2020年4月16日木曜日

天明三年(一七八三)七月五日

 浅間山は相変わらず、黒煙をモクモクと吹き上げ、ゴーゴーと唸っていた。
 市太とおろくが勘治と一緒に村に帰って来たのは、八つ半(午後三時)を過ぎていた。
 もしかしたら、おろくがいなくなったと村中で大騒ぎしているかもしれないと思ったが、その気配はなく、表通りに人影は少なかった。それでも警戒して、市太とおろくは勘治と別れ、隠れながら畑の中を通って、おろくの家まで行った。
 素早く、家に入ると囲炉裏端にいた甚左、甚太夫、三治、おくめの視線が一斉に二人に注がれた。
「おろく、あんた、一体、どこ行ってたのよ、まったく」
 真っ先に口を開いたのは姉のおくめだった。鬼のような顔をして、おろくを責めた。
「あんたのせいで、あたしはえらい目に会ったんだからね、どうしてくれるのよ」
「姉ちゃん、御免なさい」おろくは小さくなって謝る。
「おろくと若ランナらア」と三治が笑いながら近づいて来た。
「叔父さん、御免なさいね」とおろくは三治を捕まえた。
「若ランナはおろくの婿さんになったんらア」
「ちょっと、叔父さんは黙ってよ」おくめが目を吊り上げて言う。「もう、うるさいんだから。ねえ、若旦那も何の真似なの、おろくにはもう二度と近づかないはずなんでしょ」
「おろくを無断で連れ出した事は謝る。とっつぁん、すまなかった」市太は素直に頭を下げる。「おろくを責めねえでくれ。俺が無理やり連れてったんだ」
「この責任はちゃんと取って貰うわよ」
「おめえは黙ってろ」と今度は甚左がおくめに言った。「たった一日(いちんち)、うちの面倒を見たぐれえでグチャグチャ言うんじゃねえ。おろくは毎日(めえんち)やってたんだ」
「何よ。いつも、おろくの肩ばかり持つんだから。もういい。あたしは仕事に戻るわよ。これから忙しくなるんだから」
 おくめは膨れっ面で、市太とおろくに、フンと鼻を鳴らして出て行った。
「お山が毎日、騒いでんのに旅籠(はたご)にお客なんているのかい」と甚太夫がボソッと言った。
「どこに行ってたんだ」と甚左が静かな声で聞いた。
「草津です」と市太が答えた。
「草津か‥‥‥わしはおろくを草津にも連れてってやれなかった。親として情けねえな」
「父ちゃん、そんな事ないよ」とおろくが一歩、父親の方に踏み出した。
「おめえが突然、いなくなって心配(しんぺえ)したぞ。松が捜し回ったがどこにもいねえ。若旦那もいねえとわかって、一緒にどこかに行ったに違えねえと確信した。二人で駈け落ちして、もう帰って来ねえかもしれねえと思ったが、おめえの事だ。きっと戻って来ると、ずっと待ってたんだ」
「それじゃア、とっつぁん、村の者はまだ何も知らねえんだな」
「ああ、知らねえ」
「すまねえ。ここで騒ぎになりゃア、また面倒になる。もっとも、その覚悟をして、おろくを連れ出したんだが」
「覚悟だと? 若旦那の覚悟ってえのを聞かしてもらえねえか」
「勘当(かんどう)さ。騒ぎになりゃア、当然、勘当になる。勘当になっても俺と一緒になるかって聞いたら、おろくはうなづいてくれた。俺はどんな事になっても、おろくと一緒になるって決めたんだ」
「そうか‥‥‥」
「とっつぁん、俺とおろくが一緒になるのを許してくれねえか」
 甚左は囲炉裏の火を見つめたまま、何も言わなかった。
「父ちゃん‥‥‥」とおろくが泣きそうな声で言った。
「俺は諦めねえ」と市太は独り言のように呟いた。
「叔父さん」と甚太夫が手招きすると、おろくの側にいた三治は素直に囲炉裏端へ行って、おとなしく座り込む。
 甚左がゆっくりと顔を上げて市太を見た。「おろくと一緒になって、どうするつもりなんだ。勘当されたら食っても行けめえ」
「そいつを考えるために草津に行ったんだ。二人で色々考えた。茶屋をやろうかとも思ったが、おろくはおっ母の面倒を見なくちゃならねえから難しい。俺が天麩羅(てんぷら)や鮨(すし)の屋台をやろうとも思った。しかし、それで食って行くとなると評判になるような、うめえ物(もん)を売らなきゃならねえ。そうなると時がいる。そこで貸本屋をやろうと思うんだ」
「貸本屋だと。この村でそんなもんをやって食ってげるのかい」
「わからねえ。ただ、村の者はほとんど字が読める。面白え本を仕入れりゃア何とかなるんじゃねえだんべえか」
「貸本屋か‥‥‥わしにゃアよくわからねえな」
「貸本屋は大笹にもまだねえ。本をかついで大笹まで行ったっていい。近所の村を回りゃア、結構、稼げると思うんだが」
「若旦那が本をかついで回るのかい」
「そのつもりだ」
「ふーん」と言った後、甚左はおろくに目を移した。
「おろく、おめえの気持ちはどうなんだ」
 おろくは涙を拭いて、市太を見た。
 市太は力強くうなづいた。
 おろくもうなづいて父親を見ると、「あたし、あたしは市太さんに付いてきます」と必死になって言った。
「ほう」と甚左は細い目を見開いて驚いた。「市太さんに付いてきますか。おめえがそれだけはっきりと物を言うのも珍しいな」
「あたしも覚悟を決めたんです」
「そうか、おめえが覚悟を決めたか‥‥‥若旦那と会って、おめえは変わったな。強え女になった」
「そんな事‥‥‥」
「わかった。おめえたちが覚悟を決めたんじゃ、わしも腹をくくらなけりゃならねえな」
「それじゃア、とっつぁん、許してくれるのかい」
「許すも許さねえもねえだんべえ。許さなかったら、ほんとに駈け落ちしちまう。そんな事になったら、それこそ、問屋の旦那に顔向けができねえ」
「父ちゃん、ありがとう」おろくの目からまた涙がこぼれた。
「とっつぁん、すまねえ」と市太は心からお礼を言った。
 市太の心を見透かしたように、「礼にはおよばねえよ」と甚左は言った。「これから、若旦那の覚悟ってえのをしっかりと見せてもらう。口先だけだったら、おろくは絶対にやれねえ」
「任しておきねえ。さっそく、親父と掛け合って来る」
 市太はおろくにうなづくと出て行った。「やったぜ!」と大声で叫びたい心境だった。
 家に帰ると父親は留守だった。村役人の集まりに行ったという。祖父の離れに行くと市左衛門はいた。いつものように難しそうな本を読んでいた。
 市太は縁側に座ると、「爺ちゃん、今日の祈祷は終わったのかい」と声を掛けた。
 祖父は本から顔を上げて市太を見る。「ああ、ついさっき終わった所じゃよ」
「信者の数は増えて来てるのかい」
「ああ。毎日、少しづつ増えて来てるな」
「いつになったら、お山は静かになるんだ」
「そいつは誰にもわからん。ただ、じっと祈るだけじゃ」
「ふーん。ねえ、爺ちゃん、前に言ったんべ。おめえは何がやりてえんだって。やっと、やりてえ事が見つかったよ」
「ほう、そうか」と祖父は嬉しそうに笑った。「それで、何をやるつもりじゃ」
「貸本屋なんて、どうだんべえ」
「貸本屋か」と祖父は顎髭(あごひげ)を撫でていたが、「うむ」とうなづいた。
「貸本屋とは面白えとこに目をつけたな。この村でやれるかどうかわからんが、おまえがやりてえと思ったんならやってみるがいい」
「爺ちゃん、そこで頼みなんだけど、爺ちゃんが集めた本で、村の者たちが読みそうな奴を譲ってくれねえか」
「そんなのは構わんよ。死んだら、みんな、おまえに残すつもりだったんじゃからな」
「さすが、爺ちゃん、物わかりがいいねえ」
「しかし、おまえ、どこで、その貸本屋をやるつもりなんじゃ」
「武蔵屋の前の荒れ地なんかどうだんべ。あそこはうちの土地だんべ」
「武蔵屋の前か‥‥‥」と祖父は喜んでいる市太の顔をじっと見つめた。「おまえに聞きたいんじゃが、甚太夫の妹とはちゃんと別れたのか」
「いや、貸本屋はおろくと一緒にやるんだ」
「本気なんじゃな」と祖父は真顔で聞いた。
 市太も真顔でうなづいた。「爺ちゃんも反対なのかい。俺がおろくと一緒になるのに」
「わしとしては反対はせんがのう、村の掟が許さんじゃろう」
「例えば、おろくをお頭の養女にしてもダメなのかい」
「なに、杢兵衛の養女にするのか」
「例えばさ」
「うむ。侍(さむらい)の世界ではよくある事じゃな。町家(ちょうか)の娘を嫁に貰う時、侍の養女にしてから嫁がせるというのは。じゃが、この村では試しがない」
「俺たちが先例になる」
「うーむ」と祖父は顎髭を撫でる。
「おろくの親父は俺たちの事を許してくれた。後はうちの親父が許してくれればいいんだ。爺ちゃん、味方になってくれよ。頼む」
「うーむ。わしとしては問題ないとは思うが、掟に関する事は村役人たちが決める事じゃからのう。わしにはどうする事もできん」
「村役人たちが決めるのか‥‥‥」
「そうじゃ。まあ、貸本屋の方はわしも手を貸そう。やってみるがいい」
 暮六つ、夕飯の支度をしている時、轟音と共に大揺れが起こった。村の北外れの治郎左の家から出火して、隣の与七の家も全焼してしまった。市太も若衆組の者たちと一緒に、大揺れが続いて砂や石が降る中、消火活動を行なった。風がそれほど強くなかったので、何とか二軒だけでくい止める事ができた。怪我人はなく、家を失った二家族はとりあえず、観音堂裏の若衆小屋に移る事になった。
 今回の浅間焼けは物凄かった。大揺れはいつになってもやまない。浅間山の黒煙は凄い勢いで天高く昇り、絶えず稲光を発している。まるで、花火のように火が空に飛び散って、火口辺りは真っ赤に燃えていた。
 市太の家族は土蔵の中に避難した。土蔵のないおろくの家族が心配になり、市太は飛んで行った。
 おろくたちは綿入れの頭巾を被って、土間に固まっていた。馬屋の中では馬が気違いのように暴れている。家はミシミシきしみ、今にも崩れそうだ。市太もおろくたちと一緒に土間に座り込んで、揺れが治まるのをじっと待った。あまりの恐ろしさで皆、言葉も出ない。真っ暗の中、じっとうずくまっていた。
「とっつぁん、ここは危ねえ。うちの蔵に行くべえ」と市太は言った。
「そいつはダメだ。そいつはできねえ」と甚左は首を振る。
「つまらねえ意地なんか張ってる時じゃねえ。うちに潰されて死んだら元も子もねえ」
「ダメだ。病人もいるし、そんな事はできねえ」
「俺と松で戸板を運ぶ。おろくが兄貴と三治の手を引いて行きゃア何とかなる」
「市太さん、これを」とおろくが綿入れの頭巾をくれた。
「なに、俺はいい。おめえが被ってろ」
「いいえ、それは市太さんのです。あたしがみんなの分を縫いました」
「そいつはすまねえ」と市太は頭巾を被る。「こいつがありゃア、少しぐれえの石は大丈夫だ。行くぞ!」
 市太たちは石や砂が降る中を飛び出した。外は真っ暗だったが、稲光に照らされて、時々、明るくなった。地面がグラグラ揺れ、足元もおぼつかない。お互いに掛け声を掛けながら、やっとの思いで市太の家にたどり着いた。土蔵の戸は開いたままで、兄の庄蔵が顔を出していた。
「兄貴、病人なんだ、頼む」と市太は叫んだ。
「おい、早く入れ」
 蔵の中には巴屋の家族も避難していた。
「おろくさん、大丈夫」とおかよが、おろくの母親を心配した。
「ええ、大丈夫みたい」
「世話かけちゃって、ほんとにどうも申し訳ねえ」甚左がしきりに恐縮した。
「なに、気にする事はない。この非常時だ。蔵持ちが蔵のない者を助けるのは当然の事だ」
 暗闇の中から市太の父親の声が聞こえた。
 お山の大焼けは果てしなく続いた。このまま、この世が終わってしまうのかと思うほど長く続いた。たとえようもない物凄い音は鳴り続け、その度に昼間のような強い光を発した。村が埋まってしまうのかと思うほど砂は降り続け、地が裂けてしまうのかと思うほど揺れは続いた。皆、恐怖に脅えながら、暗闇の中にじっとうずくまっているより、なすすべはなかった。

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目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...