2020年3月31日火曜日

天明三年(一七八三)六月一日

 今日は山の口開け、山の草刈りが解禁となる。二百頭もの馬を飼っている鎌原村では、馬草(まぐさ)刈りは重要な仕事。浅間山も静まり、皆、夜明け前から草刈りに出掛けて行った。
 江戸から帰って三日間は、真面目に稼業を手伝っていた市太も仕事に飽きて、いつものように観音堂裏の若衆小屋でゴロゴロしている。
 市太と勘治が勝手に江戸に行ってしまい、いがみの権太と渡海屋のおとくの役は他の者に代えろという意見が出たらしい。若衆頭の杢兵衛が二人を庇い、帰って来てから演技を見て、ダメだったら替えようという事になった。江戸から帰って来たその晩に市太、草津に行ってしまった勘治は次の晩に、それぞれ演技を披露して無事に合格点を貰った。暇を持て余していた二人は、この小屋でたっぷり稽古を積んでいたのだった。
 おろくの父親が怪我をしてから、市太は毎晩のように見舞いに行って、おろくと会っていた。舞台の上の自分を見せたくて、稽古を見に来いと誘うのだが、忙しいのか一度も来ない。それでも、市太は気長に構えて、何としても、おろくをものにしようと考えている。
 市太がおろくと会っている事を知って、おなつは怒り、若衆小屋にも顔を出さなくなった。勘治はすっかり真面目になって、市太たちとは遊ばない。最近、若衆小屋に集まって来るのは惣八、安治、丑之助、そして、時々、鉄蔵が顔を見せるくらいだ。惣八とおなべの仲は続いているらしいが、おなつが来ないので、おなべも一人では来なかった。
「おい、市太、おめえ、おろくに夢中になってるようだけど、あんな女のどこがいいんでえ」と惣八が市太の江戸土産、北尾重政(しげまさ)の艶本(えほん)(春本)を眺めながら不思議そうに聞く。
「いい女だんべが」と横になって、おろくの事を考えていた市太は言う。
「まあ、いい女には違えねえけどよ、面白くも何ともねえ女だぜ。一緒に遊ぶっちゅう女じゃねえや。まさか、おめえ、嫁にするつもりなのか」
「馬鹿野郎、勘治じゃあるめえし、そんな事ア考えた事もねえよ」
「ただ、一発やりてえだけか」
「まあな。あのすました顔で、どんなよがり声をあげるのか見てみてえのよ」
「それなら簡単じゃねえか。どこかで待ち伏せでもして、やっちまえばいい」
「そうもいかねえ。なかなか、うちから出ねえからな。まず、何とかして、うちから出さなくちゃアならねえ」
「へっ、気の長え話だ」
「それより、おめえは何を企んでるんでえ」
「なアに、俺もちょっと一発やりてえのがいてな」
 惣八は艶本から顔を上げるとニヤリと笑う。「見てるだけでゾクゾクッと来るんだ」
「ほう。おなべはもう飽きたのかい」
「そうじゃねえけどよ。たまにはな‥‥‥実を言うと俺ア諦めてたんさ。丑の奴が他人(ひと)の嚊(かかあ)に惚れやがって、何とかしてやるべえと考えてるうちに俺もやってやろうと思ったんだ」
「何だ、おめえ、他人の嚊を狙ってんのか。誰なんでえ、一体(いってえ)」
「おい、安、誰にもしゃべるなよ。いいな」
「わかってるよ」と平賀源内が書いた『風流(ふうりゅう)志道軒伝(しどうけんでん)』を読んでいた安治は顔も上げずにうなづく。
「実はな」と惣八は回りを見回してから小声で言った。「おまんなんだ」
「何だと。あの馬医者野郎の嚊のおまんか」市太はびっくりして起き上がり、惣八の顔をじっと見つめる。
 惣八は真面目な顔してうなづく。
「確かに、おまんは八兵衛にゃア勿体(もってえ)ねえ、いい女だがよ、間男(まおとこ)がばれりゃア、とんだ事になるぜ」
「勿論、慎重にやらなきゃならねえ。だが、あそこんちはガキもいねえし、親もいねえ。八兵衛が出掛けちまえば何とかなりそうだ」
「そうかもしれねえがよ、気を付けろよ。おまんはお頭の妹なんだぜ」
「そんなのわかってらア。八兵衛は小道具の担当だからな、俺も手伝うって事になったんだ。ちょくちょく出入りしてりゃア、いつかはうまく行くぜ」
「おめえだって、気の長え事を言ってるじゃねえか」
「目的を達成するにゃア焦(あせ)りは禁物よ。少しづつ外堀から埋めてかなきゃアならねえ」
「なに、生意気(なめえき)な事を言ってやがる」
「先生の受け売りさ。なあ、市太、どっちが先にものにするか賭けるか」
「いいとも、何を賭ける」
「そうさなア」
「おい、賭けるんはいいがよう、ものにしたってえ証拠はどうすんでえ。口先だけじゃア信じられねえぜ」
「証拠か。確かにそいつア難しいや。まさか、見てる前(めえ)でやるわけにゃアいかねえしな」
「ここに連れ込みゃアいいんじゃねえのか」と安治が口を挟む。「前もって俺たちに知らせりゃア、とっくりと見届けてやるよ」
「何だと、おめえたちの前でやれってえのか」
「ちゃんと隠れてるさ。その後、念仏講(ねんぶつこう)(輪姦(りんかん))ってえのも洒落(しゃれ)てるな」
「おう、そいつは面白え」といつの間にか、惣八が見ていた艶本を横取りして眺めていた丑之助もニヤニヤする。「おろくにおまんか‥‥‥こいつア楽しみだ」
「冗談じゃねえ。おろくを念仏講なんかさせられるか」市太はつい本気になって怒る。
「あれえ、市太、本気で惚れたんじゃあるめえ」
「本気じゃねえさ。本気じゃねえけど‥‥‥おめえはどうなんだ。おまんを廻しても構わねえのか」
「ああ、構わねえよ。どうせ、人様の嚊だ」
「決まったな」と安治は手を打つ。「後は何を賭けるかだ」
「おめえはそいつを賭けろ」と惣八は市太の腰に下げた煙草入れを指さす。
「こいつア江戸で買って来たばっかだ」
「勝ち目がねえならやめるか」
「そんな事アねえ。畜生、気に入ってんだが、いいだんべえ。おめえは何にする」
「俺アおめえが前(めえ)から欲しがってた、あの匕首(あいくち)だ」
「おう、それなら、いいだんべ」
「よし決まった。俺たちが請人(うけにん)だ。二人とも、まあ、頑張ってくれ」
「それじゃア、さっそく、俺ア外堀を埋めに出掛けるぜ」
 惣八が得意になって出て行こうとすると、丑之助が引き留めた。
「ちょっと、俺の方はどうしたらいいんでえ」
「おめえの方は難しいわ。二歳のガキはいるし、おっ母もいる。おまけに従弟(いとこ)夫婦まで同居してりゃア、どうにもなんねえ。根気よく、おしめが一人で出掛けるのを待ち伏せするしかねえぜ。かと言って、通りをウロウロしてる訳にもいかねえしな。難しいよ」
「そんな‥‥‥俺アどうしたらいいんでえ」
「おめえは諦めろ。その方がいい」と市太も言って、二人は小屋から出て行った。
「なあ、安、いい考(かんげ)えはねえのかよ」と艶本の中の男女のからみを羨ましそうに眺めながら丑之助が言う。
「難しいよ。諦めな」安治は本を読んでいて相手にしない。
「おめえも冷てえな。そういう奴だったのかよ」
「わかったよ。何かいい筋書きを考えてやらア」
 安治が丑之助に恋の手ほどきをしている頃、市太はおろくの家にいた。まだ歩く事もできない甚左は、市太が毎日、見舞いに来るので恐縮している。おろくは嬉しそうに市太を迎えるが、共通した話題もなく、話は弾まない。今晩、芝居の稽古があるから必ず来てくれと言って別れた。
 芝居の舞台は諏訪明神の森の中にあった。初めの頃は神楽(かぐら)の舞台でやっていたが、市太の祖父、市左衛門が若衆頭をやった時、芝居専用の舞台を作る事になった。もう四十年も前の事で、どこの村にも芝居専用の舞台などなかった。やがて、周りの村々がこの舞台を真似して作り、村芝居も広まって行く。鎌原の村芝居はこの辺りでは一番古く、伝統ある行事になっていた。七月二十五日のお諏訪様の祭りには近在の村々から芝居を見るために続々と人が集まって来た。
 まだ、大道具も小道具もなく、衣装もない。しかし、下座(げざ)音楽に合わせての稽古は始まっていた。今日の稽古は三幕目の『大物浦(だいもつのうら)の場』で市太の出番はない。市太の兄、庄蔵が義経を演じ、お頭の杢兵衛が知盛(とももり)を演じている。鎌原路考(ろこう)の権右衛門が安徳帝(あんとくてい)の乳母(うば)、典侍(すけ)の局(つぼね)を演じ、安徳帝は名主、儀右衛門(ぎえもん)の次男、直吉が演じている。直吉の母親、おさよは干俣(ほしまた)村の名主、干川(ほしかわ)小兵衛(こへえ)の娘で、子供以上に張り切っている。干小(ぼしこ)の旦那と言えば、この辺りでは有名な金持ち、孫が舞台で活躍すれば、酒の一斗(と)や二斗は届くだろうと若衆組では大いに期待している。そして、安徳帝に仕える女官(にょかん)、おとくの役で勘治も出ている。真面目くさった顔して、勘治がおとくを演じるのを眺めながら、芝居の筋書きを教えてやろうと思ったのに、おろくはついに来なかった。
「さすがの若旦那も振られたようだね」とおなつが寄って来て、笑いながら言う。
「うるせえ」
「所詮(しょせん)、住む世界が違うんだよ。諦めな。もし、うまく行ったとしたってさ、おろくはあんたと遊ぶ時間なんかないんだよ。寝たきりのおっ母さんに、気違い三治の面倒を誰が見るんだい。それに、あんた、おろくと会って何の話をしてるのさ。馬鹿話が通じる相手じゃないし、芝居の事だって知りもしないだろ。兄貴は義太夫のお師匠だけど、おろくは三味線なんか弾けないだろ。イカサマ博奕で銭を巻き上げた話でもするのかい。大笹の奴らと大喧嘩した話でもするのかい。それとも、追分にいる馴染みの女郎の事を話すのかい。江戸の吉原の話もあったっけねえ。二人で何を話してるんだか、見てみたいもんだよ」
「うるせえってえんだよ」
「それにさ、おゆうと勘治と同じで、あんたとおろくは家柄が違うんだよ。勘治は親を説得して、おゆうを嫁に貰うって稼業に励んでるけど、どうなるかわかったもんじゃない。今までに家柄が違う者が一緒になった試しなんかないのさ。勘治の親だって、いざとなりゃア反対するに決まってる。勘治がおゆうの事を自然に忘れる事を願ってんだよ。おろくなんか忘れなよ。どうにもならないんだからさ」
「くそっ、何が家柄だ。馬鹿馬鹿しい」
「そう思うのはあんたの家柄がいいからさ。身分の低い者はただ諦めるしかないんだよ。おゆうのようにね。あんたがおろくに近づけば近づく程、おろくは悩む事になるんだよ。今のうちに手を引いた方がいいよ。お互いのためにね」
「うるせえ」と市太は怒鳴ったが、おろくの事は諦めて、その夜、おなつとよりを戻した。

2020年3月30日月曜日

天明三年(一七八三)五月二十七日

 そのまま治まるかに見えた浅間の噴火は、次の日の夕方七つ(午後四時)頃、またもや、大音響と共に大揺れした。その時、市太は珍しく、家の仕事を手伝っていた。半兵衛と一緒に明日、運ぶ荷物の荷造りをしていた。
「くそっ、延命寺の御祈祷(ごきとう)も効かねえのか」と半兵衛が積んである荷物を押さえながら、浅間山を見上げた。
 昨日の大爆発ほどではないが、煙の量は増えている。
「若旦那が柄にもねえ事をしたから、お山の鬼が騒ぎ出したか」半兵衛は市太を見ながら苦笑した。
「よしてくれよ」
「冗談じゃ。それにしても、昨日のような怪我人が出なけりゃいいがな」
 家の中から兄の庄蔵と叔父の弥左衛門も飛び出して来て、浅間山を見上げた。
「まったく、いつまで続くんだ」
「そいつがわかりゃア世話はねえ」
 大揺れは一度だけだった。地鳴りは続き、灰が降って来た。仕事が終わると市太は手拭いで頬被りして、おろくの家に向かった。父親の見舞いを口実に、おなつにやろうと買って来た江戸土産の銀の簪(かんざし)をおろくにやろうと、いそいそと出掛けて行った。
 おろくの家の前に来た時、ふと三治の姿が目に入った。村の外れ、おすわが嫁いだ源七の家の前辺りに一人で立っている。気になって側まで行ってみると、何と用水の中に小便をしていた。山から引いた用水は村人にとって井戸水と同じ、そんな所に小便をされたらたまらない。市太は慌てて、三治を捕まえた。
 三治は平気な顔して小便をしている。市太は三治の向きを変えた。長小便を終えると市太を見て、「ハハ、若ランナらア」と指をさした。
 どうやら、市太の事はわかるらしいが、馬のような一物(いちもつ)をふんどしから出したまま、しまおうともしない。
「まったく、世話の焼ける野郎だぜ。おろくも可哀想なこった」
 見ている方が恥ずかしくなるので、三治の着物の裾(すそ)を合わせて、一物を隠す。
「お山の鬼が怒ってなア、鹿の母ちゃんが泣いてらア、ハハハ」
 市太は訳のわからない事を言っている三治を引っ張って、家に連れ帰った。おろくは夕飯の支度をしていた。三治が出歩いていたのを知らなかったらしい。市太が連れて来てくれた事に恐縮して、何度も謝った。
 父親は昨日のように囲炉裏端にはいなかった。部屋の方で寝ているという。甚太夫と松五郎の姿も見えない。市太は父親の具合を聞いてから、江戸土産だとそっけなく言って、おろくに簪を渡すと家を出た。おろくが三治を押さえて、後を追って来た。
「こんな高価な物、あたし、いただけません」
「ただの土産だ。気にすんな」
「でも‥‥‥」
「みんなの世話ばかりしてねえで、たまには自分の事も考(かんげ)えろよ」
「でも‥‥‥」
 市太はおろくの手から簪を取るとおろくの髪に差してやった。
「似合うぜ」
 おろくは恥ずかしそうに頭を下げた。
「それじゃアな」
 おろくと別れた市太は鉄蔵のいる幸助の家に向かった。昨日、観音堂で別れて以来、ほったらかしだった。もっとも、飽きもせずに絵を描いてばかりいるので世話はないが、連れて来た客人を放ってばかりもいられない。また、浅間山を描きに行って、いないかもしれないと思いながら声を掛けると幸助の妹、おはつが出て来て、鉄蔵はいるという。
 部屋中に紙クズを散らかして、鉄蔵は絵を描いていた。浅間山を描いているのかと覗くと、なんと美人絵を描いている。
「あれ、兄貴、誰です。そいつア村の娘ですか」
「おう、村の娘だ。誰だかわかるかい」
「誰と言われてもなア。難しいや」
「ちょっと待て」と鉄蔵は失敗して丸めた紙切れを拾っては広げて、「違う。あれ、どこに行っちまったんだ」と言いながら、何かを捜している。
「あった。こいつだ」と広げて見せた絵は同じ美人絵だったが背景も描いてあった。
「こいつアお茶屋ですね。お茶屋といやア、わかった。巴屋(ともえや)の看板娘のおかよだな」
「おかよってえのか。いい名だ」と鉄蔵は自分で描いた絵を眺めながらうなづく。「昨日も今日も巴屋で昼飯を食ったんだよ」
「そうだったんですかい。まあ、おかよはいい女だ。それにしても、兄貴、どうして、おかよを見ながら描かねえんです」
「まあ、そうしてえんだが、何となく、声を掛けづらくてな」
「兄貴もわりと気が小せえんですね」と市太はニヤニヤする。
「そうじゃねえ。亭主持ちだったら騒ぎになると思っただけだ」
「へえ、前(めえ)に騒ぎになったんですか」
「まあな。調子にのって絵を描いてたらな、亭主が出て来やがって、とんだ目に会った」
「おかよは心配(しんぺえ)ねえ。亭主持ちじゃねえですよ。今は男もいねえんじゃねえのかな」
 鉄蔵は嬉しそうに目を輝かせ、「本当かい、そいつは」と確認する。
「ええ、多分。前に栄次ってえ色男といい仲だったが、奴も嫁を貰っちまったからな。栄次と別れてからは噂も聞かねえな」
「へえ。あれだけの器量よしなのに、村の若え者は放っておくのかい」
「別に放っておくわけじゃねえけど、どこか堅えとこがあるのかなア。俺も言い寄った事アあるが簡単に振られちまった」
「へえ、おめえが振られたとはな」
「兄貴、こんなとこでゴチャゴチャ言ってても始まらねえ。さっそく、巴屋に行って一杯やろうぜ」
「おお、そうだな。俺はあまり飲めねえが」
「なアに、兄貴の好きな甘え物もあらアな」
 二人が出て行こうとした時、幸助と弟の竹吉が畑仕事から帰って来た。
「まったく、まいったぜ。そこら中、灰だらけだ」ブツブツ言いながら、手拭いで灰を払っている。
「おい、幸助、これから巴屋で一杯やるんだが、おめえも行かねえか」
「そうか、いいな。先に行っててくれ。着替(きげ)えて後から行くよ」
「伊之助はどうした。今日は馬方か」
「そうじゃねえ。さっきまで一緒だったんだ。あの野郎、さかりがついた犬みてえに桶屋(おけや)に飛んで行きやがった」
「おみよか。仲のいいこったな。じゃア、先に行ってるぜ」
 日が暮れ、辺りはすっかり暗くなっていた。暗い中を灰が雪のようにチラホラ降っている。
 二人は提燈も持たずに諏訪明神の森の前を通り過ぎた。通りの反対側におなつの家が見えた。古着屋から明かりが漏れている。おなつを誘おうかと思ったが、今晩はやめにした。
 諏訪の森を過ぎて三軒目が巴屋。通りを挟んで正面にあるのが市太の家。問屋の前にあるので、馬方たちの溜まり場になっている。他所(よそ)の村から来た馬方たちは必ず、巴屋で休んでから帰って行く。馬方の中には気の荒い連中もいるが、おかよは客あしらいがうまく、今まで大した問題も起きてはいなかった。
 二人が暖簾をくぐって店に入ると錦渓と安治が酒を飲んでいた。
「あれ、先生、珍しいとこで会いますね」と市太は気軽に声を掛ける。
「何が珍しい。わしはすぐそこに住んでいる」
 そう言う錦渓の声には刺があった。あまり機嫌がよくないようだ。錦渓はちょっと先にある『江戸屋』の離れを借りている。江戸屋は江戸にいる小松屋の出店のようなものだった。
「いつもは桔梗屋でしょ。姉さんと喧嘩でもしましたか」
「うるさい。たまには河岸(かし)を変えただけだ」
「ほう、そうですか」
「おまえこそ、どうした。今日はおなつと一緒じゃねえのか」
「たまには男同士で飲むさ」
「昼間、おなつが一人で例の小屋にいたぞ。おゆうが草津に行っちまってから、おめえらもバラバラになっちまったようだな。勘治の奴は急に真面目になって稼業に精出してるし、惣八の奴は丑之助とつるんで何かを企(たくら)んでるようだ」
「惣八と丑がつるんでる?」
「ああ、さっきまで、そこでコソコソ内緒話をしてたよ」
「へえ。何を企んでんだ、あいつら」
「さあな。どうせ、ろくな事じゃアあるまい」
「いらっしゃい」とおかよが出て来た。
 酒と汁粉を頼むと市太はおかよに鉄蔵を紹介した。
「あら、江戸の絵画きさんだったの。何となく、この辺の人とは違うとは思ってたけど」
「役者絵で有名な勝川春章(しゅんしょう)の弟子なんだ。大(てえ)した絵を描くぜ」
「あら、そう。今度、あたしにも見せてよ」
「おめえも描いてもらやアいいじゃねえか」
「やだ。そんな、あたしなんて」
「いや。おめえなら、いい美人絵になるぜ」
「いやねえ、若旦那ったら」
 おかよは市太をぶつ真似をして、奥へと消えた。
「兄貴、まんざらでもねえみてえだぜ」と市太は小声で鉄蔵に言う。
「そうか。客に対する愛想だろ」
「いや、そうじゃねえ。おかよが兄貴を見る目がいつもと違わア」
「おだてるねえ」
 おかよは江戸の話が聞きたいと市太たちの所に座り込んで、一緒に酒を飲んだ。鉄蔵もおかよにお酌され、苦手な酒を少し飲んだ。
 野良着を着替えた幸助が来て、錦渓が帰ると安治も加わった。
「おい、おかよ、いい男はできたのか」と市太は単刀直入に聞いた。
「なに言ってんのよ。あたしが男っ気がないのは知ってるくせに。若旦那がおなつと一緒んとこを見て、いつも羨(うらや)ましいと思ってるのさ」
「へっ、俺を振ったのはどこのどいつだ」
「あん時はさ、傷の痛手が治ってなかったんだよ。今になって、惜しい事をしたと悔やんでるんさ」
「いつの間にか、お世辞もうまくなりやがったな」
「一癖も二癖もある連中を相手にしてるからねえ」
「まあ、この店はおめえで持ってるようなもんだ。男っ気があったら客が来なくなるか」
「そんな事アないけどさ。この仕事好きだからね。今はまだやめたくはないよ」
「江戸の『笠森おせん』じゃねえけど、おめえも美人絵に描かれりゃア有名になるぜ」
「鎌原おかよだな」と幸助が囃(はや)す。
 その夜、おかよは上機嫌だった。暖簾をしまった後も市太たちと付き合い、遅くまで飲んでいた。市太も知らなかったが、おかよは酒が強かった。いくら飲んでも平気な顔して笑っている。これだけ強かったら、男が口説こうと思っても、先に酔い潰れてしまうだろう。
 酒が飲めない鉄蔵は漬物を突っ突きながら、おかよに江戸の話を面白おかしく聞かせていた。おかよは目を輝かせて聞いている。幸助と安治も興味深そうに聞いていた。

2020年3月29日日曜日

天明三年(一七八三)五月二十六日

 浅間山の地鳴りは一晩中やまなかった。村人たちは不安におののき、ろくに眠れなかった。それでも、翌日はいい天気で、浅間山を眺めながら無事を祈って田畑へと出掛けて行った。馬方たちも浅間山を眺めながら平気を装い、馬追唄を歌いながら出掛けて行った。
 市太は幸助(こうすけ)の家で目が覚めた。揺れは気になっていたが酒の酔いと旅の疲れでぐっすり眠った。鉄蔵も一緒だった。
 幸助の家は勘治の家の隣、その隣には諏訪明神の森がある。すでに両親ともになく、弟二人と妹が一人いるだけ。うるさい親がいないので、市太たちの溜まり場にもなっている。鉄蔵は勘治の家に世話になる予定だったが、肝心の勘治が草津に行ってしまっていない。絵が好きで、舞台の背景を担当している幸助は喜んで、鉄蔵を客として迎えた。その夜は、ささやかな歓迎の宴を開いた。惣八、安治、丑之助、おなつ、おなべもいたはずなのに、市太が起きた時は鉄蔵しかいなかった。
 市太は鉄蔵を連れて『桔梗屋』に行った。桔梗屋で腹拵えをして、おなつを誘って村の中を案内し、観音堂の石段を登っている時だった。耳が割れるかと思う程の大きな音が響き渡り、石段がグラッと揺れた。
「何事だ」と鉄蔵が身を伏せながら聞く。
「お山が焼けたんだ」と市太はしがみついているおなつを抱き締めながら答えた。
「ここは危ねえ。早く上に行こう」
 揺れる石段を這(は)うようにして上まで登り、浅間山を見ると、そこには信じられない光景があった。浅間山の頂上から真っ黒な煙が太い筒のように空高く伸びている。ゴーゴーと唸(うな)りを上げ、物凄い量の煙を吹き出している。
「すげえ‥‥‥」と鉄蔵は松の木にすがりながら呟(つぶや)いた。
 市太はあまりの驚きに口をポカンと開けたまま、浅間の煙を眺めている。おなつは膝を震わせ、市太にしがみついたまま、目を丸くして浅間山を見つめている。
「すげえ‥‥‥」鉄蔵は市太を見て、「こんなのがよくあるのか」と聞く。
「あるわけねえ。こんなの初めてだ」
「こいつアすげえぞ」と言うと鉄蔵は座り込み、懐(ふところ)から手帳と矢立てを出して絵を描き始めた。
 青空はいつの間にか灰色になり、辺りは夕方のように薄暗くなった。やがて、白い灰が降り始めた。揺れがいくらか納まって来たので、市太はおなつを連れて若衆(わけーし)小屋に入った。鉄蔵は場所を変えながら、降って来る灰も気にせず、絵に熱中している。
「もう、やだ」とおなつは半ば、泣きべそをかいている。「あたし、こんな村にいたくない。ねえ、こんな村、早く出ましょうよ」
「こうちょくちょく、お山が焼けたんじゃアかなわねえ。いっそ、江戸にでも出るか」
「そうよ、そうだわ。江戸に行きましょ。あたし、もう少し、お稽古すれば義太夫で稼げるわよ」
「そうか、江戸に行ったら稼がなけりゃア生きてけねえな」と市太は腕組みして考える。
「なアに、あたしが食わしてあげるよ」おなつは涙を拭いて、市太を見つめて笑う。
「なに言ってやがる。おめえぐれえの腕の奴は江戸に行きゃアざらにいらア。とても、その腕じゃ、おまんまなんか食えやしねえ」
「そんな事ないよ。あたしだってもう少しお稽古すりゃア大丈夫さ」
「まあ、おめえは義太夫をもっと稽古しろ。俺は何すりゃアいいんでえ」
「あんたもさア、お爺ちゃんに三味線を習えば。そしたら、あたしと一緒にお座敷に出られるじゃない」
「俺が棹(さお)を持って、おめえが語るのか」
「そうよ、そうしましょ。それで決まりよ」とおなつは気楽に言う。
「まあ、とにかく、村を出んのは芝居(しべえ)が終わってからだ。権太をやるために博奕も断って来たんだからな」
「来年も権太の役を貰ったらどうすんのさ」
「そしたら、もう一年、辛抱さ」市太が当然の事のように言うと、
「なによ」とおなつはふくれる。「あたし、そんなに待てないから」
「先の事はわかんねえが、俺ア絶対(ぜってえ)に江戸に出る。今回の旅でそう決めたんだ。こんな山ん中の村にいつまでもいられるかい」
「そうよ。あたしだって、こんな村で一生を終わりたくない。江戸に行ってみたいよ」
「そうだ、おめえ、吉原の花魁(おいらん)にならねえか」と市太はおなつの顔をしげしげと眺める。
「ちょっと、あんた、あたしを売るつもりじゃないだろうね」おなつは怒って市太を睨む。
「そうじゃねえよ。おめえなら花魁になれるかもしれねえって思っただけだ」
「あんた、吉原で花魁と遊んで来たのね」とおなつの怒りはさらに募る。
「馬鹿言え。花魁なんかと遊ぶ金があるか。兄貴(鉄蔵)に聞いてみろ。花魁と遊ぶにゃア何十両と掛かるんだ」
「何十両? 花魁てそんなに高いの」
「そうさ。高嶺の花だよ。金持ちじゃなけりゃア花魁なんかと遊べねえのさ」
 二人がのんきに吉原の話をしている最中にも浅間山はゴーゴー唸りながら煙を上げている。いつの間にか、錦渓(きんけい)と安治がやって来て浅間山を眺めていた。二人とも手拭で頬被(ほっかむ)りしている。やがて、ゾロゾロと村役人たちもやって来た。名主(なぬし)の儀右衛門(ぎえもん)、組頭(くみがしら)の平太夫(へいだゆう)、伴右衛門(ばんえもん)、新右衛門に市太の祖父の市左衛門と山守の隠居、長兵衛もいる。延命寺(えんめいじ)の修行僧もいた。
 長兵衛が浅間山の煙を指さしながら、みんなに何やら説明している。市左衛門も何やら言っている。長兵衛の説明が終わると村役人たちは大きくうなづいて、ゾロゾロと引き上げて行った。長兵衛の話を聞いていた錦渓、安治、鉄蔵が若衆小屋にやって来た。
「どうやら、延命寺で祈祷(きとう)が始まるらしいな」と錦渓が言った。
「村のお偉(えれ)えさんがそう言ってましたか」
「どうせ、気休めだろう。祈祷でお山が静まるとは思えん」
「どうすれば静まるんです」
「それはわからんよ。人間の知恵ではどうにもならん。じっと見守るだけじゃ。ただ、これだけ大きな山焼けが起こったってえ事は、この後は静まるじゃろう」
「先生、本当なのね」とおなつが念を押す。
「うむ。すぐに静かになるとは言えんが、徐々に治まって行くじゃろう」
 昼過ぎには揺れも静まり、吹き出す煙の量も半分に減って来た。延命寺の祈祷が効いたのか、徐々に落ち着いて行くようだ。
 勘治が帰って来たのは八つ(午後二時)を回った頃だった。鉄蔵は絵を描きにどこかに行き、錦渓と安治も帰って行った。惣八とおなべは何をしているのか姿を見せない。市太はおなつを相手に芝居の稽古に励んでいた。
「無事でよかったなア」と勘治は言いながら、若衆小屋に飛び込んで来た。
「草津を出て前口(めえぐち)の辺りで、すげえ音がしてな、お山を見ると真っ黒な煙が天に向かって昇ってるじゃねえか。こいつア村が危ねえ。もしかしたら、焼け石でも飛んで来て、村が焼けてるかもしれねえって、慌てて帰って来たんだ」
「慌てて帰って来たにしちゃア、随分とのんびりしてたじゃねえか。お山が焼けたんは四つ(午前十時)時分だぜ。そん時、前口なら走って来りゃア、正午(ひる)には着かア」
 勘治は笑いながら、「中居(なけえ)までは走ったんだがな、そこで鎌原から来た旅人に会って、村は無事だって聞いたんだ。安心して茶屋で一休みしたんさ。そしたら、芦生田(あしうだ)の新八の野郎に会ってな、奴に江戸の土産話をしてやったんさ」
「まったく、のんきな野郎だぜ。それで、おゆうはどうだった」
「ああ、宮文(みやぶん)(宮崎文右衛門)にいたよ。今の時期はまだ、あまり忙しくねえからな、気楽にやってるようだ。おしまも一緒だし、大丈夫(でえじょぶ)だんべ。冬住みになるまでは仕方がねえ。帰(けえ)って来たら祝言(しゅうげん)を挙げるって言ってやった」
「おゆう、喜んでた」とおなつが聞く。
「無理しなくもいいなんて言ってやがったが、俺アもう決めたんだ。これから、うちに帰って親を説得するさ」
「頑張ってね、おゆうのためにも」
「ああ。江戸でたっぷりと遊んで来たからな。天女みてえな吉原の花魁も間近で拝めたし、もう、思い残す事ア何もねえ。そろそろ、身を固めて稼業に精を出すさ。おめえたちも早く、身を固めろよ」
 そう言うと勘治は浅間山を眺めてから、満足気にうなづき、石段を駈け降りて行った。
「何でえ、ありゃア。急に分別(ふんべつ)臭くなりやがった」
 なアというように、おなつを見ると、顔は膨(ふく)れ、鬼のような目をして市太を睨んでいる。
「やっぱり、吉原で遊んで来たんじゃないよ。もう、許さないから」
「なに言ってやんでえ。遊んだのは奴だけだ」
「嘘ばっか、つくんじゃないよ。ああ、いやだいやだ」
 フンと鼻を鳴らすとおなつも帰ってしまった。一人残された市太は浅間山を眺めながら、いがみの権太の台詞を呟いた。
「及ばぬ知恵で梶原(かじわら)を、たばかったと思うたが、あっちが何も皆合点(がてん)。思えばこれまで騙(かた)ったも、後(のち)は命をかたらるる、種と知らざる浅ましさ‥‥‥くそったれめ」
 悪態をつくと市太も石段を降りて行った。
 家に帰ると、仕事場が何となく慌ただしい。
「何かあったのか」と近くで荷造りしている者に聞くと、六里ヶ原で怪我をした馬方が何人もいると言う。今朝、軽井沢方面に出掛けて行った馬方が、六里ケ原で浅間焼けに会った。驚いた馬が大暴れして、馬に蹴られたり、落ちた荷物の下敷きになったらしい。
「そいつア、えれえ災難だったなア」と仕事場を通り過ぎて自分の部屋に行こうとしたら、兄の庄蔵に声を掛けられた。見つかると小言(こごと)を言われるのは分かっている。帳場を避けて来たのに、とんだ所で会ってしまった。
 江戸から帰って来て、ろくに挨拶もしないで、着替えるとすぐに家を出た。市太は怒鳴られるのを覚悟した。
「おう、丁度いいとこに帰(けえ)って来たな。おめえ、こいつを持って、甚左(じんざ)んちに行ってくれ」
「はあ」と市太は訳がわからないという顔をして兄を見た。
「甚左が怪我したんだ。見舞(みめ)えに行ってくれ。俺は利八と伝助んちに行かなきゃならねえ」
「親父は?」
「延命寺だ。呼びに行ったんだが、村役人たちと何やら相談事をしてるんだんべ。頼むぞ」
 そう言うとさっさと行ってしまった。
 甚左といえば、おろくの父親。母親が寝たきりだというのに、父親まで寝込んじまったら大変な事だ。市太はすぐに、おろくの家に向かった。
 煙の量は減ったとはいえ、浅間山は普段の数倍もの煙を上げて、ゴロゴロ唸っている。灰が降ったお陰で、家の屋根や樹木の葉っぱは真っ白。まるで、季節はずれの雪でも降ったよう。まだ八つ半(午後三時)だというのに、日暮れのように薄暗い。いい加減でおとなしくなってくれと祈りながら、市太は表通りを南へと向かった。
 観音堂への道を越えると惣八の家、炭屋があり、旅籠屋の『桐屋』がある。その隣がおなべの家で、一軒おいて半兵衛の茶屋『武蔵屋』があり、その隣がおろくの家。家に入ろうとしたら、「あたしだって色々と忙しいんだからね、おろく、後の事は頼んだよ。先生、お願いしますよ」という声が聞こえて、おろくの姉のおくめが出て来た。
「あら、若旦那じゃない」と驚き、怪訝(けげん)な顔して、「うちに何か用なの」と聞いた。
「ああ、見舞(みめ)えに来たんだが‥‥‥」
「へえ、若旦那が来たの、珍しい。あれじゃア、当分、働けそうもないわよ。ちゃんと面倒を見るように言って下さいな」
 おくめはどうぞというように手を差し出すと忙しそうに出て行った。
 おくめは『桐屋』で働いている。噂では番頭の弥七とできているらしい。弥七は妻を亡くした独り者だから別に構わないが、もう五十を過ぎている。二十四のおくめとは不釣り合いだった。おろくの姉なのに、おろくとは全然、似ていない。おろくが母親に似て器量よしなのに、父親に似てしまったのだろう。
 市太がぼんやり、おくめの後ろ姿を見送っていると、おろくの叔父、三治が出て来た。はだけた着物を着て、ヘラヘラ笑いながら市太を指さし、「ハハハ、若ランナ、何か用らの」とおくめの口真似をした。
 三治は生まれつきの知恵遅れ。盲目(もうもく)の甚太夫(じんだゆう)と知恵遅れの三治を抱え、おろくの母親は世話に疲れて倒れてしまった。今では、甚太夫はそれ程、世話を掛けなくなったが、三治と母親の面倒を見ているのはおろくだった。
 ケラケラ笑いがら三治は表に出て行った。
「叔父さん、どこ行くのよ。ちょっと待って」と今度はおろくが出て来た。
 市太とぶつかりそうになり、「あら、若旦那」と目を丸くする。
「あの、うちに何か、御用でしょうか」
「ああ。兄貴に頼まれてな、ちょっと見舞えに来たんだ。とっつぁんの具合(ぐええ)はどうだい」
「どうもわざわざ、すみません。今、八兵衛さんに見てもらってます。どうぞ、狭苦しいとこですが、お入り下さい」
 市太はうなづくと家の中に入った。おろくは三治を捕まえに行った。
 甚左は囲炉裏の側に寝かされ、八兵衛が傷の手当をしている。八兵衛は馬医者だが、ちょっとした怪我ならお手の物。おろくの弟の松五郎が痛がる甚左の体を押さえている。市太は八兵衛の側に行って、傷口を覗き込んだ。
「何だ、権太じゃねえか。何でこんなとこにいる」と八兵衛は驚く。「さては、おめえ、おろくちゃんに目をつけやがったな」
 八兵衛は意味ありげに笑うと、甚左の左足に添え木を当てて、きつく縛(しば)った。
「そうじゃねえよ」と市太が言っても聞かず、「いいとこに目をつけた。おろくちゃんなら、いいかみさんになるぜ。おめえもそろそろ身を固める気になったか」
「そうじゃねえってば。それより、とっつぁんの具合はどうなんでえ」
「しばらくは動けねえな。足の骨が砕けちまってる。少し熱が出るかもしれねえが心配ねえ。四、五日寝てりゃア骨もくっつくだんべ。また、来るからな、おろくちゃん、頼むぜ」
 市太が振り向くと、おろくが市太の後ろに立っていた。
「こんな半端者(はんぱもん)に惚れるんじゃねえよ。今よりずっと苦労する事になるぜ」
「そんな‥‥‥」と言いながら、おろくは赤くなっている。
「まったく、お山のお陰で忙しいこった。馬も怪我してるってえのに、人様の面倒もみなくちゃならねえ」
 八兵衛は荷物をまとめながら、「おう、権太。おろくちゃんを泣かすんじゃねえよ」と言うと、さっさと帰って行った。
「馬医者めが、とんだ勘違えしやがって」
「へへへ、おろくを泣かすんらねえよ」
 おろくに捕まえられている三治が八兵衛の真似をした。
「叔父さん、なに言ってんですか。松、叔父さんを部屋に連れてって」
 松五郎はうなづくと三治を引っ張って行く。
「すまねえなア。みんなに迷惑かけちまって」と甚左が痛みに堪えながら体を起こした。
「突然だったからな、しょうがねえよ。ゆっくりと休んで、早くよくなる事だ」
「ああ、すまねえ」
 市太は見舞いの品を渡すと、「それじゃア、また来らア」とおろくの家を出た。
 おろくが後を追って来た。
「ほんとに、どうもすみません」
「なに、兄貴の名代(みょうでえ)を務めただけだ。それより、おめえ、怪我人が増えちまって大変(てえへん)だな。おっかさんは相変わらずなのかい」
「はい。でも、大丈夫です。松がしっかりして来ましたので」
「そうか。松も馬方をやってるらしいな。馬の方は大丈夫(でえじょぶ)だったのか」
「ええ、無事でした」
「そいつアよかった。何(なん)か困った事があったら、遠慮なく言って来いよ」
「ありがとうございます」
 おろくは丁寧に頭を下げた。
「じゃアな」
 市太は手を振って、おろくと別れた。
 ふと、子供の頃を思い出した。祖父の市左衛門が甚太夫の耳のよさに目をつけて三味線を教えていた頃、おろくは甚太夫の手を引いて市太の家に通った。甚太夫が三味線の稽古をしている時、おろくは市太と妹のおさやと一緒に遊んでいた。もう十年も前の事だった。甚太夫の三味線の稽古は一年近く続き、軽井沢の師匠のもとに行く事が決まるとおろくも来なくなった。その後のおろくは家の仕事が忙しくて、若者たちの集まりにも顔を出さない。この間、武蔵屋で会ったのが、ほんとの久し振りだった。
 途中で振り返るとおろくはまだ見送っていた。

2020年3月28日土曜日

天明三年(一七八三)五月二十五日

 市太と勘治が吉原で、いい気になって遊んでいる時、郷里鎌原(かんばら)村では大騒ぎが起きていた。浅間山がまた噴火したのだった。
 二人が旅立って三日目の十五日の昼過ぎ、なりをひそめていた浅間山がゴロゴロと唸り出し、黒い煙を吹き上げ、鎌原村は大揺れした。畑に出ていた村人たちは立っている事もできず、地にひれ伏しながら不安そうに浅間山を見上げた。
 市太がいないので、家を出る事を許された惣八は安治と一緒に観音堂裏の若衆(わけーし)小屋で、いつものようにブラブラ。突然の揺れに驚いて、慌てて小屋から飛び出し浅間山を眺めた。
 おなつとおなべは『鶴屋』から『扇屋』に移った雪之助の部屋で、義太夫の稽古をしていた。三味線を抱え、二階の部屋から転がるように階段を降りて外に飛び出した。浅間焼けを初めて目にする雪之助は青ざめ、恐ろしさに身を震わせた。
 その日の揺れは四半時(しはんとき)(三十分)程で治まり、灰が降って来る事もなかった。いつもの事だと皆、一安心して仕事に戻ったが、翌日は一時(いっとき)(二時間)近くも揺れが続いた。雪之助はもう村を出て行くと言い出し、おなつたちはもう少しいてくれと必死で引き留めた。
 市太の祖父、市左衛門はやはり、山守(やまもり)の隠居、長兵衛の言った事は正しかったのかと見直し、改めて、家代々残されている浅間焼けに関する文献を漁っていた。
 その時は二日だけで何とか静まり、一日様子を見て、次の日から田植えが始まった。田植えが始まれば、娘たちものんきに義太夫をやってはいられない。おなつやおなべも朝早くから田圃(たんぼ)に出て働いた。男たちも馬方稼業が忙しかった。
 参勤交代で六月から信州須坂のお殿様の江戸詰めが始まるため、須坂藩の飯米(はんまい)が大笹から次々に送られて来た。男衆(おとこし)は米を積んだ馬を引いて狩宿まで何往復もした。
 村中が大忙しのそんな頃、おゆうが斜(はす)向かいに住む、おしまという娘と一緒に草津へと働きに出た。勘治は家柄など関係ないと言ったが、姉と同じように、おゆうは勘治の事を諦めて、家のために働きに出たのだった。浅間焼けを恐れた雪之助もおなつたちが止めるのも聞かず、一緒に草津に行ってしまった。
 須坂藩の荷物も運び終わり、田植えも一段落した次の日、二十五日の朝、浅間山が再び、ゴロゴロ言い出した。その日は朝から雨降りで、浅間山の灰が混じって黒い雨が降って来た。揺れはそれ程ひどくはないが、地鳴りはいつまでも続いた。村人たちは皆、仕事を休み、家に籠もってお山が静まるのを祈った。
 昼近く、雨も小降りとなり、家で退屈していたおなつはおなべを誘って観音堂に登り、若衆小屋に顔を出した。例のごとく、惣八と安治がいた。芝居で惣八と一緒に駕籠(かご)かきを演じる丑之助(うしのすけ)もいて、何やら、ヒソヒソと相談している。丑之助は山守の隠居、長兵衛の孫だった。
「ねえ、何の悪巧みをしてるのよ」とおなつが覗き込む。
「何だ、おめえらか、脅かすねえ」
「真剣な顔して何やってんの。あんたたちがそういう顔してる時はどうせ、ろくでもない事考えてるんでしょ」
「そうじゃねえ。ただ、こいつの相談に乗ってただけだ」惣八は丑之助を顎(あご)で示す。
「また誰かに振られたのかい」とおなつとおなべは顔を見合わせて笑う。
 名前の通り、丑のように体格だけは立派だが、ノロノロしていて顔付きも間が抜けている。およそ、女にもてる男ではない。
「この前(めえ)、馬方やって怪我した時、親切に傷の手当をしてくれた女がいてな、そいつの事が忘れられねんだとよ」
「物好きもいるもんだね。早く、口説いた方がいいよ。相手の気が変わらないうちにね」
「ところがよう、そいつが嫁入り前(めえ)の娘なら何の問題(もんでえ)もねえんだが、他人(ひと)の嚊(かかあ)なんだよ」
「何だって。他人の嚊? まったく、何を考えてんだい。一体、誰なのさ」
「それがな、彦七の嚊、おしめさ」
 おしめの名を聞いた途端、おなつとおなべは腹を抱えて大笑い。おしめは丑之助や惣八より一つ年上で、嫁入り前は男たちに騒がれた器量よし。今はもう二歳の息子の母親になっているが美しさは衰えていない。そのおしめが丑之助など相手にするはずがない。丑之助の独りよがりの思い込みに違いなかった。
「馬鹿じゃないの、まったく。おしめさんがおまえなんか相手にしやしないさ」
「そうとも言えねえぜ」と安治が言う。「彦七だってウジウジした野郎だ。まったく、おしめは彦七なんかにゃア勿体(もってえ)ねえよ」
「そうね」とおなべがうなづく。「彦七さんはおっ母さんの言いなりみたいだし、従弟(いとこ)の小七さんのおかみさんのおくにさんとも仲がよくないみたいね」
「そういやア、田植えん時、おしめとおくにが大喧嘩してたっけな」
「そうなのよ。おっ母さんがおくにさんの味方をしてて、おしめさん可哀想だった」
「ほんとなのか。おしめさん、いじめられてんのか」と丑之助がのんびりした口調で聞く。
「あの調子じゃア、うちん中でも、いじめられてるかもね」
「そんなの、俺ア許さねえ」真面目な顔して丑之助が言うと、おなつとおなべはまた大笑いする。
「あんたが許すまいとそんなの関係ないのよ」
「こいつはな、ガキの頃からずっと、おしめに惚れてたんだとよ。まったく恐れ入るぜ」
 丑之助は照れ臭そうに頭を掻く。
「それならいっその事、おしめさんと子供を連れてさ、駈け落ちでもしたら。村中がみんな、おったまげるわよ。お山焼けなんかよりもっとね」
「駈け落ちなんて、そんな‥‥‥」
「けしかけるなよ。こいつア本気なんだ。思い詰めたら、ほんとにやりかねねえ」
「大丈夫よ。丑が本気だって、おしめさんが相手にするわけないじゃない」
「まあ、そりゃそうだが。おい、丑、他人の嚊なんか諦めてよう、嫁入り前の娘に惚れろよ」
「そうよ。若くて綺麗なのが一杯いるでしょ」
「そうだけどよ。俺なんか誰も相手にしてくんねえもんな」
「それがダメなのよ。やる前に諦めちゃ何もできないでしょ」
「そうさ、丑、当たって砕けろだぜ」と安治がもっともらしく言うと、
「そういう安はどうなのさ。当たって砕けたのかい」とおなつに言われる。
「俺は‥‥‥」と安治は口ごもる。
「おさやに惚れてんだろ。兄貴が留守のうちにものにしてやるって息巻いてたじゃないか。もうすぐ、市太は帰って来るよ」
「わかってるさ。でも、なかなか、うまく行かねえんだ。馬方が忙しかったし」
「馬方なんて昼間だけだろ。やる気になりゃア、いくらでもやれたよ」
「でもよう、おさやはいつも隣のおみやと一緒なんだ。何となく、声が掛けづらくってな」
「おさやにおみやか、二人ともお嬢ちゃんだからね、あんたなんか相手にしないかもね」
「うるせえ」
「いつだったか、おゆうから聞いたんだけどね」とおなべが思い出したかのように言う。「おゆうんちの隣の仙之助がおみやに惚れてるみたいよ。あんたと同じで声掛けられないみたいだけどさ」
「仙之助がか」と丑之助が首を傾げる。
 仙之助の家は丑之助の家の隣でもあった。表通りの東側、一番南におしめが嫁いだ彦七の家があり、次が若衆頭(わけーしがしら)の杢兵衛(もくべえ)の家、次がおゆうの家、次が仙之助、次が山守を務める丑之助の家だった。そして、丑之助の家の向かいがおみやの家、酒屋の『枡屋(ますや)』で、十王堂への細い道を隔てた隣がおさやの家、問屋の『橘屋』だった。ちなみに、惣八の家は彦七の家の斜向かいにあり、安治の家は少し離れて、茶屋の『桔梗屋』よりさらに北、延命寺の近くにあった。
「仙之助がおみよに気があんのか‥‥‥」
「二人してお嬢ちゃんたちを口説けば」
「うん、そいつはいいかもしれねえ」と安治はうなづくと空を見上げた。「もう、雨はやんだようだな」
「お山はまだ鳴いてるけどね」
「よし、仙之助に会って来るか」
 安治はニヤニヤしながら出て行った。
「ねえ、うまく行くと思う」とおなべが惣八に聞く。
「まあ、無理だんべえな」と惣八が言うと、「難しいだんべ」と丑之助までが真面目な顔で言う。
 みんなで大笑いしていると安治が戻って来た。
「何でえ、忘れ物か」と惣八が言う間もなく、「おい、おゆうはどこ行っちまったんでえ」と勘治が血相を変えて怒鳴り込んで来た。
「あら、帰ったの。お帰り」とおなつは市太を捜しに行く。
 勘治は旅支度のまま、惣八とおなべに詰め寄って、おゆうの行方を聞いている。市太と鉄蔵も石段を登ってやって来た。
「お帰り」とおなつが市太に飛びつく。
「おい、お山がまた焼けたのか」
「そうなのよ。大変だったんだから」
「田圃が灰で真っ白になってたぜ」
「そうさ。田植えしたばかりだってえのに、たまんないよ。それより、江戸はどうだったの。お芝居見て来たんでしょ」
「おう、土産があるんだ」と市太は若衆小屋に上がり込んで荷物を広げる。
 勘治はおなべの話を聞きながら馬鹿野郎を連発し、おなつは土産の役者絵を広げてキャーキャー騒ぐ。そんな事はお構いなしに、鉄蔵はさっそく、煙を上げている浅間山を絵に描き始めた。
「馬鹿野郎」と勘治は叫ぶと、そのまま、石段を駈け降りて行った。

2020年3月27日金曜日

天明三年(一七八三)五月十九日

 芝居を見て感激した市太と勘治は提燈(ちょうちん)をぶら下げ、人形町通りを北に向かっていた。
「やっぱり、本場の芝居(しべえ)は違うなア。何というか、花があらアな」興奮して勘治が言う。
「当たり前(めえ)だア。成田屋、三河屋、紀伊国屋(きのくにや)、路考(ろこう)に杜若(とじゃく)、千両役者が揃っていやがる。やっぱり、来てよかったなア」と市太も感動している。
 二人とも江戸っ子を真似て、さっぱりした身なりをしているが、どことなく田舎臭い。
「暗くなっちまうと道がよくわかんねえな」
「大丈夫(でえじょーぶ)さ。任せときねえ」と市太は自信たっぷりに言うが、いつもの事だ、当てにはならない。
 二人はキョロキョロしながら、今朝通った時、覚えておいた目印を捜す。
「おい、大丸(でえまる)があそこにあるぜ。てえ事ア次の大通りを曲がるんだ」
「そうだっけ」
「そうさ。そこを曲がりゃア、馬喰町(ばくろちょう)に出る」
「馬喰町まで行きゃア、柳橋はすぐだな」
「そうさ。猪牙(ちょき)に乗って吉原(よしわら)に繰り出そうぜ」
「いいねえ」
 道もよくわからないくせに、言う事だけは一丁前の江戸っ子だ。
 錦渓(きんけい)と一緒に二人が江戸に着いてから、今日で三日目、二人にとって、毎日が驚きの連続だった。二人共、江戸に来たのは初めてではない。市太は十九の時、叔父に連れられ、初めて江戸に来て、本場の芝居を見て感動した。翌年にも、村人たちと一緒に江戸に芝居を見に来ている。勘治や惣八も、その時は同行した。勿論、芝居を見ただけでなく、名所見物もしている。それなのに、今回の旅は、まったく、驚きの連続だった。まるで、一生のうちに経験する驚きを短期間のうちに経験したようだった。
 江戸に着いたのは鎌原(かんばら)を出てから五日目。村を出てから江戸への道程(みちのり)は別に変わった事もない。初日が生憎(あいにく)の雨降りだったが、後はいい天気。途中、飯盛(めしもり)女のいる宿場に泊まっても、女郎(じょろう)を買う事もなく、真っすぐ江戸へと向かった。
 中山道を本郷まで行き、左に曲がり、不忍(しのばず)の池へと出た。明礬(みょうばん)捜しを錦渓に頼んだ薬種問屋の小松屋は不忍の池の近くにあった。錦渓が小松屋と話し込んでいる間、市太と勘治は弁天様をお参りした。その夜は小松屋に泊まるのだろうと思っていると、錦渓は小松屋と一緒に吉原へ行くと言い出した。二人も今回は密かに吉原に行こうと決めていたので、目を輝かせて連れて行ってくれと頼んだ。錦渓は気楽に来いと言ってくれた。
 市太と勘治は浮き浮きしながら錦渓の後を追う。神田川沿いに歩き、柳橋の船宿から猪牙(ちょき)舟に乗って山谷(さんや)堀まで行く。二人共、猪牙舟に乗るのは勿論初めて、これが噂の猪牙舟かと大店(おおだな)の若旦那になった気分。山谷堀の船宿(ふなやど)に着くと錦渓は『大黒屋の先生』と呼ばれて大もてだった。大黒屋という屋号は初めて聞くが、錦渓が吉原遊びに慣れているのは間違いない。吉原に行きたいと思っていても不安のあった二人は錦渓が一緒なので心強かった。
 旅の途中、二人は錦渓に吉原の事を何度も聞いた。吉原なら良く知っている。連れてってやると簡単に言うが、あまり吉原の事は話さない。口ではああ言っているが、本当は吉原で遊んだ事などないに違いないと思っていた。ところが、船宿の女将に名を知られているという事はかなりの遊び人に違いない。急に、錦渓が頼もしく思える二人だった。
 夕暮れの日本堤(づつみ)を船宿で借りた提燈をぶら下げて歩く。堤の両側には葦簾(よしず)張りの掛茶屋が並び、男たちがいそいそと吉原に向かう。まるで、祭りのようだ。田圃(たんぼ)の中にポッカリと明るいのが憧れの吉原。見返り柳を見上げ、衣紋坂(えもんざか)と呼ばれる坂を下り、茶屋が建ち並ぶ五十間(けん)道を抜けると大門(おおもん)がある。思っていたよりも飾りっ気もない板葺(いたぶ)き屋根の簡単な門だった。それでも、二人はドキドキしながら大門をくぐって吉原へと入って行く。
 吉原の華やかさは噂以上だった。追分宿や軽井沢宿など問題にならない程の豪華絢爛(けんらん)ぶり。仲之町(なかのちょう)と呼ばれる大通りに面して、二階建ての引手(ひきて)茶屋が並んでいる。一階と二階の軒下にぶら下がった提燈の数は知れず、開け放された茶屋からも明かりが漏れ、まるで、昼間のような明るさだ。茶屋の前には畳敷きの縁台(えんだい)が並び、茶屋の紋の入った箱提燈が置かれてある。二階には客の姿と一緒に着飾った遊女の姿もチラホラ見える。
「なあ、市太、花魁(おいらん)はどこにいるんだ」
「そんなの俺が知るかよ」
「籬(まがき)とかいう格子ん中に並んでるんだんべ」
「そう聞いてるが、そんなの、どこにも見当たらねえな」
 市太と勘治がキョロキョロしているうちに、錦渓と小松屋はさっさと行ってしまう。迷子になったらかなわないと慌てて後を追う。
 おはぐろどぶと黒板塀に囲まれた吉原は、世の中と隔離された別世界で、出入り口は大門一ケ所しかない。大門から行き止まりの水道尻まで、仲之町と呼ばれる大通りが貫き、右側の手前から江戸町一丁目、揚屋町(あげやちょう)、京町一丁目とあり、左側の手前から伏見町、江戸町二丁目、角町(すみちょう)、京町二丁目とある。仲之町には引手茶屋が建ち並び、大見世(おおみせ)の遊女と遊ぶには引手茶屋を通さなければならなかった。遊女屋は江戸町の一丁目と二丁目、角町、京町の一丁目と二丁目に並んでいる。揚屋町には遊女屋はなく、茶屋、蕎麦(そば)屋、鮨(すし)屋、質屋、雑貨屋、湯屋(ゆや)などが並び、裏手には芸人たちが住んでいる。おはぐろどぶに沿った東側は羅生門(らしょうもん)河岸(がし)、西側は浄念(じょうねん)河岸(がし)と呼ばれ、共に下級の遊女屋が並んでいた。
 錦渓らは木戸をくぐって左に曲がった。市太たちは知らなかったが、錦渓らが入って行ったのは角町だった。両側には噂の遊女屋があった。籬という格子の中に、きらびやかに着飾った遊女がズラリと並んでいる。
「おっ、すげえ」と二人は籬に顔を近づけて中を覗き込む。あまりにも浮世離れした、その光景に二人は固唾(かたず)を飲んで見とれている。
 大行燈(おおあんどん)に照らされて、とても、この世の者とは思えない美しい女たちが、艶(あで)やかな着物をまとい、髪には何本もの簪(かんざし)を差し、豪華な煙草(たばこ)盆(ぼん)を前に座っている。清掻(すががき)と呼ばれる三味線の調べがゆるやかに流れ、何とも言えぬ、いい香りが漂って来る。市太も勘治も心を奪われたように、ぼうっとして花魁たちを眺めていた。
「おい、早く来い」と錦渓に声を掛けられ、我に帰って後を追う。錦渓は二人が覗いていた遊女屋の暖簾(のれん)をくぐった。
「先生、ここに入るんですか」と勘治は驚く。
「ああ、そうだ」
「でも、ここは高えんでしょ」
「ああ、高えよ。一晩五両といった所かの」
「一晩、五両‥‥‥」二人は顔を見合わせたまま、言葉も出ない。
「しかも、最初の晩は初会(しょけえ)と言ってな、遊女に触れる事もできん。三回通って、ようやく抱けるという仕組みじゃ」
「三回通ったら十五両‥‥‥とんでもねえとこだ。そんなとこ入れねえ、なあ、市太」
「無理だ、そんなの無理だ」と市太も首を振る。
「それなら、ここで待ってるか」
「そんな。先生たちはここに泊まるんですか」
「そういう事だ」
「そんな‥‥‥」
 錦渓は急に笑い出した。「心配するな。ここはな、わしのうちじゃ」
「えっ」と二人はポカンとした顔で錦渓を見つめる。

「わしはここで生まれて、次男だったもんだから、旗本の株を買って侍になったんじゃよ」
 その晩は明礬が見つかったお祝いだと小松屋の奢(おご)りで御馳走になり、花魁を目の前に酒を酌み交わした。二人共、カチンコチンに堅くなっていた。花魁はまるで、天女のような美しさ。聞き馴れない廓(さと)言葉が鈴のように聞こえ、夢の中にいる心地。勿論、花魁を抱く事はできなかったが、充分に満足だった。二人は錦渓の客人として遊女屋内にある一室を与えられた。
 次の日は芝居を見に行く予定だったが、それどころではない。夢の国をもっとよく知りたいと、二人は吉原見物をする事にした。まず、吉原細見(さいけん)という案内書を買って、隅から隅まで歩いてみた。
 吉原には色々な遊女屋があった。総籬(そうまがき)と呼ばれる大見世から、半籬(はんまがき)と呼ばれる中見世、惣半籬(そうはんまがき)と呼ばれる小見世、さらに、河岸見世(かしみせ)と呼ばれる下級の遊女屋まで、それぞれの予算に合わせて遊べる見世が揃っている。
 評判の遊女は松葉屋の瀬川に松人(まつんど)、扇屋の滝川に七越(ななこし)、丁字屋(ちょうじや)の雛鶴(ひなづる)に丁山(ちょうざん)、玉屋の小紫(こむらさき)だと知った二人は一目見ようとウロウロするが、そういう高級遊女は見世を張らないので見る事はできなかった。ただ、鶴屋の菅原の花魁道中を見る事ができたのは幸運だった。
 禿(かむろ)二人に新造(しんぞう)を引き連れ、菅原は高下駄を外八文字にゆっくりと歩く。噂によると菅原を呼んだのは造り酒屋の若旦那だという。菅原に相当入れあげているようで、まもなく、身代(しんだい)を潰すんじゃないかとの評判だった。
 一日中、ブラブラしていても少しも飽きなかった。吉原名物、竹村伊勢の最中(もなか)の月と巻煎餅(まきせんべい)を食べ、群玉庵(ぐんぎょくあん)の蕎麦を食べ、山屋の豆腐も食べて、気楽に入れる茶屋で、ちょっと酒を飲み、昼見世の遊女を見て回る。いつの間にか日は暮れて、行燈や提燈に火が燈ると、若い二人はただ見ているだけでは我慢できなくなって来た。せっかく来たんだから、遊んで行こうと大黒屋に戻って、錦渓を捜した。手頃な見世を紹介してもらおうと思ったのに、錦渓は昼近く、小松屋と一緒に出掛けたまま、まだ帰らない。遊び方もわからないので、二人は仕方なく、安く遊べる河岸見世に入った。大見世の花魁とは比べ物にならない遊女だったが、とりあえずは満足。
 そして、今日、朝早くから芝居見物に出掛けたのだった。朝起きると雨が降っていた。やめようかとも思ったが、意を決して番傘(ばんがさ)を差し、助六(すけろく)気取りで大門を出る。浅草の観音様にお参りして、浅草御門を抜けて内神田に入り、馬喰町を通り、小伝馬町(こでんまちょう)二丁目の角を左に曲がって、人形町通りから芝居町へと入って行った。
 さすが、天下の大芝居。その人込みは物凄かった。一昨年の冬にお世話になった芝居茶屋に顔を出し、中村座へと行く。中村座では『仮名(かな)手本(でほん)忠臣蔵(ちゅうしんぐら)』をやっていた。
 成田屋(五代目市川団十郎)の由良之助(ゆらのすけ)、路考(三代目瀬川菊之丞)のお軽、新車(市川門之助)の判官(ほうがん)、紀伊国屋(三代目沢村宗十郎)の勘平(かんぺい)、三河屋(四代目市川団蔵)の本蔵、三朝(さんちょう)(初代尾上松助)の定九郎(さだくろう)、杜若(とじゃく)(四代目岩井半四郎)のかほよと、それはもう、豪華な顔触れだった。吉原もいいが芝居もよかった。そしてまた、吉原に帰って行くというのが最高だった。吉原に居続けをしている金持ちになった気分だった。
 何とか無事に柳橋に着いた二人は猪牙舟に乗って吉原に帰って来た。その夜、二人は変わった男と出会った。昨日も吉原にいた。昨日は何もかもが珍しくて、そんな男など気にもかけなかった。今日は少し余裕もある。それとなく、その男を観察していると、二人のようにただブラブラしているだけではなかった。小さな手帳を持って、時々、真剣な顔をして絵を描いている。年の頃は市太たちと同じ位か。身なりもそれ程立派には見えない。江戸っ子というより田舎者という感じが何となく親近感を感じて、二人は声を掛けてみた。
 男は二人を見ると、「どこから来た」と聞いて来た。
 二人は上州だと答えた。
「ほう」と言ってから、「俺の絵を買ってくれ」と言った。
「有名な絵画きなのか」と聞くと、「そのうち、有名な絵画きになる」と言う。
 絵を見せてもらうと以外にもうまかった。二人は花魁を描いた絵と遊女屋を描いた絵を土産に買う事にした。そして、一緒に酒を飲んで意気投合した。
 男の名は鉄蔵、年は二人より二つ年上の二十四、役者絵で有名な浮世絵師、勝川春章(しゅんしょう)の弟子で春朗(しゅんろう)という画号を持っていた。鉄蔵は錦渓の事も知っていた。錦渓の師匠の平賀源内にも会った事があるという。鉄蔵のお陰で二人は色々な事を知った。
 松葉屋の瀬川は茶の湯が好きで、今、越後屋の手代が夢中になっている。売り出し中の山東(さんとう)京伝(きょうでん)という戯作者(げさくしゃ)は扇屋の遊女、菊園に夢中になっている。吉原の入り口、五十間道にある蔦屋(つたや)という本屋の主人はなかなかのやり手で、数年前までは吉原の細見を売っていたのに、今では売れっ子の恋川春町(こいかわはるまち)や朋誠堂(ほうせいどう)喜三二(きさんじ)の黄表紙(きびょうし)を売り出している。鉄蔵も蔦屋から浮世絵を出す予定だとか。花魁たちの口癖や廓言葉が遊女屋によって違う事など、吉原の事なら何でも知っている。二人は感心しながら話を聞いていた。ただ、まだ一人前の絵師ではないので、金には不自由しているようだった。
「今に、花魁の方から描いてくれって言って来るような有名な絵画きになってみせらア」
 二人は手頃な遊女屋に連れて行ってくれと鉄蔵に頼んだ。任せろと胸をたたいた鉄蔵が案内したのは昨日と同じ程度の河岸見世だった。がっかりしたが、遊女の応対は昨夜とまったく違っていた。鉄蔵の知り合いと言う事で何となく、和気あいあいしている。遊女たちと一緒になって夜遅くまで騒ぎ、その夜はその見世に泊まった。
 翌日の四つ(午前十時)頃、鉄蔵と一緒に大黒屋に戻ると錦渓はいた。明日の朝、鎌原に戻るぞと言って、また、どこかに出掛けて行った。
 鉄蔵は大黒屋のような大きな見世に入った事がないと、さっそく見世の中を絵に描き始める。昼時の遊女屋というのもまた面白いものだった。若旦那が連れて来た客人という事で、遊女たちも気楽に接してくれる。大金を払わなければ近寄る事もできない『雛之助(ひなのすけ)』という花魁も仲間扱いしてくれた。雛之助の美しさにうっとりしながら、天に昇ったような心地で、二人は雛之助に頼まれて、部屋の掃除や後片付けを喜んで手伝っていた。
 八つ(午後二時)になり、遊女たちの仕事が始まった。市太らは商売の邪魔になるので、大黒屋を出て仲之町をぶらついた。今日も雨がシトシトと降っている。
「兄貴、どこに行くんだい」と市太は鉄蔵に聞く。
「おめえたち、明日、帰るって言ってたな」
「そうらしい。でも、兄貴に会えて面白かったよ」
「おめえたち、俺んちに来るか」
「えっ」
「旅支度をしてくらア。俺もちっと江戸を離れたくなった。煙を上げてるってえ浅間山が見たくなってな」
「それじゃア兄貴、俺たちの村に来るのかい」
「おう」
「そいつア面白え。大歓迎だぜ」
 という訳で、鉄蔵も一緒に鎌原に行く事となった。

2020年3月26日木曜日

天明三年(一七八三)五月十二日

 四月九日の浅間焼けから一月が過ぎた。
 浅間山はすっかり落ち着いて、いつものように三筋の煙を上げている。山守(やまもり)の爺さんの心配は取り越し苦労に終わったようだ。
 五月に入ると、いよいよ芝居の稽古も本格的になり、立ち稽古が始まった。去年、『義経千本桜』の序幕と二幕目を演じ、今年は三幕目と四幕目。三幕目の『渡海屋(とかいや)の場』『大物浦(だいもつのうら)の場』には、市太が演じる『いがみの権太』の出番はない。四幕目の『下市村(しもいちむら)の場』になって、ようやく出番が来る。そして、来年やる予定の五幕目『鮨屋(すしや)の場』では『いがみの権太』は主役だった。
 勘治の役、下女のおとくは三幕目に登場し、惣八の駕籠(かご)かきは四幕目に登場する。二人とも市太の役に比べれば随分と楽な役。それでも、今年の演技次第で、来年はいい役が貰えるかもしれないと張り切っている。市太にしても今年、うまく演じなければ、来年も権太をやれるとは限らない。仕事を終えて、皆が集まって来る前から稽古に余念がなかった。
 今日は芝居の稽古も休み。市太と勘治、おなつ、おなべ、おゆうはおゆくの茶屋『桔梗屋』に集まって、夕方から酒を飲んでいる。惣八は一昨日、家の金を持ち出したのがばれて、家から出して貰えない。勿論、その金は市太らと追分宿で遊んでしまった。
 おなつたちが雪之助から義太夫(ぎだゆう)を習い始めて早一月が経ち、三味線を持つ手も様になって来た。初めの頃はあの時、雪之助を聴いたおなつたち三人とおゆく、市太の妹のおさや、枡屋(ますや)の娘のおみやだけだったのが、今では村の娘たちがこぞって習っている。三味線のある者は畑仕事の合間にも弾き語り、ない者は口三味線でやっている。朝から晩まで三味線の音が鳴り響き、花街にいるような賑やかさ。しかも、皆、同じ義太夫を唸っている。どこに行っても、お染がどうした、久松がどうしたとやかましい。
 雪之助は娘たちに教えるだけでなく、毎晩、どこかに呼ばれて義太夫を披露している。夏の土用が来るまで草津もそれ程忙しくはないので、それまで、ここで稼ごうと腰を落ち着けてしまった。
「おい、勘治、雪之助に夜這(よべ)えをかけた野郎はいねえのか」
 突然、市太に聞かれ、勘治はむせて酒を吹き出した。
「もう、汚いわねえ」とおゆうが勘治が肩から下げている手拭(てぬぐい)をつかむと汚れた所を拭く。
「おい、そいつを使うな。大事(でえじ)な手拭なんだ」
 勘治はおゆうから手拭を引ったくる。
「なに言ってるのよ。自分が汚したくせに」
「まったく、もう」と勘治は手拭の汚れを気にしている。
「おい、おめえ、むせるとこをみると、てめえで夜這えをかけやがったな」市太が笑いながら聞く。
「とんでもねえ。俺アそんな事アしねえ」と勘治は首を振るが、
「あんた、お師匠とやったのね」とおゆうが鬼のような顔して睨(にら)む。
「なに言ってんだよ、違うって。まあ、やろうたア思ったがな、見事に失敗(しっぺえ)した。ありゃア並な女じゃねえ」
「この馬鹿。いい女を見りゃア、すぐやりたがるんだから」
 おゆうは勘治の手拭をつかむと土間に思い切り投げ捨てる。
「おい、何するんだよ。おめえ、許さねえぞ」
 勘治がおゆうを殴ろうとするのをみんなで止めに入る。痴話(ちわ)喧嘩はいつもの事なので、誰も気にしない。二人が落ち着くと市太は勘治に聞く。
「それで、おめえ、どうして失敗したんでえ」
「それが、そおっと布団ん中に入(へえ)ろうとしたら、どすのきいた声で、『命を張って来たんだろうね』って言うんだ。その手に尖(とが)った簪(かんざし)が握られてて、思わず寒気立って、スタコラ逃げて来たんさ。あん時の顔は、ほんと恐ろしかった。殺されるかと思ったぜ」
「ほう、簪を構えたのか」と市太は驚く。「まあ、女一人で旅するぐれえだからな。身を守るすべは知ってるに違えねえ」
「もしかしたら、江戸で人を殺して逃げて来たんかもしれねえ」
「お師匠はそんな人じゃないよ」とおなつは否定する。
「そうよ、そうよ。おまえが間抜けなんだ」と娘たちは口を揃える。
「あたしもその事、聞いたのよ」と煮物を持って来たおゆくが言った。
「女一人で旅するなんて危険じゃないのって聞いたのよ。そしたら、隙(すき)を見せなきゃ大丈夫だって。確かにそうかもしれないけど、雲助(くもすけ)大勢に襲われたらどうするのって聞いてみたの。そしたら、取って置きの啖呵(たんか)をきるんだってさ」
「何でえ、取って置きの啖呵ってえのは」
「そこまでは教えてくれなかったけど、あの人、数々の修羅場(しゅらば)をくぐって来たのかもね。勘治さんが恐れたように、雲助たちも恐れて逃げちゃうのかもしれないわ」
「へえ、すごいのねえ。普段のお師匠さんから、そんな事、ちっとも考えられないわ」
「ああ、疲れた」と言いながら噂の雪之助が顔を出した。
 おなつが言った通り、その優しい顔付きからは修羅場をくぐって来たような感じはまったくない。勘治が言った事さえ嘘のように思えた。
「お師匠、お師匠」とおなつが手招きする。
「お師匠、今晩はどちらに」とおなべが席を空ける。
「まあ、皆さん、お揃いで。お邪魔してもよろしいかしら」
 雪之助はおなつとおなべの間に納まり、市太を見てニッコリ笑う。
「橘屋さんの若旦那ですね。今まで、お宅にいたんですよ」
「なに、俺んちにか」
「ええ、おさやちゃんに誘われて。御隠居(ごいんきょ)さん、面白いお人ですねえ」
「うちの爺ちゃんはちっと変わってるからな」
「ええ、確かに変わってるわね。初めて、御隠居さんの離れにお邪魔した時なんか、あたしの顔をじっと見つめて、お妾(めかけ)にならないかなんて言ったのよ。しかも、おさやちゃんがいる前で。あたし面食らっちゃったわよ」
 市太が大笑いした。
「爺ちゃんの妾か。こいつアいいや」
「でも、最初にそんな事言われたから、何だか、あの御隠居さんには気を許せるの。やたらと親切面(づら)をしながら、下心のある男たちばかりだからね」とチラッと勘治の顔を見る。
 勘治はいたたまれずにうなだれる。
「勘治さんの事を言ったんじゃないよ。あたしを呼びながら、あたしの芸なんて聞きもしないで、いやらしい目付きで、ジロジロ見ている旦那衆が多いって事さ」
「それは言えるわね」とおゆくもうなづく。「女が一人でいると余計なお節介を焼く奴がいるのよ」
「それにしても、橘屋さんの御隠居さんは面白い人よ。色んな事を知ってるし、浄瑠璃(じょうるり)本もいっぱい持ってるわ。噂では聞くけど、今ほとんど聞けない昔の本もいくつもあるのよ。ほんと、為になるわ。いいお爺さんを持ったわね」
「ああ。俺がこうやって遊んでられるのも爺ちゃんのお陰さ。若え時の遊びは決して無駄にはならねえってえのが爺ちゃんの持論だからな。男ってえのは肝心要(かんじんかなめ)さえしっかりしてりゃアいい。肝心要を鍛えるにゃア、若え時にたっぷりと遊んでみるこったって、いつも言ってるよ」
「市太んちは問屋だから、そんな事が言えるのよ。遊んでても食べて行けるもの」とおゆうが急に真面目な顔で言う。「あたしんちなんか、一家四人で一生懸命、働いたって貧しいもの」
「そういうおめえは遊んでるじゃねえか」
「まあね。でも、この間の大霜は痛かったみたいだよ。もしかしたら、あたしもそろそろ働かなきゃアならなくなるかもしれない」
「働くっておめえ、身を売るんじゃあるめえな」と勘治が心配する。
「そこまではしないさ。でも、お師匠じゃないけど、草津で働くかもしれない」
「草津だと?」
「うん。親戚の伯母さんが今、草津で飯炊きをしてるんだ。その伯母さんに仕事口を聞いてみるかって事になってね」
「なんだ、おめえ、草津に行っちまうのかよ。どうにかならねえのか」
「うちは男手が親父しかいないからね。畑がダメだと親父が馬方やっただけじゃ追いつかないのさ」
「畜生め。何も草津に行かなくったっていいだんべ。なあ、姉さん、ここで働けねえのか」
 勘治はおゆくを見るが、おゆくは首を振る。
「見りゃわかるでしょ。こんな狭い店、人なんて雇えないわよ」
「どこかねえのかよ。市太、何とかしてくれ。おゆうが草津に行っちまったら、俺アどうすりゃいいんでえ」
「何とかしろったってなア」
 みんな暗い顔付きになって考え込む。畑が全滅して生活が苦しくなったのは、おゆうの家だけではなかった。娘たちが義太夫に熱中して賑やかで平和な村に見えるが、狭い畑しか持たず細々と暮らしている家々は深刻な状態に陥(おちい)っていた。
「いっその事、おめえがおゆうを嫁に貰っちまえばいいんじゃねえのか」
「そうか、そうすりゃアいいんだ。何も難しく考える事もねえや」と勘治は手を打つ。
「それもダメなの」とおゆうの声は暗い。
「親に話したら、家柄が違うからダメだって」
「何だと、家柄だと。何でえそりゃア」
「くそっ、また、家柄か。畜生め」市太は自棄気味に酒をあおる。
「おい、市太、家柄ってえのは何の事でえ」
 市太はおゆうの姉、おすわとの間にあった事を勘治に聞かせる。
「へえ、この村も色々と大変なんだねえ」と雪之助が溜め息を付く。
 暗い顔付きでしんみりしている所に錦渓(きんけい)と安治が慌ただしく飛び込んで来た。
「何だ、みんないたのか」と安治が笑って手を上げる。
「おゆくさん、とうとうやったぞ。明礬(みょうばん)石が見つかった」錦渓は嬉しそうな顔して、おゆくに言う。
「えっ、ほんとに」と錦渓を見るおゆくも嬉しそう。
「ほんとだとも。わしの目に狂いはなかったんじゃ」
「よかったわねえ。ほんと、よかったわ」おゆくは自分の事のように喜んでいる。
「一刻も早く、小松屋の旦那に知らせなけりゃならん。わしは明日、一旦、江戸に帰る事にした。しばしの別れを告げに来たんじゃよ」
「先生、江戸に帰るんですか」と勘治がすかさず聞く。
「ああ。旦那に現物を見せて、今後の事を相談せにゃアならんからな」
「江戸か。いいなア」
 勘治が江戸の話を聞こうと思ったら、「ねえ、詳しく聞かせてよ」とおゆくが錦渓を隅の方に引っ張って行ってしまった。
「おめえも明礬を捜してたのか」と市太が安治に聞く。
「先生から本の書き方を教わろうと思ってな。いつか、芝居の台本(でえほん)を書きてえんだ」
「おう、面白え奴を頼むぜ」
「本の書き方はまだだけど、本草学(ほんぞうがく)ってえのか、石とか薬草の事とかは教えてもらった。とにかく、色んな事を知ってんだよ」
「源内先生と一緒に長崎にも行ったらしいな。この間、俺も異国の言葉を教わったよ。もう忘れちまったけどな」
「そうなんだ、時々、阿蘭陀(おらんだ)ってえ異国の言葉を使うんだよ。まったく、チンプンカンプンさ」
「なあ、市太、俺たちも江戸に行かねえか」と勘治が思い詰めたような顔して言い出した。
「急におめえ、なに言ってんだ」
「だってよう、おゆうと所帯(しょてえ)を持っちまったら、もう江戸なんかに行けなくなっちまうじゃねえか」
「あんた、なに言ってんのよ。あたしとあんたは一緒になれないのよ」
「うるせえ。家柄が何だってえんでえ。誰が何と言おうとな、俺アおめえと一緒になるって決めたんだ。親が反対(はんてえ)しやがったら、俺アおめえと一緒に草津に行くからな」
「勘治‥‥‥」おゆうは嬉しくて涙を流す。
「あんた、なかなかいい男じゃないか。まあ、一杯おやりな」と雪之助が盃(さかずき)を差し出す。
「すまねえ」と勘治は盃を受けた。
「あたしたちも味方だからね。諦めるんじゃないよ」とおなつとおなべが力づける。
 錦渓とおゆくは隅の方でいい感じにやっている。あんな風来坊なんかダメよと言いながらも結構、いい雰囲気だ。
「なあ、だからよう、市太、先生と一緒に江戸に行こうぜ」
「ああ、そりゃア行きてえけどな」
「俺も行きてえけど、俺ア無理だ」と安治は簡単に諦める。
「なあ、本場の芝居(しべえ)を見に行こうぜ」
「先立つ物(もん)がねえだんべ。江戸まで行くとなりゃア、半端(はんぱ)な銭じゃアしょうがねえ」
「そこなんだ。当然、俺も銭なんかねえ。そこで俺はアレをおめえの爺さんに質に出す」
「なに、アレをか」
「ねえ、何よ、アレって」とおなつが二人の顔を見比べる。
「湯飲みだよ」と市太が答える。「五、六年前、客が宿代の代わりに置いてったんだそうだ。大(てえ)した物じゃねえと、こいつが貰ってな、ガラクタ入れに使ってたんだ。去年の虫干しん時、勘治の親父がうちの爺ちゃんに値打ち物があるかどうか見てくれって言って来てな。俺も一緒に行ったんだ。大した物はなかったが、それでも、何とかってえ偉えお人の書が見つかってな。勘治の親父も喜んでたぜ。そん時、勘治もついでに、大笹の市で買った絵を見てくれって言ってな、部屋に連れてったんだ。その絵はくだらねえ絵だったが」
「くだらなかアねえよ。湖龍斎(こりゅうさい)の春画(しゅんが)だぜ」
「十二枚(めえ)の揃い物のうちの三枚だけじゃア、大した値打ちもねえそうだ」
「そのうち値が上がるさ」
「まあ、絵の事はどうでもいい。そん時、爺ちゃんが埃(ほこり)だらけのその湯飲みを見つけてな。こいつア間違えなく値打ち物だって言ったんだ。詳しい事は知らねえが、何でも、すげえ湯飲みらしい」
「うめえ具合(ぐええ)に桐の箱もちゃんと取ってあった。こいつアいい物だから、箱の中にいれて大事(でえじ)にしろって言われたんだ。そして、十両は下らねえって言ったんだ」
「十両‥‥‥」おなつがつぶやいて、皆、驚いた顔して勘治を見ている。
「すごいじゃない。ねえ、誰だったの、そんな高価な湯飲みを置いてったのは」
「五、六年も前の事だ。まったく、わからねえ。そんな高え物だったとは親にも内緒だけどな。爺さんはそん時、もし、手放す気があるなら、わしが買い取ろうとも言ったんだ」
「ああ、確かに言ったぜ」と市太もうなづく。
「手放す気はねえけど、とりあえずは質に出して路銀(ろぎん)としようぜ」
「よし、それなら何とかなりそうだ。おっと、先生、明日のいつ、江戸に帰るんです」
 市太が錦渓に声を掛けると、錦渓はおゆくと何やら親密に話し込んでいる。
「何か言ったか」と錦渓が振り向く。
「先生、明日のいつ旅立つんです」
「朝一番に立つよ」
「俺たちも連れてって下せえ」
「そいつは構わねえが‥‥‥ああ、いいだろう。一緒に行こう」
「そうと決まりゃア、忙しい。勘治、さっそく、路銀作りと行こうぜ」
 市太と勘治は浮き浮きしながら店を出て行った。
「まったく、いい気なもんね」おなつたちは呆れ顔で二人を見送る。
「俺も行きてえなア」と安治が酒を飲む。
「一緒に行けばいいじゃない。お金はあるらしいしね」
「そうも行かねえよ。畑は台(でえ)なしになっちまったし、馬方(うまかた)稼ぎをしなくちゃアな」
「まったく、どういうんだろ。みんな、うちのために働いてるってえのに、のんきに江戸で芝居を見て来るってさ。畜生、あたしたちだって江戸見物したいわよ、ねえ」
「それよりさ、勘治の奴、そんな湯飲みを持ってんなら、おゆうを助けてやればいいのに、遊びに使っちゃうなんて、ああ、情けない」
 娘たちは二人の悪口を言いながら酒を飲み続け、離れた所では錦渓先生とおゆくが別れの盃を酌み交わしていた。

2020年3月25日水曜日

天明三年(一七八三)四月十六日

 四月も半ばになるというのに、いつまでも寒い。今朝はまた格別で、大霜(おおじも)が降って農作物は全滅となってしまった。朝早くから村人たちは畑に出て大騒ぎ。他の村とは違って、馬方(うまかた)稼ぎがあるとはいえ、やはり、農作業が中心だった。村人たちは頭を抱え、村役人を中心に今後の対策を練っている。
 村中が大騒ぎしているというのに、そんな事、どこ吹く風かと例のごとく、暇を持て余しているのは市太、勘治、惣八の三人。観音堂裏の若衆(わけーし)小屋で芝居の稽古とは名ばかりでゴロゴロしている。おなつたちは雪之助の所に通って、朝から晩まで三味線を弾いて唸(うな)っている。お染(そめ)久松(ひさまつ)、おさん茂兵衛(もべえ)、梅川忠兵衛(ちゅうべえ)と心中物に、もう夢中。市太たちが遊びに誘っても見向きもしない。
「こいつアたまらねえや」
 寝そべって本を読んでいた惣八が腹を抱えてゲラゲラ笑う。
「そんなにも面白えのか」と勘治が本を覗く。
 一見しただけだとただの浄瑠璃(じょうるり)本、ところが内容は大声では読めない春本(しゅんぽん)だった。作者は平賀源内、弟子の錦渓(きんけい)からの借り物で『長枕褥合戦(ながまくらしとねがっせん)』という。
「面白えも何もねえ。こいつアすげえよ。人形芝居(しばえ)にすりゃア、もう大うけ間違えねえ」
「どれ、俺にも読ませろ」
「待て待て、もう少しだ」と惣八は一人笑いながら、本を持って逃げて行く。
「へっ、勝手にしろい」と勘治はつまらなそうに煙草(たばこ)をふかしている市太の側に行く。
「なあ、市太、やっぱり、博奕(ばくち)をやろうぜ。まったく、退屈でしょうがねえ」
「ダメだ。今まで何のために我慢して来たんだ。今さら、博奕なんかやれるか」
「チェッ、つまんねえ」
「おめえだって、いい役を貰ったじゃねえか」
「そりゃそうだけどよ、隣村辺りでやりゃア、わかりゃアしねえだんべ」
「そうはいかねえ。博奕を打つんは馬方連中だ。噂はすぐに広まっちまう」
「そうか。それじゃア大笹にでも行くべえ。今日は市日(いちび)だぜ。久し振りに行ってみねえか」
「大笹か‥‥‥」と言ったきり、市太は乗って来ない。
「黒長(くろちょう)んちに行って、うめえ酒でも御馳走になろうぜ。おみのちゃんの酌(しゃく)でよう。まだ、おみのちゃんは嫁に行ってねえんだんべ」
 黒長というのは大笹宿の黒岩長左衛門の事で、この辺りでは有名な金持ち。名主(なぬし)を務め、問屋をやりながら酒造りもやっている。市太の母親が長左衛門の妹なので、市太も子供の頃から出入りしている。おみのはその娘で十九の器量よしだが、男まさりが玉に傷。花嫁修業どころか男たちに混じって、平気な顔して馬方をやっているジャジャ馬だった。長左衛門の悩みの種で、おみのの嫁の貰い手は当分、見つかりそうもない。
「行けるわけがねえや。年中、真っ黒んなって馬糞臭(ばふんくせ)え女を誰が貰う」
「あれだけフリがいいのに勿体(もってえ)ねえなア」
「何なら、おめえ、嫁に貰うか」
「いや、結構だ。俺ア遠慮しとくよ」
「たまには面を見てえが、大笹に行きゃア、藤次の奴が待ち構えていやがるぜ」
「くそっ、市日となりゃア、野郎も仲間を連れてウロウロしてるに違えねえ。三人だけで乗り込むんはうまくねえな」
 藤次というのは大笹の暴れ者、以前から市太たちとは仲が悪い。顔を合わせれば必ず、言い争いが始まる。それでも、市太は黒長の親戚筋なので、藤次もなかなか手が出せない。ところが、去年の夏祭り、市太らが大笹の若衆(わけーし)組に無断で、大笹の娘に夜這(よば)いをかけた。それが藤次にばれて大喧嘩となった。袋だたきにされる所を黒長の伜、新太郎(おみのの兄)の仲裁で詫びを入れ、事なきに済んだが、藤次は未だに根に持っている。今度、大笹に顔を出したら、半殺しにしてやると息巻いているので、市太たちもそれ以来、大笹には近づいていない。
「このままじゃア、祭りにも行けねえぞ。今年は『菅原(すがわら)伝授(でんじゅ)』だんべ。見てえなア」
「奴も芝居(しべえ)に出てりゃア騒ぎも起こすめえ。ただ、終わってからが問題(もんでえ)だな。俺たちが来てると知りゃア捜し回るに違えねえ」
「畜生め、芝居見物もできねえのか」
「六月までにケリをつけなきゃならねえな」
「黒長の筋から、奴を押せえられねえのか」
「表向きは押せえられるさ。しかし、伯父御の力は借りたくねえ。腰抜けだと思われらア」
「なあ、市太、今、気づいたんだけどよ、もしかしたら、藤次の野郎、おみのちゃんに気があるんじゃねえのか」
「藤次がおみのにか‥‥‥そういやア、奴はおみのが出て来ると急におとなしくなるな。こいつア面白え。奴がおみのに気があるとすりゃア、奴の弱みを握れるかもしれねえ」
「おみのちゃんを利用すんのか」
「ああ、ちょっと待てよ」と市太は寝そべって考える。
 勘治は芝居の台本を手に取って眺める。勘治の役は渡海屋(とかいや)の下女おとく、実は安徳(あんとく)天皇に仕える官女(かんじょ)。大した役ではないが、ちゃんと台詞(せりふ)もある。選ばれた時は、何で俺が女形(おんながた)をやらなきゃならねえんだと反発したが、来年こそはいい役をつかもうと、今ではしっかりやる気になっている。勘治が台詞を口の中でモゴモゴ言っていると惣八が、「こいつア傑作だ。面白かったぜ」と源内の本を勘治に渡した。
「どれどれ」と勘治は台本を捨て、目を輝かせて春本を読み始める。
「おい、市太、おめえんちの爺さんが、山守(やまもり)んちの爺さんと一緒に来たぜ」
 縁側から観音堂を眺めながら惣八が言う。
「爺ちゃんが来た?」と市太は起き上がる。
 二人の年寄りが杖(つえ)を突きながら浅間山を眺めていた。
「七十過ぎの爺様が達者なこった」と惣八は煙草盆(たばこぼん)を引き寄せて煙管(きせる)をくわえる。
 市太の祖父、市左衛門は村一番の物知りで、鶴のような細い体に仙人のような白い髭(ひげ)を伸ばしている。十年も前に隠居(いんきょ)して、気楽に俳諧(はいかい)や和歌をひねったり、義太夫を唸ったり、村の娘たちに読み書きを教えたりと忙しい。若い頃は随分と遊んだという。村で最初に義太夫を唸ったのも市左衛門だし、村芝居をやろうと言い出したのも市左衛門。若衆頭になった時には、今も使っている芝居用の舞台も作ってしまった。その時に演じた助六(すけろく)は、今でも村の語り草になっている。昔から新しい物好きで、珍しい物には何でも飛びつく。堅苦しい考えの大人たちの中で、市左衛門だけは若者の考えに共感する。若者たちにとって物わかりのいい長老だった。
 もう一人の爺様は小柄だが、がっしりとした体格の坊主頭。今は隠居しているが、長年、山守を務めて年がら年中、山の中を歩き回っていた山男、長兵衛。
 山守というのは正式には御山守番役(おやまもりばんやく)という。浅間山北麓一帯は俗に南木山(なぎやま)と呼ばれ、幕府の御留山(おとめやま)だった。山の御用林を管理するために大笹の黒岩長左衛門が代々、御山見役(おやまみやく)を務めている。御山見役の下に御山守番役がいて、番役は南木山の入会権(いりあいけん)を持っている鎌原、大笹、芦生田(あしうだ)、大前、狩宿(かりやど)、小宿(こやど)の六村から各一人づつ選ばれて、山の監視を行なっていた。鎌原村では長兵衛の家が代々、番役を務め、村の中では一番、浅間山に詳しかった。
「爺ちゃん、そんなとこで何してんだい」
 市太が声をかけると市左衛門は振り返り、「おう、芝居の稽古か。結構、結構。うまく行ってるか」と笑いながら近づいて来る。
「まあまあだよ。それより、爺ちゃん、何やってんだい」
「いや、なに、ちょっと、あの頑固爺(がんこじじい)いとお山の事で言い争いになってな」
「市左(いちざ)、ほれ、見てみい。あの煙じゃ。あの煙が危ねえんじゃよ」と長兵衛が煙を指さす。
「どの煙じゃ。いつもと変わらんじゃねえか」
「だから素人(しろうと)は困るっちゅうんだ」
「煙がどうしたんだ」と市太が二人の年寄りを見比べる。
「山守の頑固爺いが、お山が危ねえって言うんじゃよ。もう一度、でっけえ浅間焼けがあるって聞かねえんじゃ」
「若旦那もよく聞いてくんな。わしゃア、お山の事は隅から隅まで知ってる。この間の焼け方はな、三十年前のに似てるんじゃ。宝暦(ほうれき)四年(一七五四)の六月にお山が焼け、軽井沢方面にかなりの灰が積もったんじゃ。そして、七月の大焼けの時は灰だけじゃなく、焼け石も吹っ飛んで来た。鎌原にも飛んで来たんじゃ。山根(山麓)の樹木も焼けてなア、森から獣(けもの)が逃げて来て、大騒ぎになったんじゃ。それだけじゃア治まらねえ。その年は秋が過ぎるまで、何度も何度も焼けたんじゃ」
「するともう一回(けえ)、でっけえ大焼けがあるってえのかい」市太は長兵衛の皺(しわ)だらけの顔を見つめてから、浅間山の煙に目を移した。
「そうさ。気をつけなくちゃアならねえ。お山を甘く見るととんだ目に会う。そん時、お山が静かになった後、わしはお山に登ってみた。てっぺんまで行って来たんじゃ。まったく、ひでえもんじゃった。森が焼けて、真っ黒になった大木がゴロゴロしてやがった。あちこちに、お山から飛んで来たゴツゴツしたでっけえ岩は転がってるし、やっとの事で、お山のてっぺんまで行ってみたら、また、ぶったまげた。竈(かまど)(噴火口)が割れて、そこから黒えゴツゴツした岩が流れ出たような格好で固まっていやがった。そして、無門(むもん)ケ谷に新しい竈ができてやがったんじゃ。この前のお山焼けは、その竈が焼けたに違えねえ。きっと、もっとでっけえのが来るに違えねえ」
「この間はたまげたが、あれからもう七日が過ぎた。お山の煙も落ち着き、もう大丈夫じゃとわしは言うんじゃがな、こいつは一向に聞かんのじゃ」
「うんにゃア、危ねえ、危ねえ」
「山守の爺さん、おめえはお山の事は何もかも知ってるかもしれねえがよう、ただの取り越し苦労だ。お山は大丈夫さ」
 惣八がヘラヘラ笑いながら言うと長兵衛は厳しい顔付きで、「おめえら若造に何がわかる」と本気になって怒りだす。
「いいか、よく聞け」
 長兵衛は若衆小屋の縁側に腰掛け、市太、惣八、勘治の三人をちゃんと座らせ、六十年も前の浅間焼けから延々と、あん時はこうだった、そん時はこうだったと語り始めた。
 長兵衛は熱を込めて話すのだが、この時、長兵衛の話を信じた者はいなかった。

2020年3月24日火曜日

天明三年(一七八三)四月十三日

 鎌原(かんばら)村を見下ろす西の高台に観音堂がある。
 村の中央を走る表通りから、惣八の家『炭屋』と旅籠屋『扇屋(おうぎや)』の間にある通りへ曲がり、しばらく行くと『十日の窪(くぼ)』と呼ばれる窪地に出る。そこに小さな稲荷社(いなりしゃ)があり、道は二手に分かれる。左に行けば西窪(さいくぼ)村、あるいは大前村、大笹(おおざさ)宿(じゅく)へと行く。正面の細い坂道を登って行くと途中から石段があり、その上に観音堂があった。観音堂の裏側は深い原生林になっているが、表側の眺めはよく、浅間山が見渡せた。その観音堂の裏手に若衆(わけーし)小屋がある。九年前に大工の八右衛門が建てたもので、若い者たちが芝居の稽古(けいこ)や会合(かいごう)に利用している。
 村の中程、東側にある諏訪明神の森の中に芝居の舞台があり、その近くにも若衆小屋はある。以前はそこに集まって芝居の稽古をしていた。やかましい婆さんが近くに住んでいて、夜遅くまで稽古をしていると必ず、文句を言いに来た。それが毎晩の事なので、これでは稽古ができないと村から離れた観音堂の裏に小屋を建てたのだった。その婆さんも三年前に亡くなり、今では下の小屋でも稽古ができるようになった。しかし、下の小屋では中老格(ちゅうろうかく)の者たちが稽古をするので、市太たち下っ端はもっぱら、観音堂の小屋を利用していた。
 若衆組は十五歳から三十歳までの男たちの組織で、祭礼の奉仕、村内警備、消防、婚姻の仲立ちなど村の行事を中心になって行なっていた。二十五歳から三十歳までを中老と呼び、若い者たちの指導に当たった。
 市太と惣八、同い年の安治が芝居の稽古をするためにやって来たのだが、いつしか飽きてゴロゴロしている。そこにやって来たのが、エレキテルで有名な平賀源内(げんない)の門人という風変わりな浪人、片桐錦渓(きんけい)。万座山の硫黄(いおう)採掘をしている江戸の薬種(やくしゅ)問屋、小松屋に頼まれて、明礬(みょうばん)を捜し回っている。明礬は媒染(ばいせん)剤や革のなめし剤、絵の具の滲(にじ)みを防ぐために使う礬水(どうさ)の材料となり、傷の治療などにも用いられた。五日前、小松屋と一緒に万座の硫黄を調べに来た錦渓は、浅間山麓に明礬があるに違いないと確信を持ち、鎌原村に腰を落ち着けて、毎日捜し回っていた。
 平賀源内は四年前の安永八年(一七七九)の暮れ、人を殺して投獄され、そのまま牢屋の中で亡くなった。有名な浄瑠璃(じょうるり)『神霊矢口の渡し』を書いたのが風来(ふうらい)山人(さんじん)と呼ばれる源内先生だと市太たちも知っているが、詳しい事までは知らない。錦渓が源内の事をあれこれ面白く話していると娘たちが顔を出した。おなつ、おなべ、おゆうの三人娘。
「やっぱり、ここにいたのね。もう馬方稼業は終わり?」
「やっと終わったよ。まったく、まいったぜ」
 草津からのんびり帰って来たら、市太が無断で金を持ち出したのがばれていた。さんざ小言を言われたあげく、一昨日(おととい)と昨日と荷物を馬の背に乗せ、片道二里の狩宿まで何往復もしていたのだった。
「それにしても、よく逆らわないで、馬方なんてやってたわね」
「俺アな、今度(こんだ)の芝居(しべえ)に賭けてんだよ。権太に賭けてんだ。ほんとなら今頃、こんな村、飛び出すはずだった。ところがよ、お頭がこの俺に権太の役をくれた。権太の役は俺にしかできねえってな。見事にやり遂げてみせるぜ。蔵なんかに閉じ込められてたまるかよ」
「あんた、蔵に閉じ込めるって脅(おど)されたんだ。そういえば、前にも入れらたっけ。あたしってものがありながら、他人(ひと)のかみさんに手を出して」
「うるせえ、黙れ」
「ほう、若旦那は他人の女房にも手を出すのか」と錦渓が感心する。
「そいつがいい女なんですよ、先生。源七の野郎にゃア勿体(もってえ)ねえ」と惣八が言うと、
「おう、知っておるぞ」と錦渓はうなづく。「確かに源七の女房はいい女じゃな。あの女房に手を出したか。そいつは面白え。その顛末(てんまつ)を聞かせてくれんか」
「先生、よして下せえよ」
「いや、ひょっとしたら面白え本が書けるかもしれんのでな」
「本て、先生も浄瑠璃を書くんですか」と安治が膝を乗り出して聞く。
「鳩渓(きゅうけい)(源内)先生の弟子じゃからな。わしだって浄瑠璃ぐれえ書くさ」
「先生、『鎌原心中(しんじゅう)』なんて書いて下せえよ」
「おいおい、おめえ、俺を殺す気かよ」市太が安治の肩を拳で軽く突く。
「市太とおすわがお山に登って、釜(かま)(噴火口)ん中に身を投げるんだ」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
「そうなると『浅間山心中』の方がいいな。ねえ、先生、『浅間山心中』で行きましょう」
「ねえ、あたしはどうなるのさ」とおなつが口を挟む。
「そうさなア、おめえにはクドキの場面をやってもらう。『酒屋』のお園みてえにな」
「今頃は市太さん、どこにどうしてござろうぞって言うのかい」
「そうさ、いいぞ。ねえ、先生」と安治はすっかり浄瑠璃作者になったつもりでいる。
「心中するのはいいが、それまでの顛末が肝心だ。まずはそいつを聞かせてくれい」
「先生、やめてくれ。俺を笑(われ)え者(もん)にすんのはよう」
「笑い者にするんじゃない。他人の女房に横恋慕(れんぼ)して蔵に閉じ込められるなんて、そうある話じゃない。蔵を破って、こいつが言うように浅間山で心中したら、いい話になるかもしれんぞ」
「それじゃア、俺が詳しい話をしてやる」と惣八が話に乗ってくる。
 市太がやめろと言うが、おなつたちも詳しい話が知りたいと言い出した。勝手にしろと背中を向けて寝そべる市太を尻目に惣八は話し出す。
「そもそも二人の馴れ初めは、村の外れの権現(ごんげん)様の、年に一度のお祭りに、いがみの市太がおすわを誘い、二人手を取り仲むつまじく、通う夜道に満月の、照らすその中、いがみの市太、おすわを暗い森陰に」
「いい加減な事を言うな」と市太は上体を起こして怒る。「ありゃア夜じゃねえ、まだ日暮れ前(めえ)だ」
「いいじゃねえか。夜の方が絵になる」
「勝手にしやがれ」と市太はまたもや、ふて寝する。
「ねえ、あんたは黙っててよ」おなつは市太の背をたたくと、「それからどうしたの」と先を促す。
「いがみの市太、おすわを暗い森陰に引っ張り込むと口を吸い、裾(すそ)をまさぐるその手つき」
「いいぞ、春本(しゅんぽん)の趣向(しゅこう)になって来たな」と錦渓は手をたたく。
「イヤよダメよとおすわは髪を振り乱し、市太の首にしがみつく」
「ちょっとやめてよ」とおすわの妹、おゆうが止める。「姉ちゃんがそんな事するわけないじゃない」
「まあ、とにかく、あの祭りん時、二人はできたんだよ。それから二人はうまく行ってたんだが、突然、次の年の秋、市太はおすわに振られるんだ。あたし、源七さんのお嫁さんになるのってな。市太は『桔梗屋(ききょうや)』でやけ酒を食らったあげく、出戻りのおゆくを抱いちまう。おすわは源七の嫁になって、市太もおゆくに夢中になって、その後、おなつといい仲になって、おすわの事なんかすっかり忘れたかに見えたが、去年のお諏訪様の祭りの後片付けをしてる時、ばったり二人は会っちまう。何も言わずに見つめ会う二人、回りを見れば人はいない。いがみの市太、おすわを暗い森陰に引っ張り込むと口を吸い、裾をまさぐるその手つき、イヤよダメよと」
「それはいいっつうの」とおゆうが睨む。
「とにかく、ふたりは森陰で抱き合った。そこを村人に見られ、市太の親父に告げ口をして、市太は蔵に閉じ込められたってえ顛末だ」
「その村人ってえのは一体(いってえ)、誰だったんでえ」と市太が寝返りを打って惣八に聞く。
「そいつア今もって謎だ」
「若旦那。その時、おすわを無理やりやっちまったのか」と興味深そうに錦渓が聞く。
「そうじゃねえ。あん時は自然にああなっちまったんだ。おすわは決して逆らわなかった。何も言わなかったけど、あいつ、源七とうまく行ってねえんじゃねえかと俺ア思ったぜ」
「成程な。自然の成り行きか‥‥‥」
「姉ちゃん、好きで源七のお嫁さんになったんじゃないんだよ」とおゆうが言う。「姉ちゃん、今でも市太が好きなんだよ。でも、姉ちゃんは諦めたんだ」
「なに言ってんだ。何を諦めるってんだ」
「あたしにもよくわからないけど、家柄(いえがら)っていうんが違うんだよ」
「家柄だと?」市太は体を起こすとあぐらをかいて、おゆうを見つめる。
「あたし、親たちが話してるのを聞いちゃったんだ。今はみんな、お百姓をしてるけど、この村には昔、お侍(さむらい)だった家柄があって、そういう家柄の者と昔からお百姓だった家柄の者は一緒になれないんだって」
「そんなの初耳だぜ」と市太たちは驚く。
「あたしだってよく知らないけど、大人たちはみんな知ってるみたい。祝言(しゅうげん)を挙げる前に親たちは組頭(くみがしら)にその事を聞いて、家柄が合ってるかどうかを確かめるらしい。何でも、鎌原様の所に古い人別帳(にんべつちょう)があって、そういうのがみんなわかるんだって」
「確かに鎌原様は昔はお殿様だったさ。今でもお侍(さむれえ)だけど、沼田の真田家が潰れて、鎌原様の家来たちが浪人して百姓になったんは、もう百年も前(めえ)の事だんべ。そんな昔の家柄なんか持ち出して、好きな者(もん)同士でも一緒になれねえなんておかしいぜ」
「おかしいたってしょうがないじゃない。この村の掟(おきて)みたいになってるんだもの」
「へっ、くだらねえ」
「くだらねえかもしれないがな」と錦渓が真面目な顔をして言う。「今の世の中、すべて家柄とか、身分で成り立ってるんだよ。たとえば、この村にはいねえが穢多(えた)、非人(ひにん)という者たちがいる。百姓たちは奴らを馬鹿にする。非人の娘を嫁に貰う百姓はいねえだろう」
「それとこれとは話が別だよ、先生」
「いや、同じさ。非人も百姓も同じ人間だ。違うとこなんてありゃしねえ。それじゃア、もし、おまえが武士の娘に惚れたらどうする」
「武士の娘になんか惚れるわけがねえ。そんなの、この辺をウロウロしてねえからな」
「あら、一人いるじゃない」とおなつが言う。「鎌原様のお嬢様よ」
「小菊様はまだ十一だ」
「でも、あと五、六年したら、いい女になりそうよ」
「ほう、鎌原様にそんなお嬢様がいらしたのか。丁度いい。もし、おまえがその小菊様に惚れたとして、お手討ちを覚悟で添い遂げようとするか」
「そんなの、なってみなけりゃわからねえ」
「そうだろうな。おすわとおまえの場合、おすわはかなわぬものと諦めたんだよ」
「くそっ、くだらねえ」
「ねえ、あたしんちはどうなのさ」とおなつがおゆうに聞く。「あたしんちと市太んちは身分違いなのかい」
「そんなのあたしに聞いたってわからないよ。ただ、村役人をやってるうちは昔はお侍だったらしいよ」
「あっ、うちのお爺ちゃん、組頭だった」とおなつは大喜び。「お侍だったんだわ。よかったア、市太と同じね」
「ねえ、惣八、あんたんちは村役人なんかやってたの」とおなべが心配そうに聞く。
「さあな、聞いた事もねえよ」惣八は首を傾げる。
「あたしも聞いた事ないけど、どうなんだろ」
「なアに、切り離されるような事んなったら、二人で村を飛び出しゃいいさ。どうせ、俺ア次男坊だ」
「畜生め、そいつを知ってりゃア、俺だっておすわを連れて村を出たんに」市太が悔しがると、
「そうなったら、あたしはどうなんのよ」とおなつがすねる。
「そん時、おめえはまだガキだったんべ」
「そんな事ないよ」
「うちはどうなんだんべ」と安治が深刻な顔して言った。
「おめえは今んとこ誰もいねえだんべ」と惣八がゲラゲラ笑う。
「そりゃそうだけど‥‥‥」
「ほう、惚れた奴がいるのか」
「そりゃア俺だって」
「いるけど、相手にされねえか」
「そうじゃねえんだ。まだ‥‥‥」
「誰でえ、言っちまえよ。力になるぜ、なあ、市太」
 惣八が市太に声を掛けても、市太は腕組みして何かを考えている。
「ほんとか。ほんとに力になってくれるかい」と安治は本気になっている。
「おめえだけ相手がいねえんじゃ、こっちが気い使うからな」
「それじゃア言うけど、おさやちゃんなんだ」
「おさやだと。おめえ、まさか」と惣八は市太を見る。
 市太は安治の話を聞いていない。おなつたちが急に笑い出したので、どうかしたのかと惣八を見る。
「こいつがおさやちゃんに惚れてんだとさ」
「なに、おさやに惚れてるだと」市太は安治を見る。
 安治は神妙にうなづく。
「何を言ってやがる。ありゃアまだガキだ」
「そんな事アねえよ。もう十七だし、おさやちゃんはいい女だ」
「ダメだ、ダメ。おさやはダメだ」
「そんな、力になるって言ったじゃねえか」
「力になってやれば」とおなつが言う。「あたしだって、あんたと会ったのは十七だったじゃないか」
「おさやはおめえなんかと違うわ」
「どう違うのよ。問屋のお嬢さんだから違うってえの」
「そうじゃねえけど、おめえたちとは違う」
「言うんじゃなかった」としょんぼりしている安治。
 そこに、「大変(てえへん)だ」と駈け込んで来たのは勘治。
「何だ、おめえ、何してやがった」惣八が聞くと、
「昨夜(ゆんべ)、うちに女義太夫(おんなぎだゆう)が泊まったんだ」と勘治は息を切らせながら言う。
「女義太夫だと」
「そうさ、弾き語りをするんだ。雪之助っていって、そいつがまたいい女なんだ。草津に行く途中なんだが、うちの親父がちょっと喉(のど)を聞かせてくれって頼んだら、ニッコリ笑って語り始めた。いいねえ。さすが、江戸で鳴らした喉は全然違うぜ。親父の奴、一人で聞くんは勿体(もってえ)ねえと、あちこち声を掛けやがった。みんな集まってるぜ。おめえたちも早く来いよ」
 そう言うと勘治は慌てて戻って行く。
「そいつア面白そうだ。女義太夫なんて噂じゃ聞くが見た事アねえ。行こうぜ、行こうぜ」と惣八と安治が後に続く。
 錦渓先生も面白そうだなと付いて行く。娘たちも後を追う。
 おなつが戻って来て、「ねえ、あんたは行かないの」と一人残っている市太に声を掛ける。
「女が義太夫を唸るだけだんべ。面白くもねえ。それより、おゆうの話は本当なのか」
「ほんとでしょ」
「何で、今まで黙ってたんだ。一言言ってくれりゃア‥‥‥」
「言えなかったのよ。今まで、そんな家柄や身分なんて知らなかったのに、急に、市太んちとおすわんちは身分違いだからダメだって言われて。おすわも苦しんだ末に諦めたのよ」
「へっ、くだらねえ。それにしたって、すぐに源七の嫁になる事もねえだんべ」
「一緒になれないってわかったから、もう自棄(やけ)っぱちになったんじゃないの」
「畜生め」
「あんた、また騒ぎを起こさないでよ。おすわはもう源七のおかみさんなんだから。間男(まおとこ)なんてしたら、ほんとは捕まって江戸の牢(ろう)に入れられちゃうんでしょ」
「そんな事ア知るか」
「ねえ、そんな事、いつまでも考えてないで、あたしたちも女義太夫を聞きに行きましょ」
「勝手に行け」
 おなつは仕方なく、市太を置いて行く。
「あ~あ、面白くもねえ」
 市太は小屋から出ると観音堂の側まで行き、浅間山を眺めた。いつものように煙を上げている。四日前の恐ろしい地鳴りが嘘だったかのように、青空の下、白い煙を上げている。それにしても四月も半ばになるというのに今年は寒い。長半纏(ながばんてん)の襟(えり)をかき合わせ、ふと、石段の下を見ると、おなつが笑いながら手を振っている。
 市太は苦笑して、「お~い、待ってろよ」と石段を駈け降りた。
 表通りに出て左に曲がると、すぐ前を甚太夫(じんだゆう)の手を引いたおろくが歩いていた。
「あら、お師匠(ししょう)も呼ばれたみたいね」
 おなつの声を聞いて、おろくが振り返った。
「おめえたちも鶴屋に行くのかい」と市太はおろくに聞く。
「はい」とおろくは言ったただけで、すぐに前を向いて歩き続ける。
「お師匠を呼ぶとなると、その女義太夫、余程の腕なのね」とおなつはおろくを真似て、市太と手をつなぐ。
「何やってんだ。みっともねえ」
「いいじゃないよ。たまには」
「うるせえ」と言って、市太は懐手(ふところで)をする。
 おなつは笑うと、「寒いよ」と言って、市太の袖(そで)の中に手を差し入れて肘(ひじ)につかまる。
「離れろっていうに」
「いやだ」おなつは駄々っ子のように首を振る。「ねえ、見て、あんたのお爺さんも枡屋(ますや)の旦那と一緒に行くみたい。あれ、おさやとおみやも一緒だよ」
「どうやら、義太夫好きがみんな集まるようだな」
「あんたの親父さんは行かないの」
「さあな。朝っぱらからどっかに行ったぜ。まだ、帰って来ねえんじゃねえのか」
 観音堂から表通りに出ると、左の角に旅籠屋『扇屋(おうぎや)』、一軒おいて名主の儀右衛門の家、その隣に『江戸屋』という硫黄(いおう)を扱う店がある。江戸の薬種問屋、小松屋の出店で、錦渓先生はそこの世話になっている。その隣に『枡屋(ますや)』という酒屋があり、十王堂へと行く細い路地を過ぎると市太の家、問屋の『橘屋(たちばなや)』がある。隣が『古久屋(こくや)』という米屋、その隣に大笹の関所番を勤める鎌原様の屋敷がある。
 鎌原様は戦国時代からずっと、鎌原村の領主だった。沼田の真田家に仕え、家老も勤める家柄だったが、百年前の天和(てんな)元年(一六八一)、領民を苦しめた悪政によって真田家は改易(かいえき)されてしまった。真田家の支配地は天領(幕府の直轄地)となり、家臣たちは皆、浪人となった。鎌原様は大笹の関所番に任命されて、辛うじて武士の身分を保ったのだった。関所番になって、今は五代目の要右衛門(ようえもん)が当主、一月交替で大笹に詰めている。要右衛門は五十近くになり、まだ隠居はしていないが、関所番は長男の浜五郎に任せて、村の子供たちに読み書きを教えていた。
 以前、村の者たちはほとんど読み書きができなかった。それでも農作業や馬方稼業には別に不便でもなかったが、村で芝居をするようになると台本が読めなければ話にならない。そこで、鎌原様が教える事となった。市太たちも鎌原様から教わった。
 広い敷地を有する鎌原様の屋敷の前を通り過ぎると、おなつの家、古着屋の『栄屋』があり、二軒おいて『桔梗屋』という茶屋がある。鎌原屋敷から桔梗屋までの道の反対側は諏訪明神の森になっていて、参道の入り口、鳥居の脇に高札(こうさつ)が立っている。勘治の家、旅籠屋の『鶴屋』は諏訪の森の向こう側、二軒目にあった。
 桔梗屋の前を通ると、「ちょいと、若旦那」と声を掛けられた。
 振り返ると桔梗屋の女将、おゆくが襷(たすき)を外しながら出て来た。
 芦生田(あしうだ)村に嫁いだが、子供ができずに離縁され、四年前、村に戻ると茶屋を開いた。もう二十八の年増(としま)だが、村評判の器量よし。再婚話も数々あるが、そんなのには見向きもせずに気ままに暮らしている。三年前から甚太夫に入門して、村の旦那衆と一緒になって義太夫を唸っている。おすわに振られた市太といい仲になり、一年近く続いたが、おなつが現れ、自然と足は遠のいている。
「鶴屋さんに行くんでしょ。あたしも行くわ、ちょっと待ってて。まあ、おなっちゃん、随分、仲がおよろしいこと」
「女義太夫が来たんじゃ、姉さんも負けられねえな」市太が言うと、
「なに言ってんのよ」とおゆくは市太をぶつ真似をする。「あたしのなんか、まだ聞かせられないわよ。噂じゃア、えらい別嬪(べっぴん)らしいじゃない。女義太夫なんて、顔だけでもお客を呼べるらしいからねえ。どれだけの腕があるんだか、しっかりと見てやんなきゃね」
「やっぱり、負けられねえと思ってんじゃねえか。相変わらずの強がりだ」
「あら、そんな事ないわよ。最近、めっきり弱気になっちゃったわ」
「どうした、何かあったのかい」
「最近、若旦那が来なくなっちゃったからね」
「なに言ってやがる。路考(ろこう)たア続いてんだんべ。それに、先生も出入りしてるって評判だぜ」
「先生はダメさ。訳のわからないもんに夢中になっててさ。変わり者(もん)だよ、あれは」
「早く行こう」とおなつが市太の袖を引く。焼け棒杭(ぼっくい)に火が付きやしないかと気が気でない。
「さて、お手並みを拝見と行きましょ」
 おゆくはおなつが睨むのも平気な顔で市太に寄り添う。
 鶴屋の二階の客間には、女義太夫の雪之助を囲んで、二十人余りが集まっていた。三味線を抱えた雪之助は噂通りの別嬪だった。江戸っ子だけあって、あか抜けていて、何もかもが粋(いき)だ。旦那衆は鼻の下を伸ばして、雪之助の話に耳を傾けている。
「どうだ、大(てえ)した玉だんべ」と勘治がニヤッとする。
「あれだけの玉がよく、江戸を出て来たな」
「色々と訳ありなんだんべ」
 勘治の父親、五郎助(ごろすけ)が声を掛けると、雪之助は用意された次の間に移り、客たちはこちらの間に並んだ。市太たちも勘治たちのいる後ろの方に座り込む。
 一番前には五郎助、おなつの父親、政右衛門と惣八の父親、弥惣治がいる。旅籠屋『扇屋』の旦那、清之丞(せいのじょう)と小間物屋『萬屋(よろずや)』の旦那、善右衛門、そして義太夫の師匠、甚太夫が陣取っている。
 甚太夫は幼い頃に失明し、十五の頃より市太の祖父、市左衛門から三味線を習い、音に対して物凄く敏感で物覚えもいいので、軽井沢の師匠について本格的に義太夫節を学んだ。二十一の時、修行を終えて村に戻り、以来、村の旦那たちに教えていた。
 二列目には鶴屋の二軒隣にある髪結い床の隠居、六兵衛、旅籠屋『桐屋』の旦那、三太夫、『枡屋』の旦那、平太夫、そして、市太の祖父、市左衛門も妹のおさやを連れて座っている。おさやの隣には平太夫の娘おみや。おさやとおみやは隣同士の仲よしだった。その後ろに観音堂から来た錦渓、安治、惣八におなべ、勘治におゆうがいて、市太、おなつ、おゆくが座り、一番後ろの隅に、甚太夫を連れて来たおろくが小さくなって座っていた。
「さあ、雪之助さん、自慢の喉をみんなに聞かしてやって下さい」
 五郎助が言うと、雪之助は軽く笑ってうなづき、三味線を構え、音を合わせてから義太夫節を語り始めた。
「年のうちに春を迎えて初梅の、花も時知る野崎村、久作(きゅうさく)という小百姓、せわしき中に女房は万事(ばんじ)限りの膈病(かくやまい)、娘おみつが介抱も、心一杯二親に、孝行臼(うす)の石よりも、堅い行儀の爪(つま)はづれ、在所(ざいしょ)に惜しき育ちかや~」
 三年前に大坂の竹本座で初演された『新版歌祭文(うたざいもん)』、お染久松(そめひさまつ)の『野崎村の段』だった。時代物は甚太夫によって聞き馴れているが、心中物は珍しく、娘たちも真剣な顔をして聞き惚れている。
 終わった後、おなつが教えてくれと言い出すと、おゆくまでもが言い出して、旦那衆も娘たちが浄瑠璃(じょうるり)を覚えるのはいい事だと賛成した。草津に行ってお座敷勤めをするつもりだった雪之助は皆に引き留められ、しばらく、村に滞在する事に決まった。
 旦那衆がよかったよかったと言いながら引き上げると、雪之助は娘たちに囲まれ、質問攻めに会っていた。
「さてと、わしも遊んでばかりもいられねえ。山歩きをして来るか」と錦渓も出て行く。
 何も言わず隅に控えていたおろくが立ち上がり、甚太夫の手を引いて帰ろうとした。
「おめえは教えてもらわねえのか」市太がおろくに声を掛けると、
「あたしも習いたいけど、でも、ダメなの」と首を振る。
 おろくは寂しそうに笑って去って行った。
「ねえ」とおろくの後ろ姿を見ていた市太の袖をおなつが引っ張る。
「あんな暗い女なんか、どうだっていいじゃない。それよりさ、あたしにもできると思う」
「やりゃアできるだんべ。親父の太竿(ふとざお)(義太夫節の三味線)を借りて、まあ、頑張ってやるこった」
「まったく冷たいんだから、あんたも習いなさいよ」
「俺ア今、芝居(しべえ)で忙しいんだよ」
「忙しいたって、お稽古なんかちっともしてないじゃない」
「まだ間があらア。やっぱり、舞台(ぶてえ)ができて、ちゃんと衣装をつけてからじゃねえとな」
「そうなってから慌てないようにね。舞台で恥かいたら、みっともないわよ」
「うるせえ。恥なんかかくか」
 ゴーンゴーンと延命寺(えんめいじ)の鐘が正午を知らせた。おゆくが御馳走してあげると雪之助を誘い、みんなして『桔梗屋』へと移動した。

2020年3月23日月曜日

天明三年(一七八三)四月九日

 静まり帰った真夜中、突然、ドカーンと物凄い音と共に家が揺れ、市太は目を覚ました。隣に寝ていたお浜は目を丸くして市太の腕にしがみついている。
「おい、なんだ、地震か」
「何なの、一体。さっき、物凄い音がしたわ。こんな夜中に雷が落ちたのかしら」
「雷だと? 馬鹿言うねえ。雷と地震が一緒に来たってえのか」
 雷の方は治まったようだが、地震の方は治まらない。部屋がミシミシ揺れて、障子(しょうじ)がガタガタ言っている。
「おい、こいつア危ねえぞ。うちが潰れるかもしれねえ。早く、外に逃げた方がいい」
「逃げるったって、こんな格好じゃア」
「ゴタゴタ抜かしてねえで、さっさと着ろ。死にてえのか」
 そう言いながら市太も素早く、着物を着る。隣の部屋から勘治が顔を出した。
「市太、すげえ地震だぜ。どうする」
「なに、のんきな事言ってやがんでえ。さっさと支度しやがれ」
 廊下からドタバタと騒ぐ音が聞こえて来る。みんな、慌てて逃げ出しているらしい。
「おう、行くぜ」と市太はお浜の手を引く。
「ちょっと待ってよ。まだ帯が」
「帯なんか後でいい」
 綿入を羽織っただけのお浜を連れて、市太は部屋を飛び出した。
 揺れはちっとも治まらない。暗い廊下を壁にぶつかり、人にぶつかり、やっとの思いで通りに飛び出した。外に出れば大丈夫だろうと思ったが、地面までがグラグラ揺れている。
 表通りは旅籠屋(はたごや)から飛び出して来た者たちでゴッタ返している。怒鳴り声や女の悲鳴、馬のいななきで騒々しい。
 宿場の若い者が提燈(ちょうちん)を振り上げて、「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。
「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。
 人々は一斉に浅間山の方を見る。暗くてよく見えないが、煙がいつもより増して吹き上げているようだ。ゴロゴロゴロという不気味な唸りも聞こえて来る。
「恐ろしい‥‥‥話には聞いてたけど‥‥‥」
 お浜は震えながら市太にしがみついている。恐ろしくて、やっと立っているかのよう。
「ぶったまげたぜ。まさか、お山が焼けるたアなア」と勘治がお滝と一緒に人込みを分けて市太たちの側に来た。
「おい、勘治、もし昨日焼けてたら、俺たちゃア真っ黒焦げだぜ」
「ああ、吹っ飛ばされてたかもしれねえ‥‥‥恐ろしいもんだ」
「姉さん、こんな恐ろしい事、よくあるの」
 追分宿に来たばかりのお滝が浅間山を見上げながら、お浜に聞いた。
「あたしだって、こんなの初めてよ。時々、灰が降る事はあるけど、こんなに揺れるなんて、もう、一体、どうなってんのよ」
「お山開きになったんで、お山の鬼どもがドンチャン騒ぎをしてんだんべ」と勘治が冗談口を聞く。「酒が足らねえ。女子(おなご)が欲しいってな」
 勘治は自分で言いながら自分で笑っているが誰も笑わない。皆、心配そうな顔をして浅間山を見つめている。
「どうやら、地鳴りもいくらか治まったようだな」と市太はしがみついているお浜の手を握った。
「もう大丈夫かしら」
「ひとまずは安心だんべ」
「助かったなア」と言い合いながら、皆、ホッと胸を撫で下ろす。
「あれ、惣八の奴はどうした」と市太は回りを見回した。
「声は掛けて来たぜ」と勘治も惣八を捜す。
 揺れが弱まったので旅籠屋に明かりが燈り、回りの様子が見え出した。皆、慌てて飛び出したとみえて、ふんどし一丁の者や湯文字だけの女郎、布団を被っている者や裸のくせして荷物だけは大事に抱えている者、腰を抜かして起き上がれない年寄りと様々な者がいた。
 宿屋の者たちが、もう大丈夫だと言いながら、客たちを促している。惣八の姿はどこにもなかった。
 市太たちも旅籠屋に戻った。惣八の部屋を覗くと、お政が部屋の隅で丸くなり、惣八は布団の上であぐらをかいている。
「おい、おめえら、何やってんだ」
「おう、みんな、無事だったか」惣八は皆の顔を見てホッと溜め息をつく。「まいったぜ、もう。お政の奴、気が違ったみてえになりやがって、あそこからちっとも動きゃアしねえ」
「お政ちゃん、大丈夫」とお浜が駈け寄って、お政に着物を掛けてやる。
 お浜が何を言っても、お政は何も言わない。じっと何かを見つめたままだ。勘治が行燈に火を入れた。いつもより青白い顔をしたお政はブルブル震えている。
「おい、おめえ、しっかりしろ」
 市太がお政の体を揺すった。お政はビクッとして、今まで気を失っていたかのように、目をキョロキョロさせた。
「おい、大丈夫(でえじょうぶ)か」
 お政は市太の顔を見ながらうなづいた。
「もう、終わったのね」
「ああ、終わった。もう、大丈夫だ」
「あたし、どうしたのかしら。何だか、急に気が遠くなって‥‥‥」
「まったく、脅かさないでよ」とお浜がお政の肩をたたく。
 お政はようやく、自分が裸だった事に気づいて、恥ずかしそうに着物で体を隠した。
 夜中に叩き起こされ、もう一度、眠る気にもならず、惣八の部屋で酒盛りを始めた。
「ここがこれだけ揺れたとならア、鎌原も揺れたんべえな」と勘治が心配する。
「ああ」と惣八はうなづく。「みんな、慌てて、うちから飛び出したに違えねえ」
「みんな、無事だんべえか」
「大丈夫だんべ。ここより鎌原の方がお山から遠いからな」
「そうだな。ここが大丈夫だったんだ。鎌原は無事に違えねえ」
「これだけ揺れたんは、ほんと久し振りだぜ」
「ああ。この前、焼けたんはいつだっけ」
「ありゃおめえ、七、八年も前だんべ」
 市太がその日を思い出したように、「確か、村祭りの二日前だったぜ」と言う。
「そうだっけ」と勘治は首を傾げる。「よくそんなの覚えてんな」
「俺たちが若者組(わけーしぐみ)に入(へえ)った年だ。芝居(しべえ)の支度をしてる時だったんだ。揺れたんは四つ(午後十時)頃で、舞台(ぶてえ)に行ってみると、台(でえ)なしになっていやがった」
「おう、そうだ、そうだ、思い出したぜ。次の日、大慌てで舞台を直したっけ。あん時の芝居は『堀川夜討(ようち)』の『弁慶上使(べんけえじょうし)』だった」
「そういやア、思い出したぜ」と惣八はニヤニヤする。「市太、おめえ、そん時、枡屋(ますや)んちのおりんといい思いしてたんじゃねえのか」
「そうさ。あん時ゃア、ぶったまげたぜ。うめえ事、おりんを諏訪の森に誘い込んで、やっとの思いでうまく行ったと思ったら、辺りが騒々しくなりやがった。おりんは慌てて、うちに帰(けえ)っちまうし、俺ア仕方ねえから舞台のとこに行ったんさ。そしたら、せっかく作った舞台が台なしになってたってえわけよ」
「おめえ、ほんとはしくじったんじゃねえのか」
「馬鹿野郎、そんなヘマはしねえ。だがよ、初めてだったからな、興奮しちまってよう、地面が揺れてるなんざ、まったく気づかなかったぜ」
「あれだけ揺れたんに気づかねえたア、てめえも大揺れだったんだんべえ」
「ねえ、そのおりんさんて今、どうしてんのさ」とお浜が少し険のある顔で聞く。
「なアに甚助(じんすけ)(嫉妬)する程の事じゃアねえ。もうとっくに嫁に行って、子持ちのババアよ」
「ねえねえ、その時もさっきみたいにあんなに揺れたの」とお政が聞く。すっかり落ち着いたようだ。
「そうさなア、さっきよりもひどかったかもしれねえ。みんな、うちから飛び出したんはいいが、立ってられなくて、地べたに這いつくばってたからな」
「もう揺れないかしら」
「揺れはすぐには治まらねえ。あと二、三回揺れるかもしれねえ。だがよう、あれ程の揺れはもうあるめえ」
 惣八が言ったように、夜明けまでに何度か揺れたが、外に飛び出す程ではなかった。揺れる度に、お政は身を縮めて怖がった。それでも、皆が側にいるので、先程のようにおかしくはならなかった。
 外が明るくなってから浅間山を見ると、いつもより数倍もの黒い煙を上げていた。山はゴロゴロ鳴っていて、まだ、完全に治まってはいない。もう一度、大焼けするかもしれなかった。寝不足で目がショボショボしていたが、市太らは帰る事にして、女たちと別れ、鎌原村に向かった。
 追分宿から鎌原(かんばら)村までは六里(約二十四キロ)余り。鼻田峠(峰の茶屋)で沓掛(くつかけ)(中軽井沢)からの道と合流し、分去(わかされ)茶屋で道は三つに分かれ、右に行くと狩宿(かりやど)(応桑)の関所、左に行くと大笹(おおざさ)の関所、真ん中を行くと鎌原村へと行く。浅間山北麓一帯は六里ケ原と呼ばれ、原生林と荒れ果てた草原が延々と続いている。三人は眠い目をこすりながら、時々、浅間山の不気味な煙を見上げ、鎌原村へと道を急いだ。
 途中から雨が降って来た。浅間焼けの灰の混ざった薄汚れた雨だった。ずぶ濡れになった三人が鎌原村に着いたのは正午近く、寝不足と空腹と憎らしい冷たい雨にやられて三人共フラフラしている。夜中の騒ぎで、飲み食いの出費がかさみ、途中の茶屋で飯を食う銭も残っていなかった。
 上州吾妻郡鎌原村は標高が九百メートルもある山村で、米などろくに採れなかった。あちこちに点在する狭い畑で粟(あわ)、稗(ひえ)、蕎麦(そば)、大麦、小麦などを作っているが、それだけでは、とても生計は成り立たたない。山から木を伐り出して屋根板や天秤(てんびん)棒(ぼう)なども作り、炭焼きもしているが、それでも間に合わない。にもかかわらず、六百人近くもの人々が住み、生活して行く事ができたのは信州街道と沓掛道が鎌原村で交わっていたからだった。
 信州街道は大戸(おおど)通りとも呼ばれ、中山道の高崎の城下から分かれて、下室田、三ノ倉、大戸の関所を通り、本宿(もとじゅく)、須賀尾(すがお)、万騎(まんき)峠を越え、狩宿の関所を通って鎌原へと来る。鎌原から大笹の関所を通り、田代、鳥居峠を越えて信州善光寺へと向かう。沓掛道は中山道の沓掛宿、あるいは追分宿から鼻田峠を越え、六里が原を通って鎌原に出て、吾妻川を渡って中居(三原)、前口、草津の湯へと行く。
 鎌原は正式な宿場ではないが、宿場の機能を持った村だった。信州の飯山藩、須坂藩、松代(まつしろ)藩の年貢米や武家荷物が鎌原村を通って江戸に行く。草津温泉で消費される物資も鎌原を通って行った。それらの荷物を馬の背に乗せて運ぶ、馬方(うまかた)稼ぎで現金収入を得ていたのだった。世はまさに田沼時代の真っ只中、貨幣経済が村々まで浸透し、平成のバブル期のように景気がいい。村人の男衆(おとこし)のほとんどが馬方をしていて、それを仕切っている問屋が市太の家だった。
 村の中央に浅間山の中腹から引いた用水が流れ、その両側に街道が通って家々が建ち並んでいる。旅籠屋や茶屋もあり、旅人も行き来している。上方(かみがた)から草津に行く者、江戸から草津に行く者が追分宿、あるいは沓掛宿からやって来る。上方の情報も江戸の情報もいち早く伝わり、両方の文化を吸収して活気のある村だった。
 村の外れの二本松で三人を待っている者がいた。蛇(じゃ)の目傘をさして、市太たちと同じように丈の長い半纏(はんてん)を来た若い娘たち。髪は江戸で流行っているという櫛巻(くしまき)にして、揃いの簪(かんざし)を差している。市太たちといつもつるんで遊んでいるおなつ、おなべ、おゆうの三人娘。年は十八、村でも評判の器量よし揃いだった。
「出迎え御苦労」
 市太は三人に手を上げるとおなつの傘の中に入った。
「慣れ慣れしいわね、もう、やめてよ」とおなつは逃げる。
「おい、随分と冷てえじゃねえか。風邪ひいたらどうすんだい」
「自分たちが悪いんでしょ。あたしたちというものがありながら、お女郎たちと遊んで来るんだから。もう、知らないわよ、ねえ」
「そうよ、まったく。夜中にえらい騒ぎがあったってえのに、のんきに遊んでんだから、もう、勝手にするがいいわ、ふん」とおなべは傘を回して惣八に水滴を飛ばす。
「畜生、冷てえなア」
「おめえは怒っちゃアいねえよな」と勘治はおゆうの肩を抱くが、おゆうも鬼のような顔をして勘治を睨んで肘鉄(ひじてつ)を食らわせる。
「そう怒るなよ。俺たちだってとんだ目に会ったんだ。まったく、遊びどころじゃねえ。お江戸見物に行く大人数と出くわしてな、女どもはいくら待っても来やしねえ。しけた面して三人で酒飲んで寝ちまったら、夜中に叩き起こされてよお。そうだ、おめえたち、村は大丈夫(でえじょぶ)だったのか」
「大丈夫なはずないでしょ。あんなに揺れたんだもの。みんな、大騒ぎよ。お頭(かしら)があんたたちがいないって怒ってたわ。帰って来たら、すぐに知らせろってね。だから、あたしたち、こうやって待ってたんじゃない」
「おめえ、ほんとかよ。お頭が怒ってんのか」
 勘治が心配そうに市太を見る。お頭というのは若衆組(わけーしぐみ)の頭で杢兵衛(もくべえ)といい、市太たちも杢兵衛には頭が上がらない。面倒味がよく、男気(おとこぎ)もあり親分肌の男だった。
「おゆう、嘘言うんじゃねえ」と市太はおゆうの目を覗き込む。
「今日は本多様の荷が届くはずだ。お頭だって、そいつを運んで狩宿に行ったに違えねえ」
 おゆうは舌を出して、「でも、怒ってたんだから、帰って来たら大目玉を食らうわ。覚悟してらっしゃい」
「それより、村は大丈夫だったのか」
「大丈夫よ。馬たちが大騒ぎしたくらいよ。それより、そっちこそ、ほんとなの」
 おなつが市太を横目で睨む。
「何が」
「何がじゃないわよ。お女郎と遊んで来たんじゃないのね」
「本当だとも、あんなとこまで行って、くたびれ損さ。今から、しっぽり濡れようぜ」
「もうたっぷり濡れてるでしょ。まったく、信じられないわ」
 何だかんだ言いながらも三人娘はそれぞれ、男を傘にいれてやり、相合い傘で村へと帰る。
「ねえ、お浜って言ったっけ」とおなつはくどい。
「何が」と市太はとぼける。
「何がじゃないの。あんたの馴染みよ」
「馴染みなんかいるわけがねえ」
「また新しい娘に替えたんだ」
「そうじゃねえ。女郎衆はみんな出払ってたんだ。それより、おめえ、あん時ゃ面白かったぜ。俺たちゃ三人とも待ちくたびれて、そのまま寝ちまったから、この格好のまま外に飛び出したが、中には素っ裸で飛び出した奴も一杯いやがった。結構な眺めだったよ」
「ねえ、聞いて。村にもいたのよ、そんなウスノロが」
「なに、ほんとかよ。誰でえ」
「おふみと金四郎よ」
「へっ、あの二人、祝言(しゅうげん)を挙げたばかりで毎晩、励んでるそうだ」
「おきよが見たのよ。スッポンポンで二人して飛び出して来たんだって」
「相変わらず馬鹿な野郎だ。それでどうした」
「すぐに親に怒られて、うちん中に引っ込んだけど、近所の者たちに見られて、村の笑い者になってるわ」
「他にそんなテンツクはいなかったか。そん時、夜這(よべ)えしてた野郎とかな」
「いたわよ。はっきりとはわかんないんだけど、幸助の弟の伊之助が桶屋(おけや)のおみよんとこから出て来たみたい」
「ほう、伊之とおみよか‥‥おみよも最近、色っぽくなりやがったと思ったら、そういう事情があったのか」
「ねえ、あんた、ちょっかいなんか出さないでよ」
「なに言ってやがる」
「よう、そこでちょっと一杯(いっぺえ)やってぐべえ」
 惣八が後ろから声を掛けて来た。
「武蔵屋(むさしや)に寄んのか。おかよんとこのがいいんじゃねえのか」
「なアに、半兵衛はいやしねえよ。それに、おかよんとこはおめえんちの前(めえ)だんべ。親父に見つかったらやべえんじゃねえのか」
「そうだな。半兵衛んとこで熱いのを一杯やって、観音堂の小屋で一眠りすべえ」
「そうすべえ、そうすべえ」と六人は目の前の『武蔵屋』の暖簾(のれん)をくぐる。
 昼時なのに客は一人もいなかった。それでも縁台(えんだい)の上に飲み食いした器が散らかっている。ついさっきまで、大笹から荷物を運んで来た馬方連中がいたらしい。
「あら、いらっしゃい」と後片付けしながら迎えたのは、ここの女将(おかみ)おゆわ、年の頃は三十の半ば、さっぱりとした気性の女だった。
「まあ、びっしょりじゃない。早く着替えないと風邪ひくわよ。なんだか、今日は急に寒くなって」
「わかってるよ。その前に、まず、熱いのを二、三合頼まア」
「はいはい、さあ、どうぞ」
 びしょ濡れの三人はとりあえず、濡れた着物を脱いで絞る。
「ねえ、それをまた着るつもり」
「仕方ねえだんべ。うちに帰ったら、どやされる」
「いいわ。待ってて。何か持って来てあげる」
 おなつはそう言うとおなべ、おゆうを連れて茶屋から出て行った。おなつの家は古着屋、こっそり、売り物を持って来るつもりだろう。
 三人は体を拭くと湿った長半纏を羽織って奥の座敷、座敷という程のものでもないが、茣蓙(ござ)を敷いた板の間へ上がり込んだ。
「生憎(あいにく)の雨っ降りでいやアねえ。みんな、この雨ん中、狩宿まで行ったわよ。若旦那は行かないんですか」
「女将さん、その若旦那はよしてくれ。若旦那は兄貴の方だ。俺はただの居候(いそうろう)よ」
「なに言ってんですか。うちの人はよく言ってますよ。お兄さんより市太郎さんの方がああいう仕事には向いてるってね」
「よしてくれ。あのうちは兄貴が継ぐんだ。俺アそのうち、こんな村は飛び出すさ」
「村を飛び出して、どこに行くんです」
「まあ、江戸でも行って一旗上げるさ」
「あれ、おめえ、おろくじゃねえか」と惣八が後片付けをしている娘に声を掛けた。
「忙しかったから手伝ってもらってたのよ。おろくちゃん、お酒お願いね」
「はい」と女将にうなづくと、おろくは下げ物を持ってお勝手の方に行った。
「どうぞ、ごゆっくり」と女将も消える。
「おろくってえのは甚太夫(じんだゆう)の妹だんべ」と勘治が惣八に聞く。
「ああ、ここんちの隣さ。母ちゃんの看病ばかりしていて、ちっとも外に出ねえ。あれだけの器量で勿体(もってえ)ねえこった」
 おろくが消えたお勝手の方を眺めていた市太も、「いつの間にか、いい女になっていやがる」とつぶやく。
「おい、市太」と惣八がお勝手の方をチラッと見てから、「おろくを口説くつもりならよした方がいいぜ」と小声で言う。
「どうしてだい」
「どうも、男嫌えらしい」
「おめえ、振られたんだんべ」と勘治がゲラゲラ笑う。
「振られたわけじゃアねえや。それ以前に相手にされねえのよ」
「おめえ、馬鹿じゃねえのか。そんな事ア自慢するねえ」
「自慢してるわけじゃねえ。何を言っても話に乗って来ねえんだ。きっと、男よりも女の方が好きなのかもしれねえ」
「何だと。女同士でやるってえのかい。話にゃア聞いた事あるが、あのおろくがなア。相手は一体(いってえ)、誰なんでえ」
「そんな事ア知らねえ。でもよ、もう十九だぜ。今まで、一人も男出入りがねえってなアおかしいじゃねえか。目も当てられねえ不細工な面じゃアねえんだぜ。あれだけ、フリがいいのにおかしいと思わねえか。娘たちの集まりにも顔を出さねえしな、祭りん時だって、みんなと一緒に騒ぐわけでもねえ。いつも、うちに籠もりっきりよ」
「おい、惣八」と勘治が何かを聞こうとしたら、噂の本人が酒を持って来た。
 三人は口をつぐんで、おろくを見つめた。
「お待ちどうさま」とおろくは俯(うつむ)き加減に言って、チラッと市太を見た。
「久し振りだな」と市太は笑いながら言う。
「お久し振りです。若旦那さん」
 おろくは蚊の鳴くような声で言って、微かに笑った。
「腹が減ってんだ。女将さんに何か食い物(もん)を頼んでくれ」
「はい。わかりました」
 おろくはうなづき、何となく恥ずかしそうに去って行った。
「あれっ」と以外そうな顔をして惣八が市太を見る。「あいつ、しゃべりやがった」
「そりゃア、しゃべるだんべ。唖(おし)じゃアねえんだからな」
「そりゃそうだけどよ。俺ん時ゃア、はいとかいいえとか返事しかしなかったぜ」
「おめえなんか嫌えなんだとよ」と勘治が笑いながら、銚子から酒を注ぐ。
「おい、惣八、あいつ、ほんとに生娘(きむすめ)なのか」
「かもしれねえぜ」
「勿体(もってえ)ねえなア。なあ、やっちまわねえか」
「そいつア、やめた方がいい。奴の親父に殺される」
「あの親父か。確かにやりそうだな」
「あの親父は危険だぜ」と市太も言う。「頭に血が昇ると何をするかわからねえ。もうかなり前(めえ)になるけど、三治を馬鹿にしやがったってえんで大笹の野郎と喧嘩して、相手を半殺しの目に会わせたからな。若え頃は物すげえゴロツキだったらしい」
「誰がゴロツキだって」とおなつたちが古着を抱えて戻って来た。
「大きさはよくわかんないけど、濡れたのよりましでしょ。早く着替えなさいよ」
「悪(わり)いな」と三人は濡れた半纏を脱ぎ捨てると乾いた着物に着替えた。
「おい、ふんどしはねえのかよう」
「そんなの外してフリチンでいればいいじゃない」
「そうは行くか。みっともねえ」
 そうは言ったものの、ふんどしまでびっしょり濡れている。せっかく乾いた着物を着てもまた濡れてしまう。仕方なく、三人は濡れたふんどしも外して、さっぱりした気分で酒を飲み始めた。
「ねえ、ゴロツキって何の事よ」とおなつが話を元に戻す。
「おろくの親父さ」
「おろく?」
「ああ、今、ここを手伝ってんだ」
「へえ。あのおろくが‥‥‥」
「おめえら、おろくの男出入りを知らねえか」
「さあ、あまり話もした事ないし」
「もしかしたら、小町じゃないの」とおゆうが言う。
「小町だと?」と勘治が怪訝(けげん)な顔で聞く。
「穴がないのよ」
「馬鹿言うねえ」
「だって、あそこんち、呪われてるって噂よ。兄さんは盲(めくら)でしょ、叔父さんは気違いでしょ、姉さんはお嫁にも行かないで、五十男とくっついてるし。それに、寝たきりの母さんはもう四十をとっくに過ぎてるのに、顔付きは三十位にしか見えないっていうのよ」
「そんな馬鹿な」
「何かに取り憑かれてるのよ、きっと。それで、おろくは穴なしなのよ」
「誰でえ、そんな噂してんのは」
「誰って、この間の集まりでも、そんな話を誰かがしてたわ」
「誰かってえのはおめえだんべ」
「へっへっへ」とおゆうは笑う。
「まったく、おめえは作り話がうめえよ。何がほんとの事だか、しめえにはわからなくなっちまわア」
「とにかく、穴なしかどうか、はっきり確かめなくちゃアな」と惣八が意気込んで言うと、
「そんなのいちいち確かめなくてもいいんだよ」とおなべが惣八の腕をつねる。
「痛えなア」
「まったく、このすけべ野郎」
 おなべは惣八を睨んだ後、「これはほんとの話なんだけどね」と得意顔で話し出す。
「おろくんちの向こう隣のおもよさんから聞いた話さ。おろくんち、アホの三治がいるから、他所(よそ)んちでお風呂を貰うわけにいかなくて、うちにお風呂があるんだけどね、三治をお風呂に入れてんのは、いつもおろくなんだよ」
「ほう、三治のでっけえ一物(いちもつ)をおろくがいつも洗ってんのか」
「いつもしごいてやってんのさ。それで、おろくなんだけどね、三治の体を洗う時、自分も裸になって一緒に入ってんだってさ」
「風呂ん中で三治とやってんのか」
「そんな事まで、おもよさんだって知らないさ。ただ、一緒に入ってるのは確かな事だよ」
「あのアホ野郎と一緒に入ってるのか。羨(うらや)ましいこった」
「何が羨ましいって」とおなべが惣八を睨む。
「何でもねえよ」
 女将さんが煮込みうどんを持って来た。
「あれ、おろくは?」と勘治が聞く。
「洗い物が終わったんで、うちに帰ったわよ」
「女将さんはおろくをよく知ってんだんべ」
「知ってるけど、どうかしたの」
「男がつかねえのが不思議でね」
「そうね。もうお嫁に行ってもいい年頃だもんね。でも、おろくちゃんがお嫁に行っちゃったら、あのうちは大変よ。家事は全部、おろくちゃん任せだし。それに、お母さんと叔父さんの面倒見る人もいなくなっちゃうし。もしかしたら、もう諦めちゃったのかもね」
「母ちゃんはいつ倒れたんだ」と市太が聞く。
「もう三年になるんじゃないの」
「三年か。三年もあいつが飯の支度やら洗濯やら、母ちゃんの看病にアホの面倒まで見てたのか」
「そうよ、大変な事よ。普通の人じゃアとても勤まらないわね」
 市太たちはうどんをお代わりして腹拵えをした。腹も一杯になり、さて、一眠りしようかと思った時、この家の主(あるじ)、半兵衛がやって来た。
「若旦那、いいとこに帰(けえ)って来ましたねえ」半兵衛は嬉しそうな顔して市太たちを眺めた。
「ここにいるのが、よくわかったな」と市太はそっけなく言う。
「おなつたちがここに入ったと聞いたんでな」
「あら、おまえさん、狩宿に行ったんじゃなかったの」と女将さんが出て来て聞く。
「いや、これから草津まで行かなけりゃアならねんだ」
「えっ、草津へ」
「ああ。本多様の荷物が予定より多く来ちまってな、馬方がみんな出払っちまったんじゃよ。しょうがねえから俺が草津の荷物を運ばなけりゃアならなくなってな、人手が足らねえとこに、若旦那たちが帰って来たと聞いてやって来たわけだ。そんなわけで、これから、若旦那と一緒に草津まで行って来らア。今から行きゃア、泊まりになるが頼むぜ。そうだ、万五郎も連れてぐからな」
「あら、そう。今晩は草津泊まりなのね。まあ、ゆっくり、湯に浸かってくればいいわ」
「ああ、そうするよ。ちったア腰にいいだんべえ」
「ちょっと、半兵衛、俺も草津に行くのか」驚いて、市太が口を挟む。
「勿論さ。みんな、狩宿に行っちまって人がいねえんじゃよ」
「今日は具合(ぐええ)が悪(わり)いぜ。昨日の騒ぎで寝不足なんだ」
「若旦那、確か、貸しがあったっけなア」と半兵衛はニヤニヤする。
「畜生、わかった。やりゃアいいんだんべ、やりゃア」
 勘治があくびをしながら、「まあ、行って来いよ。俺たちゃアのんびり昼寝をするぜ」
「何を言ってる。おめえたちも行くんだ」
「何だと? 俺ア馬方じゃねえ」
「おめえたちは今朝方の大騒ぎん中、いなかったからな。お頭が帰って来たら、こっぴどく怒られるぜ。草津に荷物を運びゃアそいつを逃れる事ができる。どっちがいいかな」
「畜生め」
「さあ、雨もやんだ。さっさと支度をして来い」
 そう言うと半兵衛は出て行ったが、また戻って来て、おなつたちに、「おめえらも一緒に行くか」と聞いた。
「えっ、あたしたち?」おなつたちは驚いて顔を見回す。
「ああ、とにかく、人が足らねえんだ。手綱(はづな)ぐれえ持てるだんべ」
「草津か、面白そうね。一緒に行こうか」
 行こう行こうという事になり、みんなして草津に行く事に決まった。



 草津の湯も浅間山の山開きと同じく、昨日、開いたばかりだった。草津の冬は雪が深くて住む事ができない。四月八日の薬師(やくし)の縁日から十月八日の薬師の縁日までの半年間、営業して、冬の半年間は草津から下り、冬住みと呼ばれる山麓の村々で生活していた。
 四月八日になると冬住みの村々からゾロゾロと草津に登って行き、湯池(ゆいけ)(湯畑)を見下ろす位置に建つ薬師堂で開湯の儀式をして、それぞれ戸締まりしてある宿屋を開ける。屋根に積もっている雪を降ろしたり、蔵の中から家財道具を引っ張り出したり、お客を迎えるための準備で大忙しだった。
 市太たちが運んで来た荷物は米や塩、炭や薪(たきぎ)など営業に必要な物資。十二頭の馬に積んだ荷物を市太、勘治、惣八、半兵衛、半兵衛の伜、万五郎、そして、おなつ、おなべ、おゆうの八人で引いて来た。
 草津に着いたのは暮六つ(午後六時)近くになっていた。娘たちは温泉に入れるとキャーキャー騒いでいるが、寝不足の上に雪が解けたグチャグチャ道を歩かされ、市太たちはもうクタクタ。どうしてこんな目に会わなくちゃアならねえんだとブツブツ言っている。
 小さな宿屋が建ち並ぶ新田町(しんでんまち)を抜け、立町(たつまち)の坂を下りると湯池(湯畑)のある広小路(ひろこうじ)に出る。硫黄(いおう)の臭(にお)いが鼻をつき、豊富なお湯が薬師堂の石段の脇から湯気を上げて湯池へと流れて行く。広小路を囲むように二階建てや三階建ての立派な宿屋が並んでいる。まだ、旅人の姿はほとんどいない。宿屋の番頭や女衆(おんなし)が忙しそうに走り回っていた。
 湯池の下にある『滝の湯』のすぐ前に建つ湯本安兵衛(やすべえ)の宿屋に荷物を運ぶと、市太たちはようやく解放された。
 半兵衛と伜の万五郎は主の安兵衛と打ち合わせがあると行って帳場に行き、市太たちは馬の世話が終わると滝の湯に飛び込んだ。
 大小様々な湯の滝が十七本もあり、その滝に打たれると、どんな病も治るという。当時は各宿屋に内湯はなく、湯治客は皆、外にある七ケ所の湯小屋に入りに来る。滝の湯、熱の湯、鷲(わし)の湯、綿(わた)の湯、御座(ござ)の湯、地蔵の湯、脚気(かっけ)の湯とあり、滝の湯が一番人気。最盛期には湯治(とうじ)客が順番待ちをしなければ入れないが、今は誰もいない。三人娘は貸し切りだと大喜び、さっさと着物を脱ぎ捨てて、キャーキャー言いながら滝に打たれる。市太、勘治、惣八の三人はそんな元気はない。娘たちが滝を浴びているのを湯船に浸かって、ぼんやりした顔で眺めている。
「ねえ、気持ちいいわよ。あんたたちも打たれなさいよ」滝に腰を打たせながら、おゆうが誘う。
 女は湯文字をつけ、男はふんどしをつけて入るのがここの習わし。日も暮れ、湯小屋の中は薄暗く、湯気に煙ってよく見えないが、娘たちの裸は眩(まぶ)しい程に色っぽい。普段の三人なら何もせずに眺めている事などあり得ないのに、余程、疲れ切っているのか、しょぼくれた顔して湯に浸かっている。
「これが天狗の滝なのね」
「こっちは不動の滝よ」
 娘たちは代わる代わる色々な滝に打たれては騒いでいる。
「なあ、せっかく、あいつらと一緒に草津に来たんだからよう、楽しまなきゃア損だぜ」
 勘治が言うと、「そうだな」と市太も惣八も言うが、体の方が動かない。
「今度はちゃんとしたお客として、奴らを連れて来ようぜ」
「ああ、馬なんか引いて来ねえでよう、馬に乗って来ようぜ」
「そうだな。それがいい。草津は仕事しに来るとこじゃねえ。遊びに来るとこだ」
「なあ、惣八、おなべの奴、痩せギスだと思ってたが、結構、いい乳してるじゃねえか」
 勘治が滝に打たれているおなべを眺めながら言う。
「ああ、着痩せするたちなんだよ。それより、おゆうなんか、ピチピチといい体してるじゃねえか」
「おすわの妹だからな。あの三姉妹(しめえ)はみんな、いい女だぜ」
「おすわは市太がいただき、おゆうはおめえがいただいた。一番下のおまちは俺の番だな」
「おめえ、狙ってんのか」
「もう十五になった。そろそろいいだんべ」
「まあ、好きにしろよ。おなべに見つからねえようにな。それにしても見ろよ。おなつの奴、えれえ白えじゃねえか。まるで、雪の肌ってえ奴だな」
「ああ。こうやって見ると三人とも、いい女だぜ」
「そのいい女を眺めてるだけじゃア能がねえ。俺ア行くよ」
 勘治は立ち上がると娘たちの方に行って、おゆうに抱き着く。キャーと笑って、おゆうは逃げると勘治にお湯を引っ掛ける。
「畜生、俺も行くぜ」と惣八もおなべに飛び掛かって行く。
「まったく、まいったぜ」と市太も立ち上がるとおなつの側に行って滝に腰を打たせた。
「こっちのが強いのよ」とおなつに手を引かれ、二十尺(しゃく)余りもの高さから落ちて来る滝に打たれた。
「おう、こいつア効くぜ」と市太は笑っているおなつを抱き寄せて尻を撫でる。
「やだア」とおなつは市太の顔にお湯を掛ける。
「このアマ」とおなつを捕まえようとするが、市太は滑って転び、頭までびっしょり濡れてしまう。
「畜生、髪が台(でえ)なしじゃねえかよ。許さねえ」
「そんなの結い直せばいいじゃないよ」
 おなつはみんなと一緒に笑っている。
「くそったれが」と市太は元結(もっとい)を切ってザンバラ髪になって、おなつを追いかける。
 さすがに若い者は疲れが取れるのも早い。しばらく湯に浸かっていただけで疲れも取れたのか、市太たちはおなつたちと一緒に騒ぎ始めた。
 その夜は安兵衛の宿屋泊まり。安兵衛の宿は草津で一、二を争う大きな宿屋、壷(つぼ)と呼ばれる部屋が百余りもある。平兵衛(へえべえ)、角右衛門(かくえもん)と共に湯本三家と呼ばれる格式のある宿屋で、内湯を持っているのはその三家だけ。いつもだと馬方連中は狭くて薄暗い部屋に押し込まれるのだが、まだ客もいないし掃除も済んでいないからと湯池を見下ろす上等な部屋に通された。問屋の伜の市太が一緒だったので、安兵衛が気をきかせたのだろう。安兵衛と市太の父、作右衛門は俳諧(はいかい)をひねる仲間だった。
 市太たちは壷に収まると、飯炊き婆さんに飯を頼み、最近できた『桐屋(きりや)』という料理屋から酒と仕出しを頼んで一杯やった。
 草津の宿は自炊するのが建前で、湯治客は皆、壷で自炊をして長期滞在をする。それでも、客に代わって飯を炊くのを専門にする婆さんや水汲みを専門にする女もいるので、金に余裕のある者はそれらに頼む。壷を回って、おかず類を売り歩く者もいるし、料理屋の壷廻り男という者もいて、料理や酒の注文も取りに来る。今の時期はまだいないが、広小路には稲荷(いなり)鮨(ずし)や天麩羅(てんぷら)などの屋台も出て、何かと便利であった。
「今日は御苦労じゃった。お陰で何とか間に合った。ありがとう」
 半兵衛が酒を飲みながら、皆の顔を見回す。市太は勿論の事、勘治も惣八もザンバラ髪で、娘たちも櫛巻(くしまき)が解けて、長い洗い髪を垂らしたままだ。
「それにしても、おめえたち、どこに行っても騒ぎを起こすな。まったく、面倒見きれねえぞ」
 いい気になって滝の湯で騒いだまではよかったが、お湯にのぼせて、おなべがぶっ倒れた。惣八が騒ぎ出して、水はどこだ、医者はどこだと裸で町中を走り回った。何だ何だとやじ馬が集まり、大騒ぎとなってしまったのだった。
「どうも、すみません」とおなべが謝り、惣八が頭を下げる。
「まあ、いい。これからは気をつけろ。明日も忙しいからな、わしと伜は朝一番に馬を引いて帰る。馬は六頭残して行くから、おまえらは馬に乗ってのんびり帰るがいい」
「明日は空馬でいいのか」と市太が不思議そうに聞く。
「ああ、今の時期はまだ湯の花もねえからな。お客を乗せて帰っても構わんが、今の時期、草津から帰るお客もいねえだんべ」
「芸者遊びでもして帰ろうぜ」と勘治がニヤニヤしながら言う。
「芸者遊びだって」とおゆうが勘治の膝を打つ。
「いや、冗談、冗談。おめえたちがいるのに芸者なんかにゃア用はねえ」
「残念だがな、桐屋の者に聞いたら、芸者衆はまだ来てねえそうだ」と半兵衛が笑う。
「とくかく、明日は湯巡りしましょ。まだ、色んなのが一杯あるんでしょ」
「そうね、そうよ」と娘たちははしゃぐ。
「何をしても構わんが、明日のうちには帰って来いよ。おまえたちゃアどうでもいいが、馬たちには仕事が待ってるからな」
「わかってるよ」と市太は神妙にうなづいた。
 この半兵衛、市太から見ればただの使用人の一人に過ぎないのだが、色々と世話になっているので頭が上がらない。うるさい父親には逆らえても、半兵衛には逆らえない。市太が生まれた時から馬方をしていて、今では馬方たちのまとめ役。真面目一方の兄、庄蔵に比べ、騒ぎばかり起こしている市太の肩を持ち、何をしても市太を庇って来たのが半兵衛だった。半兵衛がいなかったら、とっくの昔に村を追い出されていたかもしれなかった。
 飯を食べ終わると半兵衛は、「先に寝るぞ」と伜を連れて隣の部屋に引っ込んだ。
「ねえ、ここんちの内湯に行きましょ」と娘たちは誘うが、市太たちはもう半分寝ている。
「まったく、だらしないんだから」と言いながら、娘たちは内湯に向かった。
 娘たちがキャーキャー騒ぎながら帰って来た時には三人共、大鼾(いびき)をかいて眠りこけていた。

2020年3月22日日曜日

天明三年(一七八三)四月八日

 夕暮れの中、薄煙りを上げている浅間山。その南を走る中山道(なかせんどう)。江戸へと向かう旅人、上方(かみがた)あるいは善光寺へと向かう旅人が行き交い、荷物を積んだ馬が鈴の音を鳴らしながら、シャンシャンと行く。
 ♪浅間根越しの小砂利(こじゃり)の中に
        アヤメ咲くとはしおらしや~
 誰が歌うか、哀愁を帯びた三味線に乗せて馬追歌が流れて来る。中山道が北国(ほっこく)街道と分かれる手前にある追分(おいわけ)宿(じゅく)。ここは飯盛(めしもり)女と呼ばれる女郎(じょろう)が大勢いる事で有名だった。
 浅間根越しの小砂利の中に可憐に咲くアヤメとは彼女たちの事。夜ともなれば山の中の宿場とは思えない程、そこだけが明るく、まるで不夜城(ふやじょう)のよう。旅人はもとより近在の若者たちが、その明かりに吸い寄せられるように集まって来る。賑やかな三味線に流行り歌、客と女たちの笑い声が夜遅くまで絶えなかった。
「油屋でございます。お泊まりなさいませ」
「日野屋でございます。お泊まりなんし」
「もし、柳屋でございます」
 街道に面した旅籠屋から化粧した女たちが道行く男たちを誘っている。鼻の下を伸ばして、ニヤニヤしながら女に連れられて行く者。聞こえない振りをして足早に逃げて行く者。中には無理やり女に引っ張り込まれる旅人もいる。
「おい、放しやがれ。腕が抜けらア」
「腕なんか抜けたっていいのさ」
「なに言ってやんでえ。腕が抜けたら、おまんまが食えねえ」
「おまんまなんかより、もっとうまいもんがあるんだよ。ねえ、お泊まりよ。いい思いさせたげるからさア」
「おう、そうか。どうせ、どこかに泊まらにゃアならねんだ。姉さんの世話になるか」
「あんた、いい男だねえ」
「なに、それ程でもねえやな」
 旅人は嬉しそうに油屋へと入って行く。
「おい、見ろや。あのウスノロめ、お竹ババアにとっ捕まりやがった」
「へっ、ざまアねえや。ぶったぐられるぜ」
「まったく、あのババアもよくやるぜ。もう三十路(みそじ)じゃねえのか」
「なに言ってやがる。おめえだって、お竹にゃアさんざ世話になってるべえ」
「ありゃア騙されたんだ。ババアめ、八つも年をさばよみやがって」
「ほんとの年はなんぼか知らねえが、いつまでも若えババアだよ」
 油屋の隣、大黒(だいこく)屋の二階の部屋から通りを眺めている三人。浅間山の向こう側、上州鎌原(かんばら)村からやって来た若者たちである。丈(たけ)の長い揃いの半纏(はんてん)を着て、自慢の煙管(きせる)をふかしながら通りを眺めてニヤニヤしている。
 今日は浅間山の山開き。村の代表たちとお山に登り、五穀(ごこく)豊饒(ほうじょう)、無病(むびょう)息災(そくさい)を祈って、村人たちは真っすぐ村に帰ったのに、三人は用があると嘘をつき反対側に下りて来た。
 問屋の次男の市太(いった)、旅籠屋の長男の勘治(かんじ)、炭屋の次男の惣八(そうはち)、村一番のワルガキ三人。何を言っても言う事を聞く奴らじゃないと村人たちも愛想をつかし、意見する者もいない。三人は浅間山の山頂から一目散(いちもくさん)に追分目がけて駈け降りた。目指すは馴染みの女郎がいる大黒屋。まだ日の高いうちから女郎を呼んで、飲めや歌えと精進(しょうじん)落としを楽しんでいる。
「あら、お竹姉さんはいい人よ。面倒味がいいって評判なのよ」
 市太の相方(あいかた)のお浜が三味線を鳴らしながら言う。色白の細面、下着を三枚重ねたように見える襟だけをつけた花色木綿の綿入(わたいれ)を着込んで、市太を見上げてニコリと笑う。
 顔付きは優しいけれど気は強く、馴染みになってからもう二年、何度、痴話喧嘩したか数え切れない。もう二度と会うまいと他所の女郎と遊んでみるが、何だか物足りない。なぜか、会いたくなって、また来るという塩梅(あんばい)。
「らしいな。ここんちで言ったら、お梅姉さんのようなもんかの」と勘治が席に戻りながら、お浜に聞く。
「お梅姉さんじゃないよ。お波姉さんだよ」
「ほう、お梅は面倒味がよくねえのか」
「お梅姉さんはね」と勘治の相方のお滝が言ったが、お浜の顔を見て口をつぐんだ。
 大きな目に小さな口元が可愛らしいお滝はばつが悪そうな顔をしてうなだれる。三人の中では一番若い。つい最近、善光寺の門前町から流れて来たという。勘治の馴染みのお紋には、すでに客がついていた。仕方なく呼んだのだが、以外と可愛い。勘治は機嫌をよくして床(とこ)入りを楽しみにしている。
「お梅姉さんが何だって」
 勘治が聞いてもお滝は首を振るばかり。
「そんな事、言えないわよ」と惣八の相方、お政が言う。「また、いじめられるものねえ」
 お政は惣八の馴染み。痩せギスで、いつも青白い顔をしている。かといって病(やまい)持ちではなく、いつもキャーキャー騒がしい。凄い焼き餅焼きで惣八が他所(よそ)の女郎と遊んだ噂を聞こうものなら、爪を立てて惣八の背中は傷だらけ。惣八も恐れて、追分宿に来た時は必ず、お政を呼んでいる。
「新入りだってんで、お梅姉さんにいじめられたんじゃねえのか」と勘治は俯いているお滝の顔を覗く。
「そんな事ないよ。ねえ、お滝ちゃん」とお政が庇う。
「お梅姉さんは男にゃア優しいが、女にゃアうるせえってこったな」
「違うったら。そんな事、お梅姉さんには絶対に言わないで」
「わかった。わかった」
 鈴を鳴らしながら宿場に戻って来た馬がいななき、客引きの女たちの声も一段と高くなって来た。日もすっかり暮れ、街道に並び建つ旅籠屋の掛け行燈(あんどん)に火が燈り、客室からも明かりが漏れて来る。あちらこちらから三味線の浮かれ調子も流れ、騒がしいだけの昼の宿場が夜の歓楽街へと変わって行く。
 外を眺めていた市太と惣八も席に戻って、酒を飲み始めた。
「おい、なんか景気のいい奴をやってくれ」市太が言うと、
「あいよ」とお浜が三味線を弾き始め、江戸から来た旅人から教わったという潮来(いたこ)節(ぶし)を歌い出す。
 ♪松という字は木偏(きへん)に公(きみ)よ
        きみに離れてきが残る~
「君に離れて気が残るか。そいつアうめえ」
「あたしの気持ちさ。市つぁん、わかってくれるかえ」
 お浜は三味線を脇に置くと、横目で市太を眺めながら酌(しゃく)をする。
「わかるからこうやって、はるばるやって来たんだんべ」
「なに言ってんの。この前来たのはいつだっけ」
「そうさなア、そう言やア、ここんとこ御無沙汰だったな」
「ちゃんと知ってるよ。永楽屋さんとこのお園さんに入れあげてるそうじゃないか」
「なに言ってやがる」と市太は動揺して、「ありゃア、ほれ、付き合えで、ちょっと面ア出しただけよ」と言い訳をする。
「ねえ、惣さんも永楽屋に行ったの」お政が惣八をジロッと睨む。
「冗談じゃねえ」と惣八は慌てて手を振って、「俺アそんなとこにゃア行かねえや」
「ほんとなのね」
「ほんとだとも。市太、助けてくれよ」
 市太はニヤニヤしながら酒を飲んでいる。
「一緒だったと言いてえが、あん時ゃア、問屋の集まりだ。惣八は関係ねえ」
 惣八は安心して、お政の肩を抱く。
「なっ、俺ア他所なんか、金輪際(こんりんぜえ)、行かねんだよ」
「まったく、あたしゃア気を揉むよ。それに、村にはいい娘(こ)がちゃんといるんだろ」
「そんな者アいやアしねえや、なア。俺たちゃ村の鼻つまみ者だア。娘っ子なんか、何されるかわかんねえって近寄っちゃア来ねえよ」
「嘘ばっかし。おめえさんちは蔵持ちの炭屋だろ。金持ちで、しかも、いい男とくりゃア、多少、権太(ごんた)(ゴロツキ)だって、娘っ子が黙ってるもんじゃない」
「おう、そうだ」と惣八が突然、手を打つ。「権太で思い出したが、今年の村祭りの芝居(しべえ)で、市太は『いがみの権太』をやる事に決まったんだぜ」
「惣八、余計な事を言うんじゃねえ」市太は惣八をチラッと睨むが、すぐに自慢気な顔をして皆を見る。
「へえ、すごいじゃない」とお浜は自分の事のように喜ぶ。「いがみの権太っていえば、ちゃんと台詞(せりふ)だってあるんだろ」
「あたりきよ。『鮓屋(すしや)の場』じゃア立者(たてもの)だアな」
「おめえさんにぴったりの役だね」お浜が言うと、
「まさしく、はまり役ね」とお政も言う。
「それを言うな」と市太はお浜の膝をたたく。「耳にタコができらア。だがな、お陰で博奕(ばくち)がてきなくなっちまったぜ」
「あら、どうしてよ」
「博奕をしたら、役から降ろされちまうんだよ。つれえがしょうがねえ。芝居が終わるまでは、じっと我慢だ」
「そんな事できるわけないじゃない」とお浜がケラケラ笑うと、
「無理よ、無理」とお政も笑う。二人につられてお滝も一緒に笑っている。
「馬鹿野郎」と市太は怒鳴る。「俺アな、今度の芝居にゃア賭けてんだよ。博奕ぐれえ、やめてやらア」
「嘘ばっかし」とお浜は信じない。「ほんとは隠れてやってんだろ」
「やってねえって言ってるだんべ」市太は信じてくれよという顔でお浜を見る。
「おめえさん、村の者(もん)にいいように操られてんじゃないの。権太の役をやらせりゃア、ちったア真面目になるだんべってね」
「そんな事ア承知の助さ。俺ア権太を立派にやってよう、村の奴らを見返(みけえ)してやるんだ」
「見返すのはいいけど、博奕の稼ぎがなくっちゃ、ここにも来られないじゃないのさ」
「そこんとこはうまくやるさ。現にこうやって来てるじゃねえか」
「ねえ、ねえ」とお滝が口を挟む。「それって『義経千本桜』でしょ。あたし、人形芝居で見た事あるよ。善光寺さんのお祭りでやってたんだ。いがみの権太ってさ、悪い男なんでしょ。そして、最後には死んじゃんでしょ」
「そうさ。悪(わり)い男なんだが、ほんとはいい奴なんさ。そこんとこを演じるんが実に難しんだ。まあ、あの村で権太をやれるんは俺しかいねえだんべ」
「ねえ、ちょっと、やってみせてよ」とお浜がせがむと、
「そうか、ちょっとだけだぞ」と市太は得意顔で立ち上がる。
「おきゃアがれ、べら坊め。盗っ人猛々(たけだけ)しいと、もう地金(じがね)を出さねばならぬ。よく見りゃア見る程、尋常(じんじょう)ななりをしやがって、いけ太えガキめだなア」
「なんでえ、それが台詞かよ」と惣八が呆れる。「おめえのいつもの脅し文句じゃねえか」
「馬鹿野郎、ちゃんと台本(でえほん)に書えてあるんだ」
「そんな台詞なら俺にだって言えらア」
「ねえ、惣さんと勘さんはどんな役なの」お政が興味深そうに聞く。
「俺ア駕籠(かご)かきで、勘治の奴は女形(おんながた)だぜ」
「えっ、勘さんが女形?」女たちは一斉に勘治の顔を見つめる。
「そういえば顔付きが優しいから似合うかもね」とお浜が真顔で言う。
「よせやい」と勘治は照れる。「女なんかやりたかねえのによ、しょうがねえんだ。そいつをやらなきゃ、ただの仕出しになっちまう」
「ねえ、どんな役なの。お姫様かなんかかい」
「そうじゃねえ。お姫様とか静御前とかは鎌原路考(ろこう)の役さ」
「なにそれ、鎌原路考って」
「あれ、聞いた事ねえか。鎌原にも有名な女形がいるのよ。名前(なめえ)は権右衛門ていかめしいんだがな、こいつがまた化粧したら、女子(おなご)でもうっとりするぐれえのいい女になるんだ。それで、江戸で有名な菊之丞(きくのじょう)(俳名を路考という)にあやかって鎌原路考ってえんだ。俺なんか、とても奴にゃアかなわねえ」
「いや、そんな事アねえよ」と惣八が笑いながら言う。「芝居の出来によっちゃア、おめえも鎌原おかめって呼ばれるかもしれねえ」
「おきやアがれ」
「おい、おめえら、俺の事を何と呼んでるか知ってるか」と市太は女たちに聞く。
「そりゃア勿論、いがみの市太でしょ」
「馬鹿め、そうじゃねえ。鎌原の成田屋(市川団十郎)たア俺の事よ」
 市太は得意になって見得(みえ)を切るが、誰も真に受けない。ただ、笑っているだけ。
「おめえさんが、権太を立派にやり遂げたら、あたしだけでもそう呼んであげるよ」
「うるせえ」
「まあまあ、そう怒らんと」
 機嫌を直せとお浜は市太に酒を注ぐ。
 外はすっかり暗くなり、あちこちから賑やかな声が聞こえて来る。夜はまだ始まったばかり、三人のドラ息子たちの騒ぎは果てしなく続いた。

目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...