2020年4月1日水曜日

天明三年(一七八三)六月六日

 大笹(おおざさ)宿(じゅく)の市は一と六の日に開かれる六斎市(ろくさいいち)で、穀物、お茶、炭、薪(たきぎ)、煙草(たばこ)、木綿、真綿などの取引が行なわれ、近在は勿論の事、信州からも商人たちが訪れて来て賑わっていた。善光寺と草津温泉を結ぶ街道が通り、旅人の往来も激しい。宿場の西側に関所があり、特に女人(にょにん)の通行を取り締まっていた。ここの関所番を務めているのが鎌原村に住む鎌原様だった。
 元沼田藩士だった鎌原氏、西窪(さいくぼ)氏、栃原(とちはら)氏、横谷(よこや)氏の四人が二人づつ一月交替で務めている。皆、身分は武士で、西窪氏は西窪村に、栃原氏は赤羽根村(三原)に、横谷氏は横谷村(松谷)に住んでいる。今月は横谷氏と栃原氏が関所番に当たり、鎌原氏と西窪氏はそれぞれの村に帰っていた。
 おなつと仲直りした市太は鉄蔵とおかよ、惣八とおなべ、妹のおさやと隣の枡屋の娘、おみや、それに、おさやとおみやに気がある安治と仙之助を連れて大笹の市に出掛けた。
 大笹には市太たちの喧嘩相手の藤次がいる。市日には仲間を引き連れ、宿場の警固に当たっているに違いない。今月の二十一日には市祭りがあり、村芝居が上演される。それを見るためには、何としても藤次と休戦しなければならない。市太は従妹(いとこ)である黒長の娘、おみのを利用しようと考えた。
 宿場外れまで来た市太らは、安治、仙之助、おさや、おみやを先に送り、おみのを呼んで来てもらう事にした。女だてらに馬方をやっているので留守なら諦めなければならない。家にいてくれと願いながら待っていると、四半時(しはんとき)(三十分)程して、おみのは一人でやって来た。いつものように、首に手拭いを巻き、丈(たけ)の短い筒袖(つつそで)に印半纏(しるしばんてん)を着ている。
「よう、市太兄い、しばらくだね」とニッコリ笑う。
「ほう‥‥‥」と鉄蔵は驚いたようにおみのを見つめる。美しい顔付きと男勝りの身なりがあまりにも不釣り合いだった。絵になると思ったのか、じっと見つめている。
 市太は鉄蔵をおみのに紹介した。
「へえ、お江戸の絵画きさんなの」
「おめえも描いてもらやアいい。なかなかの凄腕(すごうで)だ」
「あたしなんか描いたってしょうがないさ。話は聞いたよ。藤次の事なら任せておきな」
「頼むぜ。祭りが終わるまでは、奴と騒ぎを起こしたくねえ」
「それはこっちの台詞(せりふ)さ」
 おみのと一緒に市太らは宿場に入った。
 市太たちが村外れにいるのを知っていたのか、藤次はすぐに現れ、言い掛かりをつけて来た。六尺棒を持った仲間を十人も従え、市太たちを取り囲む。
「おい、覚悟はできてんだんべえな」と藤次は市太の正面に仁王立ちしてニヤニヤ笑う。
「よく来やがった。たっぷりと歓迎してやるぜ」とドスのきいた声で言ってから、おみのに向かって、「お嬢さん、すまねえが、ちっとばかり、目をつぶっていてくだせえ」と声も態度も改めて言う。
「そうは行かないんだよ」とおみのは市太と藤次の間に割って入る。「あたしの顔を立てて、手を引いておくれ。いいかい、祭りが終わるまでは、お互いに手出しはなしだよ」
「何だって? そいつはできねえ。いくら、お嬢さんの頼みでも、奴らを許すわけにゃアいかねえんだ」
「許せと言ってんじゃないよ。祭りが終わるまで、あたしに喧嘩を預けなって言ってんだ。祭りが終わったら気が済むまでやるがいいさ」
「しかしなア」
「しかしじゃないよ。あたしの顔じゃア不足だってえのかい」
「そうじゃねえけど」
「あんたも男だろ。ここはきっぱり、男らしく手を打ったらどうだい」
「畜生、わかったよ。ここんとこはお嬢さんの顔を立てらア。おい、市太、祭りが終わるまでだぞ。あんまり、でけえ面をすんじゃねえぜ」
 藤次は市太を睨むと引き上げて行った。
「さすがだねえ」とおなつが感心する。
「すまねえな」と市太は頭を下げる。
「この貸しは後でちゃんと返してもらうさ」
「おう。たっぷりと返してやるよ」
 おさやたちは茶屋で休んでいた。安治も仙之助も思いもかけず、好きな女と一緒に大笹まで来られたので浮き浮きしている。市太たちも一休みしてから、賑やかな市を見て回った。鉄蔵はさっそく手帳を広げて絵を描き始める。市太たちには珍しくもない情景も鉄蔵の興味を引くらしい。素早く、何枚も何枚も絵を描き続けた。
 宿場を一回りした後、一行はおみのの家に行った。おみのの父、黒岩長左衛門は大笹村の名主(なぬし)であり、問屋を務め、造り酒屋もやっている。大戸(おおど)の加部(かべ)安左衛門、干俣(ほしまた)の干川小兵衛と共に、吾妻郡の三分限者(ぶげんしゃ)と呼ばれる金持ちだった。長左衛門は風流人で俳諧(はいかい)や狂歌を嗜(たしな)み、江戸の文人たちとの交際もあった。有名な浮世絵師、勝川春章の弟子である鉄蔵は大歓迎された。
「ほう、吉原で出会ったのか。わしも以前、行った事があるが、あそこはまさしく、夢の国じゃな」
「へえ、父ちゃんも吉原で遊んだんだ」とおみのが横目で睨む。
「いや、遊んだわけじゃない。見物しただけじゃよ。あんなとこで遊んだら田舎者は恥をかくだけじゃ」
「ほんとはたっぷりと恥をかいて来たんでしょ」
「何を言うか」
 さすがの長左衛門もおみのにはかなわない。
 鉄蔵の江戸話を肴(さかな)に長左衛門が造った酒を御馳走になり、つい長居をしてしまった。たまには泊まって行けという言葉に甘え、みんなでお世話になる事にした。
 その晩、市太は藤次に呼ばれた。一人で来いと言う。何を企んでいるのかわからないが、手打ちの後、騒ぎは起こすまいと誰にも言わずに出掛けて行った。指定された煮売茶屋に行くと藤次は一人で酒を飲んでいた。
 市太の顔を見ると、「一人か」と聞いて来た。
 市太は警戒しながらうなづく。
「まだ、手打ちの盃(さかずき)をしてなかったからな」と藤次は笑った。
「それで、わざわざ呼んだのか」
「まあ、たまにはいいじゃねえか。こんな時じゃねえと話もできねえ」
「何の話だ」
「まあ座れ」
 市太は座敷に上がって、藤次の前に座り込む。客は隅の方に一組いるだけだった。
「おめえたア何度もやり合って来たが、お嬢さんの言う通り、そろそろ、ほんとの手打ちをしようと思ってな」
「ほう」と言いながら、市太は意外な事を言った藤次の顔を見つめた。何かを企んでいるのかと思ったが、そうでもないらしい。
「祭りの後の喧嘩もやめって事かい」と市太は聞いた。
「そういう事だ。ガキじゃアあるめえし、いつまでも喧嘩してる事もあるめえ」
「まあ、そうだ。喧嘩じゃア解決しねえからな。お互え痛え思いをするだけだ」
「ああ。隣同士でいがみ合ってても、何の得にもなりゃアしねえ」
「ほう、急に物分かりがよくなったじゃねえか」
「そうじゃねえ。今まで話し合う機会(きけえ)がなかっただけだ」
「そうだな。面を突き合わせりゃア、口より手の方が先だったからな」
「どうだ。ほんまもんの手打ちと行こうぜ。そっちだって芝居(しべえ)の稽古が忙しい時期だんべ。つまらねえ怪我したら芝居に出られなくなる」
「だがよう、若え者を押さえられるのかい」
「大丈夫(でえじょぶ)だ。そっちはどうなんだ」
「こっちも大丈夫だ」
「よし、こっちの祭りが終わった後、みんなを集めて、改めて手打ちをやるとして、とりあえずは俺たちの手打ちと行こう」
 市太と藤次は盃を酌み交わした。
「いがみの権太をやるらしいな。楽しみにしてるぜ」
「おめえこそ、松王丸だんべ。楽しみだぜ」
 お互いに芝居好き、芝居の話を始めたらきりがない。自然と打ち解け、盃も弾む。市太が鎌原路考の自慢をすれば、大笹にだって路考はいると藤次も負けない。
「路考と言えばよう、おみのの奴だけど、あいつは嫁に行く気はねえのか。いつまでも、あんな格好して馬方してるわけにも行くめえ」
 市太が言うと、藤次もうなづく。
「勿体ねえこった。あれだけのいい女、村の男衆(おとこし)はみんな惚れてんのさ。だが、相手は名主のお嬢さんだ。どうせ、どこか遠くの村に嫁に行っちまうんだんべって諦めてるんさ。遠くに行っちまうくれえなら、今のままでいいから、ずっと村にいてくれって願ってんだ」
「それにしたって、もう十九だぜ。本人は嫁に行く気はまったくねえのか」
「嫁入り話はいくつもあるようだが、今んとこ、みんな断ってるそうだ」
「そうか‥‥‥おめえはどうなんでえ」
「何が?」
「おめえはおみのをどう思ってんでえ」
「俺なんか関係ねえや。身分違えさ」
「へっ、身分なんかどうでもいいや。おめえの気持ちが知りてえんだよ」
「俺の気持ちを聞いてどうすんでえ。俺を笑え者にするつもりか」
「そうじゃねえ。おみののあのなりを見てみろ。身分なんかを気にする玉じゃアねえぜ」
「そりゃそうかもしれねえけど‥‥‥」
「俺は最近、家柄だの身分だのってえのに無性に腹を立ててんだ。おめえもおゆうを知ってるだんべ。おゆうが勘治と別れて、草津に働きに出ちまったんだ」
「あのおゆうが草津に行ったのか」
「そうさ。勘治の奴は諦めちゃアいねえ。おゆうを嫁に貰うつもりでいる。大人たちが何を言おうとよう、俺たちで身分なんてもんをなくしちまおうじゃねえか。二本差し(侍)はしょうがねえが、俺たちゃア同じ百姓身分だ。上も下もねえ。好き同士なら一緒になって当然だんべ」
「まあ、そうだがよ」
「なあ、おめえ、おみのが好きなんだんべ。おめえの態度を見てりゃアわかる。好きなら好きで態度で示してみろよ。おみのみてえなジャジャ馬を扱えるのは俺が見たとこ、おめえしかいねえ。思い切って、おみのに言ってみろ。案外、うまく行くかもしれねえ」
「何を言ってやがんでえ。突拍子もねえ」
「何もしねえで諦めるなんざ、おめえらしくねえぜ」
「そんな事言ったってよう‥‥‥」
「おみのの気持ち次第(しでえ)だがな、見込みがあるようなら力になるぜ。ジャジャ馬に蹴られる覚悟を決めて、ぶち当たってみるこった」
 藤次は悩んでいた。いつもの突っ張りが消えて、弱々しくさえ見えた。
「うまくやれよ」と言って市太は別れた。

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目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...