2020年3月24日火曜日

天明三年(一七八三)四月十三日

 鎌原(かんばら)村を見下ろす西の高台に観音堂がある。
 村の中央を走る表通りから、惣八の家『炭屋』と旅籠屋『扇屋(おうぎや)』の間にある通りへ曲がり、しばらく行くと『十日の窪(くぼ)』と呼ばれる窪地に出る。そこに小さな稲荷社(いなりしゃ)があり、道は二手に分かれる。左に行けば西窪(さいくぼ)村、あるいは大前村、大笹(おおざさ)宿(じゅく)へと行く。正面の細い坂道を登って行くと途中から石段があり、その上に観音堂があった。観音堂の裏側は深い原生林になっているが、表側の眺めはよく、浅間山が見渡せた。その観音堂の裏手に若衆(わけーし)小屋がある。九年前に大工の八右衛門が建てたもので、若い者たちが芝居の稽古(けいこ)や会合(かいごう)に利用している。
 村の中程、東側にある諏訪明神の森の中に芝居の舞台があり、その近くにも若衆小屋はある。以前はそこに集まって芝居の稽古をしていた。やかましい婆さんが近くに住んでいて、夜遅くまで稽古をしていると必ず、文句を言いに来た。それが毎晩の事なので、これでは稽古ができないと村から離れた観音堂の裏に小屋を建てたのだった。その婆さんも三年前に亡くなり、今では下の小屋でも稽古ができるようになった。しかし、下の小屋では中老格(ちゅうろうかく)の者たちが稽古をするので、市太たち下っ端はもっぱら、観音堂の小屋を利用していた。
 若衆組は十五歳から三十歳までの男たちの組織で、祭礼の奉仕、村内警備、消防、婚姻の仲立ちなど村の行事を中心になって行なっていた。二十五歳から三十歳までを中老と呼び、若い者たちの指導に当たった。
 市太と惣八、同い年の安治が芝居の稽古をするためにやって来たのだが、いつしか飽きてゴロゴロしている。そこにやって来たのが、エレキテルで有名な平賀源内(げんない)の門人という風変わりな浪人、片桐錦渓(きんけい)。万座山の硫黄(いおう)採掘をしている江戸の薬種(やくしゅ)問屋、小松屋に頼まれて、明礬(みょうばん)を捜し回っている。明礬は媒染(ばいせん)剤や革のなめし剤、絵の具の滲(にじ)みを防ぐために使う礬水(どうさ)の材料となり、傷の治療などにも用いられた。五日前、小松屋と一緒に万座の硫黄を調べに来た錦渓は、浅間山麓に明礬があるに違いないと確信を持ち、鎌原村に腰を落ち着けて、毎日捜し回っていた。
 平賀源内は四年前の安永八年(一七七九)の暮れ、人を殺して投獄され、そのまま牢屋の中で亡くなった。有名な浄瑠璃(じょうるり)『神霊矢口の渡し』を書いたのが風来(ふうらい)山人(さんじん)と呼ばれる源内先生だと市太たちも知っているが、詳しい事までは知らない。錦渓が源内の事をあれこれ面白く話していると娘たちが顔を出した。おなつ、おなべ、おゆうの三人娘。
「やっぱり、ここにいたのね。もう馬方稼業は終わり?」
「やっと終わったよ。まったく、まいったぜ」
 草津からのんびり帰って来たら、市太が無断で金を持ち出したのがばれていた。さんざ小言を言われたあげく、一昨日(おととい)と昨日と荷物を馬の背に乗せ、片道二里の狩宿まで何往復もしていたのだった。
「それにしても、よく逆らわないで、馬方なんてやってたわね」
「俺アな、今度(こんだ)の芝居(しべえ)に賭けてんだよ。権太に賭けてんだ。ほんとなら今頃、こんな村、飛び出すはずだった。ところがよ、お頭がこの俺に権太の役をくれた。権太の役は俺にしかできねえってな。見事にやり遂げてみせるぜ。蔵なんかに閉じ込められてたまるかよ」
「あんた、蔵に閉じ込めるって脅(おど)されたんだ。そういえば、前にも入れらたっけ。あたしってものがありながら、他人(ひと)のかみさんに手を出して」
「うるせえ、黙れ」
「ほう、若旦那は他人の女房にも手を出すのか」と錦渓が感心する。
「そいつがいい女なんですよ、先生。源七の野郎にゃア勿体(もってえ)ねえ」と惣八が言うと、
「おう、知っておるぞ」と錦渓はうなづく。「確かに源七の女房はいい女じゃな。あの女房に手を出したか。そいつは面白え。その顛末(てんまつ)を聞かせてくれんか」
「先生、よして下せえよ」
「いや、ひょっとしたら面白え本が書けるかもしれんのでな」
「本て、先生も浄瑠璃を書くんですか」と安治が膝を乗り出して聞く。
「鳩渓(きゅうけい)(源内)先生の弟子じゃからな。わしだって浄瑠璃ぐれえ書くさ」
「先生、『鎌原心中(しんじゅう)』なんて書いて下せえよ」
「おいおい、おめえ、俺を殺す気かよ」市太が安治の肩を拳で軽く突く。
「市太とおすわがお山に登って、釜(かま)(噴火口)ん中に身を投げるんだ」
「馬鹿言ってんじゃねえ」
「そうなると『浅間山心中』の方がいいな。ねえ、先生、『浅間山心中』で行きましょう」
「ねえ、あたしはどうなるのさ」とおなつが口を挟む。
「そうさなア、おめえにはクドキの場面をやってもらう。『酒屋』のお園みてえにな」
「今頃は市太さん、どこにどうしてござろうぞって言うのかい」
「そうさ、いいぞ。ねえ、先生」と安治はすっかり浄瑠璃作者になったつもりでいる。
「心中するのはいいが、それまでの顛末が肝心だ。まずはそいつを聞かせてくれい」
「先生、やめてくれ。俺を笑(われ)え者(もん)にすんのはよう」
「笑い者にするんじゃない。他人の女房に横恋慕(れんぼ)して蔵に閉じ込められるなんて、そうある話じゃない。蔵を破って、こいつが言うように浅間山で心中したら、いい話になるかもしれんぞ」
「それじゃア、俺が詳しい話をしてやる」と惣八が話に乗ってくる。
 市太がやめろと言うが、おなつたちも詳しい話が知りたいと言い出した。勝手にしろと背中を向けて寝そべる市太を尻目に惣八は話し出す。
「そもそも二人の馴れ初めは、村の外れの権現(ごんげん)様の、年に一度のお祭りに、いがみの市太がおすわを誘い、二人手を取り仲むつまじく、通う夜道に満月の、照らすその中、いがみの市太、おすわを暗い森陰に」
「いい加減な事を言うな」と市太は上体を起こして怒る。「ありゃア夜じゃねえ、まだ日暮れ前(めえ)だ」
「いいじゃねえか。夜の方が絵になる」
「勝手にしやがれ」と市太はまたもや、ふて寝する。
「ねえ、あんたは黙っててよ」おなつは市太の背をたたくと、「それからどうしたの」と先を促す。
「いがみの市太、おすわを暗い森陰に引っ張り込むと口を吸い、裾(すそ)をまさぐるその手つき」
「いいぞ、春本(しゅんぽん)の趣向(しゅこう)になって来たな」と錦渓は手をたたく。
「イヤよダメよとおすわは髪を振り乱し、市太の首にしがみつく」
「ちょっとやめてよ」とおすわの妹、おゆうが止める。「姉ちゃんがそんな事するわけないじゃない」
「まあ、とにかく、あの祭りん時、二人はできたんだよ。それから二人はうまく行ってたんだが、突然、次の年の秋、市太はおすわに振られるんだ。あたし、源七さんのお嫁さんになるのってな。市太は『桔梗屋(ききょうや)』でやけ酒を食らったあげく、出戻りのおゆくを抱いちまう。おすわは源七の嫁になって、市太もおゆくに夢中になって、その後、おなつといい仲になって、おすわの事なんかすっかり忘れたかに見えたが、去年のお諏訪様の祭りの後片付けをしてる時、ばったり二人は会っちまう。何も言わずに見つめ会う二人、回りを見れば人はいない。いがみの市太、おすわを暗い森陰に引っ張り込むと口を吸い、裾をまさぐるその手つき、イヤよダメよと」
「それはいいっつうの」とおゆうが睨む。
「とにかく、ふたりは森陰で抱き合った。そこを村人に見られ、市太の親父に告げ口をして、市太は蔵に閉じ込められたってえ顛末だ」
「その村人ってえのは一体(いってえ)、誰だったんでえ」と市太が寝返りを打って惣八に聞く。
「そいつア今もって謎だ」
「若旦那。その時、おすわを無理やりやっちまったのか」と興味深そうに錦渓が聞く。
「そうじゃねえ。あん時は自然にああなっちまったんだ。おすわは決して逆らわなかった。何も言わなかったけど、あいつ、源七とうまく行ってねえんじゃねえかと俺ア思ったぜ」
「成程な。自然の成り行きか‥‥‥」
「姉ちゃん、好きで源七のお嫁さんになったんじゃないんだよ」とおゆうが言う。「姉ちゃん、今でも市太が好きなんだよ。でも、姉ちゃんは諦めたんだ」
「なに言ってんだ。何を諦めるってんだ」
「あたしにもよくわからないけど、家柄(いえがら)っていうんが違うんだよ」
「家柄だと?」市太は体を起こすとあぐらをかいて、おゆうを見つめる。
「あたし、親たちが話してるのを聞いちゃったんだ。今はみんな、お百姓をしてるけど、この村には昔、お侍(さむらい)だった家柄があって、そういう家柄の者と昔からお百姓だった家柄の者は一緒になれないんだって」
「そんなの初耳だぜ」と市太たちは驚く。
「あたしだってよく知らないけど、大人たちはみんな知ってるみたい。祝言(しゅうげん)を挙げる前に親たちは組頭(くみがしら)にその事を聞いて、家柄が合ってるかどうかを確かめるらしい。何でも、鎌原様の所に古い人別帳(にんべつちょう)があって、そういうのがみんなわかるんだって」
「確かに鎌原様は昔はお殿様だったさ。今でもお侍(さむれえ)だけど、沼田の真田家が潰れて、鎌原様の家来たちが浪人して百姓になったんは、もう百年も前(めえ)の事だんべ。そんな昔の家柄なんか持ち出して、好きな者(もん)同士でも一緒になれねえなんておかしいぜ」
「おかしいたってしょうがないじゃない。この村の掟(おきて)みたいになってるんだもの」
「へっ、くだらねえ」
「くだらねえかもしれないがな」と錦渓が真面目な顔をして言う。「今の世の中、すべて家柄とか、身分で成り立ってるんだよ。たとえば、この村にはいねえが穢多(えた)、非人(ひにん)という者たちがいる。百姓たちは奴らを馬鹿にする。非人の娘を嫁に貰う百姓はいねえだろう」
「それとこれとは話が別だよ、先生」
「いや、同じさ。非人も百姓も同じ人間だ。違うとこなんてありゃしねえ。それじゃア、もし、おまえが武士の娘に惚れたらどうする」
「武士の娘になんか惚れるわけがねえ。そんなの、この辺をウロウロしてねえからな」
「あら、一人いるじゃない」とおなつが言う。「鎌原様のお嬢様よ」
「小菊様はまだ十一だ」
「でも、あと五、六年したら、いい女になりそうよ」
「ほう、鎌原様にそんなお嬢様がいらしたのか。丁度いい。もし、おまえがその小菊様に惚れたとして、お手討ちを覚悟で添い遂げようとするか」
「そんなの、なってみなけりゃわからねえ」
「そうだろうな。おすわとおまえの場合、おすわはかなわぬものと諦めたんだよ」
「くそっ、くだらねえ」
「ねえ、あたしんちはどうなのさ」とおなつがおゆうに聞く。「あたしんちと市太んちは身分違いなのかい」
「そんなのあたしに聞いたってわからないよ。ただ、村役人をやってるうちは昔はお侍だったらしいよ」
「あっ、うちのお爺ちゃん、組頭だった」とおなつは大喜び。「お侍だったんだわ。よかったア、市太と同じね」
「ねえ、惣八、あんたんちは村役人なんかやってたの」とおなべが心配そうに聞く。
「さあな、聞いた事もねえよ」惣八は首を傾げる。
「あたしも聞いた事ないけど、どうなんだろ」
「なアに、切り離されるような事んなったら、二人で村を飛び出しゃいいさ。どうせ、俺ア次男坊だ」
「畜生め、そいつを知ってりゃア、俺だっておすわを連れて村を出たんに」市太が悔しがると、
「そうなったら、あたしはどうなんのよ」とおなつがすねる。
「そん時、おめえはまだガキだったんべ」
「そんな事ないよ」
「うちはどうなんだんべ」と安治が深刻な顔して言った。
「おめえは今んとこ誰もいねえだんべ」と惣八がゲラゲラ笑う。
「そりゃそうだけど‥‥‥」
「ほう、惚れた奴がいるのか」
「そりゃア俺だって」
「いるけど、相手にされねえか」
「そうじゃねえんだ。まだ‥‥‥」
「誰でえ、言っちまえよ。力になるぜ、なあ、市太」
 惣八が市太に声を掛けても、市太は腕組みして何かを考えている。
「ほんとか。ほんとに力になってくれるかい」と安治は本気になっている。
「おめえだけ相手がいねえんじゃ、こっちが気い使うからな」
「それじゃア言うけど、おさやちゃんなんだ」
「おさやだと。おめえ、まさか」と惣八は市太を見る。
 市太は安治の話を聞いていない。おなつたちが急に笑い出したので、どうかしたのかと惣八を見る。
「こいつがおさやちゃんに惚れてんだとさ」
「なに、おさやに惚れてるだと」市太は安治を見る。
 安治は神妙にうなづく。
「何を言ってやがる。ありゃアまだガキだ」
「そんな事アねえよ。もう十七だし、おさやちゃんはいい女だ」
「ダメだ、ダメ。おさやはダメだ」
「そんな、力になるって言ったじゃねえか」
「力になってやれば」とおなつが言う。「あたしだって、あんたと会ったのは十七だったじゃないか」
「おさやはおめえなんかと違うわ」
「どう違うのよ。問屋のお嬢さんだから違うってえの」
「そうじゃねえけど、おめえたちとは違う」
「言うんじゃなかった」としょんぼりしている安治。
 そこに、「大変(てえへん)だ」と駈け込んで来たのは勘治。
「何だ、おめえ、何してやがった」惣八が聞くと、
「昨夜(ゆんべ)、うちに女義太夫(おんなぎだゆう)が泊まったんだ」と勘治は息を切らせながら言う。
「女義太夫だと」
「そうさ、弾き語りをするんだ。雪之助っていって、そいつがまたいい女なんだ。草津に行く途中なんだが、うちの親父がちょっと喉(のど)を聞かせてくれって頼んだら、ニッコリ笑って語り始めた。いいねえ。さすが、江戸で鳴らした喉は全然違うぜ。親父の奴、一人で聞くんは勿体(もってえ)ねえと、あちこち声を掛けやがった。みんな集まってるぜ。おめえたちも早く来いよ」
 そう言うと勘治は慌てて戻って行く。
「そいつア面白そうだ。女義太夫なんて噂じゃ聞くが見た事アねえ。行こうぜ、行こうぜ」と惣八と安治が後に続く。
 錦渓先生も面白そうだなと付いて行く。娘たちも後を追う。
 おなつが戻って来て、「ねえ、あんたは行かないの」と一人残っている市太に声を掛ける。
「女が義太夫を唸るだけだんべ。面白くもねえ。それより、おゆうの話は本当なのか」
「ほんとでしょ」
「何で、今まで黙ってたんだ。一言言ってくれりゃア‥‥‥」
「言えなかったのよ。今まで、そんな家柄や身分なんて知らなかったのに、急に、市太んちとおすわんちは身分違いだからダメだって言われて。おすわも苦しんだ末に諦めたのよ」
「へっ、くだらねえ。それにしたって、すぐに源七の嫁になる事もねえだんべ」
「一緒になれないってわかったから、もう自棄(やけ)っぱちになったんじゃないの」
「畜生め」
「あんた、また騒ぎを起こさないでよ。おすわはもう源七のおかみさんなんだから。間男(まおとこ)なんてしたら、ほんとは捕まって江戸の牢(ろう)に入れられちゃうんでしょ」
「そんな事ア知るか」
「ねえ、そんな事、いつまでも考えてないで、あたしたちも女義太夫を聞きに行きましょ」
「勝手に行け」
 おなつは仕方なく、市太を置いて行く。
「あ~あ、面白くもねえ」
 市太は小屋から出ると観音堂の側まで行き、浅間山を眺めた。いつものように煙を上げている。四日前の恐ろしい地鳴りが嘘だったかのように、青空の下、白い煙を上げている。それにしても四月も半ばになるというのに今年は寒い。長半纏(ながばんてん)の襟(えり)をかき合わせ、ふと、石段の下を見ると、おなつが笑いながら手を振っている。
 市太は苦笑して、「お~い、待ってろよ」と石段を駈け降りた。
 表通りに出て左に曲がると、すぐ前を甚太夫(じんだゆう)の手を引いたおろくが歩いていた。
「あら、お師匠(ししょう)も呼ばれたみたいね」
 おなつの声を聞いて、おろくが振り返った。
「おめえたちも鶴屋に行くのかい」と市太はおろくに聞く。
「はい」とおろくは言ったただけで、すぐに前を向いて歩き続ける。
「お師匠を呼ぶとなると、その女義太夫、余程の腕なのね」とおなつはおろくを真似て、市太と手をつなぐ。
「何やってんだ。みっともねえ」
「いいじゃないよ。たまには」
「うるせえ」と言って、市太は懐手(ふところで)をする。
 おなつは笑うと、「寒いよ」と言って、市太の袖(そで)の中に手を差し入れて肘(ひじ)につかまる。
「離れろっていうに」
「いやだ」おなつは駄々っ子のように首を振る。「ねえ、見て、あんたのお爺さんも枡屋(ますや)の旦那と一緒に行くみたい。あれ、おさやとおみやも一緒だよ」
「どうやら、義太夫好きがみんな集まるようだな」
「あんたの親父さんは行かないの」
「さあな。朝っぱらからどっかに行ったぜ。まだ、帰って来ねえんじゃねえのか」
 観音堂から表通りに出ると、左の角に旅籠屋『扇屋(おうぎや)』、一軒おいて名主の儀右衛門の家、その隣に『江戸屋』という硫黄(いおう)を扱う店がある。江戸の薬種問屋、小松屋の出店で、錦渓先生はそこの世話になっている。その隣に『枡屋(ますや)』という酒屋があり、十王堂へと行く細い路地を過ぎると市太の家、問屋の『橘屋(たちばなや)』がある。隣が『古久屋(こくや)』という米屋、その隣に大笹の関所番を勤める鎌原様の屋敷がある。
 鎌原様は戦国時代からずっと、鎌原村の領主だった。沼田の真田家に仕え、家老も勤める家柄だったが、百年前の天和(てんな)元年(一六八一)、領民を苦しめた悪政によって真田家は改易(かいえき)されてしまった。真田家の支配地は天領(幕府の直轄地)となり、家臣たちは皆、浪人となった。鎌原様は大笹の関所番に任命されて、辛うじて武士の身分を保ったのだった。関所番になって、今は五代目の要右衛門(ようえもん)が当主、一月交替で大笹に詰めている。要右衛門は五十近くになり、まだ隠居はしていないが、関所番は長男の浜五郎に任せて、村の子供たちに読み書きを教えていた。
 以前、村の者たちはほとんど読み書きができなかった。それでも農作業や馬方稼業には別に不便でもなかったが、村で芝居をするようになると台本が読めなければ話にならない。そこで、鎌原様が教える事となった。市太たちも鎌原様から教わった。
 広い敷地を有する鎌原様の屋敷の前を通り過ぎると、おなつの家、古着屋の『栄屋』があり、二軒おいて『桔梗屋』という茶屋がある。鎌原屋敷から桔梗屋までの道の反対側は諏訪明神の森になっていて、参道の入り口、鳥居の脇に高札(こうさつ)が立っている。勘治の家、旅籠屋の『鶴屋』は諏訪の森の向こう側、二軒目にあった。
 桔梗屋の前を通ると、「ちょいと、若旦那」と声を掛けられた。
 振り返ると桔梗屋の女将、おゆくが襷(たすき)を外しながら出て来た。
 芦生田(あしうだ)村に嫁いだが、子供ができずに離縁され、四年前、村に戻ると茶屋を開いた。もう二十八の年増(としま)だが、村評判の器量よし。再婚話も数々あるが、そんなのには見向きもせずに気ままに暮らしている。三年前から甚太夫に入門して、村の旦那衆と一緒になって義太夫を唸っている。おすわに振られた市太といい仲になり、一年近く続いたが、おなつが現れ、自然と足は遠のいている。
「鶴屋さんに行くんでしょ。あたしも行くわ、ちょっと待ってて。まあ、おなっちゃん、随分、仲がおよろしいこと」
「女義太夫が来たんじゃ、姉さんも負けられねえな」市太が言うと、
「なに言ってんのよ」とおゆくは市太をぶつ真似をする。「あたしのなんか、まだ聞かせられないわよ。噂じゃア、えらい別嬪(べっぴん)らしいじゃない。女義太夫なんて、顔だけでもお客を呼べるらしいからねえ。どれだけの腕があるんだか、しっかりと見てやんなきゃね」
「やっぱり、負けられねえと思ってんじゃねえか。相変わらずの強がりだ」
「あら、そんな事ないわよ。最近、めっきり弱気になっちゃったわ」
「どうした、何かあったのかい」
「最近、若旦那が来なくなっちゃったからね」
「なに言ってやがる。路考(ろこう)たア続いてんだんべ。それに、先生も出入りしてるって評判だぜ」
「先生はダメさ。訳のわからないもんに夢中になっててさ。変わり者(もん)だよ、あれは」
「早く行こう」とおなつが市太の袖を引く。焼け棒杭(ぼっくい)に火が付きやしないかと気が気でない。
「さて、お手並みを拝見と行きましょ」
 おゆくはおなつが睨むのも平気な顔で市太に寄り添う。
 鶴屋の二階の客間には、女義太夫の雪之助を囲んで、二十人余りが集まっていた。三味線を抱えた雪之助は噂通りの別嬪だった。江戸っ子だけあって、あか抜けていて、何もかもが粋(いき)だ。旦那衆は鼻の下を伸ばして、雪之助の話に耳を傾けている。
「どうだ、大(てえ)した玉だんべ」と勘治がニヤッとする。
「あれだけの玉がよく、江戸を出て来たな」
「色々と訳ありなんだんべ」
 勘治の父親、五郎助(ごろすけ)が声を掛けると、雪之助は用意された次の間に移り、客たちはこちらの間に並んだ。市太たちも勘治たちのいる後ろの方に座り込む。
 一番前には五郎助、おなつの父親、政右衛門と惣八の父親、弥惣治がいる。旅籠屋『扇屋』の旦那、清之丞(せいのじょう)と小間物屋『萬屋(よろずや)』の旦那、善右衛門、そして義太夫の師匠、甚太夫が陣取っている。
 甚太夫は幼い頃に失明し、十五の頃より市太の祖父、市左衛門から三味線を習い、音に対して物凄く敏感で物覚えもいいので、軽井沢の師匠について本格的に義太夫節を学んだ。二十一の時、修行を終えて村に戻り、以来、村の旦那たちに教えていた。
 二列目には鶴屋の二軒隣にある髪結い床の隠居、六兵衛、旅籠屋『桐屋』の旦那、三太夫、『枡屋』の旦那、平太夫、そして、市太の祖父、市左衛門も妹のおさやを連れて座っている。おさやの隣には平太夫の娘おみや。おさやとおみやは隣同士の仲よしだった。その後ろに観音堂から来た錦渓、安治、惣八におなべ、勘治におゆうがいて、市太、おなつ、おゆくが座り、一番後ろの隅に、甚太夫を連れて来たおろくが小さくなって座っていた。
「さあ、雪之助さん、自慢の喉をみんなに聞かしてやって下さい」
 五郎助が言うと、雪之助は軽く笑ってうなづき、三味線を構え、音を合わせてから義太夫節を語り始めた。
「年のうちに春を迎えて初梅の、花も時知る野崎村、久作(きゅうさく)という小百姓、せわしき中に女房は万事(ばんじ)限りの膈病(かくやまい)、娘おみつが介抱も、心一杯二親に、孝行臼(うす)の石よりも、堅い行儀の爪(つま)はづれ、在所(ざいしょ)に惜しき育ちかや~」
 三年前に大坂の竹本座で初演された『新版歌祭文(うたざいもん)』、お染久松(そめひさまつ)の『野崎村の段』だった。時代物は甚太夫によって聞き馴れているが、心中物は珍しく、娘たちも真剣な顔をして聞き惚れている。
 終わった後、おなつが教えてくれと言い出すと、おゆくまでもが言い出して、旦那衆も娘たちが浄瑠璃(じょうるり)を覚えるのはいい事だと賛成した。草津に行ってお座敷勤めをするつもりだった雪之助は皆に引き留められ、しばらく、村に滞在する事に決まった。
 旦那衆がよかったよかったと言いながら引き上げると、雪之助は娘たちに囲まれ、質問攻めに会っていた。
「さてと、わしも遊んでばかりもいられねえ。山歩きをして来るか」と錦渓も出て行く。
 何も言わず隅に控えていたおろくが立ち上がり、甚太夫の手を引いて帰ろうとした。
「おめえは教えてもらわねえのか」市太がおろくに声を掛けると、
「あたしも習いたいけど、でも、ダメなの」と首を振る。
 おろくは寂しそうに笑って去って行った。
「ねえ」とおろくの後ろ姿を見ていた市太の袖をおなつが引っ張る。
「あんな暗い女なんか、どうだっていいじゃない。それよりさ、あたしにもできると思う」
「やりゃアできるだんべ。親父の太竿(ふとざお)(義太夫節の三味線)を借りて、まあ、頑張ってやるこった」
「まったく冷たいんだから、あんたも習いなさいよ」
「俺ア今、芝居(しべえ)で忙しいんだよ」
「忙しいたって、お稽古なんかちっともしてないじゃない」
「まだ間があらア。やっぱり、舞台(ぶてえ)ができて、ちゃんと衣装をつけてからじゃねえとな」
「そうなってから慌てないようにね。舞台で恥かいたら、みっともないわよ」
「うるせえ。恥なんかかくか」
 ゴーンゴーンと延命寺(えんめいじ)の鐘が正午を知らせた。おゆくが御馳走してあげると雪之助を誘い、みんなして『桔梗屋』へと移動した。

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目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...