがいないって怒ってたわ。帰って来たら、すぐに知らせろってね。だから、あたしたち、こうやって待ってたんじゃない」
「おめえ、ほんとかよ。お頭が怒ってんのか」
 勘治が心配そうに市太を見る。お頭というのは若衆組(わけーしぐみ)の頭で杢兵衛(もくべえ)といい、市太たちも杢兵衛には頭が上がらない。面倒味がよく、男気(おとこぎ)もあり親分肌の男だった。
「おゆう、嘘言うんじゃねえ」と市太はおゆうの目を覗き込む。
「今日は本多様の荷が届くはずだ。お頭だって、そいつを運んで狩宿に行ったに違えねえ」
 おゆうは舌を出して、「でも、怒ってたんだから、帰って来たら大目玉を食らうわ。覚悟してらっしゃい」
「それより、村は大丈夫だったのか」
「大丈夫よ。馬たちが大騒ぎしたくらいよ。それより、そっちこそ、ほんとなの」
 おなつが市太を横目で睨む。
「何が」
「何がじゃないわよ。お女郎と遊んで来たんじゃないのね」
「本当だとも、あんなとこまで行って、くたびれ損さ。今から、しっぽり濡れようぜ」
「もうたっぷり濡れてるでしょ。まったく、信じられないわ」
 何だかんだ言いながらも三人娘はそれぞれ、男を傘にいれてやり、相合い傘で村へと帰る。
「ねえ、お浜って言ったっけ」とおなつはくどい。
「何が」と市太はとぼける。
「何がじゃないの。あんたの馴染みよ」
「馴染みなんかいるわけがねえ」
「また新しい娘に替えたんだ」
「そうじゃねえ。女郎衆はみんな出払ってたんだ。それより、おめえ、あん時ゃ面白かったぜ。俺たちゃ三人とも待ちくたびれて、そのまま寝ちまったから、この格好のまま外に飛び出したが、中には素っ裸で飛び出した奴も一杯いやがった。結構な眺めだったよ」
「ねえ、聞いて。村にもいたのよ、そんなウスノロが」
「なに、ほんとかよ。誰でえ」
「おふみと金四郎よ」
「へっ、あの二人、祝言(しゅうげん)を挙げたばかりで毎晩、励んでるそうだ」
「おきよが見たのよ。スッポンポンで二人して飛び出して来たんだって」
「相変わらず馬鹿な野郎だ。それでどうした」
「すぐに親に怒られて、うちん中に引っ込んだけど、近所の者たちに見られて、村の笑い者になってるわ」
「他にそんなテンツクはいなかったか。そん時、夜這(よべ)えしてた野郎とかな」
「いたわよ。はっきりとはわかんないんだけど、幸助の弟の伊之助が桶屋(おけや)のおみよんとこから出て来たみたい」
「ほう、伊之とおみよか‥‥おみよも最近、色っぽくなりやがったと思ったら、そういう事情があったのか」
「ねえ、あんた、ちょっかいなんか出さないでよ」
「なに言ってやがる」
「よう、そこでちょっと一杯(いっぺえ)やってぐべえ」
 惣八が後ろから声を掛けて来た。
「武蔵屋(むさしや)に寄んのか。おかよんとこのがいいんじゃねえのか」
「なアに、半兵衛はいやしねえよ。それに、おかよんとこはおめえんちの前(めえ)だんべ。親父に見つかったらやべえんじゃねえのか」
「そうだな。半兵衛んとこで熱いのを一杯やって、観音堂の小屋で一眠りすべえ」
「そうすべえ、そうすべえ」と六人は目の前の『武蔵屋』の暖簾(のれん)をくぐる。
 昼時なのに客は一人もいなかった。それでも縁台(えんだい)の上に飲み食いした器が散らかっている。ついさっきまで、大笹から荷物を運んで来た馬方連中がいたらしい。
「あら、いらっしゃい」と後片付けしながら迎えたのは、ここの女将(おかみ)おゆわ、年の頃は三十の半ば、さっぱりとした気性の女だった。
「まあ、びっしょりじゃない。早く着替えないと風邪ひくわよ。なんだか、今日は急に寒くなって」
「わかってるよ。その前に、まず、熱いのを二、三合頼まア」
「はいはい、さあ、どうぞ」
 びしょ濡れの三人はとりあえず、濡れた着物を脱いで絞る。
「ねえ、それをまた着るつもり」
「仕方ねえだんべ。うちに帰ったら、どやされる」
「いいわ。待ってて。何か持って来てあげる」
 おなつはそう言うとおなべ、おゆうを連れて茶屋から出て行った。おなつの家は古着屋、こっそり、売り物を持って来るつもりだろう。
 三人は体を拭くと湿った長半纏を羽織って奥の座敷、座敷という程のものでもないが、茣蓙(ござ)を敷いた板の間へ上がり込んだ。
「生憎(あいにく)の雨っ降りでいやアねえ。みんな、この雨ん中、狩宿まで行ったわよ。若旦那は行かないんですか」
「女将さん、その若旦那はよしてくれ。若旦那は兄貴の方だ。俺はただの居候(いそうろう)よ」
「なに言ってんですか。うちの人はよく言ってますよ。お兄さんより市太郎さんの方がああいう仕事には向いてるってね」
「よしてくれ。あのうちは兄貴が継ぐんだ。俺アそのうち、こんな村は飛び出すさ」
「村を飛び出して、どこに行くんです」
「まあ、江戸でも行って一旗上げるさ」
「あれ、おめえ、おろくじゃねえか」と惣八が後片付けをしている娘に声を掛けた。
「忙しかったから手伝ってもらってたのよ。おろくちゃん、お酒お願いね」
「はい」と女将にうなづくと、おろくは下げ物を持ってお勝手の方に行った。
「どうぞ、ごゆっくり」と女将も消える。
「おろくってえのは甚太夫(じんだゆう)の妹だんべ」と勘治が惣八に聞く。
「ああ、ここんちの隣さ。母ちゃんの看病ばかりしていて、ちっとも外に出ねえ。あれだけの器量で勿体(もってえ)ねえこった」
 おろくが消えたお勝手の方を眺めていた市太も、「いつの間にか、いい女になっていやがる」とつぶやく。
「おい、市太」と惣八がお勝手の方をチラッと見てから、「おろくを口説くつもりならよした方がいいぜ」と小声で言う。
「どうしてだい」
「どうも、男嫌えらしい」
「おめえ、振られたんだんべ」と勘治がゲラゲラ笑う。
「振られたわけじゃアねえや。それ以前に相手にされねえのよ」
「おめえ、馬鹿じゃねえのか。そんな事ア自慢するねえ」
「自慢してるわけじゃねえ。何を言っても話に乗って来ねえんだ。きっと、男よりも女の方が好きなのかもしれねえ」
「何だと。女同士でやるってえのかい。話にゃア聞いた事あるが、あのおろくがなア。相手は一体(いってえ)、誰なんでえ」
「そんな事ア知らねえ。でもよ、もう十九だぜ。今まで、一人も男出入りがねえってなアおかしいじゃねえか。目も当てられねえ不細工な面じゃアねえんだぜ。あれだけ、フリがいいのにおかしいと思わねえか。娘たちの集まりにも顔を出さねえしな、祭りん時だって、みんなと一緒に騒ぐわけでもねえ。いつも、うちに籠もりっきりよ」
「おい、惣八」と勘治が何かを聞こうとしたら、噂の本人が酒を持って来た。
 三人は口をつぐんで、おろくを見つめた。
「お待ちどうさま」とおろくは俯(うつむ)き加減に言って、チラッと市太を見た。
「久し振りだな」と市太は笑いながら言う。
「お久し振りです。若旦那さん」
 おろくは蚊の鳴くような声で言って、微かに笑った。
「腹が減ってんだ。女将さんに何か食い物(もん)を頼んでくれ」
「はい。わかりました」
 おろくはうなづき、何となく恥ずかしそうに去って行った。
「あれっ」と以外そうな顔をして惣八が市太を見る。「あいつ、しゃべりやがった」
「そりゃア、しゃべるだんべ。唖(おし)じゃアねえんだからな」
「そりゃそうだけどよ。俺ん時ゃア、はいとかいいえとか返事しかしなかったぜ」
「おめえなんか嫌えなんだとよ」と勘治が笑いながら、銚子から酒を注ぐ。
「おい、惣八、あいつ、ほんとに生娘(きむすめ)なのか」
「かもしれねえぜ」
「勿体(もってえ)ねえなア。なあ、やっちまわねえか」
「そいつア、やめた方がいい。奴の親父に殺される」
「あの親父か。確かにやりそうだな」
「あの親父は危険だぜ」と市太も言う。「頭に血が昇ると何をするかわからねえ。もうかなり前(めえ)になるけど、三治を馬鹿にしやがったってえんで大笹の野郎と喧嘩して、相手を半殺しの目に会わせたからな。若え頃は物すげえゴロツキだったらしい」
「誰がゴロツキだって」とおなつたちが古着を抱えて戻って来た。
「大きさはよくわかんないけど、濡れたのよりましでしょ。早く着替えなさいよ」
「悪(わり)いな」と三人は濡れた半纏を脱ぎ捨てると乾いた着物に着替えた。
「おい、ふんどしはねえのかよう」
「そんなの外してフリチンでいればいいじゃない」
「そうは行くか。みっともねえ」
 そうは言ったものの、ふんどしまでびっしょり濡れている。せっかく乾いた着物を着てもまた濡れてしまう。仕方なく、三人は濡れたふんどしも外して、さっぱりした気分で酒を飲み始めた。
「ねえ、ゴロツキって何の事よ」とおなつが話を元に戻す。
「おろくの親父さ」
「おろく?」
「ああ、今、ここを手伝ってんだ」
「へえ。あのおろくが‥‥‥」
「おめえら、おろくの男出入りを知らねえか」
「さあ、あまり話もした事ないし」
「もしかしたら、小町じゃないの」とおゆうが言う。
「小町だと?」と勘治が怪訝(けげん)な顔で聞く。
「穴がないのよ」
「馬鹿言うねえ」
「だって、あそこんち、呪われてるって噂よ。兄さんは盲(めくら)でしょ、叔父さんは気違いでしょ、姉さんはお嫁にも行かないで、五十男とくっついてるし。それに、寝たきりの母さんはもう四十をとっくに過ぎてるのに、顔付きは三十位にしか見えないっていうのよ」
「そんな馬鹿な」
「何かに取り憑かれてるのよ、きっと。それで、おろくは穴なしなのよ」
「誰でえ、そんな噂してんのは」
「誰って、この間の集まりでも、そんな話を誰かがしてたわ」
「誰かってえのはおめえだんべ」
「へっへっへ」とおゆうは笑う。
「まったく、おめえは作り話がうめえよ。何がほんとの事だか、しめえにはわからなくなっちまわア」
「とにかく、穴なしかどうか、はっきり確かめなくちゃアな」と惣八が意気込んで言うと、
「そんなのいちいち確かめなくてもいいんだよ」とおなべが惣八の腕をつねる。
「痛えなア」
「まったく、このすけべ野郎」
 おなべは惣八を睨んだ後、「これはほんとの話なんだけどね」と得意顔で話し出す。
「おろくんちの向こう隣のおもよさんから聞いた話さ。おろくんち、アホの三治がいるから、他所(よそ)んちでお風呂を貰うわけにいかなくて、うちにお風呂があるんだけどね、三治をお風呂に入れてんのは、いつもおろくなんだよ」
「ほう、三治のでっけえ一物(いちもつ)をおろくがいつも洗ってんのか」
「いつもしごいてやってんのさ。それで、おろくなんだけどね、三治の体を洗う時、自分も裸になって一緒に入ってんだってさ」
「風呂ん中で三治とやってんのか」
「そんな事まで、おもよさんだって知らないさ。ただ、一緒に入ってるのは確かな事だよ」
「あのアホ野郎と一緒に入ってるのか。羨(うらや)ましいこった」
「何が羨ましいって」とおなべが惣八を睨む。
「何でもねえよ」
 女将さんが煮込みうどんを持って来た。
「あれ、おろくは?」と勘治が聞く。
「洗い物が終わったんで、うちに帰ったわよ」
「女将さんはおろくをよく知ってんだんべ」
「知ってるけど、どうかしたの」
「男がつかねえのが不思議でね」
「そうね。もうお嫁に行ってもいい年頃だもんね。でも、おろくちゃんがお嫁に行っちゃったら、あのうちは大変よ。家事は全部、おろくちゃん任せだし。それに、お母さんと叔父さんの面倒見る人もいなくなっちゃうし。もしかしたら、もう諦めちゃったのかもね」
「母ちゃんはいつ倒れたんだ」と市太が聞く。
「もう三年になるんじゃないの」
「三年か。三年もあいつが飯の支度やら洗濯やら、母ちゃんの看病にアホの面倒まで見てたのか」
「そうよ、大変な事よ。普通の人じゃアとても勤まらないわね」
 市太たちはうどんをお代わりして腹拵えをした。腹も一杯になり、さて、一眠りしようかと思った時、この家の主(あるじ)、半兵衛がやって来た。
「若旦那、いいとこに帰(けえ)って来ましたねえ」半兵衛は嬉しそうな顔して市太たちを眺めた。
「ここにいるのが、よくわかったな」と市太はそっけなく言う。
「おなつたちがここに入ったと聞いたんでな」
「あら、おまえさん、狩宿に行ったんじゃなかったの」と女将さんが出て来て聞く。
「いや、これから草津まで行かなけりゃアならねんだ」
「えっ、草津へ」
「ああ。本多様の荷物が予定より多く来ちまってな、馬方がみんな出払っちまったんじゃよ。しょうがねえから俺が草津の荷物を運ばなけりゃアならなくなってな、人手が足らねえとこに、若旦那たちが帰って来たと聞いてやって来たわけだ。そんなわけで、これから、若旦那と一緒に草津まで行って来らア。今から行きゃア、泊まりになるが頼むぜ。そうだ、万五郎も連れてぐからな」
「あら、そう。今晩は草津泊まりなのね。まあ、ゆっくり、湯に浸かってくればいいわ」
「ああ、そうするよ。ちったア腰にいいだんべえ」
「ちょっと、半兵衛、俺も草津に行くのか」驚いて、市太が口を挟む。
「勿論さ。みんな、狩宿に行っちまって人がいねえんじゃよ」
「今日は具合(ぐええ)が悪(わり)いぜ。昨日の騒ぎで寝不足なんだ」
「若旦那、確か、貸しがあったっけなア」と半兵衛はニヤニヤする。
「畜生、わかった。やりゃアいいんだんべ、やりゃア」
 勘治があくびをしながら、「まあ、行って来いよ。俺たちゃアのんびり昼寝をするぜ」
「何を言ってる。おめえたちも行くんだ」
「何だと? 俺ア馬方じゃねえ」
「おめえたちは今朝方の大騒ぎん中、いなかったからな。お頭が帰って来たら、こっぴどく怒られるぜ。草津に荷物を運びゃアそいつを逃れる事ができる。どっちがいいかな」
「畜生め」
「さあ、雨もやんだ。さっさと支度をして来い」
 そう言うと半兵衛は出て行ったが、また戻って来て、おなつたちに、「おめえらも一緒に行くか」と聞いた。
「えっ、あたしたち?」おなつたちは驚いて顔を見回す。
「ああ、とにかく、人が足らねえんだ。手綱(はづな)ぐれえ持てるだんべ」
「草津か、面白そうね。一緒に行こうか」
 行こう行こうという事になり、みんなして草津に行く事に決まった。



 草津の湯も浅間山の山開きと同じく、昨日、開いたばかりだった。草津の冬は雪が深くて住む事ができない。四月八日の薬師(やくし)の縁日から十月八日の薬師の縁日までの半年間、営業して、冬の半年間は草津から下り、冬住みと呼ばれる山麓の村々で生活していた。
 四月八日になると冬住みの村々からゾロゾロと草津に登って行き、湯池(ゆいけ)(湯畑)を見下ろす位置に建つ薬師堂で開湯の儀式をして、それぞれ戸締まりしてある宿屋を開ける。屋根に積もっている雪を降ろしたり、蔵の中から家財道具を引っ張り出したり、お客を迎えるための準備で大忙しだった。
 市太たちが運んで来た荷物は米や塩、炭や薪(たきぎ)など営業に必要な物資。十二頭の馬に積んだ荷物を市太、勘治、惣八、半兵衛、半兵衛の伜、万五郎、そして、おなつ、おなべ、おゆうの八人で引いて来た。
 草津に着いたのは暮六つ(午後六時)近くになっていた。娘たちは温泉に入れるとキャーキャー騒いでいるが、寝不足の上に雪が解けたグチャグチャ道を歩かされ、市太たちはもうクタクタ。どうしてこんな目に会わなくちゃアならねえんだとブツブツ言っている。
 小さな宿屋が建ち並ぶ新田町(しんでんまち)を抜け、立町(たつまち)の坂を下りると湯池(湯畑)のある広小路(ひろこうじ)に出る。硫黄(いおう)の臭(にお)いが鼻をつき、豊富なお湯が薬師堂の石段の脇から湯気を上げて湯池へと流れて行く。広小路を囲むように二階建てや三階建ての立派な宿屋が並んでいる。まだ、旅人の姿はほとんどいない。宿屋の番頭や女衆(おんなし)が忙しそうに走り回っていた。
 湯池の下にある『滝の湯』のすぐ前に建つ湯本安兵衛(やすべえ)の宿屋に荷物を運ぶと、市太たちはようやく解放された。
 半兵衛と伜の万五郎は主の安兵衛と打ち合わせがあると行って帳場に行き、市太たちは馬の世話が終わると滝の湯に飛び込んだ。
 大小様々な湯の滝が十七本もあり、その滝に打たれると、どんな病も治るという。当時は各宿屋に内湯はなく、湯治客は皆、外にある七ケ所の湯小屋に入りに来る。滝の湯、熱の湯、鷲(わし)の湯、綿(わた)の湯、御座(ござ)の湯、地蔵の湯、脚気(かっけ)の湯とあり、滝の湯が一番人気。最盛期には湯治(とうじ)客が順番待ちをしなければ入れないが、今は誰もいない。三人娘は貸し切りだと大喜び、さっさと着物を脱ぎ捨てて、キャーキャー言いながら滝に打たれる。市太、勘治、惣八の三人はそんな元気はない。娘たちが滝を浴びているのを湯船に浸かって、ぼんやりした顔で眺めている。
「ねえ、気持ちいいわよ。あんたたちも打たれなさいよ」滝に腰を打たせながら、おゆうが誘う。
 女は湯文字をつけ、男はふんどしをつけて入るのがここの習わし。日も暮れ、湯小屋の中は薄暗く、湯気に煙ってよく見えないが、娘たちの裸は眩(まぶ)しい程に色っぽい。普段の三人なら何もせずに眺めている事などあり得ないのに、余程、疲れ切っているのか、しょぼくれた顔して湯に浸かっている。
「これが天狗の滝なのね」
「こっちは不動の滝よ」
 娘たちは代わる代わる色々な滝に打たれては騒いでいる。
「なあ、せっかく、あいつらと一緒に草津に来たんだからよう、楽しまなきゃア損だぜ」
 勘治が言うと、「そうだな」と市太も惣八も言うが、体の方が動かない。
「今度はちゃんとしたお客として、奴らを連れて来ようぜ」
「ああ、馬なんか引いて来ねえでよう、馬に乗って来ようぜ」
「そうだな。それがいい。草津は仕事しに来るとこじゃねえ。遊びに来るとこだ」
「なあ、惣八、おなべの奴、痩せギスだと思ってたが、結構、いい乳してるじゃねえか」
 勘治が滝に打たれているおなべを眺めながら言う。
「ああ、着痩せするたちなんだよ。それより、おゆうなんか、ピチピチといい体してるじゃねえか」
「おすわの妹だからな。あの三姉妹(しめえ)はみんな、いい女だぜ」
「おすわは市太がいただき、おゆうはおめえがいただいた。一番下のおまちは俺の番だな」
「おめえ、狙ってんのか」
「もう十五になった。そろそろいいだんべ」
「まあ、好きにしろよ。おなべに見つからねえようにな。それにしても見ろよ。おなつの奴、えれえ白えじゃねえか。まるで、雪の肌ってえ奴だな」
「ああ。こうやって見ると三人とも、いい女だぜ」
「そのいい女を眺めてるだけじゃア能がねえ。俺ア行くよ」
 勘治は立ち上がると娘たちの方に行って、おゆうに抱き着く。キャーと笑って、おゆうは逃げると勘治にお湯を引っ掛ける。
「畜生、俺も行くぜ」と惣八もおなべに飛び掛かって行く。
「まったく、まいったぜ」と市太も立ち上がるとおなつの側に行って滝に腰を打たせた。
「こっちのが強いのよ」とおなつに手を引かれ、二十尺(しゃく)余りもの高さから落ちて来る滝に打たれた。
「おう、こいつア効くぜ」と市太は笑っているおなつを抱き寄せて尻を撫でる。
「やだア」とおなつは市太の顔にお湯を掛ける。
「このアマ」とおなつを捕まえようとするが、市太は滑って転び、頭までびっしょり濡れてしまう。
「畜生、髪が台(でえ)なしじゃねえかよ。許さねえ」
「そんなの結い直せばいいじゃないよ」
 おなつはみんなと一緒に笑っている。
「くそったれが」と市太は元結(もっとい)を切ってザンバラ髪になって、おなつを追いかける。
 さすがに若い者は疲れが取れるのも早い。しばらく湯に浸かっていただけで疲れも取れたのか、市太たちはおなつたちと一緒に騒ぎ始めた。
 その夜は安兵衛の宿屋泊まり。安兵衛の宿は草津で一、二を争う大きな宿屋、壷(つぼ)と呼ばれる部屋が百余りもある。平兵衛(へえべえ)、角右衛門(かくえもん)と共に湯本三家と呼ばれる格式のある宿屋で、内湯を持っているのはその三家だけ。いつもだと馬方連中は狭くて薄暗い部屋に押し込まれるのだが、まだ客もいないし掃除も済んでいないからと湯池を見下ろす上等な部屋に通された。問屋の伜の市太が一緒だったので、安兵衛が気をきかせたのだろう。安兵衛と市太の父、作右衛門は俳諧(はいかい)をひねる仲間だった。
 市太たちは壷に収まると、飯炊き婆さんに飯を頼み、最近できた『桐屋(きりや)』という料理屋から酒と仕出しを頼んで一杯やった。
 草津の宿は自炊するのが建前で、湯治客は皆、壷で自炊をして長期滞在をする。それでも、客に代わって飯を炊くのを専門にする婆さんや水汲みを専門にする女もいるので、金に余裕のある者はそれらに頼む。壷を回って、おかず類を売り歩く者もいるし、料理屋の壷廻り男という者もいて、料理や酒の注文も取りに来る。今の時期はまだいないが、広小路には稲荷(いなり)鮨(ずし)や天麩羅(てんぷら)などの屋台も出て、何かと便利であった。
「今日は御苦労じゃった。お陰で何とか間に合った。ありがとう」
 半兵衛が酒を飲みながら、皆の顔を見回す。市太は勿論の事、勘治も惣八もザンバラ髪で、娘たちも櫛巻(くしまき)が解けて、長い洗い髪を垂らしたままだ。
「それにしても、おめえたち、どこに行っても騒ぎを起こすな。まったく、面倒見きれねえぞ」
 いい気になって滝の湯で騒いだまではよかったが、お湯にのぼせて、おなべがぶっ倒れた。惣八が騒ぎ出して、水はどこだ、医者はどこだと裸で町中を走り回った。何だ何だとやじ馬が集まり、大騒ぎとなってしまったのだった。
「どうも、すみません」とおなべが謝り、惣八が頭を下げる。
「まあ、いい。これからは気をつけろ。明日も忙しいからな、わしと伜は朝一番に馬を引いて帰る。馬は六頭残して行くから、おまえらは馬に乗ってのんびり帰るがいい」
「明日は空馬でいいのか」と市太が不思議そうに聞く。
「ああ、今の時期はまだ湯の花もねえからな。お客を乗せて帰っても構わんが、今の時期、草津から帰るお客もいねえだんべ」
「芸者遊びでもして帰ろうぜ」と勘治がニヤニヤしながら言う。
「芸者遊びだって」とおゆうが勘治の膝を打つ。
「いや、冗談、冗談。おめえたちがいるのに芸者なんかにゃア用はねえ」
「残念だがな、桐屋の者に聞いたら、芸者衆はまだ来てねえそうだ」と半兵衛が笑う。
「とくかく、明日は湯巡りしましょ。まだ、色んなのが一杯あるんでしょ」
「そうね、そうよ」と娘たちははしゃぐ。
「何をしても構わんが、明日のうちには帰って来いよ。おまえたちゃアどうでもいいが、馬たちには仕事が待ってるからな」
「わかってるよ」と市太は神妙にうなづいた。
 この半兵衛、市太から見ればただの使用人の一人に過ぎないのだが、色々と世話になっているので頭が上がらない。うるさい父親には逆らえても、半兵衛には逆らえない。市太が生まれた時から馬方をしていて、今では馬方たちのまとめ役。真面目一方の兄、庄蔵に比べ、騒ぎばかり起こしている市太の肩を持ち、何をしても市太を庇って来たのが半兵衛だった。半兵衛がいなかったら、とっくの昔に村を追い出されていたかもしれなかった。
 飯を食べ終わると半兵衛は、「先に寝るぞ」と伜を連れて隣の部屋に引っ込んだ。
「ねえ、ここんちの内湯に行きましょ」と娘たちは誘うが、市太たちはもう半分寝ている。
「まったく、だらしないんだから」と言いながら、娘たちは内湯に向かった。
 娘たちがキャーキャー騒ぎながら帰って来た時には三人共、大鼾(いびき)をかいて眠りこけていた。

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目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...