2020年3月31日火曜日

天明三年(一七八三)六月一日

 今日は山の口開け、山の草刈りが解禁となる。二百頭もの馬を飼っている鎌原村では、馬草(まぐさ)刈りは重要な仕事。浅間山も静まり、皆、夜明け前から草刈りに出掛けて行った。
 江戸から帰って三日間は、真面目に稼業を手伝っていた市太も仕事に飽きて、いつものように観音堂裏の若衆小屋でゴロゴロしている。
 市太と勘治が勝手に江戸に行ってしまい、いがみの権太と渡海屋のおとくの役は他の者に代えろという意見が出たらしい。若衆頭の杢兵衛が二人を庇い、帰って来てから演技を見て、ダメだったら替えようという事になった。江戸から帰って来たその晩に市太、草津に行ってしまった勘治は次の晩に、それぞれ演技を披露して無事に合格点を貰った。暇を持て余していた二人は、この小屋でたっぷり稽古を積んでいたのだった。
 おろくの父親が怪我をしてから、市太は毎晩のように見舞いに行って、おろくと会っていた。舞台の上の自分を見せたくて、稽古を見に来いと誘うのだが、忙しいのか一度も来ない。それでも、市太は気長に構えて、何としても、おろくをものにしようと考えている。
 市太がおろくと会っている事を知って、おなつは怒り、若衆小屋にも顔を出さなくなった。勘治はすっかり真面目になって、市太たちとは遊ばない。最近、若衆小屋に集まって来るのは惣八、安治、丑之助、そして、時々、鉄蔵が顔を見せるくらいだ。惣八とおなべの仲は続いているらしいが、おなつが来ないので、おなべも一人では来なかった。
「おい、市太、おめえ、おろくに夢中になってるようだけど、あんな女のどこがいいんでえ」と惣八が市太の江戸土産、北尾重政(しげまさ)の艶本(えほん)(春本)を眺めながら不思議そうに聞く。
「いい女だんべが」と横になって、おろくの事を考えていた市太は言う。
「まあ、いい女には違えねえけどよ、面白くも何ともねえ女だぜ。一緒に遊ぶっちゅう女じゃねえや。まさか、おめえ、嫁にするつもりなのか」
「馬鹿野郎、勘治じゃあるめえし、そんな事ア考えた事もねえよ」
「ただ、一発やりてえだけか」
「まあな。あのすました顔で、どんなよがり声をあげるのか見てみてえのよ」
「それなら簡単じゃねえか。どこかで待ち伏せでもして、やっちまえばいい」
「そうもいかねえ。なかなか、うちから出ねえからな。まず、何とかして、うちから出さなくちゃアならねえ」
「へっ、気の長え話だ」
「それより、おめえは何を企んでるんでえ」
「なアに、俺もちょっと一発やりてえのがいてな」
 惣八は艶本から顔を上げるとニヤリと笑う。「見てるだけでゾクゾクッと来るんだ」
「ほう。おなべはもう飽きたのかい」
「そうじゃねえけどよ。たまにはな‥‥‥実を言うと俺ア諦めてたんさ。丑の奴が他人(ひと)の嚊(かかあ)に惚れやがって、何とかしてやるべえと考えてるうちに俺もやってやろうと思ったんだ」
「何だ、おめえ、他人の嚊を狙ってんのか。誰なんでえ、一体(いってえ)」
「おい、安、誰にもしゃべるなよ。いいな」
「わかってるよ」と平賀源内が書いた『風流(ふうりゅう)志道軒伝(しどうけんでん)』を読んでいた安治は顔も上げずにうなづく。
「実はな」と惣八は回りを見回してから小声で言った。「おまんなんだ」
「何だと。あの馬医者野郎の嚊のおまんか」市太はびっくりして起き上がり、惣八の顔をじっと見つめる。
 惣八は真面目な顔してうなづく。
「確かに、おまんは八兵衛にゃア勿体(もってえ)ねえ、いい女だがよ、間男(まおとこ)がばれりゃア、とんだ事になるぜ」
「勿論、慎重にやらなきゃならねえ。だが、あそこんちはガキもいねえし、親もいねえ。八兵衛が出掛けちまえば何とかなりそうだ」
「そうかもしれねえがよ、気を付けろよ。おまんはお頭の妹なんだぜ」
「そんなのわかってらア。八兵衛は小道具の担当だからな、俺も手伝うって事になったんだ。ちょくちょく出入りしてりゃア、いつかはうまく行くぜ」
「おめえだって、気の長え事を言ってるじゃねえか」
「目的を達成するにゃア焦(あせ)りは禁物よ。少しづつ外堀から埋めてかなきゃアならねえ」
「なに、生意気(なめえき)な事を言ってやがる」
「先生の受け売りさ。なあ、市太、どっちが先にものにするか賭けるか」
「いいとも、何を賭ける」
「そうさなア」
「おい、賭けるんはいいがよう、ものにしたってえ証拠はどうすんでえ。口先だけじゃア信じられねえぜ」
「証拠か。確かにそいつア難しいや。まさか、見てる前(めえ)でやるわけにゃアいかねえしな」
「ここに連れ込みゃアいいんじゃねえのか」と安治が口を挟む。「前もって俺たちに知らせりゃア、とっくりと見届けてやるよ」
「何だと、おめえたちの前でやれってえのか」
「ちゃんと隠れてるさ。その後、念仏講(ねんぶつこう)(輪姦(りんかん))ってえのも洒落(しゃれ)てるな」
「おう、そいつは面白え」といつの間にか、惣八が見ていた艶本を横取りして眺めていた丑之助もニヤニヤする。「おろくにおまんか‥‥‥こいつア楽しみだ」
「冗談じゃねえ。おろくを念仏講なんかさせられるか」市太はつい本気になって怒る。
「あれえ、市太、本気で惚れたんじゃあるめえ」
「本気じゃねえさ。本気じゃねえけど‥‥‥おめえはどうなんだ。おまんを廻しても構わねえのか」
「ああ、構わねえよ。どうせ、人様の嚊だ」
「決まったな」と安治は手を打つ。「後は何を賭けるかだ」
「おめえはそいつを賭けろ」と惣八は市太の腰に下げた煙草入れを指さす。
「こいつア江戸で買って来たばっかだ」
「勝ち目がねえならやめるか」
「そんな事アねえ。畜生、気に入ってんだが、いいだんべえ。おめえは何にする」
「俺アおめえが前(めえ)から欲しがってた、あの匕首(あいくち)だ」
「おう、それなら、いいだんべ」
「よし決まった。俺たちが請人(うけにん)だ。二人とも、まあ、頑張ってくれ」
「それじゃア、さっそく、俺ア外堀を埋めに出掛けるぜ」
 惣八が得意になって出て行こうとすると、丑之助が引き留めた。
「ちょっと、俺の方はどうしたらいいんでえ」
「おめえの方は難しいわ。二歳のガキはいるし、おっ母もいる。おまけに従弟(いとこ)夫婦まで同居してりゃア、どうにもなんねえ。根気よく、おしめが一人で出掛けるのを待ち伏せするしかねえぜ。かと言って、通りをウロウロしてる訳にもいかねえしな。難しいよ」
「そんな‥‥‥俺アどうしたらいいんでえ」
「おめえは諦めろ。その方がいい」と市太も言って、二人は小屋から出て行った。
「なあ、安、いい考(かんげ)えはねえのかよ」と艶本の中の男女のからみを羨ましそうに眺めながら丑之助が言う。
「難しいよ。諦めな」安治は本を読んでいて相手にしない。
「おめえも冷てえな。そういう奴だったのかよ」
「わかったよ。何かいい筋書きを考えてやらア」
 安治が丑之助に恋の手ほどきをしている頃、市太はおろくの家にいた。まだ歩く事もできない甚左は、市太が毎日、見舞いに来るので恐縮している。おろくは嬉しそうに市太を迎えるが、共通した話題もなく、話は弾まない。今晩、芝居の稽古があるから必ず来てくれと言って別れた。
 芝居の舞台は諏訪明神の森の中にあった。初めの頃は神楽(かぐら)の舞台でやっていたが、市太の祖父、市左衛門が若衆頭をやった時、芝居専用の舞台を作る事になった。もう四十年も前の事で、どこの村にも芝居専用の舞台などなかった。やがて、周りの村々がこの舞台を真似して作り、村芝居も広まって行く。鎌原の村芝居はこの辺りでは一番古く、伝統ある行事になっていた。七月二十五日のお諏訪様の祭りには近在の村々から芝居を見るために続々と人が集まって来た。
 まだ、大道具も小道具もなく、衣装もない。しかし、下座(げざ)音楽に合わせての稽古は始まっていた。今日の稽古は三幕目の『大物浦(だいもつのうら)の場』で市太の出番はない。市太の兄、庄蔵が義経を演じ、お頭の杢兵衛が知盛(とももり)を演じている。鎌原路考(ろこう)の権右衛門が安徳帝(あんとくてい)の乳母(うば)、典侍(すけ)の局(つぼね)を演じ、安徳帝は名主、儀右衛門(ぎえもん)の次男、直吉が演じている。直吉の母親、おさよは干俣(ほしまた)村の名主、干川(ほしかわ)小兵衛(こへえ)の娘で、子供以上に張り切っている。干小(ぼしこ)の旦那と言えば、この辺りでは有名な金持ち、孫が舞台で活躍すれば、酒の一斗(と)や二斗は届くだろうと若衆組では大いに期待している。そして、安徳帝に仕える女官(にょかん)、おとくの役で勘治も出ている。真面目くさった顔して、勘治がおとくを演じるのを眺めながら、芝居の筋書きを教えてやろうと思ったのに、おろくはついに来なかった。
「さすがの若旦那も振られたようだね」とおなつが寄って来て、笑いながら言う。
「うるせえ」
「所詮(しょせん)、住む世界が違うんだよ。諦めな。もし、うまく行ったとしたってさ、おろくはあんたと遊ぶ時間なんかないんだよ。寝たきりのおっ母さんに、気違い三治の面倒を誰が見るんだい。それに、あんた、おろくと会って何の話をしてるのさ。馬鹿話が通じる相手じゃないし、芝居の事だって知りもしないだろ。兄貴は義太夫のお師匠だけど、おろくは三味線なんか弾けないだろ。イカサマ博奕で銭を巻き上げた話でもするのかい。大笹の奴らと大喧嘩した話でもするのかい。それとも、追分にいる馴染みの女郎の事を話すのかい。江戸の吉原の話もあったっけねえ。二人で何を話してるんだか、見てみたいもんだよ」
「うるせえってえんだよ」
「それにさ、おゆうと勘治と同じで、あんたとおろくは家柄が違うんだよ。勘治は親を説得して、おゆうを嫁に貰うって稼業に励んでるけど、どうなるかわかったもんじゃない。今までに家柄が違う者が一緒になった試しなんかないのさ。勘治の親だって、いざとなりゃア反対するに決まってる。勘治がおゆうの事を自然に忘れる事を願ってんだよ。おろくなんか忘れなよ。どうにもならないんだからさ」
「くそっ、何が家柄だ。馬鹿馬鹿しい」
「そう思うのはあんたの家柄がいいからさ。身分の低い者はただ諦めるしかないんだよ。おゆうのようにね。あんたがおろくに近づけば近づく程、おろくは悩む事になるんだよ。今のうちに手を引いた方がいいよ。お互いのためにね」
「うるせえ」と市太は怒鳴ったが、おろくの事は諦めて、その夜、おなつとよりを戻した。

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目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...