2020年4月30日木曜日

天明三年(一七八三)七月二十三日

 昼近く、おさよとおろくが戻って来た。一緒に来た藤次に率いられて、大笹の若い衆が角材や板を運んで来る。
 昼飯の支度をしていた女衆が驚いて、おさよとおろくの回りに集まって来た。
「うまく行ったわ」とおろくは笑った。
「干小(ほしこ)の旦那さん?」とおかよが聞く。
 おろくはうなづいて、「黒長の旦那さんも協力してくれたの」と言った。
「さすが、おかみさんね」とおかよたちは感心して、おさよを見る。
「わたしはただお手伝いしただけよ。みんなの気持ちが通じたのよ」
 そう言っている間にも、小屋作りの資材が次々に運び込まれた。
「あの人たちにもお昼、お願いね」とおろくはおかよに言うと、藤次を連れて市太の所に向かった。
 用水を掘り起こす仕事は順調に進んでいた。藤次は小屋の事を市太たちに説明した。小屋の大きさは間口(まぐち)三間(さんげん)、奥行十間で、冬に備えて囲炉裏を四ケ所つけるという。
「ほう、そいつア助かる」と市太たちは喜ぶ。
「それだけの大きさがありゃア、当分は間に合うだんべ」とうなづきあった。
「明日から建て始めようと大工(でえく)たちも集めてあるんだ」と藤次は気の早い事を言う。
「明日からか」と市太は驚く。
「早え方がいいだんべ」
「そりゃアそうだが」
「そこでだ、どこに建てる」
 市太は半兵衛を見た。
「観音堂よりはこっちの方がいいだんべな」と半兵衛は言った。
「そうだな」と市太もうなづいた。
 市太は昼飯にしようと仕事をやめさせ、皆を観音堂に返した後、半兵衛と藤次と一緒に、小屋を建てる場所を捜した。今後、皆の家を建てる予定もあるので、邪魔にならない場所を選ばなければならない。村の中央に当たる諏訪明神の境内にしようかとも思ったが、やはり古井戸に近い方がいいだろうと村の南の端、おろくの家のあった辺りに決定した。
 昼飯を食べながら、市太はおろくから、昨日、ここを出てからの事を聞いた。
「昨夜(ゆうべ)はおみのさんのお部屋に泊めてもらったのよ」とおろくは楽しそうに言った。
「へえ、一晩中、話し込んでたんだんべえ」
「ええ。市太さんと藤次さんの喧嘩の事とか色々話してくれたわ」
「あいつ、余計な事は言わなかったんべえな」
「余計な事も教えてくれたみたい」とおろくは笑った。「兄貴は女好きだから気をつけなさいって」
「あの、馬鹿が。そういやア、おみのの姿が見えねえが、今日は来ねえのか」
「向こうで、ここに運ぶ荷物の指図をしてるの。最後に来るはずよ」
「そうか。それで、名主のおかみさんは真っすぐ、干俣(ほしまた)に帰(けえ)ったのか」
「いいえ。おさよさんも黒長さんのお屋敷に泊まったのよ。市太さんの家族を説得してたみたい。その前に、あたしと一緒に、みんながお世話になってる旅籠屋に行って、おみやちゃんの叔母さんや油屋の旦那さん、立花屋の善次さんたちを説得して回ったの」
「成果はあったかい」
「枡屋さんとこは大丈夫。うるさい大人は叔母さんしか残ってないし、生き残っただけでも感謝しなくちゃって。おみやちゃんもお兄さんの怪我が治ったら、すぐにでも来るって言ってたわ。油屋さんとこは難しいわね。かなりの土地を持ってたから、やっぱり、それにこだわってるの。息子さんたちは、そんな事を言っている時じゃないって言うけど、あそこの旦那さんはイッコク者だから難しいわ」
「立花屋の善次はどうなんだ」
 立花屋というのは橘屋の分家だった。市太の祖父、市左衛門の弟、武左衛門が分かれて、笹板(ささいた)と呼ばれる屋根を葺(ふ)く板を扱っていた。善次は武左衛門の伜で、村が埋まった日、妻と一緒に妻の実家のある原町に行っていて助かった。妻の母親が突然、倒れて、村が埋まった日も危篤(きとく)状態が続き、妻を原町に残したまま、善次は一人、村に向かった。大戸から須賀(すが)尾(お)を抜け、万騎(まんき)峠を越えて狩宿まで行ったが、そこから先は行けなかった。狩宿で鎌原の馬方たちと出会い、再会を喜んだが、村は全滅したという。仕方なく、原町に戻ると妻の母親も亡くなっていた。
 村を失い、家族も失い、嘆き悲しんでいた時、大笹に鎌原の生存者がいるという噂を聞いた。母親の初七日を済ませた二人は大笹へと向かった。須賀尾通りでは大笹まで行けないし、吾妻川沿いも危険だという。二人は暮坂(くれさか)峠を越えて草津に行き、中居に降りて大笹に向かった。大笹に伜の松次郎が生きていた。伜と再会できて二人は喜んだが、実家の母親は亡くなり、嫁ぎ先の両親も亡くなり、家も村も失い、あまりにも衝撃が強かったため、妻のおつたは倒れてしまった。今も具合が悪く、大笹の旅籠屋で寝込んでいる。
「一応、話はしたんだけど、それどころじゃないみたい。それにあの時、村にいなかったから、村の状況もわからないんじゃないかしら。ここに来て、この有り様を見ればわかってくれると思うけど」
「そうなりゃいいけどな」
「そして、今朝早く、干俣村に行ったのよ。干小の旦那さんが作ってくれた小屋に、みんないたわ。百姓代の仲右衛門さん、扇屋の旦那さん、宮守(みやもり)の杢右衛門さんを説得したの。仲右衛門さんは一人だけ生き残った村役人さんなのに、村の事なんか考えられる状態じゃなかったわ。家族を失った悲しみから立ち直れないみたい」
「若え嫁さん貰って、子供ができたばかりだったからな」
「ええ。扇屋の旦那さんは、弟の吉右衛門さんはこっちに来てるけど、難しいわね。持ってた土地は絶対に手放さないって強気だった。おさよさんが説得しても無駄だったわ。おさよさんもついに頭に来て、旦那さんの土地はそのままにして置きます。お好きになさいと言ったの。旦那はそれでいい。誰にも渡さんと言ったわ。おさよさんは新しい村を作るにあたって、土地はすべて村の物とみなして、みんなで焼け石を除いて整地をします。旦那さんの土地はそのままにして置きますので、家族の皆さんと一緒に掘り返して下さいって。旦那さんは困ったようだったけど、まだ強気で、お上のお役人様が来れば、そんな勝手な事をさせんて言ってたわ」
「へえ、あのおかみさんが扇屋の旦那を脅したのか。そいつア見物(みもの)だったな」
 市太はおさよが清之丞をやり込める場面を想像して、声を出して笑った。
「旦那さんは無理でも、息子さんは来るような気がするわ」
「そうか、あの旦那は一番手ごわそうだな」と市太は無精髭を撫でる。「宮守の旦那はどうなんだ」
「お諏訪様もなくなっちゃったけど、必ず再建します。是非とも宮守を務めて下さいって言ったら、引き受けてくれたわ。でも、娘のおみなちゃんの具合が悪くて、おみなちゃんがよくなったら行くって約束してくれた」
「そいつアよかった。あっ、そうだ。俺んとこはどうなんだ」
「お爺様はそれも仕方ないじゃろうって言ったようだけど、お母さんと叔父さんは反対してるみたい」
「そうだんべな。おふくろは黒長の妹だから、くだらねえ誇りってえもんを持ってる。叔父御も土地を持ってたからな、それにこだわってんのかもしれねえ。跡継ぎの五郎八は死んじまったが。叔父御はまだ、馬方たちを死なせたんは自分のせいだと思ってんのかな」
「さあ、そこまでは聞かなかったけど。でも、おさよさんが村作りに加わったと聞いて、びっくりしていたそうよ」
「そりゃアそうだんべ。俺だって驚いたぜ。ところで、おかみさんは何だって、おめえを連れてったんだ」
「それがよくわからないのよ」とおろくは首を傾げる。「もしかしたら、市太さんと半兵衛さんの事を詳しく聞きたかったのかもしれないわ。市太さんの事は村一番のゴロツキ、半兵衛さんの事はただの馬方の一人としか知らなかったみたい。その二人がどうして、中心になって村作りをしてるのか理解できなかったんじゃないの」
「そうかもしれねえな。それで、おめえ、俺たちの事をちゃんと教えてやったのか」
「勿論よ。それに、おみのさんがあたしたちの事を教えたら驚いてたわ。おさよさんたら、家柄の違う者同士が一緒になれないって事も知らなかったのよ」
「本当かよ、そいつア」
「ほんとなのよ。鎌原様と村役人さんたちは別として、他の人たちはみんな同じだと思ってたみたい」
「信じられねえな。だって、村の祝言(しゅうげん)には名主夫婦が立ち会うんだぜ。そんな事を知らねえなんて」
「あたしも信じられなかったけど、ほんとなのよ。それで、あたしたちが身分差のない村を作るっていうのは、そういう事なのかって、やっとわかったみたい」
「何だ、それじゃア、おかみさんは新しい村の意味もわからずに仲間に入ったのか」
「昨日はね。でも、今はちゃんとわかってるわ。市太さんの事も半兵衛さんの事も、勿論、新しい村の事も」
 おさよを見ると半兵衛と話をしていた。おさよと話をするのは初めての半兵衛は小さくなって、やたらと恐縮しているようだった。
「何を話してるんだんべ」と市太が二人の方を見ながら言った。
「おさよさん、色々な事を知りたがってるのよ」とおろくも二人の方を見た。「十年以上も住んでたのに、村の事は旦那さんに任せっきりで、何も知らなかったのを恥じてたわ。もっと、村の人たちと接していればよかったって。今までの穴埋めをしようと必死なんじゃないかしら」
「俺もあまり話した事アねえが、いい人みてえだな」
「そりゃアいい人よ。あたしだって、兄さんを名主さんちに連れてった時、挨拶をするくらいで話したのは初めて。昨日、一緒に来てって言われた時はどうしよう、何を話したらいいんだろうって心配したけど、おさよさんの方から色々と聞いて来てくれて。あたしが名主さんのおかみさんて呼んでたら、みんな、平等なんでしょ、おさよって呼んでくれって。何か、とても張り切ってるみたい」
「おさよさんか‥‥‥年増(としま)だが、いい女だ。半兵衛の奴、まいっちまうんじゃねえのか」
「いいんじゃないの。お互いに連れ合いを亡くしちゃったんだから」
「羨ましいわね、仲がよくって」とおかよが顔を出した。
「あれ、おめえ、おそめはどうしたんだ」
「おしめさんに預けたわ。おそめったら、おしめさんの事をお母さんだと思ってるみたい。おしめさんもおそめの事を気に入ってるみたいだし、このまま、おしめさんの子供にしちゃおうかしら」
「それもいいんじゃねえのか。おめえも子持ちじゃア嫁の貰い手もいめえ」
「なに言ってんのよ」とおかよは市太の肩を小突く。「あたしには鉄つぁんがいるさ。早く、お茶屋を開いて、鉄つぁんが来るのを待ってなくちゃアね」
「この村の事は江戸にも伝わったのかなア」市太が言うと、
「わからないわ」とおかよは首を振る。
「兄貴の事だ、今頃、こっちに向かってるかもしれねえ」
「いいのよ。そんな気休め言わなくても」
「気休めなんかじゃねえ。本気でそう思ってる」
「そうなら嬉しいけど」おかよは寂しそうに笑った。
 資材運びはまだ続いていた。女たちは次から次へと来る大笹の若い者たちのために昼飯の支度が忙しかった。昼飯を食べ終えたおろくとおさよは食べていない女たちと交替した。
 男たちは食事の後、一服すると小屋を建てる場所に向かった。大笹から来た者たちにも手伝ってもらい、夕方までには焼け石を掘り起こし、整地もできた。
「明日は大工を連れて来るからな」と藤次は言って、若い衆を引き連れ帰って行った。
「兄貴、おさよさんのお陰でうまく行ったね」と最後の荷物と一緒に来たおみのが笑った。
「おさよさんが伯父御に頼んだのか」
「あたしも頼んだけど、こんなに事が早く運んだのは、おさよさんのお陰なのよ。おさよさんが干小の旦那を大笹に連れて来てね、村中にある資材を集めさせて、大工さんも呼んで、これでどういう小屋が作れるかって聞いて、納得すると次々に運ばせたのよ。まったく、小気味よかったわ。うちの親父と干小の旦那だけだったら、まだ、何だかんだ言ってて、今日のうちに資材を運んで、建てる場所の整地までできやしないわ」
「そうだったのか。結構、やるじゃねえか、あのおかみさん」
「そうね、強い味方ができたわね」
「大笹のみんなにも何かお礼をしなきゃアならねえが、今の俺たちにゃア何もできねえ。まったく、歯痒(はがゆ)いぜ」
「そんな事、気にすんなって。人並みな暮らしができるようになってから考えな」
「すまねえ」
「いいのよ」とおみのも手を振って帰って行った。
 おさよは残って、みんなと一緒に小屋に寝泊まりする事になった。不自由な生活だが、食べ物のなかった、あの六日間に比べたら何でもないと気にしなかった。

2020年4月29日水曜日

天明三年(一七八三)七月二十二日

 鎌原では新しい村作りのための共同生活が始まっていた。市太とおろく、半兵衛父娘、安治、仙之助の六人で始まった村作りは、次の日には惣八とおまん、丑之助とおしめ、おかよとおそめ、伊八と新五郎とおいちの兄弟、路考こと権右衛門も加わり、噂を聞いて干俣村からも杢兵衛、清之丞の兄の吉右衛門、孫八と富松の兄弟がやって来た。今では二十人の大所帯になっていた。市太が最初に決めたように皆、平等という事を守り、うるさい事を言う者もなく、和気あいあいと朝から晩まで仕事に励んでいた。
 その頃、干俣村の名主、干川小兵衛の屋敷で、鎌原村の名主、儀右衛門の妻だったおさよは縁側に座って、ぼうっと庭の池を眺めていた。
「おさよ」と呼ばれて振り返ると父親の小兵衛が後ろに立っていた。
「いい天気じゃな」
「はい」
「鎌原では大変な事をやってるらしいのう」
「大変な事?」
 おさよが不思議そうに、父親を見ると父親はうなづいて、おさよの隣に座り込んだ。
「さっき聞いて驚いたんじゃが、問屋の伜が中心になって、身分差のない、みんな平等な村を作ると張り切ってるそうじゃ」
「身分差のない平等な村‥‥‥」
「ああ。もっとも村人のほとんどが亡くなってしまったんじゃから、身分だの家柄だのと言ってはおられまいがのう。今朝もここから何人かが鎌原に行ったそうじゃ。おまえはここにいていいのか」
「あたしが行ったって、何もできない」おさよは力なく俯いた。
「亭主が亡くなり、子供も亡くなったので、もう村の事はどうでもいいのか。一人だけ残されたのは、おまえだけではあるまい。おまえにもやるべき事はあるはずじゃ」
「あたしに何をやれって言うの」
「それはおまえが自分で考える事じゃ。ここにいたければいてもいい。だがな、おまえは鎌原村の名主の妻だったんじゃ。村の者たちは皆、その事を知っている。おまえがいつまでも悲しんでいたら、村の者たちも立ち直る事はできんのじゃぞ。よく考えろ」
 父親が去った後もおさよは呆然としていた。家族を失った悲しみから立ち直れないのに、村のために何かをやるなんて不可能だった。これ以上、苦しみたくはなかった。早く、何もかも忘れてしまいたかった。それでも、父親が言った皆が平等な村というのが気になっていた。名主の娘に生まれて、名主のもとに嫁いだおさよに取って、身分差のない村など想像すらできなかった。
 おさよは重い腰を上げると村の者たちが避難している小屋に向かった。何も考える事もなく、ただの気分転換のつもりだった。父親が鎌原村の避難民のために建てた小屋なのに訪れるのは初めてだった。
 避難小屋には四十人近くの村人たちが不自由な生活をしていた。おさよを見ると皆、丁寧にお礼を言って来た。自分は何もしていないのに、お礼を言われるなんて後ろめたかった。具合の悪そうな者も何人かいたが、思っていたほど多くはなく、大部分の者たちは元気になっていた。ゲッソリしていた扇屋の旦那、清之丞もすっかり血色がよくなって、のんきに三味線を弾いていた。
「やあ、名主のおかみさん、大分まいってたようじゃが、元の別嬪(べっぴん)に戻って何よりじゃ。わしもようやく元気になったわい」
「それはよかったですね。旦那さんは村の方には戻らないのですか」
「あんなとこに戻れるか。ワルガキの市太が半兵衛の奴と一緒になって、身分差のねえ村を作るとほざいておる。みんな平等で、土地持ちや山持ちは認めんとほざいておるんじゃ。先祖代々伝わって来た、わしの土地はどうなる。ふざけやがって。おかみさんもそう思うじゃろう。名主さんちも土地持ちじゃった。今更、それを取り上げられてたまるもんか。なア、そうじゃろうが。まったく、ふざけやがって。今、あの村に集まってる奴らは土地なんか持ってねえ奴らばかりさ。市太と半兵衛に躍らされて、村作りなんかやってるが、そのうちに、お上(かみ)のお役人様がやって来りゃア、そんな事通用せんわ。以前のごとく、わしの土地はわしの物になるじゃろう、ハハハ」
 おさよは清之丞と別れるとそのまま、大笹に向かった。どうして、大笹に向かったのか、自分でもわからなかった。名主の妻としての自覚がそうさせたのかもしれなかった。
 大笹の問屋に顔を出して、鎌原までの道を聞くと、丁度、おみのと藤次が鎌原に運ぶ荷物を馬に積んでいた。人々が何往復もしたので、ようやく、馬も通れるようになっていた。
 おさよはおみのたちと一緒に鎌原に向かった。
「確か、あなたは名主さんのおかみさんではありませんか」とおみのが聞いてきた。
「はい。さよと申します」
「あたしは黒長の娘、みのです」
「まあ、あなたが黒長さんの」とおさよはおみのの姿を見て驚く。
 男のような格好をしていて、どう見ても名主の娘には見えなかった。
「気を付けて下さい。足元が悪いですから」
「ええ、大丈夫よ」
「この辺りは焼け石も冷めて、歩けるようになったんですけど、お山の裾野の方は、まだ燃えているんです」
 おさよはおみのが示す浅間山の山麓を見た。観音堂から大笹に連れて来られた時、半ば、気を失っていて、回りの景色なんて見ていなかった。改めて眺め、被害の大きさに驚くばかりだった。
「煙が上ってるのが見えるでしょ。夜になると火が燃えてるのがよくわかります。お山は相変わらず、唸っていますし‥‥‥あのう、おさよさんも村作りに加わるのですか」
「えっ」とおさよはおみのを見た。そんな事は考えてもいなかった。「いえ。ちょっと様子を見に」
「そうですか。おさよさんが加われば、村の者たちもみんな、従うと思います。家柄のよかった人たちは、どうしても身分差のない村作りに反対してしまいます。村がなくなってしまったのに、昔の事が忘れられないのです」
「市太郎さんが始めたのですか」
「はい。市太郎兄貴と半兵衛さんです」
 半兵衛と聞いて、おさよはドキリとした。世間知らずのおさよでも、馬方の頭である半兵衛の事は知っていた。話をした事もないはずなのに、なぜか、半兵衛という名が心の片隅に引っ掛かっていた。
「兄貴も最初は無理だって諦めていたんです。見た通り、辺り一面、焼け石で埋まってますものね。これを掘り返さなくては村なんてできません。誰だって、そんな事できないって思います。でも、半兵衛さんは毎日、一人で出掛けて行って、焼け石を掘り返していたんです。それを見て、兄貴もやらなきゃならないって思ったみたいです」
「半兵衛さんが一人でやっていたのですか」
「はい。皆を説得して回ってたけど、誰も従わなかったんです。でも、諦めないで、雨の日も一人で出掛けて行って‥‥‥兄貴が動いたら従う者も出て来ました。大笹の問屋には江戸に運ぶ荷物が溜まっています。それを運ぶにはどうしても、鎌原に問屋が必要なのです。兄貴が問屋をやれば、村人たちも馬方稼業ができます。畑がダメでも、馬方ができれば、あの村は立ち直れます」
「そうですか‥‥‥」
 一時(いっとき)余りで観音堂に着いた。八日前、もう二度とここには戻って来ないだろうと去って行ったのに、なぜか、戻って来てしまった。なぜだか、自分でもわからなかった。
 観音堂にお参りして、若衆小屋の方に行くと女たちが昼飯の支度をしていた。小屋の脇には洗濯物が干してあり、潰れていた物置も直っている。女たちは皆、若く、避難小屋にいる者たちに比べて、ずっと明るい顔をして仕事に精出していた。
「あら、名主さんのおかみさんじゃない」とおそめをおぶったおかよが気づいて驚いた。
 女たちが手を止めて、おさよを見て頭を下げる。皆、以外そうな顔付きだった。
「おかみさんも来てくれたの。助かるわ」
「そうじゃないんだけど‥‥‥」
「まあ、お茶でも飲んで休んで下さいな。道が悪いからお疲れでしょ」
 おかよがおさよを縁側に連れて行くと、おろくがすぐにお茶を出した。
 小屋の中を見ると綺麗な筵(むしろ)が敷き詰められて、部屋の隅には布団が積まれ、役者絵を貼り付けた枕(まくら)屏風(びょうぶ)、燈明台(とうみょうだい)もいくつもあり、火鉢(ひばち)や煙草(たばこ)盆(ぼん)まで置いてあった。
「みんな、ここで寝泊まりしてるの」とおさよはおかよに聞いた。
「そうなんですよ。でも、だんだんと人が多くなっちゃって。ねえ、おかみさん、干小(ほしこ)の旦那さんに新しい小屋を建ててくれるように言ってくれません」
「それは構わないけど」
「うちの親父にも言っとくわ」と荷物を降ろしたおみのが来て、口を出した。「二十人を越えちゃったもんね。ここじゃア狭いわよ」
「御苦労様」とおろくはおみのにもお茶を差し出す。
「お酒を持って来たわ。みんな、久し振りでしょ」
「ありがとう。みんな、喜ぶわ」おろくはお礼を言った後、「あれ、藤次さんは」とおみのに聞く。
「兄貴たちの方に行ったんじゃない。うちの若え者を連れて来て、手伝わせるかって言ってたから、その事を相談しに行ったのよ」
「荷物を運んでもらうだけで充分ですよ。これ以上、みんなに迷惑をかけちゃア悪いわ」
「そんな事、気にしないで。逆の立場だったら、兄貴は真っ先に飛んで来て助けてくれるわ。困った時はお互い様よ。兄貴と藤次はお互いに男気(おとこぎ)を競って来たから、助けたくってしょうがないのよ」
「どうも、すみません」
 フフフとおみのはおろくを見ながら笑った。「もうすっかり、兄貴のおかみさんみたい」
「あら、そんな意味で言ったんじゃ」
「いいのよ。あたしも応援するからね、頑張ってよ」
「ありがとう」
 おさよはおかよとおろくから、ここの生活振りを聞いた。おろくも、おしめも、惣八も、安治も、権右衛門も家族を失って、たった一人になっていた。それでも、ここに来て村作りをやっている。村の事も家族の事も、悲しい事は何もかも忘れて、実家で静かに暮らそうとしていた自分が情けなく思えて来た。亡くなった家族のためにも、この地に戻って来なくてはならないと、おさよは強く感じていた。
 話の後、おさよはおみのの案内で、焼け石を掘り返している男たちの所へ行った。男たちは汗と泥にまみれて用水の溝を掘っていた。おさよが来た事に気づくと皆、手を休めて頭を下げた。
「皆さん、御苦労様です。どうぞ、続けて下さい」
「あの、おかみさんもここに来てくれるんですか」と市太が汗を拭きながら聞いた。
 おさよは皆の顔を見回した。皆、生き生きとした目をしていた。その中に半兵衛の姿もあった。半兵衛は日に焼けた顔で、おさよを見つめていた。
 おさよは突然、鎌原村に嫁いで来た当時の事を鮮明に思い出した。おさよは十六歳で、半兵衛は二十二、三歳だった。半兵衛は花嫁行列を手伝ったり、その後も名主の家に出入りしていた。十二歳も年上の儀右衛門に嫁ぎながらも、おさよは時々、見かける半兵衛に淡い恋心を抱いていた。その後、半兵衛も嫁を貰い、おさよも子育てが忙しく、そんな事はすっかり忘れていた。それが今、十六歳の時に戻ったかのように、半兵衛に見つめられ、胸がときめいていた。おさよは慌てて半兵衛から視線をそらすと、市太を見て、力強くうなづいた。
「わたしにも手伝わせて下さい。あなたたちの村作りを」
「手伝うなんて。おかみさんはいてくれるだけで結構ですよ」
「いいえ。みんな平等なんでしょ。わたしも一緒に働きます」
「おかみさん‥‥‥ほんとにありがてえ。おかみさんが来てくれりゃア、もう百人力だ」
「おだてないで下さい。わたしなんか何もできないのよ」
「いやいや、おかみさんにしかできねえ事があるんだ」
「えっ」と驚くおさよに市太は、新しい村作りに反対している者たちの説得を頼んだ。市太や半兵衛が説得しても反発してうまくは行かない。名主の妻だったおさよから説明すれば、うまく行くような気がした。
「来ない人は来なくてもいいんじゃないの」とおさよは聞いた。
「そうは行かねえんだ。村がある程度、できてから、この土地は俺のだって駄々をこねられると困るんだ。それに、できれば生き残った者はみんな、戻って来てほしい」
「そうね、その方がいいかもしれない」
 おさよは快く引き受けて、おみのと藤次と一緒に大笹に戻って行った。なぜか、その時、手伝ってもらう事があるからと、おろくを連れて行った。

2020年4月28日火曜日

天明三年(一七八三)七月十九日

 半兵衛は毎日、鎌原村に通っていた。山守の八蔵を連れて来た次の日も、一日中、雨が降っていた昨日も、半兵衛は一人で出掛けて、村の再建の事を考えていた。夕方、大笹に戻って来ると、あそこに新しい村を作ろうと毎晩、市太を説得した。
 土砂の上を覆(おお)っている焼け石の厚さは一尺(約三十センチ)程度だから、掘り返せば畑もできるだろう。古井戸も掘り返してみたら、あふれる程の水が出て来た。以前のように表通りの中央に用水を引けば村は復活する。半兵衛は強い口調で言うが、市太は乗り気ではなかった。村一面を覆っている焼け石をどけるだけでも容易な事ではない。村の者が総出でやっても、いつまで掛かるか見当もつかない。用水だの表通りだのというのは、その後の話だった。
 市太だけでなく、村の者たち、みんなに説得して回ったが、半兵衛の言う事にうなづく者はいなかった。それでもくじけず、半兵衛は今日も一人で出掛けて行った。
 雨もやんで、いい天気だった。長左衛門の炊き出しはまだ続いている。大前村や西窪村の被災者たちのほとんどは自分の村に帰って、それぞれ小屋掛けして新しい生活を始めていた。大前村も西窪村も家屋はすべて、土砂に埋まるか流されていた。それでも、生存者が多く、田畑もいくらか残っていたので、皆、自分の村に帰っている。今、炊き出しの世話になっているのは鎌原の被災者と怪我をして動けない者たちだった。
「おはよう。今日はいいお天気よ」とおろくが市太の側にやって来た。おろくは毎日、炊き出しを手伝っていた。
「半兵衛さん、今日も一人で出掛けたわ」
「そうか」と市太は気のない返事をする。
「たった一人だけでも、焼け石をどけるんですって」
「そんなの無理だよ。できっこねえさ」
「ねえ。あなたは前にあたしに言ったわ。無理だって最初から諦めるなって。無理かどうかやってみなけりゃわからないって」
 市太はおろくの顔を見つめた。おろくは何かを訴えるように市太をじっと見つめている。
「おめえ、俺に行けって言いてえのか」
「あの村は馬方で持ってた村でしょ。問屋がなければ、村の人たちも安心して戻れないわ」
「俺に問屋をやれってえのか」
「あなたしかいないじゃない。あなたがやればみんなついて来るわ」
 市太はおろくから目をそらして、煙を上げている浅間山を見た。
 おろくの言う通り、問屋をやるのは市太しかいなかった。叔父の弥左衛門も生き残ったが、多くの馬方たちを死なせたのは自分のせいだと落ち込んでいる。三人の子供も失って、立ち直るのは難しい。
 市太はおろくに視線を戻すと、「おめえの気持ちはどうなんでえ」と聞いた。「おめえも村に戻りてえのか」
 おろくは力強くうなづいた。
「半兵衛さんと同じように、あたしにもあの村しかないもん。家族が埋まってるあの土地を放っておいて、他所(よそ)の土地で暮らすなんて考えられない。他所の土地で幸せに暮らしたとしても、きっと、後悔すると思う」
「畜生め!」と市太は大声で怒鳴った。「結局はあそこに戻るしかねえのかよお」
「行くの」とおろくは期待を込めて聞く。
 市太は仕方ねえという顔付きでうなづいた。「まずは腹拵(はらごしれ)えだ」
 雑炊(おじや)を食べると市太とおろくは半兵衛の後を追って鎌原村に向かった。
「この道も馬が通れるようにしなきゃアならねえな。大笹から鎌原まで二里、鎌原から狩宿までも二里、それに、六里ケ原を通って追分や沓掛(くつかけ)までも掘り返さなけりゃならねえ。まったく、気の遠くなるような話だぜ」
「でも、誰かがやらなきゃア。みんなで力を合わせれば、できない事はないのよ」
「おめえ、やけに強気になったじゃねえか」
「市太さんが教えてくれたんじゃない。家柄が違う者同士が一緒になるなんて、できっこないって諦めてたのに、市太さんは絶対にできるって、決して諦めなかった。諦めない限り、必ず、できるんだって、あたし、市太さんから教わったのよ」
「なに言ってんでえ。俺ア他人(ひと)様に教えるような柄(がら)じゃねえ。でもよう、これから作る新しい村に下らねえ掟(おきて)なんかいらねえな。身分差なんかねえ平等な村を作ろうぜ」
「でも、そんな事できるかしら」とおろくは少し弱気になる。
「できるかしらじゃねえ。作るんだよ、俺たちで」と市太は言った。
 ようやく、いつもの市太に戻ったようだと、おろくは嬉しそうに笑う。
「鎌原様が持ってたっていう人別帳とやらも埋まっちまった。家柄なんかわかりゃアしねえ。新しい村にそんな物はいらねえんだ。よーし、こいつア面白くなってきやがった。やる気が出て来たぜ」
「そんな村ができたら、ほんと、素敵ね」
「ああ、やりてえ事ア何でもできるぜ。早え者勝ちだ。旅籠屋をやりてえ奴は旅籠屋をやりゃアいい。お茶屋がやりたかったらやりゃアいい。土地持ちも山持ちもそんな者はいねえ。みんな、平等に一から始めるんだ。畑が欲しけりゃ、焼け石をどけて畑にすりゃアいい。切り取り御免てえ奴だ」
 市太は久し振りに浮かれていた。何だか知らないが、体中から力が湧き出て来るようだった。市太はおろくを抱き上げるとグルグルと振り回した。おろくはキャーキャー言いながら、市太に抱き着いていた。
「おろく、俺ア今までずっと、自分が何をやりてえのか、わからなかった。やりてえ事が見つからねえんで、江戸に行くなんて言ってたんだ。でも、今、やっと、やりてえ事が、いや、やるべき事が見つかった。命懸けでやるべき事が見つかったんだ」
「なアに、命懸けでやるべき事って」
「村作りさ。新しい村作りだ。この果てしもねえ焼け石を掘り起こして道を作り、村を作るんだ。一生を懸けても終わらねえかもしれねえが、一生を懸ける値打ちはあるぜ。おめえも手伝ってくれるな」
 おろくは市太に抱かれたまま、うなづいた。「あたしも懸けます。市太さんにあたしの一生を」
「おめえならわかってくれると思ってた。畜生め、やっと俺の出番が来やがった」
 半兵衛はたった一人で焼け石を掘り起こしていた。市太とおろくを見ると、
「若旦那、きっと来てくれると思ってたぜ」と汗を拭きながら、嬉しそうに笑った。
 市太は来る途中で考えた、新しい村の構想を半兵衛に話した。
「身分差のねえ平等な村か。うむ、そいつアいい思いつきじゃ。だが、反対する者もいるじゃろうのう」
「真っ先に反対しそうなのは扇屋の旦那だんべ。土地も山も持ってたからな。納得させるなア容易じゃねえが、やれねえ事アねえ。決して諦めなけりゃア何とかなる」
「そうじゃな。こうやって少しづつ掘り返して行くだけじゃ」
「半兵衛、ところで、この縄(なわ)は何なんだ」
 半兵衛は縄を一直線に張って、それに沿って焼け石を掘り返していた。
「こいつは用水じゃ。まず、用水を掘って、その両脇に以前のように表通りを作る。そして、通りに面して、うちを建てるんじゃ」
「成程。用水を作るのはわかったが、こんなとこから掘るより、上流から掘った方がいいんじゃねえのか」
「わしもそう思って、上流の方からやり始めたんじゃがな、昨日、古井戸んとこを掘っちまったんで、びしょびしょに濡れちまうんじゃ。半ば、涸れてたんに、あんなにも水が出て来るたア思ってもいなかった。用水ができてから古井戸を掘りゃアよかったと後悔してんじゃよ」
 半兵衛に連れられて古井戸の所まで行くと、水が驚く程、湧き出ていて焼け石の中に染み込んでいた。
「こいつアすげえ。しかし、勿体(もってえ)ねえなア」
「ああ、失敗(しっぺえ)した」
「ねえ、これだけ水があれば、もう、ここに住めるんじゃないの」とおろくが言う。
「住むって、また、あの小屋に住むのか」
「いちいち、大笹から通うよりはいいでしょ。あっちにいてもやる事はないんだし」
「そうだ。おろくの言う通りじゃよ。道が悪(わり)いんで夜は歩けねえ。日が暮れる前(めえ)に向こうに着くように帰(けえ)らなけりゃアなんねえ。ここにいりゃア、夜明けから日暮れまで、びっしりと仕事に掛かれる」
「そうか、そうだな」と市太も同意する。「大笹から食料を持って来りゃア、ここでも暮らせる。いつまでも、伯父御の世話になってるわけにもいかねえ。よし、明日、食料を運ぶべえ。明かりや布団もあった方がいいな」
「いや、そんな贅沢(ぜえたく)はできめえ。まだ馬は通れねえんだからな」
「伯父御に頼むさ。いや、藤次に頼んべえ。奴なら人足を出してくれるだんべ」
「藤次ってえのは、あの藤次か」と半兵衛が不思議そうに聞く。
「そうさ。さんざ、喧嘩したあの藤次さ。半兵衛に仲裁してもらった事もあったっけな」
「ああ、あん時はまったく、ひでえ目に会った。しかし、あの藤次に頼むたアどうなってんでえ」
「まあな。この前(めえ)、仲直りをしたんさ」
「ほう、そうじゃったんか。確かに、奴に頼みゃア、布団だんべが、竈(へっつい)だんべが、何でも運んでくれるだんべ」
「今晩、帰(けえ)ったら、みんなに声掛けべえ。惣八と安は来るだんべ。おかよとおゆうも来るかもしれねえ」
「みんなで一緒に暮らすなんて楽しそうね。あたし、あの小屋のお掃除をしてるわ。住むとなれば綺麗にしなくちゃ」
 おろくは観音堂の方に戻って行った。
「働き者(もん)じゃな」とおろくの後ろ姿を見ながら半兵衛が言った。
「ああ、朝から晩まで動いてねえと気が済まねえらしい」
「働き者なんは前(めえ)から知ってたが、おろくは若旦那と仲よくなってから変わったよ。明るくなったし、強え女になった。若旦那、嚊天下(かかあでんか)になるぜ」
「半兵衛だって、嚊天下だったんべえ」
「ああ、嚊天下じゃった‥‥‥わしはな、かみさんを草津に連れてってやる事もできなかったんじゃよ。若旦那はおろくを連れてったんだってな」
「どうして、それを知ってんだ」
「桐屋の蔵に避難した時、おろくの姉ちゃんから聞いたんじゃ。毎日、毎日、忙しいって、かみさんにいい思いもさせてやれなかった。それだけが悔やまれてなア。今頃、言っても遅えやなア。さてと仕事に掛かるか」
 半兵衛と市太は八つ半(午後三時)頃まで焼け石と格闘して汗を流し、おろくが綺麗に掃除した小屋で一休みしてから大笹に帰った。

2020年4月27日月曜日

天明三年(一七八三)七月十六日

 浅間山は相変わらず、黒煙を吹き上げながら唸っていた。それでも、以前に比べれば、煙の量は半分程に減っている。このまま、静まってくれと祈るばかりだった。
 市太とおろく、半兵衛、おゆうの四人は焼け石の上を歩いていた。おみのたちが二往復したので、すでに足跡が道になっていて、思っていたよりも歩くのは楽だった。
 昨日のようないい天気ではなく、空は雲が覆っていて蒸し暑い。砂が降って来るのを警戒して菅笠(すげがさ)を被り、焼け石を警戒して下駄を履いている。半兵衛が先頭を歩き、おゆう、おろく、市太と一列に並んで観音堂を目指した。惣八、安治、丑之助も誘ったが来なかった。あんな所に行っても何もねえ。昨日、狩宿まで行って疲れたから、今日はのんびりしたいと言う。惣八はおまんと、安治はおさやと、丑之助はおしめと、改めて再会を喜びたいのだろうと無理には連れて来なかった。
 観音堂から大笹に行った時、あんなに苦労したのが嘘のように、一時(いっとき)余りで観音堂に着いた。当然の事だが、観音堂の中は永泉坊が祈祷した時のままだった。この狭い中に、二十人もの人が六日間も寝起きしていたとは、とても信じられなかった。裏に回って若衆小屋を見ると無残な姿で建っていた。何度も潰(つぶ)れそうになって、みんなで必死に補強してきたのだった。雨降る中、屋根に積もった砂や石をどけたり、雨漏りの修理をしたのが、遠い昔の事のように思い出された。みんなの命を救ってくれた汚い桶に雨水が溜まったまま置かれてあった。
「ひでえとこにいたもんだ」と半兵衛が感慨(かんがい)深げに呟(つぶや)いた。
「ここに四十人も‥‥‥」とおゆうが驚いた。
「そうさ。俺たちはその土間にギュウギュウ詰めになってたんだ。揺れは来るし、石は降るし、しかも、食う物(もん)はねえ。雨は降り続くし、まったく、生きた心地(ここち)もしなかったぜ」
「腹を減らしながら、あんた、ここで、ものにした女の数を数えてたんでしょ」
「おめえ、何て事、言うんでえ」
「だって、ここは、あたしたちの逢い引きの場所だったじゃない。あたしと勘治だって、何度もここで‥‥‥」
 おゆうは涙ぐんでいた。
 市太も勘治の事を思い出していた。一緒に悪さをして、一緒に江戸にも行った勘治がいないなんて、信じろと言っても無理だった。
「しかし、この小屋は頑丈じゃったなア。さすが、棟梁(とうりょう)じゃ。これだけの腕を持ちながら、まったく、残念な事じゃ」
 四人は若衆小屋を離れ、観音堂に両手を合わせると石段を降りた。あれだけあった石段はたったの十三段しかない。そこから広々と焼け石が広がっている。
「何これ、こんなにも埋まっちゃったの‥‥‥」
 村の姿を初めて見るおゆうは呆然と立ち尽くした。勘治がどこかに生きているかもしれないという希望は目の前の景色によって、一瞬のうちに吹き飛んでしまった。
「信じられねえが、これが現実なんだ」と市太がおゆうに言う。
「みんな、埋まっちゃったのよ」とおろくが言った。
「一瞬の内だった。みんな、逃げる暇もなかったに違えねえ。誰も、こんな土砂がお山から攻め寄せて来るなんて思いもしなかった。うちの爺ちゃんだって、山守の隠居だって、こんな事ア初めてだと言っていた。どうする事もできなかったんだ」
 半兵衛が埋まった村に向かって両手を合わせていた。市太もおろくもおゆうも両手を合わせて、亡くなった者たちの冥福(めいふく)を祈った。
 まずは、ずっと続いている足跡に沿って歩いてみた。大きな岩や大木があちこちに埋まっている。表通りがどの辺にあったのかもわからない。
「あれがお諏訪様の屋根じゃな」と半兵衛が指さした。
 神社特有の屋根の上部が焼け石の上に顔を出している。諏訪明神の本殿は小高い丘の上にあったので、すべて埋まらなかったのだろう。
「あそこがお諏訪様なら舞台はあの辺だな」と市太が指をさす。
 落葉松(からまつ)の枝が顔を出しているだけで、舞台の屋根は見えなかった。市太は足跡のない焼け石の上に一歩踏み出してみた。下駄が焼けた様子はない。手で触って見ても熱くはなかった。
「もう大丈夫みてえだぞ」と市太は半兵衛に言う。
「それでも気をつけた方がいい。中の方は熱(あち)いかもしれねえ」
 市太はうなづくと一歩一歩確かめながら、舞台があったと思える辺りに行ってみた。焼け石はすっかり堅くなっていた。
「もう大丈夫だ」と市太は皆に言った。
 半兵衛はうなづくと焼け石の上に踏み出した。思い切り焼け石を下駄で蹴ってみた。砕けた焼け石の中をよく見てみたが燃えている様子はなかった。
「大丈夫のようじゃな」
 おろくもおゆうも恐る恐る焼け石の上に上がった。四人は足元に気をつけながら、村の上を歩き回った。この辺りが表通りだ、この辺りが俺の家だ、あたしの家だと確認し合ったが、空しさがつのるばかりだった。だんだんと皆、口数が少なくなって、観音堂に戻ると石段に腰を下ろした。
「何だかんだ言ったってしょうがねえ。もう、村はなくなっちまったんだ」市太が言うと、
「村はこの下にちゃんとある」と半兵衛は強い口調で言った。
「そんな事アわかってる。だが、もうダメだ。こんなとこに戻っちゃア来られねえ」
「若旦那、わしはな、ここで生まれたわけじゃアねえ。はっきり言やア来たり者(もん)じゃ。だが、わしはこの村に骨を埋めるつもりで、今まで生きて来た。わしに取って、この村は故郷(ふるさと)なんじゃ。ここより他に行くとこなんて、どこにもねえんじゃ」
「そんな事、半兵衛に言われなくたってわかってらア。俺アこの村で生まれて、この村で育ったんだ」
「いいや、わかってねえ。故郷ってえもんが、どんなもんだか、若旦那にゃアわかってねえ。わしは故郷を捨てた。追い出されたんじゃ。無宿者(むしゅくもん)にされて、あちこちさまよった。江戸に出た事もある。だが、何をやってもうまくは行かねえ。結局は旅から旅への流れ者じゃ。六里ケ原で行き倒れになって、馬方に助けられて、この村に来た。今まで、人並みに扱ってもらった事なんかなかったんに、大旦那(市太の祖父)は、わしを人並みに扱ってくれた。大旦那のお陰で、わしはこの村で人並みな暮らしができたんじゃ。嚊(かかあ)も貰って子供もできた。亡くなった嚊や子供のためにも、わしはここに戻って来なくちゃならんのじゃ。大旦那に恩返しするためにも、もう一度、ここに鎌原村を作らなけりゃアならんのじゃ」
 市太は焼け石に埋まった村を眺めながら、ここに村を作るなんて不可能だと思っていた。
「若旦那は江戸に出るって言ってたな。それもいいじゃろう。だがな、今、江戸に行っても若旦那にゃア、もう故郷はねえんだぜ。帰るとこはどこにもねえんだぜ。無宿者と同じじゃ。帰るとこがねえってえのは辛え事じゃ」
 市太は黙っていた。おろくもおゆうも何も言わなかった。
 ガタッと何かが倒れる音がした。四人は一斉に振り返った。
 観音堂の中に人影が見えた。
「誰かいるわ」とおゆうが脅(おび)えた声で言った。
 市太と半兵衛は警戒しながら観音堂に近づいた。観音堂にいる人影もじっとしたまま、こちらを見つめている。
「あれ、おめえは山守の八蔵じゃねえのか」と半兵衛が声を掛けた。
 ボサボサのザンバラ髪で、着ている着物もボロボロだった。腰にナタをぶら下げ、自分で作ったのか奇妙な下駄を履いている。脅えたような目付きでこっちを見ていた。変わり果てた姿だが、間違いなく八蔵だった。
「おめえ、生きてたのか」と半兵衛が言うと、八蔵は逃げるように観音堂の中に隠れた。
 暴れ回る八蔵を二人はやっとの事で捕まえ、観音堂の外へ連れ出した。八蔵は脅えきっていた。目付きが虚ろで、何を聞いても、アーアーウーウー唸るばかりだった。
「生きてたなんて信じられねえ」と市太は八蔵を見ながら言う。「あん時、延命寺の和尚たちと一緒に、お山に登ったはずなのに」
「余程、おっかない目に会ったのね」とおゆうが言った。
「怪我してる。早く洗った方がいいわ。あたし、水を汲んで来る」
 おろくは観音堂にあった桶を持って古井戸の方に向かった。
「おい、ちょっと待て。一人じゃ危ねえ」
 市太は八蔵を半兵衛とおゆうに頼むとおろくの後を追った。
「大丈夫よ」
「いや、八兵衛のように、お山で生き残った獣が出て来るかもしれねえ。奴らは凶暴になってるからな、何をするかわからねえ」
「脅かさないでよ」
「おめえに怪我されたかアねえんだよ」
 市太はおろくから桶を受け取った。
 市太が汲んで来た水を見ると八蔵はむさぼるように飲んだ。水を飲んで安心したのか、おろくが傷口を洗っている間も騒ぐ事はなかった。切傷が何ケ所もあったが、それ程、深い傷はなく、歩く事はできそうだった。
「さて、今日のとこは、これで帰るか」
 半兵衛が言うと皆もうなづいて、八蔵を連れて大笹に向かった。
 大笹に戻ってみると鎌原村の生存者たちのおよそ半数の四十人余りが、一里半程北にある干俣(ほしまた)村に移っていた。
 鎌原村の名主(なぬし)、儀右衛門の妻おさよは干俣村の名主、干川小兵衛の娘だった。家族全員を失い、たった一人で生き残っていた。娘が生きていると聞いて、飛んで来た小兵衛は大笹に来て、長左衛門が鎌原村の避難民を旅籠屋に入れて面倒を見ている事を知った。長左衛門だけに負担させるのは申し訳ないと半数の者を引き取って行ったのだった。
 干俣村に行った者の中に杢兵衛夫婦もいた。杢兵衛の妻おすみは干俣村の生まれだった。百姓代の仲右衛門や扇屋の家族、おしまの家族、孫八の家族らが干俣村に移っていた。
 山守の家族は大笹に残っていた。祖父の長兵衛も母親も弟の丑之助も幽霊でも見ているかのように八蔵を見た。八蔵には家族もわからなかった。脅えたような目で自分を囲む者たちを眺めて、アーウー唸っている。変わり果てた姿に驚きはしたものの、生きていてよかったと母親は八蔵を抱き締めると泣き出した。

2020年4月26日日曜日

天明三年(一七八三)七月十五日

 大笹に来た鎌原村の生存者たちは衰弱しきっているので旅籠屋に収容された。風呂に入れる者は体を洗って、乾いた着物に着替え、お粥(かゆ)を食べて、布団の上に体を伸ばして、ゆっくりと眠った。
 市太は昼過ぎまで眠っていた。目が覚めて隣を見るとおろくはいない。半兵衛と娘のおふじはぐっすりと眠っている。おまちも眠っているが姉のおゆうの姿はなかった。
 厠(かわや)に寄ってから、市太は外に出た。
 雲一つない青空が広がっていた。お天道(てんと)様を見るのも久し振りだ。日差しは強く、眩(まぶ)しかった。市太は体を伸ばすと深呼吸をした。生きていてよかったとしみじみと感じた。
 表通りには近在の避難民たちが虚ろな顔をして行き来している。問屋に行くと、庭に大釜を出して女衆(おんなし)が炊き出しをしていた。仮普請(かりぶしん)の小屋の中には年寄りや子供たちが疲れきった顔で横になっている。市太は呆然とそれを眺めながら、ひどい目に会ったのは自分たちだけではなかったのだと実感した。
「おなか、減ったでしょ」と声がして振り向くと、おろくがいた。
 襷(たすき)掛けをしたおろくが、お粥の入ったお椀と箸(はし)を差し出した。
「すまねえ。おめえ、ずっと手伝ってたのか」
「そうじゃないけど、目が覚めちゃったから。ここに来たら、おゆうさんが手伝ってたんで、あたしも一緒にやってたの」
「ほう、おゆうもいるのか」
「ほら、あそこに」
 おろくが示す方を見ると、木陰で休んでいる者たちに、おゆうがお粥を配っていた。
「へえ、あんな事をするたア、あいつも草津に行って変わったな」
「さっき、一緒にお粥を食べて、色々と話を聞いたの」
「勘治の事か」
 おろくはうなづいた。
「信じられないって、勘治さんが亡くなった事が。もしかしたら、どこかで生きていて、ここに来るかもしれないって」
「そうか‥‥‥そうだんべなア。俺だって信じられねえ。惣八や安が生きてたように、勘治も生きてると思いてえ」
 市太は腰を下ろすとお粥を食べ始めた。
「食欲も大分、出て来たぜ」
「あたしもお代わりしちゃった」とおろくは笑った。
「大分、顔色もよくなって来たな」
「うん、昨夜はよく眠れたもん」
「夢ん中にな、三治が出て来たぜ。いつものように笑いながら、若ランナって呼びやがった。俺の手を引いて観音堂に連れて行こうとするんだ。でも、石段がやけに長くてな、いくら登っても観音堂に着かねえんだ」
「それでどうしたの」
「どこからか、鈴の音が聞こえて来てな、振り返るとおめえが石段を登って来たんだ。俺がおめえを待ってる隙に、三治はずっと先の方まで登ってって見えなくなっちまった」
「そう‥‥‥きっと、極楽に行っちゃったのね」
「そうかもしれねえな」
 おろくは目頭を軽く拭くと無理に笑って、「おみのさんたち、朝早くから狩宿に行ったんですって」と話題を変えた。
「馬方たちを連れて来るのか」
「そうだって。惣八さんや安治さん、丑之助さんたちも一緒に行ったみたい」
「ほう、奴らも行ったのか。狩宿まで行ったとなりゃア、一日じゃ帰って来られねえかもしれねえな」
「でも、今日はいいお天気だし、足跡をたどって行けば大丈夫だろうって、ここの旦那さんが言ってました。そうそう、さっき、お関所の鎌原様もお見えになったのよ」
「鎌原様か。そういやア、鎌原様の家族もみんな亡くなっちまったんだったなア」
「鎌原様と一緒にお関所にいた西窪(さいくぼ)様の御家族もみんな亡くなってしまったそうよ」
「そうか‥‥‥鎌原様には弟がいたっけなア。ヤットウの稽古で馬庭(まにわ)にいるはずだが、お屋敷もなくなって、兄弟二人しか残らねえとなると、これから大変だア」
 やがて、旅籠屋から鎌原村の者たちがやって来た。おろくはおゆうと一緒にお粥を配って回った。
 市太は問屋の裏にある長左衛門の屋敷に向かった。長左衛門は代々、名主を務める家柄で屋敷も立派だった。市太の家族は旅籠屋ではなく、ここの客間に世話になっている。庭でおみのの妹、おさえと出会った。男勝りの姉とは違っておとなしい娘だった。
 おさえの案内で客間に行くと主人の長左衛門が来ていた。みんな、ぐっすりと眠ったらしく、顔色もよくなっている。叔父の弥左衛門と兄嫁のおきたの姿はなかった。おきたは実家が大笹にあるので、そっちに行ったのだろうが、弥左衛門がいないのは、もしや、狩宿まで行ったのかと長左衛門に聞くと、やはり、そうだった。
「叔父御も随分と張り切ってるな」と市太が皮肉っぽく言うと、
「あれはあれなりに苦しんでいるのさ」と長左衛門は言った。「作右衛門が荷物を止めようとしたのを真田様の荷物を止めるわけには行かねえと言ったのは弥左衛門らしい。しかし、荷物があまりにも多すぎた。今更、やめるわけにも行かず、慌てて、ここに飛んで来たのさ。荷物を止めてくれってな。自分は助かったが、大勢の馬方たちは亡くなった。自分のせいだと責任を感じてるのさ」
「そうだったのか‥‥‥」
「おまえは旅籠屋の方にいるそうだな。観音堂にいた時も、小屋の方にいて、村人たちを励ましてたそうじゃねえか」
「いや、そんなんじゃねえ」
「わかってるよ」と長左衛門は意味ありげに笑った。「いい嫁さんを見つけたらしいな。さっき、会ったぞ。見た事もねえ娘が炊き出しを手伝っていた。小屋にいる病人たちの面倒もよく見ていた。感心な娘だと女衆に聞いてみたら、鎌原の娘だと言うが、それ以上は知らなかった。たまたま、昨日、鎌原まで行った若え者がいてな、あの娘はおめえの嫁さんだと言いやがった。そんな話は初耳だが、あれはいい娘だ。おめえもいい娘に目を付けたな」
「兄さん、まだ決まったわけじゃア」と母親が言った。
「なに、気にすんな」
「そうじゃなくて、あの娘は‥‥‥」
「いや、何でもないんじゃよ」と祖父が母親を押さえた。
「まあ、今の時期に祝言は挙げられまい。落ち着いたら盛大にやろうじゃないか。あれはいい嫁になるぞ」
 長左衛門は市太の肩を叩くと出て行った。
 長左衛門が消えると母親が市太に近寄って来て、「おまえ、いい加減に、おろくとは別れなさい」と強い口調で言った。「お父さんもお兄さんも亡くなって、家を継ぐのはおまえしかいないんですよ。もっと、しっかりしてもらわなくては困ります」
「おきつさん、市太郎はしっかりしているよ」と祖父が口を出した。「それはおまえさんだって、充分に承知しているじゃろう」
「それだって‥‥‥」と言いながら母親は急に泣き崩れた。
 市太はその場を離れ、炊き出しが行なわれている庭に向かった。半兵衛がおふじとおまちを連れて、お粥を食べていた。
「おう、若旦那、うめえぞ」
「俺アもう食べた。おふじちゃんの具合(ぐええ)もよくなったようだな」
「ああ、ぐっすり眠ったせいか、熱も下がった。わしもすっかり生き返ったようじゃ」
「そいつアよかった」と言いながら、市太はおろくの姿を捜していた。
「おろくなら旅籠屋の方に帰ってったぞ。若旦那を捜しに行ったんじゃねえのか」
「そうか」と市太は半兵衛と別れて旅籠屋に帰った。部屋にいるかと思ったが、おろくはいなかった。
「まったく、今度はここんちの飯炊きをやってるんじゃあるめえな」と市太はお勝手の方に顔を出してみた。
 お勝手にもおろくはいなかった。
「どこ行っちまったんでえ」
 宿の者に聞くと、裏の庭にいたという。行って見るとおろくは洗濯をしていた。
「おめえ、何やってんだ」
「あっ、市太さん。すっかり忘れてて」
「こいつア俺たちが着てた物だんべ。何も洗濯する程の物じゃアねえ」
「だって、綺麗に洗えばまだ大丈夫よ。みんな、無一文なんでしょ。着物だって貴重だわ」
「まあ、そうだけどよう、おめえが一人でやる事アねえだんべ」
「みんな、まだ疲れてるわ」
「おめえだって、まだ、まともじゃアねえんだぜ」
「でも、あたしはじっとしてるのは苦手なの」
「それにしたって、この汚えのを、おめえ一人でやるつもりかい。そいつア無理ってえもんだ」
「いいのよ。できるだけやるわ」
「まあ、好きにするさ」と市太もそれ以上言うのはやめて、おろくの側にしゃがみこむ。「だけど、無理すんなよ。まだまだ、これからが大変(てえへん)だからな」
「これからって?」
「色々あるだんべ。まず、住むとこを見つけなくちゃならねえし、うちも建てなくちゃアならねえ」
「ねえ、あたしたち、村に戻れるの」
「あんなとこに戻りてえのか」
「だって、みんなが埋まってるのに放って置くの」
「しょうがねえだんべ。あそこまで埋まってるってえ事ア三丈(じょう)(約九メートル)はあるぜ。そいつを掘り起こすのは至難の業だ」
「でも‥‥‥」
「とくかく一度、村がどうなっちまったのか、見に行かなきゃアなんねえな」
「あたしも連れてって」
「そうだな、それだけ元気がありゃア大丈夫(でえじょぶ)だんべ。明日、半兵衛を連れて行ってみるか」
「そうしましょ」と言いながらも、おろくは洗濯に励んでいる。
「見ちゃアいられねえ。手のあいてる女衆を連れて来らア」
 その晩、日が暮れてまもなく、狩宿から生存者たちが旅籠屋にやって来た。怪我をしている者たちも、皆に会いたいと無理を押してやって来た。その中におゆうの父親、三左衛門がいた。妻を失い、自分は怪我をしたが、二人の娘と再会し、涙を流して喜んでいた。三左衛門にはもう一人、嫁に行った一番上の娘おすわがいた。おすわは市太とも関係のあった器量よしで、嫁ぎ先の家族と一緒に亡くなっていた。
 幸助の弟、伊之助も怪我をしていた。兄の幸助と妹のはつ、そして、惚れ合っていた桶屋の娘おみよも亡くなっていた。おみよが生きている事を信じて、歯を食いしばって大笹まで来たが、夢は破れ、ガクッと泣き崩れた。
 路考こと権右衛門も生きていた。大笹まで来ても身内は一人もいなかった。おまんの姿を見つけると、「おかみさん、あんた、生きてたのね。よかったわア」と抱き着いて、ワアワア泣き始めた。
 畑で夫を亡くしたおふよの伜、音五郎も生きていた。たった一人残されたと悲しみに暮れていたおふよは再会を大喜びして、泣きながら神に感謝していた。武次郎もそうだった。独りぼっちになったと諦めていたら、父親が戻って来た。おみきも諦めていたら、夫と伜が戻って来た。
 感動的な再会が演じられる一方で、絶望の縁から出られない者も多かった。炊き出し、洗濯と張り切っていた、おろくも再会を喜ぶ者たちを見ながら、それを素直に喜ぶ事はできなかった。突然、顔を覆うと嗚咽(おえつ)しながら、その場から走り去った。
 市太が後を追うと、おろくは誰もいない部屋に戻って泣いていた。市太はそっとおろくを抱き締めた。

2020年4月25日土曜日

天明三年(一七八三)七月十四日

 今日も雨が降り続いていた。
 市太と半兵衛、それと、昨日、狩宿から来た丑之助、仙之助、孫八を加えた五人は焼け石の上を歩いて、大笹に向かっていた。三右衛門と長治の二人は今朝になって怪我をしている事がわかり、連れて来るのはやめにした。
 焼け石も大分、冷めていた。市太と半兵衛は草履(ぞうり)よりはましだろうと、三右衛門と長治が履いて来た歯の減っている下駄を履いている。笠と蓑(みの)も借りてきた。
 埋まらずに残っている金毘羅(こんぴら)山を目指して一行は進んだ。昨夜、丑之助が話した通り、ひどいものだった。観音堂から見た時は、ほとんど平らに見えたのに、実際に歩いてみるとデコボコだらけだった。太い木の幹は好き勝手な格好で埋まっている。こんな物がよく流れて来たと呆(あき)れる程の大きな岩がゴロゴロ転がっている。厄介(やっかい)なのが焼け石だった。表面は冷えているが中の方はまだ熱い。固まっていればいいのだが、中には柔らかいのもあって、そこを歩こうものなら、足が埋まって火傷(やけど)をしてしまう。足元を確かめながら進まなければならず、ちっとも前に進まない。丑之助たちが二里の距離を八時間も掛かったというのもうなづけた。泥だらけになって、半里にも満たない距離を二時間もかけ、ようやく、金毘羅山に到着した。
 飯を食べていた丑之助たちは元気いいが、六日間も飲まず食わずの市太と半兵衛はもう限界だった。とても、あと四倍も歩けそうもない。二人は金毘羅山の森の中に倒れ込んだ。
「おい、丑、俺アもうダメだ。大笹には行けそうもねえ」と市太が弱音を吐くと、
「わしも無理じゃ」と半兵衛も言う。「おめえたちで行って来てくれ」
「大笹はやめて、大前にするか」と孫八が言う。
「大前は川向こうだからな。橋が無事なら行けるが、大丈夫だんべえか」
「とにかく、山の上まで行って見てみらア。どの辺までやられてるかわかるだんべ」
 孫八と丑之助と仙之助は山を登って行った。三人を見送ると市太と半兵衛は横になった。
「畜生、情けねえが体がいう事を聞かねえ。これ程、大変(てえへん)だとは思ってもいなかった」
「わしだって同じさ。まったく、情けねえよ」
「俺たちがこんなざまじゃア、とても女子供は歩けねえな」
「ああ、無理だんべえ。かと言って、あのまま、あそこにいても危ねえよ」
「せっかく生き残ったのに、あんなとこで死んだんじゃア情けねえ」
「あの三人に大笹まで行ってもらって、何か食い物を持って来てもらうしかねえな」
「そうだな‥‥‥もう一晩、あそこで過ごすのか‥‥‥」
「せめて、雨がやんでくれりゃアいいのに」半兵衛はボロボロになった手拭で顔を拭いた。
 やがて、孫八たちが戻って来た。
「大前の方までずっと焼け石で埋まってる。橋も流されちまったかもしれねえ」
「そうか。大笹の方はどうだ」と市太は上体を起こしながら聞いた。
「よくわからねえ。わからねえけど行ってみるしかねえ」
「そうだな。行くしかねえな」
「どうする」と丑之助が心配そうに、横になったままの半兵衛を見ながら市太に聞く。
「俺たちゃダメだ。ここで休んでから観音堂に戻る。戻るのも大変だがな」
「そうか。それじゃア俺たちで行くか」
「食い物と病人を運ぶ頑丈(がんじょう)な人足を頼まア」
「わかった。気を付けてな」
「おめえたちも気を付けてくれ」
 孫八たちは山麓を大笹の方へと向かった。
「大笹が無事ならいいが」と市太は三人の後ろ姿を眺めながら言った。
「ああ」と半兵衛が返事をする。
「伯父御が無事なら、きっと助けてくれるさ」
「ああ」
「おみのの奴だって飛んで来るだんべ」
 半兵衛の返事はなかった。
「おい、半兵衛、大丈夫か」と市太は半兵衛の肩をたたいた。
 疲れ果てて、雨が降っているにもかかわらず、このまま、眠ってしまいたい心境だった。しかし、こんな所で眠ってしまったら死んでしまうかもしれない。市太は力を振り絞って、半兵衛の上体を起こした。
「ああ、大丈夫だ。帰るか」と言うが立ち上がる気力もないようだ。
「おふじちゃんが待っている。帰ろうぜ。通って来た足跡をたどって行きゃア、来る時よりは楽だんべえ」
「ああ、行くか」
 二人はやっとの思いで立ち上がった。足がフラフラしていて立っているのも容易ではない。市太は手頃な枝を拾って半兵衛に渡し、自分のも拾い、杖代わりにした。
「行くぞ」と市太が焼け石の上に踏み出した時、山の後ろの方から叫んでいる声が聞こえて来た。何事だと二人は耳を澄ました。
「市太、助かったぞ」と丑之助が叫んでいた。
「どうしたんだ」と市太は叫んだが、力が出ず、大声にはならなかった。
 二人が枝にすがって立ちすくんでいると丑之助が笑いながらやって来た。
「助かった。大笹から助けがやって来た」
「なに、そいつア本当か」
「ああ、本当だ。見た所、十人ぐれえはいる」
「助かった」とつぶやくと急に気が抜けたように半兵衛はその場に座り込んだ。
 やって来たのは、おみのと藤次、大笹の若い衆が六人、それと、惣八と安治、市太の叔父、弥左衛門もいた。そして、永泉坊もいる。永泉坊は両足に布切れを巻き付けて、大男におぶさっていた。
「市太兄い、生きてたのね」
 男姿のおみのが泣きべそをかきながら抱き着いて来た。
「助かった‥‥‥」市太はおみのを抱き締めながら、皆の顔を見回した。
「おい、市太、情けねえ面をしてるぜ」と藤次が市太の顔を見て苦笑した。
 市太はおみのの肩にすがりながら、「すまねえな」と笑った。知らずに涙がこぼれてきた。市太は慌てて、涙をこすった。
「なアに、困った時はお互え様さ」と藤次は市太を見つめてうなづいた。なぜか、藤次の目にも涙が光っていた。
「こんなもゲッソリとしちゃって‥‥‥」とおみのが市太を見上げて、心配そうに言う。
「もう大丈夫さ」と市太はおみのにうなづいて、藤次の隣にいる惣八と安治に目を移す。
「おめえら生きてたのか」
 二人は神妙な顔してうなづいた。
「中居に行ってて助かったんだ」と惣八は言った。
「中居?」
「ああ、生首(なまくび)を取りに行ってたんだ」
「生首だと‥‥‥そうか、小金吾の首か」
「そうさ」
「そうか‥‥‥とにかく、生きててよかった」
「市太兄い、永泉坊様が来て、みんなが観音堂にいるから助けてくれって教えてくれたんだよ。でもさ、熱くて歩けなくて、やっと、今日になって来られたんだよ」
「なに、永泉坊が‥‥‥」
 市太が永泉坊を見ると大男の背中の上で、「みんな、無事か」と聞いて来た。
「無事とは言えねえ。病人が何人もいる」
「そうじゃろう。早く、行った方がいい」
 市太と半兵衛も若い衆におぶさって観音堂に戻った。みっともないが歩けないのだからしょうがない。おぶさっている市太に惣八と安治がやたらと話しかけて来た。再会できた事が余程、嬉しかったのだろう。市太にしても同じ思いだ。死んだものと諦めていた二人が、思いもかけない所にヒョッコリと現れた。まるで、夢でも見ているような気分だった。
 二人の話によると、惣八が八兵衛に頼まれて中居村に行こうとしたら、丁度、安治が家から出て来た。おまんの事を相談しようと一緒に出掛けたのだという。
 すべての小道具を集めた八兵衛だったが、四幕目の最後に使う小金吾の生首だけがまだだった。大工の八右衛門に頼んで木彫りの生首を作ってもらったが、どうも気に入らない。どうしても、生々しさが伝わって来なかった。どうしようかと悩んでいた時、高崎から中居に嫁いで来た娘の父親が人形師だと聞いた。八兵衛はその娘を通じて、人形師に小金吾の生首を頼んだ。完成したら高崎まで取りに行くつもりだったが、人形師が完成した生首を持って草津に来た。湯治を兼ねて娘の顔を見に来たらしい。娘が草津まで行って、生首を持って来たので取りに来てくれと連絡があった。ところが、その日、八兵衛は怪我人の治療で忙しく、それどころではない。それで、惣八が代理として出掛けて行ったのだった。
 中居村に着き、小道具の生首を受け取って、茶屋で一休みしている時だった。浅間山が大爆発した。大揺れの後、しばらく地鳴りが続き、物凄い音がしたかと思うと、吾妻(あがつま)川に山のような土砂が流れ落ちて来た。あっと言う間に、吾妻川は土砂で埋まり、川沿いの家々は押し流された。二人が休んでいた茶屋は高台にあったので無事だった。恐ろしい光景を目の当たりにして、二人は震えながら呆然としていた。あんなものが吾妻川に押し寄せたという事は鎌原村も危ないと急いで帰ろうとしたが、橋は流され、川向こうに行く事はできなかった。物凄い量の土砂が滝のように吾妻川に落ち、上流から流れて来る土砂とぶつかり、物凄い音を立てて勢いよく流れて行く。真っ赤に燃えている焼け石も混ざって、煙を上げながら、家々を押し潰し、樹木を押し倒し、人や馬も容赦なく押し流して行く。
 西窪(さいくぼ)まで行けば、川向こうに行けるだろうと行ってみたがダメだった。西窪村は全滅していた。土砂と焼け石に埋まり、家は一軒もなかった。西窪がこんな有り様なら浅間山に近い鎌原は絶望だった。二人は家を失った者たちと一緒に大前村を目指した。大前村も全滅だった。街道も埋まり、街道に沿って建つ家々もすべて埋まっていた。山の中を抜けて大笹に着いたのは日暮れ近くだった。大笹は無事だった。二人は一安心して、市太の伯父、黒岩長左衛門を頼った。長左衛門の家には避難民が溢れていた。
 長左衛門は避難民のために小屋を建てて、逃げて来た者たちに食事を与え、家を失った者たちを収容した。二人もその小屋で寝起きをしながら、焼け石が冷えるのを待っていた。
 永泉坊が来たのは十日の昼過ぎだった。両足を火傷(やけど)して倒れているのを助けられて連れて来られた。永泉坊から観音堂に生存者が五十人余りいると聞き、すぐにでも飛んで行きたかったが行けなかった。
「おめえが生きてんのは永泉坊から聞いて知ってたよ。ただ、俺たちの家族の事はわからねえんだ。どうなんでえ、生きてんのか」
「残念だが」と市太は首を振った。
「‥‥‥ダメだったか」
「‥‥‥ただ、おまんとおさやは生きてるぞ」
 惣八と安治は急に目を輝かせて、「よかったなア」と喜び合った。
「あっ、そうだ。おゆうが大笹で待ってんだ」と惣八が思い出して言う。
「草津から来たのか」
「ああ。おしまと一緒にな。勘治は無事なんだんべえ」
「いや、ダメだった」
「‥‥‥おゆうには、とても言えねえ」
 惣八が言う通り、おゆうと面と向かったら、市太にも言えそうもなかった。市太は顔を上げて、前を見た。もう中程まで来たのか、焼け石の中に浮かぶ小島のような観音堂の森が近くに見えて来た。すぐ、目の前をおぶさって行く永泉坊の足を眺めながら、「あんな足でどうして、永泉坊は戻って来たんだ」と惣八に聞いた。
「仕上げの祈祷をするそうだ」
「そのためにわざわざ戻って来たのか」
「らしいな。今日は初七日だんべ。亡くなった者たちの冥福を祈るんだそうだ」
「もう初七日になるのか‥‥‥」
 市太には今日が何日なのかわからなかった。村がなくなったのが八日だったのは覚えている。余りにも恐ろしい目に会ったため、時間の感覚が鈍り、あれから十日以上も経っているようにも思え、また、二、三日しか経っていないようにも思えた。
「永泉坊は焼け石の上を歩いて大笹まで行ったのか」
「そう言ってたよ。修行を積んでるから、火の上も歩けるんだそうだ」
「ほんとかよ、信じられねえ」
「俺も信じられなかったんさ。それで、しつこく聞いたら、とうとう、ほんとの事を教えてくれた。竹馬に乗って来たんだとさ」
「竹馬か。そうか、そいつア気づかなかった」
「それでも、大笹まで三日も掛かったそうだ」
「そうだんべなア。あん時ゃアまだ、真っ赤に焼けてたんべえ」
 観音堂に着くと、おみのはおろくやおかよに手伝ってもらい、お粥(かゆ)を作り始めた。長期間、物を食べていない者に普通の食事を与えると腹を壊してしまうと、断食(だんじき)を何度もやっている永泉坊の指示によって消化のいいお粥にしたのだった。
 永泉坊は追い出された事など少しも恨まず、観音堂で祈祷を始めた。自分の事で精一杯だった村人たちは皆、今日が初七日だった事をすっかり忘れていた。足が不自由にもかかわらず、わざわざ、亡くなった者たちのために来てくれた永泉坊に両手を合わせずにはいられなかった。最初に永泉坊を罵(ののし)った山守の隠居、長兵衛は何度も何度も頭を下げていた。
 暖かいお粥を食べて、生き返った者たちは永泉坊と一緒に亡くなった者たちの冥福を祈り、観音堂を後にした。
 歩く気力もなかった市太と半兵衛も力が出て来た。一番おかしかったのは扇屋の旦那だった。ずっと具合が悪くて、ゲッソリしていたのが、お粥を食べた途端に嘘のように顔色がよくなった。あんなにデブデブと太った男をおぶって行くのは大変だろうと心配したが、何とか一人で歩けそうだ。どうしても歩けない者たちは大笹から来た若い衆におぶってもらい、雨の中、大笹へと向かった。
 仙之助は母親を背負い、孫八は祖父を背負い、安治は大工の八右衛門のおかみさんをおぶっていた。丑之助は祖父の長兵衛を背負うのかと思えば、祖父は他人任せにして、おしめを背負い、惣八はちゃっかりとおまんをおぶっていた。

2020年4月24日金曜日

天明三年(一七八三)七月十三日

 雨が毎日、降っていた。
 十日の午前中、若衆小屋も壊れるかと思う程の大揺れが来た。土砂が押し寄せて来るかと警戒したが、それはなく、正午頃には静まった。ただ、雨がお湯になって降って来たのには驚いた。まるで、草津の滝の湯を浴びているようで、男たちは裸になって湯を浴びた。
 一日中、雨が降っていたので、焼け石も冷えて歩けるだろうと思ったが、まだダメだった。夜になると雨降る中でも、焼け石が燃えて所々が明るかった。
 十一日、十二日も雨が降り続き、時々、揺れが来た。かなりの揺れなのだが、すっかり大揺れに慣れてしまった者たちにとっては何でもなかった。いちいち驚く気力もなく、もうどうにでもなれと開き直っていた。その頃、軽井沢方面では屋根に積もった灰が雨を含んで重くなり、家々が何軒も潰れていた。
 十三日になっても雨は降り続いた。幸い、灰を含んではいないので、溜めて置けば飲み水にもなり、体を拭くのにも役に立った。しかし、狭い小屋の中から外に出る事はできず、やる事もなく、ただじっとうずくまっているのは耐え切れない程の苦痛だった。
 ここに閉じ込められて五日が過ぎ、水ばかり飲んでいた生存者は皆、病人のようになっていた。中でも観音堂にいる扇屋の旦那はひどかった。下痢(げり)と発熱、空腹と疲労でゲッソリしている。失った財産の事ばかり愚痴っていた旦那がおとなしくなったのはいいが、看病疲れで妻も母親も倒れてしまった。市太の兄嫁おきたも旦那の病が移ったのか熱を出している。若衆小屋でも百姓代の仲右衛門が最初に倒れ、大工の八右衛門の妻おまて、仙之助の母おいよ、与左衛門の娘おすき、半兵衛の娘おふじと移り、彦七の妻おしめもやられ、おしめから乳を貰っていた、おそめも熱を出してグッタリしている。このままでは全滅の危機が迫っていた。
 市太、半兵衛、お頭の杢兵衛が毎日、焼け石の様子を見に行くが、まだ歩けそうもない。元気な男衆なら何とかなるだろうが、病人を連れて行くとなると難しい。しかも、雨の中、連れて行くのは危険だった。
「もうギリギリじゃねえのか」と軒下に座り込んで、雨を恨めしそうに眺めていた半兵衛が隣に立っている市太に言った。「誰かが助けを呼んで来なけりゃ、みんな倒れちまうぜ」
「そうだな。おふじちゃんも倒れちまったしな」と市太も座り込む。
「わしたちがここにいるのを誰も知らねえに違えねえ。誰かが知らせなくちゃならねえ」
「どこまで行けるかわからねえが、明日になったら俺が行ってくらア」
「いや、わしが行って来る」
「それじゃア、二人で行くべえ。こっちの事はお頭に頼みゃア大丈夫だんべえ」
「そうじゃな、そうするか」
 二人が密かに相談しているとおろくが顔を出した。おろくも可哀想な位にやつれ果てている。生まれつき、何かをやらずにはいられない性分で、母親の看病に慣れているからと倒れている者たちの面倒を見ていた。面倒を見ると言っても栄養を付ける食べ物はない。熱冷ましの手拭を代えてやるか、水を飲ませるか、体を拭いてやる事しかできないが、自分も倒れそうなのに他人の面倒を見るのは大変な事だった。
「明日、行くんですか」
「聞いてたのか」
 おろくはうなづいた。
「気を付けて下さい。まだ、熱いんでしょ」
「板切れを持ってって、熱いとこはそいつの上を渡って行きゃア、何とかなるだんべ。すぐに戻って来るよ。何か必要な物はあるか」
「そうねえ。やっぱり、食べ物でしょうね。何かを食べなきゃ、みんな歩く事もできないでしょう‥‥‥そうだ、もう大揺れは来そうもないし、明かりも欲しいわね」
「油か‥‥‥いや、ローソクの方がいいな」
「二人共、なに言ってんだ」と半兵衛が言う。「助けを連れて戻って来りゃア、もうここにいる必要はねえんじゃよ」
「あっ、そうか」
「それじゃア、明日も雨が降ってたら、笠に合羽(かっぱ)がいるわ、病人の分だけでも。駕籠(かご)も欲しいけど、道もないのに駕籠は無理ね」
「病人はおぶって連れて行くよりあるめえ。威勢のいい人足を連れてくらア」
 もう日暮れ間近だった。今日も一日が終わろうとしている。何もしないでボーッとしていると、どうしても亡くなった者たちの事が思い出された。
 おゆうと一緒になるために稼業に励んでいた勘治、おゆうは勘治が亡くなった事をまだ知らねえだんべ。村がなくなったのも両親が亡くなったのも知らずに、湯治客の面倒を見ているに違えねえ。
 おまんに惣八の事を聞いたら、八兵衛に頼まれて小道具を捜しに行ったと言う。どこに行ったのかは知らなかった。村から出て行ったなら生きてるかもしれねえ。無事を祈るしかなかった。
 妹のおさやと一緒になりてえと言ってた安治も亡くなった。半兵衛の話だと安は馬方に来なかったと言う。狩宿に行ったのなら生きてる可能性もあるが、うちにいたのなら絶望だ。いつも馬方稼業に励んでいたのに、あの日に限って何をしてやがったんだ。俺がいい顔しなかったから、安はまだ、おさやを抱いちゃアいねえだんべ。おさやも安が好きなようだった。こんな事になるんなら、二人をうまく取り持ってやりゃアよかった。
 丑之助は狩宿が無事なら生きてるかもしれねえ。丑が惚れてるおしめは独りぼっちになって生きている。おしめのためにも生きていてほしいもんだ。
 おなつとおなべも死んじまった。俺も惣八も二人が嫌えになったわけじゃねえ。二人共いい女だった。あん時、ここにいたのに何で降りて行っちまったんだ。
 桔梗屋の姉さんも亡くなっちまった。大酒飲みだったが、いい女だった。何かあった時、姉さんと一緒に酒を飲むと何となく心が和(なご)んで嫌な事も忘れられた。
 畜生、何でみんな、死ななきゃアならねえんだ。何も悪(わり)い事なんかしちゃアいねえのに、どうして死んじまったんだ‥‥‥
「市太さ~ん」とおろくが呼んでいた。
 顔を上げるとおろくが観音堂の前に立っている。
「おめえ、雨ん中で何してんだ」
「ちょっと、早く来て」
 市太は隣にいる半兵衛と顔を見合わせ、一緒におろくの側に駈け寄った。おろくが指さす方を見ると、夕闇の中、焼け石が燃えている火が見えた。
「畜生め、まだ、あんなに燃えていやがる」
「そうじゃないのよ」とおろくは首を振った。「あの火がだんだん近づいて来るの」
「何だと」
 改めて、火を見つめるとおろくの言ったように火が近づいて来る。数えると五つの火がこっちに向かって来ていた。
「もしかしたら、松明(たいまつ)か」
「人が来るのか」
 三人は信じられないという顔をして近づいて来る火をじっと見つめた。やがて、話声も聞こえて来た。
「おーい、こっちだア」と市太は大声を上げた。
「誰かいるのかア」と声が返って来た。
「こっちだ、こっちだ」と市太たちは石段の下まで降りた。
「何だ、何だ」と観音堂や若衆小屋からも動ける者たちが出て来た。
「誰だア、そこにいるのは」
「橘屋の市太郎だ。他にも六十人余りいる」
「市太か。俺ア丑之助だ」
「丑か、おめえ、生きてたのか。おい、もうそこは歩けるのか」
「まだ焼けてる。高下駄を履いて来たんだ」
「そうか、気を付けて来いよ。さっきはまだ熱(あち)かったからな」
 やがて、松明を持って、笠と蓑を着込んだ丑之助がやって来た。何から何まで泥だらけ、高下駄を履いて来たと言ったが、下駄の歯はすっかり焼けて、歯なんかほとんどない。丑之助の後に仙之助、おかよの兄の長治、与七の伜の孫八、おみやの兄の三右衛門がいた。
「市太、おめえ、大丈夫か」丑之助は泥だらけの顔で市太を見ながら嬉しそうに笑った。
 市太も嬉しそうに丑之助たちの顔を見回した。助けが来るなんて夢でも見ているようだった。皆で手を取り合って喜び合った。
「まるで、病人の面だぜ」と丑之助は市太の顔を改めて眺めながら言う。
「ここには食う物が何もねえんだよ」と市太は病人たちのいる観音堂の方を見る。
「飲まず食わずで、ずっと、ここにいたのか」
「水だけさ。おめえらは飯が食えたのか」
「ああ、飯は食えた。狩宿は大丈夫だったんだ。ただ、怪我人が何人もいる」
「馬方で死んだ奴はいねえのか」
 丑之助は首を振った。
「死んだ者の方が多い。生き残ったのは二十人だけだ」
「そうか‥‥‥雨ん中で長話をしてる事アねえ。小屋の方に行くべえ」
 丑之助は山守の伜だった。兄の八蔵は延命寺の和尚とお山に登って行って亡くなった。八蔵の妻と二人の子供も亡くなったが、隠居の長兵衛と母親、妹と弟は生きていて、再会を喜び会った。
 仙之助の両親は生きていた。具合が悪かった母親は諦めていた息子が帰って来たので、病も忘れたかのように喜んでいた。
 長治の両親はいなかった。それでも、妹のおかよとおこう、姪のおそめに再会し、よかったよかったと涙を流した。
 孫八は畑にいて助かった与七夫婦の伜で、家族は皆、無事だった。弟の富松も怪我をしているが狩宿にいるという。八人の家族が全員、無事というのは奇跡に近かった。
 三右衛門は酒屋の伜で、あの日の朝早く、父親に頼まれて大戸の分限者であり、造り酒屋もやっている加部安左衛門の所に行っていた。大戸で浅間焼けに会い、慌てて戻って来たが、狩宿から先へは行けなかった。丑之助たちと一緒に焼け石が冷えるのを待って、やって来たのだった。父親と母親、一緒に暮らしていた叔母と叔父が亡くなっていた。それでも、妹のおみやと弟の平次と再会し、苦労して来てよかったと喜んだ。
 丑之助の話によると、土石流が来た時、鎌原を最初に出た馬方たちは、後もう少しで狩宿に着く所だった。次から次へと鎌原を出たので、道には荷物を積んだ馬がずらりと並んでいる。命が助かったのは先頭から二十人までだった。後ろの者たちは、あっと言う間に土砂に押し流されてしまった。生き残った二十人のうち、後方の九人は怪我をした。二頭の馬を引いている者もいたので馬は三十頭近く助かったという。
 すぐに村に帰りたかったが、土石流の後に来た火砕流が焼けていてどうする事もできない。今日になって意を決し、高下駄を履いて焼け石の上を歩いて来た。狩宿から鎌原までは二里(約八キロ)しか離れていないのに、四時(とき)(八時間)余りも掛かったという。
「まったく、すげえもんだ。でけえ岩や太え木がゴロゴロしてやがる。雨が降ってて、お山も見えねえ。辺り一面、焼け石が広がってて方向もわからねえんだ。小宿(こやど)は全滅だった。常林寺(じょうりんじ)もすっかり埋まっていやがった。赤川も小熊沢も埋まっちまったが、雨が降り続いたんで、あっちこっちに川ができていた。焼け石は熱(あち)いし、焼け石のねえとこは泥だらけで足が埋まっちまうんだ。まったく、えれえ目に会ったぜ」
「村の様子はどうだった」と市太は聞いた。
「ひでえもんだ。小宿を見て覚悟はしてたんだが、まさか、こんなにひでえたア思ってもいなかった。村があったってえ形跡なんかどこにもねえ。みんなすっかり埋まってる。ただ、お諏訪様の屋根だけが少し顔を出していた。それで、観音堂の位置がわかって、あそこは高えから無事だんべえってやって来たんだ」
「そうか、お諏訪さんの屋根だけが顔を出してたか‥‥‥」
 市太が呆然としていると、
「永泉坊が見えねえようだけど」と丑之助が言った。「助けを呼びに行ったのかい」
「そうじゃねえんだ。村がなくなっちまったんは永泉坊のせいだってな、みんなして追い出しちまったんだよ」
「追い出しちまったって、どこにも行けなかったんだんべ」
「そうなんだが、どっかに消えちまった。どっかに逃げ道があるのかと捜し回ったんだが見つからねえ。どうやって出てったんだか、未だにわからねえ」
「そうか‥‥‥」
 市太が丑之助から話を聞いているように、他の者たちも狩宿から来た者から話を聞いていた。身内が生きていると聞いて喜ぶ者もいれば、亡くなったと嘆く者もいる。それでも、生存者の数が増えたのは嬉しい事だった。
「惣八も安も死んじまったのか」と丑之助が市太に聞いた。
「ああ、みんな、死んじまったよ」
「そうか‥‥‥」
「幸助はどうした。生きてるのか」と市太が丑之助に聞いた。
 丑之助は首を振った。
「ダメだったか‥‥‥」
「金四郎の奴、怪我をして向こうにいるんだけど、嫁さんの事を心配(しんぺえ)していやがった。奴の嫁さんはどうなんだ」
「ダメだ。金四郎んちはみんな死んじまった」
「そうか。奴が来なくてよかった‥‥‥」
 外もすっかり暗くなった。松明も消えて、すっかり闇に包まれ、人々の話し声もやみ、雨の音と時々、咳き込む病人の声だけが響き渡った。狩宿から来た者たちも身内の側に行ってうずくまった。市太もおろくの側に行ってうずくまり、長く辛い夜を迎え入れた。

2020年4月23日木曜日

天明三年(一七八三)七月九日

 あれだけの土石流を吐き出したので、お山も静かになるかと思えたが、そうではなかった。村が埋まった八日の夜も大音響と共に大揺れが何度も来て、生き残った者たちの恐れと不安をかき立てた。もう一度、土石流が押し寄せたら観音堂も埋まってしまう。逃げようにも逃げる場所はない。一睡もできずに、泣きながら念仏を唱え続けて夜を明かした。
 五人増えて六十六人となった生存者たちは観音堂と若衆小屋に分かれて、降って来る石を避けていた。普段の付き合いによって、自然と四組に分かれた。
 およそ十畳の広さの観音堂にいるのは名主の儀右衛門の妻おさよ、問屋をしていた市太の家族、酒屋だったおみやの家族、旅籠屋をしていた清之丞(せいのじょう)の家族、しめて十九人。要するに家柄のいい人たちだった。
 おさよは干俣(ほしまた)村の名主、干川小兵衛の娘で、夫と三人の息子、母と姉、弟夫婦を亡くして、たった一人生き残った。あまりにも衝撃が強く、泣く事も忘れて、気が抜けたように呆然としている。
 市太の家族は祖父の市左衛門、母のおきつ、兄嫁のおきた、妹のおさやとおくら、叔母のおふさが生き残った。男で生きているのは祖父と市太だけだった。
 酒屋の家族はおみやと弟の平次、叔母と従弟(いとこ)が生き残り、両親と叔父、もう一人の叔母が亡くなった。兄の三右衛門は、その朝早くに大戸(おおど)に向かった。大戸が無事なら生きているかもしれない。
 清之丞の家族は、兄の吉右衛門の妻が亡くなっただけで、後は皆、無事だった。家族が助かったにもかかわらず、清之丞はすべての財産を失ったのは永泉坊のせいだとブツブツ愚痴ばかり言っていた。
 若衆小屋には筵(むしろ)敷きの八畳間が二部屋と十畳の広さの土間があり、部屋の前に一間(けん)幅の縁側がついていた。土間には流しはあるが竈(かまど)はない。火災にあって仮住まいしていた与七と治郎左の家族と、油屋をしていた八弥の家族、十五人が一部屋に収まり、唯一生き残った村役人、百姓代の仲右衛門と諏訪明神の宮守(みやもり)だった杢右衛門を中心に、その近所の者たち十二人がもう一部屋に入り、土間にいたのは若衆頭の杢兵衛夫婦、半兵衛父娘(おやこ)、山守の家族、おかよの姉妹、仙之助の両親、八兵衛の妻おまん、彦七の妻おしめ、おゆうの妹おまち、そして、市太とおろくもそこにいた。
 ギュウギュウ詰めの状態で、体を伸ばす事もできない。真っ暗闇の中、寝不足で溜まった疲労、家族を失った悲しみ、家財産を失った怒り、空腹と蒸し暑さに耐えながら、生き残った者たちは地獄のような長い夜を過ごした。
 朝方になっても小揺れは続いていたが、降る石はやんだ。皆、疲れ果てて、いつの間にか眠ってしまったらしい。市太は丸くなって寝ている人々を避けながら、明るくなった外へと出た。
 強い日差しが目にしみた。空を見上げると青空が広がっている。降り積もった石の上を歩いて観音堂の方に行くと石段の所に座り込んでいる者がいた。足音に気づいて振り返ったのはお頭の杢兵衛だった。他人の事は言えないが、やつれ果てた情けない顔だった。
「やあ、起きたか」
「ひでえ夜だった」と市太もお頭の隣に腰を下ろした。
 元結(もっとい)が切れたので、髪を藁(わら)で縛って茶筅髷(ちゃせんまげ)にしている。格好がいいとは言えないが、天下がひっくり返ったような非常事態、髪形など、とやかく言っている場合ではなかった。
 市太は目の前に広がる焼け石を眺めた。遥か遠くの方まで、焼け石に埋もれている。目の前の異常な景色を眺めながらも、この下に鎌原村があるなんて信じられなかった。何百人もの村人が生き埋めにされたなんて考えたくもなかった。
「まだダメだ」と杢兵衛が言った。「焼け石が熱くって歩けねえ」
「そうか、ダメか」と市太は杢兵衛を見た。
 杢兵衛は遠くを見つめながら、力なく首を振っていた。
「お頭、俺ア一晩中、ずっと考(かんげ)えてたんだが、永泉坊はどこに行っちまったんだ」
 杢兵衛は驚いた顔して市太を見た。「すっかり忘れてたぜ。どこにも行けねえはずなのに、どこにもいなかったなア」
「やっぱり、偉え行者さんで、天狗みてえに空を飛べるんだんべか」
「まさか、空は飛べまい。ただ、火渡りの行(ぎょう)ができるのかもしれんのう」
「そういやア、爺ちゃんがそんな事を言ってたっけ。火渡りの行か‥‥‥永泉坊が隣村にでも行って、この村の様子を知らせてくれりゃア、誰かが助けに来てくれるのになア」
「村人のために寝ずに祈祷をしたあげく、あんな追い出され方をされたんじゃア、まず無理だんべえな」
「そうだな‥‥‥」
「俺はいたたまれねえよ。永泉坊のように追い出された方が余程(よっぽど)、よかったかもしれねえ」
「お頭、何を言い出すんでえ」
「俺が村に帰(けえ)れと言ったばっかりに、ここを降りてった者(もん)がいるんだよ。誰とははっきりと覚えてねえが、五、六人、いや、十人はいるかもしれねえ」
「そんな事を悔やんだってしょうがねえだんべ。あん時は誰も、お山から土砂が流れて来るなんて夢にも思わなかったんだ。お頭はみんなのためを思って、そう言ったんだんべ。自分を責める事アねえや」
「そうは言ったって、みんな、一晩中、泣き明かしてんだ。自分のせいだと思いたくなる」
「お頭、今はそんな泣き言を言ってる時じゃねえ。生き残った者たちを何としてでも、ここから連れ出さなけりゃアならねんだ」
「わかってるよ、わかってる。でもなア、あん時、俺は火事を消してたんだ」
「えっ、火事があったのか」
「ああ、惣八んちが燃えていた。焼け石にやられたんかもしれねえ」
「惣八んちが燃えた‥‥‥惣八の奴はうちにいたのか」
「いや、いなかった。でも、うちにいた者はみんな無事だった。それで、後の事を近所の者に頼んで、俺はここに上がって来た。もし、あん時、俺が火事場にいたら死ななかった者がいるんだ」
「そしたら、お頭が死んでただんべ」
「俺一人で済んだんだ。俺一人が生き残って、十人も死ぬ事アねえ」
「お頭、自分を責めたってしょうがねえよ。亡くなった者たちのためにも俺たちが生きなきゃならねえ」
 足音がしたので振り返るとおろくが立っていた。目が腫れていて顔は青白かった。
「大丈夫か」市太が聞くと、おろくはうなづいた。
「少しは眠れたか」
「少しだけ」
「みんな、起きたのか」
「起きてるようだけど動く気力もないみたい」
「そうだんべな。帰るうちもなくなって、家族も失って、おまけに食う物もねえんだからな。起きろってえのが無理ってえもんだ」
「まだ、焼け石は熱いんですか」
「まだ、ダメだ」
「そうですか‥‥‥あの、あたし、何かする事ないかしら。じっとしていられなくて」
「何かと言っても、やる事といやア、水汲みぐれえしかねえだんべ」
 天気もいいし気分転換にもなるだろうと、市太はおろくを連れて水汲みに行く事にした。おかよも姪っ子を妹のおこうに預けて付いて来た。杢兵衛は半兵衛と一緒に永泉坊がどうやって、ここから出て行ったのかを調べに行った。
「おしめさんがいて、ほんと助かったわ。あたしなんかお乳も出ないし、一晩中泣かれたら、石の降る中、外に出なきゃならなかった」
 子守から解放されて、おかよはホッと息をついた。
「でも、あの子、両親が亡くなったの知らないのよ」
「おめえがおっ母になるしかあるめえ」
「だって、お乳が出ないもん。おしめさん、独りぼっちになっちゃったし、おしめさんがおっ母さんになった方がいいかもしれない」
「そうか。その方がお互えに、いいのかもしれねえなア。いや、お父はまだ死んだと決まっちゃアいねえ。おめえの兄貴だって馬方で出てったんだんべ。生きてるかもしれねえ」
「でも、母ちゃんは死んじゃったのよ」
「やめようぜ、死んだ者の話はよう。切りがねえ」
「そうね。でも、あたしたち、これからどうなるの」
「どうなるのって、生き抜くに決まってべえ」
「そうだけどさ、ここを出た後、どこかに避難するんでしょ。その後の事さ。また、この村に戻って来るわけ」
「村なんか、もうねえや。田畑もすっかりなくなっちまった。こんなとこに戻って来たってどうしょうもねえじゃねえか」
「それじゃア、どうするのさ。みんなバラバラになって、あちこちの村に住み付くの」
「そんな事アわからねえ」
「若旦那たちは大笹の問屋が親戚だから、何とかなるだろうけど、あたしたちなんか頼れる親戚なんかありゃしない。どうしたらいいのかわからないよ」
「何とかなるさ。大笹で茶屋を始めりゃいい」
「無一文なんだよ。そんな事できっこない」
「みんな無一文だ」
「もう、どうしたらいいのさ。こんな事なら、いっその事、死んじゃった方がましだよ」
「なに言ってんでえ。せっかく、生き残ったんにそんな事を言っちゃア、死んでった者たちに申し訳が立たねえ。土砂の下には五百人もの村の者が埋まってんだぜ。みんな、死にたかアねえのに、突然、死んじまったんだ」
 おかよは黙り込んだ。おろくはずっと黙っている。
 三人は森を抜けて、かつて大笹道が通っていた谷間に出た。土砂がすっかり谷間を埋めている。左右両方から、まだ焼けている黒い火砕流(かさいりゅう)が押し寄せていたが、つながる事はなく、歩く事ができた。そこを抜けて、また森の中に入り、しばらく登って行くと古井戸に着く。
 昔はここから村の用水を引いていたらしいが、いつの頃か、水量が減ってしまって、お山の中腹にある水源から引くようになった。それでも涸れる事はなく、村人たちは畑への行き帰りに飲み水として利用していた。昨日、土砂を掘り返したので、岩の間からチョチョロと綺麗な水が流れ出している。
 おかよは水をすくうと飲み、顔を洗った。「ああ、冷たい。おろくさんもどうぞ。気持ちいいわよ」
 おろくはうなづいて、水を飲んだ。
「これじゃア水浴びはできないわね」とおかよは手拭いを濡らして首を拭いた。
「うめえなア」と市太も水を飲み、手拭いを濡らすと、諸肌を脱いで汗ばんでベトベトしている体を拭いた。「おめえたちも遠慮する事アねえや。体を拭けよ。気持ちいいぜ」
「だって‥‥‥」とおろくが恥ずかしがる。
「わかったよ。俺が見張っててやらア」
 市太は少し下まで降りて行き、二人に背を向けた。二人は安心して体を拭き始めた。
「おろくさんも独りぼっちになっちゃったのね」
「ええ。これからどうしたらいいのか、ちっともわからないわ」
「大丈夫よ。おろくさんは若旦那に付いてけばいいのよ。どうせ、一緒になるんでしょ」
「でも‥‥‥」
「もう面倒を見る家族もいないんだし、これからは若旦那と一緒に、好きに生きればいいのよ」
「‥‥‥」
「あっ、ごめん。そんな意味で言ったんじゃないの。家族の分まで幸せになれって事よ」
「今、思うと、あたしたちが助かったのは叔父さんのお陰なの。叔父さんが観音堂に行くって駄々をこねなければ、あたしも市太さんも‥‥‥」
「そうだったの。あたしだって、おこうがいなくなったから捜しに来て助かったのよ。お店の片付けをしてたら今頃は‥‥‥」
「おい、誰か、来たぞ」と市太が言った。
 二人は慌てて、着物の袖を通した。
「若旦那、見たわね」とおかよが睨む。
「なに言ってんでえ。兄貴と一緒に草津に行った時、みんなで湯に入ったじゃねえか。おめえは酔っ払って裸踊りもしたんだぜ」
「嘘ばっかし。裸踊りは鉄つぁんだろ」
「そうだっけ。兄貴も面白え踊りを色々と知ってたな」
 やって来たのは扇屋の吉右衛門と清三郎。
「早えな」と吉右衛門は市太たちを見る。「弟の具合が悪くなってな、どうも、熱があるようなんだ」
「扇屋の旦那が」と市太は聞く。
「ブヨブヨ太ってるからな、腹が減り過ぎたんだんべえ」
「そいつア大変だ。みんな、弱ってるから気を付けなきゃならねえ」
「ああ、わかってる。江戸にいた時、火事に会って焼け出された事があるんだ。お救い小屋に避難したんだがな、そん時、流行(はや)り病(やめえ)で死んでった者が多かった。食い物を貰っても病になるんだ。食い物がなかったらたまらねえ。早いうちに、ここから出ねえとせっかく生き延びたのに病にやられる者が出て来る」
「流行り病か。気を付けなきゃならねえな」
 吉右衛門と清三郎は水を汲むと戻って行った。市太たちは持って来た桶をその場に置いて、さらに奥へと入って行った。
 森を抜けると畑に出た。見晴らしがよく、浅間山がよく見えた。相変わらず黒煙をモクモク上げている。軽井沢方面の空は真っ黒だった。浅間山の姿は変わりなかったが、その下に広がる景色はまったく違っていた。山頂から伸びていた黒い舌はさらに広がって山裾まで伸びている。山裾にあった原生林はすっかり土砂に埋まって、所々に倒れた大木がゴロゴロ転がり、土砂の上を覆(おお)っている焼け石からは煙が立ち昇っていた。まさに、灼熱(しゃくねつ)地獄を思わせる恐ろしい風景だった。
「信じられない‥‥‥」
 おかよもおろくも目(ま)の当たりにした荒涼とした景色を呆然と眺めていた。畑に行けば何か食べる物があるかもしれないと思ったのに、やはり無駄だった。度重なる砂にやられて作物は全滅していた。
 市太は畑の上に横になって空を見上げた。父親と兄、叔父と三人の従弟妹(いとこ)が亡くなったなんて、どうしても信じられなかった。兄がいなければ問屋が継げると思ってはいたが、問屋どころか村までがなくなってしまった。反対していた父親や村役人たちもいなくなり、おろくと一緒になれても貸本屋もやれない。おかよには、どうにかなると言ったが、家族とおろくを抱えて、この先、どうしたらいいのか、さっぱりわからなかった。
 いつの間にか眠ってしまったらしい。おろくに起こされて目を覚ますと空は曇って、雨がポツポツ降っていた。
「あれ、今、何時(なんどき)だ」
「わからないけど、四つ(午前十時)頃じゃないかしら」
「もう四つか。一時(いっとき)も寝ちまったか。おめえは起きてたのか」
「あたしもウトウトとしちゃった。おかよさんはまだ寝てるわ」
 左を見るとおかよは着物の裾を乱し、足を投げ出して気持ちよさそうに眠っていた。
「あまり寝相がいい方じゃねえな」
 市太が揺り起こすと、おかよは跳び起きて、「あれ、ここはどこ」と寝ぼけた。
「ここはな、極楽浄土さ」
「馬鹿言わないでよ。あたしゃまだ死んじゃいないわよ」
「おめえ、鉄つぁんて寝言を言ってたぜ」
「あら、ほんと」とおかよは市太の後ろで笑っているおろくの顔を見た。
 おろくは首を振った。
「このデホーラク(嘘つき)が」
「いけねえ。本降りになって来やがった」
 三人は慌てて森の中に入り、水を汲んで観音堂へと戻った。

2020年4月21日火曜日

天明三年(一七八三)七月八日

 真夜中の九つ(午前〇時)から八つ(午前二時)まで、土蔵が壊れるかと思う程の大揺れが続いた。皆、恐ろしさに震え、念仏を唱え続けながら恐怖と戦っていた。その後も小さな揺れを繰り返しながら、ようやく、長過ぎた夜が明けた。村人たちは二晩も続けて一睡もできず、精神的に限界を越え、クタクタに疲れ切っていた。
 揺れは続いているが青空が顔を出している。村人たちは生きていた事を喜び会いながら、恐る恐る蔵から外に出た。
 庭には大きな焼け石が砕けたカケラがゴロゴロしていた。表通りに出ると用水は砂と石ですっかり埋まり、あふれ出た水は泥水になって流れている。村人たちは飲み水がなくなったと騒ぎ始めた。樹木は倒れ、家々も傾き、倒れている家もあった。
 市太は松五郎を連れて、おろくの家を見に行った。ふと、浅間山を見ると、黒煙を吹き上げているのは変わらなかったが、山の頂上から黒い物が流れ出して、山裾まで伸びている。まるで、お山が舌を出して、アカンベエをしているようだ。
「おい、何でえ、ありゃア」
 倒れたおゆうの家をポカンと見ていた松五郎は顔を上げて、浅間山を見た。
「何だ、あれは‥‥‥」と言ったきり、声が出ない。
 昨夜、火の海だった六里ケ原から山裾に掛けては、まだ燃えているのか煙を上げている。お山から鎌原村までは四里も離れているので、ここまで山火事が来るとは思えないが、不安は増えるばかりだった。
 二人とも呆然(ぼうぜん)と浅間山を見つめていた。村人たちも気づいて、皆、浅間山を見ながら、あれこれ騒ぎ始めた。
 気を取り直して、おろくの家まで行くと、やはり傾いていた。もう一度、大揺れが来れば完全に倒れてしまうだろう。
「馬がいねえ」と松五郎が家の中から叫んだ。
 土間の隅にある馬屋は馬に蹴られて傷だらけで、馬柵棒(ませんぼう)は外れていた。
「しょうがねえ。あんだけひでえ目に会えば、馬だって必死になって逃げるさ」
「しかし‥‥‥」
「いなくなった者(もん)をとやかく言っても始まらねえ。それより、今の内に家財道具を外に出しといた方がいい。親父とおろくを呼んで来てくれ」
 松五郎はうなづくと出て行った。市太は部屋に上がってみた。閉めきっておいた雨戸は皆外れて、外に落ちている。壁土は剥がれ、障子も外れて倒れている。甚太夫の三味線は無残な姿になっていた。見渡した所、荷物はそれ程ない。すぐに運び出せるだろう。
 甚左とおろくが来るとみんなで注意しながら家財道具を外に運び出した。
 若衆(わけーし)組を中心に男衆(おとこし)総出で用水浚(さら)いが始まった。皆、眠い目をこすり、最後の力を振り絞って働いた。市太も松五郎も勿論、加わっている。
「市太、もう終わったんだんべなア。お山の大騒ぎはよう」
 声を掛けられ、顔を上げると青白い顔をした惣八が鋤(すき)を持って立っていた。
「おめえ、お山を見たかい」と市太は聞いた。「ありゃア焼け石の固まりだぜ。あれを吐き出しゃア、もう終わりだんべ」
「そうだんべ。俺もそう思うぜ。畜生め、とんだ目に会わせやがって」
「おめえんちは大丈夫(でえじょぶ)だったんべえ」
「大丈夫なもんか。炭俵が崩れてメチャクチャだア」
「それでも、うちは無事なんだんべえ。おろくんちなんか、もうダメだ。あれじゃア、とても住めやしねえ。おゆうんちも潰れちまったし、おかよんちも危ねえ」
「ああ。幸助んちも、勘治んちも潰れちまったらしいな。これからが大変だア」
「そうさ。お上(かみ)に訴えて何とかして貰わなけりゃアどうしょうもねえ」
「そうだな。そういやア延命寺の和尚がお山に登って祈祷するらしいじゃねえか」
「ああ、村役人も何人か一緒に行って、お山の様子を調べて来るらしい。うちの親父も行くそうだ」
「おめえんちの親父もか。大丈夫なのか」
「なアに、あの和尚だって危ねえとこまでは行くめえ。観音堂の永泉坊にゃア負けられねえって、お山の側まで行くだけだんべ。行けるとこまで行きゃア御祈祷して帰って来るさ。揺れはまだ続いてるが、石は降って来なくなったからな、大丈夫だんべ」
「そうだな。このまま治まってくれりゃアいいが」
 用水の土砂浚いは半時(はんとき)(一時間)で片付いた。以前の様に山から引いた清水が流れ、人々は水を汲んで朝飯の用意を始めた。
 おろくも朝飯の支度を始めた。このうちは危ねえからやめろと市太が止めても大丈夫と言って聞かなかった。甚左は杖を突きながら家の回りを歩き回り、どうしたらいいんだとブツブツ愚痴(ぐち)を言っている。松五郎はどこに行ったのかいなかった。
 市太は庭に出した家財道具に筵(むしろ)を掛けて、その側で一服つけた。昨夜、おゆくの相手をしながら、つい飲み過ぎたようだ。いくら飲んでも酔わなかった。酒がなくなったので助かったが、あれ以上、飲んでいたら、おゆくのように酔い潰れてしまっただろう。こんな時に酔っ払って寝てはいられなかった。
 おろくがニコニコしながらやって来た。
「うめえ朝飯はもうできたのかい」
「もう少し待って」と言いながら、おろくは右手を広げて見せた。
 手の中には鈴が入っていた。
「おめえ、こいつは」と市太はおろくを見上げる。
「市太さんから貰った鈴です。もう少しで忘れるとこだった」
「そうか、こいつかア」
 市太は手に取って振ってみた。シャンシャンと綺麗な音がした。
「あたしのお守りなの。でも、これを身に付けると馬みたいで恥ずかしくて。それで、しまっておいたの」
「そういやア、馬がいなくなっちまったんだっけ。いいや、うちから持ってくらア」
「そんな。蔵ん中に入れてもらっただけで充分ですよ」
「俺の馬がいるんだ。とっつぁんだって、うちを直すにゃア稼がなくちゃアなるめえ」
「ありがとう」
 市太は鈴をおろくの前掛けの紐(ひも)に縛りつけた。
「やだア、もう」
「そうしときゃア、おめえがどこにいるか、すぐにわかる」
「あたしは馬じゃないんですよ、もう」
「馬じゃねえけど乗り心地はいいぜ」
「昼間っから何を言ってんです」
 その時、ドドーンと大音響が鳴り響いた。
「危ねえ」と市太がおろくを抱き寄せて、身を伏せると同時に大揺れが起こった。
 ミシミシミシッと家が唸り、やがて、ドサッ、ドドドーンと崩れ落ちた。土埃(つちぼこり)が舞い上がり、何も見えなくなった。大揺れは一度だけだった。土埃が流れ去った後、市太は顔を上げた。
「おい、大丈夫か」
 おろくは目を開けるとうなづいた。
「あたしは大丈夫、市太さんは」
「大丈夫だ。うちん中にいたら危なかったぜ」
 市太は起き上がるとおろくを立たせ、「こいつのお陰だな」と腰の鈴を鳴らす。
「ほんと、助かったわ」
 家は見事に潰れていた。
「父ちゃんは大丈夫かしら」
 二人は甚左を捜した。甚左は裏の畑の中に倒れていた。杖は家の側に落ちている。杖も捨てて必死に逃げたらしい。おろくが声を掛けると甚左は起き上がった。
「とうとう、潰れちまったな。どうせ、あのままじゃア住んじゃアいられねえ。潰れてよかったんだ。畜生め」
「とっつぁん、足は大丈夫なのか」と市太は杖を渡しながら聞いた。
「すまんな」と言いながら顔を歪(ゆが)めた。「大丈夫だ」
「父ちゃん、ほんとに大丈夫なの」
「ああ、平気さ。ちょっと無理したが、大分(でえぶ)、よくなってんだ」
「あっ、火が危なえ」と市太は竈(かまど)のあった辺りに飛んで行った。
 火は出ていなかった。一気に家が潰れたので、その勢いで火も消えてしまったらしい。市太は胸を撫で下ろして通りへと出た。見渡した所、火事は起きていないらしかった。
 松五郎が走って来た。潰れた家を見て、呆然と立ちすくんだ。
「おめえ、どこ行ってたんだ」
「えっ、ちょっと。みんな、無事なんですか」
「ああ、無事だ。心配(しんぺえ)するな」
「よかった‥‥‥馬を捜しに行ったんだけど、どこにもいなくて‥‥‥おまちんちが潰れちゃったんで、家財道具を引っ張り出すのを手伝ってたんです」
「おまちってえのは、おゆうの妹のおまちか」
「ええ。お頭んちの隣です」
「そうか‥‥‥おめえ、おまちが好きなのか」
「いえ、そんな」
「いい娘だからな。まあ、うまくやれよ」
 松五郎は照れ臭そうに笑ってから、潰れた家の横を通って裏へと行った。
 浅間山を見ると黒煙と一緒に火の玉を吐き出している。不気味な黒い舌はさっきと変わらなかった。もういい加減にやめてくれよと市太が願っていると半兵衛が隣に来た。
「ひでえ目に会ったな」
「ああ。ひどすぎらア」と市太は砂だらけの顔を拭きながら、半兵衛の家を見た。傾いていて倒れるのは時間の問題と言えた。
「おろくたちは若旦那んとこにいたらしいな」
「うん。おかみさんの具合(ぐええ)はどうだ」
「大丈夫じゃよ。馬がいなくなっちまったんは災難じゃったが」
「おろくんちも馬が逃げちまったんだ」
「そうか‥‥‥若旦那んとこは大丈夫なのか」
「叔父御が見回ってたからな。大丈夫だった」
「そいつはよかった。馬がいなけりゃ仕事にならねえからな」
「荷物も大分、溜まってるようだし、お山が静まったら大忙しだんべ」
「馬が減っちまったんじゃ余計に大変(てえへん)じゃな」
「半兵衛さーん」と誰かが呼んでいた。
 振り返るとおかよの兄、長治が血相を変えて走って来た。
「半兵衛さん、大変なんだ」と息を切らせながら言う。「大笹から荷物がやって来て、旦那が半兵衛さんを呼んで来いって」
「何だと、この騒ぎん中、荷物が来ただと」
 市太は信じられないという顔付きで半兵衛と顔を見合わせた。
「そんなの蔵に入れときゃアいいじゃねえか」
「それが次から次へと来るんです。真田様の荷物で急ぐとか」
「運ぶつもりなのか」と半兵衛が聞く。
「ええ、今、馬方衆を集めてます。こんな時だから、旦那もいつもの倍の駄賃(だちん)を出すとか」
「それにしたってよう、何だって、こんな時に荷物を運ばなけりゃならねえんだ」
「それが、大笹から来た馬方の話によると軽井沢から碓氷(うすい)峠に掛けて、お山の灰が五尺も積もって、まるっきり通れなくなっちまったらしい。それで、大笹の問屋にも荷物が山のように溜まっちまったようですよ」
「灰が五尺もか‥‥‥そいつアすげえな」
「とにかく、半兵衛さん、一緒に来て下せえ」
「よし、わかった。若旦那も行くだんべ」
「俺か。俺が行ってもしょうがねえさ。俺アおろくんちの片付けをしてるよ」
 半兵衛は長治と一緒に飛んで行った。問屋の方を見ると荷物を積んだ馬が次から次へと大笹通りから問屋へと向かっていた。
「五尺か‥‥‥」と市太は降り積もった灰の量を想像した。お浜たちは無事だんべえかと追分の女郎の事を心配しながら、おろくのいる方に戻った。
 皆、気が抜けたように、運び出した家財道具の側に座り込んでいた。
「とっつぁん、とにかく、こいつを片付けなくちゃアなるめえ」
「ふん、もうどうしょうもねえや」甚左は吐き捨てるように言う。
「どうしょうもねえったって、このままじゃア、新しいうちも建てられねえ」
「新しいうちだと。そんな銭なんかねえや」
「とっつぁんの気持ちはわかるが、うちをなくしたんはここんちだけじゃねえんだ。何軒もある。諦めちゃアならねえよ。少しづつでも片付けなくちゃアな」
「くそったれ」と甚左は悪態をついて、潰れた我が家をじっと見つめていた。
「その前(めえ)に腹減ったなア。悪(わり)いが松、うちから何か食い物を持って来てくんねえか。俺が今、顔を出すと帰れなくなる」
「うちで何かあったんですか」とおろくが心配する。
「大笹から荷物が来てな、これから運ぶんだとよ」
「まあ、この揺れの中を運んで来たの」
「らしいな。松代(まつしろ)の荷物だ。松代も江戸も、この村がこんな有り様になってんのを知らねんだんべ。まったく、のんきに荷物を送って来やがる。食い物を持って来たら、おめえ、俺の馬を使って馬方やってもいいぞ。何でも倍の駄賃をくれるそうだ」
「ほんとですか。俺、やります。銭を稼いで、うちを建てなくっちゃならねえ」
 松五郎は飛び出して行った。
「まだ揺れも治まってないのに、馬方なんかして大丈夫かしら」
「なに、六里ケ原を通って行くわけじゃねえ。狩宿(かりやど)の方はここよりゃアましだんべ。石さえ降って来なけりゃ大丈夫さ」
 表通りをぼんやり眺めながら、市太たちが握り飯を食べていると延命寺の和尚が村役人を連れてやって来た。これからお山に登るらしい。市太の父親も一緒に行く予定だったが、問屋が忙しくて、誰かに代わってもらったようだ。父親が亡くなって山守を継いだ八蔵の案内で、名主の儀右衛門と組頭を務める枡屋の平太夫、同じく組頭の古久屋の伴右衛門がいた。和尚はきらびやかな袈裟(けさ)を掛けて、真言(しんごん)を唱えながら、ゆっくりと歩いている。三人の修行僧と米屋の下男が荷物を持って従っていた。その後ろに女衆(おんなし)が両手を合わせながら付いて行く。女衆の中に三治の姿があった。フラフラと蔵から出て来たらしい。
 おろくは三治を捕まえて、家の方に連れて来た。三治は潰れた家を見て目を丸くした。
「お山の鬼がやって来て、おらんちを潰したんか」そう言うと市太の袖を引っ張った。「若ランナ、鬼退治らア。鬼退治らア」
 三治は市太を引っ張って、和尚の後を追って行こうとする。
「叔父さん、ダメよ」とおろくがたしなめても聞かない。
「いいさ、俺たちも見物しようぜ」
 市太とおろくは三治を連れて、女衆の後に従った。女衆は村外れの道祖神の所まで付いて行き、そこから、山に入って行く和尚たちの姿が見えなくなるまで見送った。
 女衆も引き上げたので、市太たちも家に帰った。もう家と呼べる物はなかったが。
「あたし、ちょっと、母ちゃんの様子を見て来る」おろくは三治の手を引いて市太の家の蔵に行こうとした。
「夜、眠れなかったから、どうせ、眠ってるだんべがな、心配なら見て来るがいい。三治は置いてっていいよ。俺が見てらア」
「それじゃア、頼むわ。すぐ、戻って来ます」
 市太がおろくを見送っている隙(すき)にも、三治は勝手に裏の方に行った。市太は慌てて後を追う。家財道具の側に座り込んで、うなだれている甚左の側に行って、何やら言っている。甚左は相手にならず、うなだれたままだった。
「とっつぁん、元気出せよ」と市太は甚左を励ます。
「ああ」と甚左は気のない返事をする。
「それにしても、こいつを片付けるのは厄介(やっけえ)だな。松は馬方に行っちまったし、若衆(わけーし)もほとんど行っちまったんべ。帰(けえ)って来てから、みんなでやるしかねえな」
「うちも潰れちまったし、馬もいねえ。畑は全滅、これから一体(いってえ)、どうしたらいいんでえ」
「泣き言言うなんて、とっつぁんらしくねえじゃねえか」
「ふん、若旦那にゃア、わしらの気持ちはわかるめえ」
「ああ、わからねえさ。とっつぁんがそんな情けねえ事言ったら、みんなどうしたらいいかわからなくなっちまうだんべ。みんなで何とかしなきゃアならねんだ」
「うるせえ、そんな事アわかってる。もう、わしらの事ア放っといてくれ」
 三治は筵(むしろ)を上げて、行李(こうり)の中を引っ掻き回していたが、甚左の剣幕(けんまく)に驚いて尻餅(しりもち)をついた。市太は行李の蓋(ふた)をして、筵を掛けると三治の手を引いて、その場を離れた。
「ここにいてもしょうがねえ。やっぱり、蔵に戻るか」市太は独り言のように呟いた。
 昼四つ(午前十時)を知らせる鐘が鳴っている。もう大笹から来る荷物も終わったらしい。大笹道には観音堂へと向かう女衆の姿がチラホラ目に入るだけだった。市太は惣八の家の前で立ち止まって家の中を覗いた。家の者たちが片付けをしているのが見えたが、惣八の姿は見当たらなかった。また、おまんの家に行っているのだろう。自分の家の方を見ると、荷物を積んだ馬が次から次へと狩宿の方に向かっていた。おろくの姿は見えない。
 三治に引っ張られるまま、市太は観音堂へと向かった。砂に埋まった十日の窪を通って石段を登っている途中、ちょっとした揺れがあった。また、石が降って来るのかと思ったが降っては来なかった。三治が被ったままの頭巾を見て、おろくの家の庭に置いて来てしまった事が悔やまれた。
 観音堂には思っていた以上の村人が集まっていた。皆、一心に拝んでいる。お堂の中では疲れを知らない永泉坊の祈祷が続いていた。三治が後ろの方に座って拝み始めた。
 市太は三治の隣に立って、集まっている者たちを眺め回した。やはり女衆が多い。もっとも男衆は馬方が忙しい。手のあいているのは市太を除けば、年寄子供に怪我人ぐらいだ。
 お堂の中に市太の家族がいた。祖父に母親、叔母に兄嫁もいる。妹のおさやは隣のおみやと一緒で、おくらの方は半兵衛の娘おふじと一緒だ。熱心な信者である祖父に連れて来られたのだろう。山守の隠居も家族を連れて来ている。火事で家を失った治郎左と与七の家族も前の方にいる。あまり信心深いとは言えないおなつとおなべの姿もあった。
 三治に袖(そで)を引かれ、市太も座ると三治の真似をした。
「若旦那」と声を掛けられて振り返ると、おかよが姪(めい)っ子をおぶって笑っている。
「三治と一緒になって拝んでるなんて、おかしくて見ちゃいられないわよ」
「なに、お守(もり)をしてただけさ」と市太は照れ臭そうに立ち上がった。
「おめえこそ、何やってんだ。大笹から馬方連中がやって来たんべ。店を開けなくてもいいのか」
「それどころじゃないのさ。店ん中はもうメチャクチャ。傾いてるし、あれじゃアとても開けられないよ。おこうはいなくなっちゃうし、あたしが子守さ。ねえ、おこうを見なかった」
「さあな、知らねえよ」
「まったく、どこ行っちゃったんだろ。ねえ、おろくさんは」
「母ちゃんを見に行ったきりだ」
「大丈夫よ。甚太夫さんが付いてたもの」
「それでも心配(しんぺえ)なんだんべえ。ところで、桔梗屋の姉さんはどうした。あの大揺れん中、大鼾(おおいびき)をかいて寝ていやがったが」
「元気なもんよ。あ~あ、久し振りによく寝たって、うちに帰ってったわ。でも、姉さんとこもメチャメチャで、お店は開けられないんじゃないかしら」
「まあ、元気になりゃいいや。あんな大酒のみの相手は真っ平御免だ」
「あっ、いた」とおかよは人込みの中を指さした。「一緒にいるのはおみやの弟の平次だわ。まったく、あの子も色気づいちゃって」
「おめえの真似をしてるんだんべ」と市太は笑う。
「なによ。あたしなんか、ちっとも男っ気なんてないじゃない」
「そろそろ、兄貴に会いたくてしょうがねえんだんべ」
「ああ、会いたいさ。思いっきり抱き締めてもらいたくてウズウズしてるんさ」
 そう言うとおかよは笑って、人込みをかき分けて妹の所に向かった。
 三治を連れて、そろそろ帰ろうとした時、石段の方から鈴の音が聞こえて来た。石段の方を見ているとやがて、おろくの顔が現れた。市太を見つけて、ニコリと笑った。
「よかった。やっぱりここだったのね。うちに帰ったら、いないんで心配しちゃった」
「三治に引かれて観音参りさ。うちの方は大変だったんべ」
「ええ。でも、次から次へと運んでるから、午前中には終わるんじゃないかしら」
「そうか。松も行ったのか」
「まだ、いたわ。半兵衛さんと荷物の整理をしてるの。いつまた、お山が焼けるかわからないんで貴重な物から先に運ぶんですって」
「ふーん。母ちゃんの方は大丈夫か」
「ええ、大丈夫よ。あたしも拝もう」
 おろくは三治の隣に座って両手を合わせた。市太は二人から離れ、浅間山を眺めた。
 何となく、浅間山がぼやけているように見えた。寝不足で目がかすんで来たかと目をこすった時だった。物凄い強風が浅間山の方から吹いて来た。とても立ってはいられない。市太は身を伏せ、這いながら、おろくたちの方に向かった。
 女衆がキャーキャー騒ぎ出した。ドサッと何かが倒れ、バリバリッと木の枝が折れる音がした。誰かが怒鳴っているが風の唸りで聞こえない。信じられないが、その強風は熱かった。熱風が浅間山から吹いていた。このままだと着物が燃えてしまうのではと思えるほど熱かったが、熱風はすぐに治まった。
「一体(いってえ)、ありゃア何だったんだ」
 市太は顔を上げるとおろくと三治を見た。三治が市太の顔を見て、急に笑い出した。強風で元結(もっとい)が切れてザンバラ髪になっていた。おろくも笑って、自分の頭巾を脱いで市太に渡した。
「いいよ。おめえが被ってろ」
「だって、その頭じゃ恥ずかしいでしょ。石が降って来たら返してもらうわ」
「そうか」
 市太は頭巾を被って、ザンバラ髪を隠した。回りを見ると石燈籠(いしどうろう)や石塔(せきとう)が倒れ、折れた太い枝があちこちに落ちていた。幸い、怪我人はいないようだ。
 浅間山を眺めると今度ははっきりと見えた。黒煙を吹き上げ、馬鹿にしたように黒い舌を出している。しばらく、ざわついていたが、強風も治まり、何事もなさそうなので、女衆は安心して座り込んで、また拝み始めた。
 市太はもう行こうとおろくを促したが三治が言う事を聞かなかった。じっと拝んだまま、動こうとはしない。
「まあ、いいか。うちに帰ったって潰れちまったんじゃアしょうがねえ。ちょっと話があるんだ」
 市太はおろくを誰もいないお堂の裏の方に誘った。
「叔父さん、大丈夫かしら」
「みんながいるうちは、ああやって拝んでるだんべ。心配(しんぺえ)ねえ」
 おろくはうなづいて市太の後を追った。観音堂の裏は深い森になっている。森の中に少し入って切り株に腰を下ろすと市太は手を差し出した。
 おろくは笑い、「なアに、話って」と市太の手を握る。
 市太はおろくの手を引っ張り、抱き寄せて、自分の膝の上に乗せた。
「ダメよ。誰かに見られたらどうするの」
「見られたっていいじゃねえか」と市太はおろくの口を吸う。
 しばらく抱き合っていたが、ガサガサという物音で、おろくは慌てて市太から離れた。
「鳥が飛んでっただけだ」
「だって、みんなが真剣に拝んでるのに」
「俺たちだって真剣さ。話ってえのは、うちの事だ。武蔵屋の前(めえ)に貸本屋を作るって言ったんべ。でもよう、どうせ建てんなら、武蔵屋の前だんべが、おめえんちの土地だんべが同じこった。あそこに貸本屋を建てりゃアいい。みんなが一緒に暮らせるようなうちをな」
「そうなれば嬉しいけど、そんなにうまく行くかしら」
「うまく行くようにするのさ」と市太はおろくの手を引く。おろくも素直に市太の側に寄り添う。
「でも、あたしたちの事だって、まだ、どうなるかわからないんでしょ」
「ああ、村役人も今はそれどころじゃねえからな。でもよう、おめえをお頭の養女にして嫁に貰うってえのは、何の問題(もんでえ)もねえはずだ。きっと、うまく行くさ」
「そうね」
「祭りが終わる頃にゃア、きっと、うまく行ってるよ」
「お祭りできるのかしら。うちをなくした人も多いし、怪我した人もかなりいるみたいだし」
「だからこそ、景気づけにやらなきゃアならねえんだよ」
「今晩はお稽古ができるといいのにね」
「もう大丈夫だんべ。さっき、熱風が吹いたんはお山の腹ん中が空っぽになったのかもしれねえ」
「そうか。そうよ、きっと。もう、あんな恐ろしい目に会わなくてもすむのね」
「もういらねえ。ぐっすり眠りてえよ」
 しかし、そううまい具合には行かなかった。ドガーンと耳をつんざく音が鳴り響き、また、お山が大爆発を起こした。市太はおろくを抱き寄せ、森から飛び出すと身を伏せた。大きな揺れも始まった。お堂がミシミシ唸っている。
「ここも危ねえ」
 二人はお堂の側から離れて、表の方へと向かった。女衆は恐怖に脅(おび)え、顔を引きつらせて身を伏せている。やがて、砂や石が降って来た。市太は頭巾を脱ぐとおろくに被せた。キャーキャー騒ぎながら、女たちは若衆小屋を目がけて走り出した。市太とおろくも後を追う。若衆小屋は人であふれていた。
 石はすぐにやんだ。その代わりに今まで聞いた事もない音が響き渡った。
「ヒッシオヒッシオヒッシオ」と何かが押し寄せて来る音だった。
 何事だと人々は耳を澄ましながら小屋から出て、観音堂の側まで行って浅間山を眺めた。何と浅間山が見えなかった。そして、黒い大きな固まりが煙を上げながら、こちらに近づいて来る。
「お山が動いている」と誰かが叫んだ。
「大変(てえへん)だ、大変だ、逃げろ、逃げろ」と皆、騒ぎ出した。
 騒ぎ出したが皆、どうしていいかわからず、オロオロしている。市太はおろくの手を握ったまま、じっと正体不明な物を見つめていた。
「一体、ありゃ何なんでえ。お山が動くわけがねえ。煙は出てるが火のようでもねえ」
「あっ、叔父さんがいない」おろくが叫んだ。
「なに」と市太は回りを見回す。
 青ざめた女たちの顔が目に入るが三治の姿は見当たらない。
「叔父さん」と叫びながら、おろくは若衆小屋の方に行った。市太も後を追った。
 小屋の中には誰もいなかった。小屋の回りや観音堂の裏も見たがいない。
「どこ行っちゃったんだろ」
「大丈夫さ。三治が一人でいるのを誰かが見つけて、うちまで届けてくれたんだんべ」
「それならいいんだけど‥‥‥」
「うちに帰ってみりゃわかるさ」
 市太とおろくが帰ろうとして石段の方へ向かうと黒煙が観音堂のすぐ側まで来ていた。
 ゴーゴーという唸り声とパチパチと何かが弾けるような異様な音が響き渡り、ドスーンと何かが当たったような音が響き渡った。大地が揺れ、観音堂は煙に包まれて、何も見えなくなった。揺れはしばらく続いた。
「一体(いってえ)、どうなってんでえ。お山がここにぶち当たったのか、畜生め!」
「若旦那か」と煙の中から声がした。
「半兵衛か」と市太は聞く。
「そうじゃ。大丈夫か」
「ああ、大丈夫みてえだが」
 煙だと思ったのは土埃だった。やがて、消え、半兵衛の姿が見えた。
「若旦那、その面は何でえ。まるで、河童(かっぱ)が娘っこを手籠(てご)めにしてるようだぜ」
「なに言ってやんでえ。それより、半兵衛はどうして、こんなとこにいるんだ」
「人手が足らなくてな、誰かいねえかと捜しに来たんじゃ」
「そうか。馬の方は足りたのか」
「ああ、大丈夫だ。逃げちまった馬は二十頭もいなかった。黒長のお嬢さんが心配して、馬を貸そうって言ってくれたんだが、何とか間に合いそうだ」
「なに、おみのも来てたのか。まだ、いるのか」
「いや、もうとっくに帰ったよ」
「ここにゃア女子供と年寄しかいねえ。役には立つめえよ」
「そうか。とにかく、若旦那も手伝ってくれ」
「ああ、今、三治を捜してんだ。見つかったら俺も行く」
「大変だ、大変だ、みんな、来てくれ」
 誰かが石段の所で怒鳴っていた。若衆頭の杢兵衛だった。
 おろくを立たせ、市太が半兵衛と一緒に杢兵衛の所に行くと杢兵衛は何も言わず、石段の下を指さした。
 見るとそこには信じられないものがあった。石段が十五段しかなかった。そこから先は土砂で埋まっている。辺り一面、土砂が広がっていて鎌原村は消えていた。土砂は乾いていて、所々に大きな石や黒い焼け石、樹木の枝や太い幹(みき)が混ざり、ゴロゴロと転がっているのもあった。
「まさか」と市太もおろくも半兵衛も自分の目を疑った。
 こんな事が起こるはずはない。絶対に信じられない。ここまで土砂が来ているという事は、村はすべて埋まってしまったという事だった。観音堂にいた者たちも集まって来て、石段を覗き込んだ。
「嘘だ、嘘だ、嘘だ!」と誰かか騒いで、ワァッと泣き始めた。
 百姓代の仲右衛門が人込みを押し分けて顔を出し、「何だ、こりゃア」と叫ぶと石段を下りて行った。十五段の所で立ち止まって遠くを見回し、「おーい、みんな、大丈夫か」と叫ぶと、よろけるようにしゃがみ込んだ。
 それを見ていた杢兵衛は腰が抜けたようにヘナヘナと崩れた。おろくも急に気が遠くなったように市太の腕の中に倒れ込んだ。
「おまえさん、無事だったのね」と杢兵衛の妻、おすみが飛んで来て、杢兵衛にすがりついた。
「おめえ、無事だったんか。よかった、よかった」
 二人は泣きながら抱き合っていたが、皆の視線を感じて離れた。おすみと一緒にいた、おまんとおしめ、おゆうの妹のおまちが力が抜けたように立ちすくんでいた。
「父ちゃん」と今度は半兵衛の娘おふじが父親に抱き着いて来て泣いた。
 身内が側にいる者たちは皆、抱き合って泣き、身内がいない者は一人、泣き崩れた。
 市太は泣いているおろくを抱きながら、生き残った者たちを呆然と眺めていた。姪っ子をおぶったおかよが妹のおこうの手を引いて、気が抜けたような顔して二人を見ていた。
 それだけでは終わらなかった。再び、ヒッシオヒッシオ、ワチワチという音が響き渡り、真っ黒な煙が浅間山から観音堂へと近づいて来た。生き残った者たちは喚きながら、お堂の上へと上って行く。永泉坊は無心になって祈祷を続けていたが、そんな事も構わず、生き残った者たちは必死になって、より高い所へとお堂を目指した。
 観音堂へ逃げる女たちを眺めながら、「どうする、若旦那」と半兵衛が聞いた。
「今更、どこに行ったって同じだんべ。さっき、村が埋まっちまったんだ。今度はここも埋まっちまわア」
「かと言って、ここにいる事もねえだんべ」
「観音堂は一杯(いっぺえ)だ。裏の小屋でも行くか」
 半兵衛は娘のおふじとおまちを連れ、杢兵衛は妻のおすみとおまん、おしめを連れ、市太はおろくとおかよたちを連れて若衆小屋に逃げ込んだ。小屋の中には誰もいなかった。火事で焼け出された二家族が仮住まいしていたので、その家族が運び込んだ荷物があるだけだった。
「お頭、おめえさん、何で、ここにいるんじゃ」と半兵衛が杢兵衛に聞いていた。
「俺は村を見回ってたんだ。また大揺れが来て石が飛んで来やがったんで、危ねえから、みんな、うちに帰れって言いに来たんだ。そしたら、あのざまだ。畜生、何で、あんな土砂がお山から押し寄せて来るんでえ」
 不気味か音が唸りを上げて近づいて来る。市太、半兵衛、杢兵衛は女たちを庇うように身を伏せた。
 ドドドーンと音がした。さっき程、揺れはひどくなかった。しばらく、耳を澄ましていたが何も聞こえない。土埃が静まるのを待って、意を決して外に出た。
 観音堂は無事だった。石段の所まで行くと、土砂の上は黒い焼け石で埋まっていた。まだ燃えているのか石の透き間から火が覗いている。石段の数を数えると、さっきは十五段あったのに十三段しかなかった。浅間山を見ると、今度こそ、腹の中の物をすっかり吐き出してしまったのか、黒煙は半分に減っていた。


 一瞬にして鎌原村は消えてしまった。あれ程大量の土砂が一気に押し寄せて来るなんて、まったく、考えられない事だった。
 生存者は観音堂に集まっていた、たったの六十一人。その内訳は女が三十九人、男が二十二人。生き残った村役人は百姓代の仲右衛門一人だけ。名主の儀右衛門、組頭の平太夫(おみやの父)と伴右衛門は延命寺の和尚と一緒にお山に登った。生きているとは考えられない。年寄役の市太の父親は問屋で仕事をしていて埋まってしまった。他の村役人は皆、延命寺にいた。延命寺でも祈祷をしていたので、村役人だけでなく村人たちが大勢、集まっていた。
 仲右衛門も延命寺にいて、今後の対策を練っていたが、長老の意見を聞こうという事になり、観音堂にいた市太の祖父、市左衛門とお山の事なら何でも知っている山守の隠居、長兵衛を呼びに来て助かったのだった。
 仲右衛門と同じように、村にいたが寸前に観音堂に来て助かった者が数人いる。馬方を集めに来た半兵衛と、危ないから土蔵に帰れと皆を呼びに来た杢兵衛の他に、旅籠屋『扇屋』の清之丞(せいのじょう)の兄、吉右衛門とおきよの兄嫁おふき、おみやの叔母おいねがいた。
 吉右衛門は旅籠屋の留守番をしていたが、銭勘定(ぜにかんじょう)でわからない事があって、清之丞に聞きに来て助かった。吉右衛門は清之丞の兄だったが、稼業の旅籠屋を嫌って、一時、村を出ていた。仕事に失敗して、六年前に妻を連れて戻って来た。当時、父親は生きていて、身勝手な吉右衛門を許さず、稼業を弟に譲り、吉右衛門は弟に使われていた。
 おふきは娘のおふさを呼びに来て助かった。おふさは市太の妹おくら、半兵衛の娘おふじと一緒に来ていた。おいねは伜の久吉を呼びに来て助かっている。
 その逆で、観音堂にいたにもかかわらず、寸前になって村に下りて亡くなった者もいる。
 名主の家族は、延命寺の和尚と一緒にお山に登った儀右衛門の無事を祈るため、家族揃って観音堂に来ていた。観音堂からお山に入って行く名主の姿を見送り、しばらくお祈りした後、家に帰って亡くなった。儀右衛門の妻のおさよだけは娘を呼びに来たおふきと立ち話をしていて観音堂に残り、助かっている。一旦、家に帰った家族は家の中の片付けをしていたが、大きな揺れが来て、儀右衛門の事が心配になった。殊(こと)の外、母親は心配になり、石が降り止むと儀右衛門の姉におぶさって観音堂へと向かった。後もう少しで観音堂にたどり着くというその時、土砂を被り、石段の上に折り重なって亡くなってしまった。
 おなつとおなべも観音堂にいたのに、市太とおろくの姿を見つけ、いたたまれずに村に帰っている。三治は隣に住むおかめ婆さんと一緒に村に下りていた。おかめ婆さんが一人でいる三治を見つけ、おろくが心配しているだろうと連れ帰ったのだった。
 おろくはそんな事は知らない。観音堂の近くにいるに違いないとあちこち捜し回ったが見つからず、三治が亡くなったのは自分のせいだと泣き続けた。おろくは三治だけでなく、家族全員を失っていた。父親の甚左と叔父の三治は潰れた家の側で亡くなり、寝たきりの母親と兄、甚太夫は市太の家の土蔵の中で亡くなった。姉のおくめは旅籠屋の桐屋にいて、桐屋の家族共々亡くなった。松五郎は問屋で荷物の整理をしていて亡くなった。
 市太は父親の作右衛門と兄の庄蔵、叔父の弥左衛門、従弟(いとこ)の五郎八、従妹(いとこ)のおつた、おさつを失った。父親と兄、叔父と従弟は仕事をしていて、幼い従妹二人は蔵の中で眠っていた。
 勘治も死んだ。惣八も死んだ。おなつも死んだ。おなべも死んだ。安治も死んだ。丑之助も死んだ。幸助も死んだ。おきよも死んだ。桔梗屋の姉さんも死んでしまった。
 馬医者の八兵衛は死んだが、おまんは無事だった。おまんは義姉(あね)である杢兵衛の妻おすみと一緒に観音堂に来ていた。杢兵衛の蔵に避難していた、おしめとおまちも一緒だった。
 半兵衛は妻と二人の伜と二人の娘を失なった。娘のおふじだけは市太の妹おくらと一緒にいて助かった。
 おかよも姪っ子をおぶったまま生きていた。妹のおこうも無事だったが、両親、兄夫婦、すぐ上の兄、長治は亡くなった。
 家族が揃っていたのは子供のいない杢兵衛夫婦だけだった。
 村がなくなり、村人のほとんどが亡くなってしまったのにもかかわらず、平然と祈祷を続けている永泉坊に対して、熱心な信者だった山守の隠居の怒りが爆発した。
「うるせえ、もうやめちまえ」と並べてある法具(ほうぐ)を手のひらで倒してしまうと永泉坊も、「何をするんじゃ」と長兵衛を取り押さえる。
 それを見ていた男衆は、「このイカサマ祈祷師め」と永泉坊をこづき始めた。
 市太も半兵衛も永泉坊がめった打ちされるのを眺めながら止める気力もなかった。自業自得だと心の中で思っていたのかもしれない。永泉坊は観音堂から追い出され、裏の森の中に逃げて行った。
 この日、鎌原村を埋め尽くした大量の土石流と火砕流(かさいりゅう)は吾妻(あがつま)川に押し出して、流域の村々とすべての橋を押し流しながら利根川に突っ込んだ。川の水と周辺の樹木や家屋(かおく)を巻き込んだ土石流と火砕流は川幅を数倍に広げ、燃えている石が煙を立ち昇らせながら流れていたという。鎌原村を埋めてから一時間足らずで利根川に合流している。物凄い速さだった。
 平常よりも十メートル余りも水位を上げて流れる泥流は前橋の天狗岩用水、広瀬川、桃木(もものき)川を埋め、烏(からす)川との合流点にある五料の関所を埋め尽くし、関宿(せきやど)から二手に分かれ、一方は江戸へ、もう一方は銚子へと流れ去った。
 大笹宿は畑が少々泥を被っただけで無事だったが、小宿(こやど)村、芦生田(あしうだ)村、大前村、西窪(さいくぼ)村、羽根尾村、坪井村、新井村、長野原村は家屋がすべて流失した。亡くなった者たちは鎌原村が最も多く、四百七十七人、鎌原村の北に位置する小宿村が百四十一人、芦生田村が百十六人、大前村が二十七人、西窪村が五十八人、羽根尾村が二十七人、坪井村が八人、新井村が二人、長野原村が百五十二人と記録されている。この他にも吾妻川流域の村々には死者が多く出ている。
 そんな事は観音堂にいる者たちはまだ知らない。家族と財産を一瞬にして失った悲しみに泣き暮れていた者たちも、夕暮れが近づくにつれて、このまま、こんな所にいつまでもいられない。どこかに逃げようという事になった。石段の方には行けない。焼け石が熱くて歩く事はできなかった。
 観音堂から村に下りるには石段の他にも、市太の家の裏にある十王堂に下りる道もあった。そこから道は延命寺へと続いている。市太が半兵衛と一緒に調べてみたが、石段と同じように途中から焼け石で埋まっていた。市太の家も延命寺もすべて焼け石の下に埋まっている。この下に村があった事など、まるで嘘のように黒々とした焼け石が燃えながら広がっていた。
 こっちがダメなら大笹の方に行こうと男衆は三組に分かれて観音堂裏の森の中に入って行った。鳥や獣は逃げ去って行ったのか不気味な程に静かだった。浅間山の唸る音が聞こえるだけだった。
 市太は半兵衛とおみやの弟、平次と一緒に森の中に入った。
「おめえは確か、おかよの妹と一緒にいたっけなア」と市太は平次に聞いた。
「はい」と平次はうなづいた。
「毎日(めえんち)、来てたのか」
「そうじゃねえけど」
「まあ、助かってよかった。おめえがおこうを連れて来たお陰で、おかよも助かったようなもんだ」
「でも、父ちゃんも母ちゃんも‥‥‥」
「しょうがねえさ。おめえが酒屋をやるしかねえ」
「俺にはとても酒屋なんか‥‥‥市太さんは問屋をやるんですか」
「俺が問屋だと」市太は思わぬ事を言われて驚く。「そうか、親父も兄貴も死んじまったのか‥‥‥」
「問屋をやるのは若旦那しかいねえ」と半兵衛が口を挟んだ。
「そんな事、急に言われてもピンと来ねえぜ。俺ア貸本屋をやるつもりだったんだ」
「貸本屋じゃと。何を寝ぼけた事を言ってやがるんだ。村の者が百人もいねえってえのに何が貸本屋じゃ」
「爺ちゃんの本も俺の本もみんな埋まっちまったんだ、畜生。そういやア舞台も埋まっちまったじゃねえか。芝居はどうなるんでえ」
「祭りなんかやれねえだんべなア」
「畜生、あんなに稽古をしたのによう」
「これじゃア役者も揃(そろ)わねえ」
「そういやア、路考も死んじまったのか」
「いや、わからねえ。狩宿もこんな有り様じゃア、勿論、助からねえが、向こうが無事なら助かったかもしれねえ」
「他に誰が助かりそうなんだ」市太は期待を込めて半兵衛に聞く。
「若旦那の仲間じゃ丑之助と長治は助かるかもしれねえ。早えうちに出てったからな」
「丑と長治が助かるのか。幸助と伊之助はどうなんでえ」
「わからねえな。あん時は多分、小宿辺りだんべ。あそこが無事なら助かるがな」
「小宿か‥‥‥助かってくれりゃアいいが。勘治と惣八の二人はダメだんべえな」
「ああ、多分、うちにいたんだんべ」
「畜生、あいつらも埋まっちまったのか」と言った後、思い出したかのように、「おまんは観音堂にいたな」と市太は半兵衛を見る。
「ああ、お頭のかみさんと一緒にいたよ」
「おまんに聞きゃア、惣八の事がわかるかもしれねえ。どうも、奴はうちにゃアいなかったようだ」
「あの馬鹿はまだ、おまんのとこに出入りしてたのか」
「八兵衛に小道具の事を頼まれたらしい」
「何じゃと。まったく、呆れるぜ。惣八が馬鹿なら、八兵衛はそれを上回る大馬鹿じゃな。何を考えているやら‥‥‥そうか、八兵衛も死んじまったか」
 森を抜けて視界が開けた。西窪(さいくぼ)へ行く道と大前、あるいは大笹に行く道が見えるはずだったが、そんなものはどこにもない。見渡す限り、焼け石が敷き詰められ、煙を上げていた。所々に山から押し流されて来た大木や岩が埋まっている。浅間山が吹き出した土砂と焼け石の莫大な量に呆れるほかなかった。
「すげえ」と平次は思わず呟いた。
「この様子じゃ、西窪も大前も埋まっちまったかもしれねえな」と半兵衛は力が抜けたように座り込んだ。
「それにしたって、西窪も大前も川向こうだぜ。大丈夫なんじゃねえのか」
「わからねえ。吾妻川も埋まっちまったかもしれねえ」
 半兵衛は枯れ木の枝を拾うと焼け石に付けてみた。ジューと焼ける音がして焦げる臭いがした。とても歩ける状況ではない。半兵衛はダメだというように首を振った。
 観音堂に帰ると北の方を調べに行った扇屋の旦那、清之丞たちが戻っていた。
「どうでした」と半兵衛が聞くと、「ダメだ。どこにも行けやしねえ」と絶望した顔で首を振った。
「みんな焼け石ですっかり埋まってる。芦生田道も中居道もみんな、焼け石の下だ」
「そうか、こっちもダメだ。西窪にも大前にも大笹にも行けねえ」
「後は南に行ったお頭たちだが、南は無理だんべな」
 観音堂の前で疲れた顔を突き合わせていると、やがて、杢兵衛たちが戻って来た。新たな生存者を五人を連れて来た。与七とおしんの夫婦と伜の嫁おとめ、娘のおとわ、それと半之丞の妻おふよだった。五人共、観音堂より南の高台にある畑で仕事をしていたという。
 与七夫婦は火災で家を失って、観音堂裏の若衆小屋に仮住まいしていた。もっとも、仮住まいといっても、若衆小屋に泊まったのは五日の夜だけで、六日、七日の夜は、おみやの家の蔵の中に避難している。二人の伜、孫八と富松は馬方に出て行き、父の与兵衛と孫の幸吉はお参りのついでに仮住まいに戻っていて無事だった。
 与七夫婦は家を建てるために稼がなければならないと暇を見つけては畑に出ていた。大揺れが来た後、観音堂にいた娘のおとわは祖父の与兵衛に言われて、畑にいる両親と兄嫁を迎えに行った。観音堂の石段を降りて浅間山の方に向かって走った。浅間山の方から得体の知れない大きな物が煙を上げて迫って来るのを目にしたが何だかわからなかった。とにかく早く、両親のもとに行って、両親を連れ帰らなければならないと必死になって畑に向かった。両親たちは畑の一番上にいて、浅間山の方を呆然と眺めている。おとわの声を聞いて驚き、早く来いと手招きした。ほんの一瞬の差でおとわは助かった。村を埋め尽くした土石流はおとわのすぐ下まで迫っていた。
 おふよは夫の半之丞と二人で畑の石や砂をどけていた。十六歳の伜は馬方に出て行き、十歳の伜と六歳の娘は近くにある茶屋『駒屋』の蔵で眠っていた。大揺れが来て、石が降って来た時は畑にある物置に避難した。その時、半之丞は駒屋に馬がいたのを思い出して、ちょっと借りて来ようと村に下りて行った。それから、すぐだった。土石流が津波のように押し寄せて来て、半之丞は必死に逃げたが間に合わず、おふよの目の前で土砂に飲み込まれてしまった。
 おふよは目の前で夫の死を見て、絶望していた。村人はみんな亡くなり、自分一人だけが生き残ったと思い、不安と恐怖にさいなまれていた。そこに与七夫婦たちがやって来た。自分の他にも生きている人がいたと涙を流して喜び、一緒に観音堂を目指して森の中をさまよった。そして、杢兵衛たちと出会ったのだった。
 与七夫婦たちは家族の再会を喜んだ。おふよの身内はいなかったが、村人たちと一緒になれて恐怖心は消えていた。
「それで、お頭、南の方はどうじゃった」と半兵衛が杢兵衛に聞いた。
「ダメだな」と杢兵衛は首を振る。「すっかり、焼け石で埋まってる」
「畜生。まったく、孤立しちまったか」
「ただ、古井戸までは何とか行く事ができた」
「行けたか。そいつはよかった」
「大笹道もすっかり埋まっちまったが、幸いに焼け石がねえ場所があった。そこを通れば、何とか行ける」
「古井戸は無事なのか」半兵衛が聞くと、皆が期待を込めて杢兵衛を見た。
「無事とは言えんな。やはり、土砂を被ってた。けどな、水が滲(にじ)み出てたんで、少し掘り起こしてみたら、水がチョロチョロ出て来たんだ。手だけじゃアそれ以上は無理だ。確か、ここにも鋤(すき)や鍬(くわ)ぐれえはあったと思ったが」
「ああ。あるはずじゃ」
「水さえありゃア二、三日は生きられる。二、三日たちゃア、焼け石も冷めるだんべ。そうなりゃ、どこでも行ける」
「助かった、助かった」と皆、顔を見合わせて喜んだが、
「二、三日と簡単に言うが、食う物もねえんだぜ」と清之丞が不平を言う。
「とにかく、今やるべき事はそこを掘って、水を汲んで来る事だな」と清之丞の兄、吉右衛門が言った。
「そうだ。暗くならねえうちにやっちまおう」
 男衆は鋤や鍬、棒切れなど穴を掘る道具と桶や酒どっくりなど、水を入れられる物を持って古井戸へと出掛けた。

2020年4月20日月曜日

天明三年(一七八三)七月七日

 昨日の昼八つ(午後二時)、今までにない大噴火が起こった。耳をつんざく大音響と共に、天も地も裂けてしまいそうな凄い揺れが来た。とても立ってなどいられない。皆、転がるように家を飛び出すと地に身を伏せて浅間山を見上げた。山頂付近は真っ赤に燃えて、天に向かって勢いよく吹き出す黒煙から火の玉が四方に次々と飛び出している。やがて、砂と小石が降って来て、人々は土蔵の中に逃げ込んだ。
 せっかく、補強したおろくの家は今にも崩れそうになり、市太はおろくの家族を自分の家の土蔵に連れて行った。土蔵のない者たちは皆、家から出て近所の土蔵に入れて貰ったり、延命寺に逃げ込んだり、芝居の舞台に逃げ込んだ者たちもいた。馬たちは恐怖に脅えて、気がふれたようにいななき、騒ぎ回るがどうする事もできない。家の中の馬屋につないだまま無事を祈るしかなかった。
 夜になっても大焼けは止まらなかった。雷鳴は鳴りやまず、花火のように飛び散る火の玉は山裾を焼いていた。降って来る小石の大きさはだんだんと大きくなって行き、一寸を越える石が落ちて来ては砕け散った。お山の鬼は一晩中、騒ぎ続け、村人たちは一睡もできなかった。
 長く辛い夜が明けた。夜が明ければ、お山もくたびれて静かになるだろうと思っていたが無駄だった。疲れを知らないお山は相変わらず唸り続け、揺れも治まらず、小石を降らし続けた。それでも、真っ暗闇にじっとしていた村人たちは恐る恐る、綿入れ頭巾(ずきん)や布団を被って外に出た。
 地面には黒っぽい軽石が積もり、歩くだけで足の裏が痛くなる。用水の中にも石は積もって、今にも水があふれ出そうだ。石を浚わなければならないが、こう、石が降り続いていたのでは仕事にならない。浅間山を眺めると、よくもまあ、煙が尽きないものだと呆れる程、黒煙を吹き上げていた。
 おろくの父親が心配するので、市太は松五郎を連れて、おろくの家を見に行った。石に打たれながら、石の積もった表通りを走った。
 おゆうの家が傾いていた。おゆうの父親、三左衛門が呆然として、我が家を眺めている。
 おろくの家は傾いてはいなかった。市太は外回りを調べた。壁土のあちこちが剥げ、大きなヒビが入っている。これ以上、大揺れが続けば危なかった。松五郎は家の中に入って、馬の無事を確かめた。馬に飼葉(かいば)と水をやり、家の中を一通り調べて外に出た。
「俺はここに残ります」と松五郎は言った。
「ダメだ。危ねえ。ここにいたってどうする事もできねえ。揺れがやむまでは蔵ん中にいた方がいい」
 馬がいなないた。後ろ髪を引かれるような気持ちで、二人はおろくの家から離れた。
「ついでだ。舞台をちょっと見て行くべえ」と市太は言う。
 松五郎はうなづき、市太の家の前を通り過ぎて、諏訪の森に向かった。舞台は無事だった。十数人の者が布団にくるまって避難している。その中に幸助の兄弟の姿があった。
「うちが潰れちまったよう」と幸助は悔しそうに言った。
「なに、おめえんちもやられたんか」
「畜生め、木が倒れて来やがった。俺んちは真っ二つになって、勘治んちもやられた」
「木が倒れただと」
「ああ、うちん中にいなくてよかったよ。でも、これからどうしたらいいんでえ、畜生め」
 幸助と一緒に見に行くと欅(けやき)の大木が幸助の家と勘治の家の上に横たわっていた。幸助の家はメチャクチャに潰れ、いくつもの太い枝が勘治の家の屋根にめり込んでいた。
「こいつアひでえや‥‥‥」
「ひでえなんてもんじゃねえ」
 揺れがまた来て、大木はさらに倒れ込んだ。
「危ねえ。他の木も倒れて来るかもしれねえ」
 市太たちは倒れた大木に気を付けながら、鶴屋の裏にある土蔵に向かった。二つある土蔵に近所の者たちが避難していた。
「あーら、若旦那じゃないよう」とおゆくが蔵から顔を出した。「ねえ、いらっしゃいよ。一緒に飲みましょ」ヘラヘラ笑いながら、おゆくは手招きする。
「姉さん、こんな時に酔っ払ってんのか」市太は呆れ顔。
「こんな時だから、酔わずにゃアいられないんじゃないか」
「おう、市太か。おめえ、姉さんを何とかしてくれよ」と勘治も顔を出した。「まったく、まいるぜ。この調子で一晩中、飲んでいやがる」
「おい、若旦那。あたしのお酒が飲めないってえのかい。ほら、例のお酒だよ。何だっけねえ。お江戸の奴さ」
「おめえ、姉さんを連れてってくんねえか」
「そう言われてもなア。うちの蔵も一杯(いっぺえ)だぜ」
「頼むよ。そうでもしねえ事にゃア、追い出されちまう。俺もこれ以上、庇(かば)いきれねえや」
 市太は蔵の中にいる者たちの顔を見た。皆、疲れ切った顔をしていて、おゆくを睨んでいる。おゆくの家族でさえ、うんざりした顔で、連れて行ってくれと目で訴えていた。
「しょうがねえなア。姉さん、引っ越しだ。俺と来てくれ」
「嬉しいねえ。やっぱり、若旦那はいい男だよ」
 おゆくはヨロヨロとした足取りで蔵から出て来て、市太に抱き着いて来た。
「おっと、危ねえ。姉さん、何か被らねえと頭が潰れるぜ」
「いいんだよ、そんなの潰れたって。それより、勘治、そこにあるとっくりを取っておくれ」
「もう酒なんか空っぽだよ」
「わかってるさ。だから、うちから取って来るんだ。あれを飲まずに死ねるかい」
 市太はおゆくに自分の頭巾を被せ、勘治から借りた菅笠を被って、おゆくを抱えるようにして勘治と別れた。途中、桔梗屋に寄って、酒をとっくりに詰め、松五郎に持たせて家に帰った。市太の蔵にはおかよがいる。同じ酔っ払い同士で気が合うだろうと、おゆくをおかよに預けた。
 昼の四つ(午前十時)、また大爆発が起こった。蔵の中の荷物が崩れ落ちて、おかよの兄、助八が怪我をした。揺れが弱まるのを待って、市太は馬医者の八兵衛を呼びに行った。
 ついに用水から水があふれ始めていた。諏訪の森には倒れた木が何本もあった。勘治の家を見ると、屋根で止まっていた大木は旅籠屋を完全に潰してしまっていた。その隣の家も潰れている。傾いた家もかなりあった。
 八兵衛の家の中は小道具がメチャメチャになっていた。裏にある蔵を覗くと、路考が真っ青な顔をして震えている。おまんの家の蔵には路考の家族とその隣の彦兵衛の家族が避難していた。惣八がいるかもしれないと思ったが姿は見えない。八兵衛の姿もなかった。
 おまんに聞くと八兵衛は朝早く、栄屋さんが呼びに来て出て行ったまま、まだ帰って来ないという。
 市太は来た道を戻って、栄屋に向かった。栄屋はおなつの家だった。おなつとは顔を合わせたくないがしょうがない。蔵の方に行こうとしたら、ばったりとおなつと出会った。
「おめえ、何してんだ。こんな時、出歩く奴があるか」
「あんたこそ、こんなとこで何してんのさ」
「八兵衛を捜してんだ。ここにいるのか」
「そんなのもうとっくに帰ったよ」
「うちにはいねえ。どこに行ったんだ」
「さあ」とおなつは桶を持って表通りに出ようとする。
「誰が怪我したんだ」
「父ちゃんさ。物置が倒れて下敷きになっちまったんだ。あちこち打って熱があるんだよ」
「そいつは大変(てえへん)だ。俺が汲んで来てやらア。おめえは蔵ん中に入ってろ」
 市太は石降る中、用水から水を汲んで、おなつに渡した。
「ありがとう‥‥‥」
「八兵衛はどこに行ったかわからねえのか」
 おなつは首を振った。
「畜生め」
 市太は手を振るとおなつと別れた。あちこちの蔵を覗き回って、ようやく、旅籠屋の桐屋の蔵にいる八兵衛を見つけた。
 桐屋の蔵には半兵衛の家族とおろくの姉おくめが避難していた。怪我をしたのは半兵衛の妻で、武蔵屋の女将、おゆわだった。大揺れが来た時、武蔵屋に帰っていて、馬が暴れて馬屋から飛び出し、それを静めようとして蹴られたらしい。半兵衛が心配になって家に帰ると、おゆわは土間に倒れたまま唸っていて、馬の姿は見当たらなかったという。幸い、あばら骨を折る事はなく、打ち身だけで済んだ。
 治療が済むと市太は八兵衛に来てくれと頼んだ。
「まったく忙しいこった。朝から休む暇もありゃしねえ。まだ、飯も食ってねえんだぜ」
「飯ぐれえ食わせるよ」
「飯よりもは酒の方がいいな」
「酒もある。酒の相手をしてくれるのもいる」
「何でえそりゃア」
「桔梗屋の姉さんがもうできあがってらア」
 八兵衛は大笑いして、「そいつア楽しみだ」と荷物を抱えて走り出した。
 助八の治療をしているうちにも、八兵衛を捜している者がやって来た。八兵衛は治療が済むと、茶碗酒を一杯あおって、「また来るからな。そのうめえ酒を取っとけよ」と出掛けて行った。
 揺れが続いて、石が振っているというのに、几帳面(きちょうめん)に延命寺の時の鐘は鳴り続けた。
 午後になると山から獣が逃げて来た。鹿や猪(いのしし)、猿や狼(おおかみ)、見たこともない獣らがうめき声を上げながら畑や通りを突進して行った。恐怖におののき、凶暴になった獣らを止める事はできなかった。獣らのお陰で、怪我人の数はさらに増え、八兵衛一人だけの手には負えなくなっていた。
 夕方の七つ(午後四時)、揺れも治まり、石も降りやんだ。お山は相も変わらず、煙を吹き上げていた。風が強くなったのか、高く昇った煙は軽井沢の方に棚引き、辰巳(たつみ)(南東)の空は真っ黒だ。もういい加減に終わりだろうと人々は蔵から出て来て体を伸ばした。
 昨日の午後から、ろくに飯も食べていなかったので、安心したのか急に腹が減って来た。皆、我が家に帰って飯の支度を始めた。中には家が潰れてしまった者もいる。そういう者たちは近所の者に手伝ってもらって家財道具を引っ張り出し、無事な家では炊き出しをして困っている者たちを助けた。飯を食べた者たちはゾロゾロと観音堂へと登って行った。
 観音堂では大揺れの最中も休まず、永泉坊が祈祷を続けていた。銭儲けのためだけに集まって来たイカサマ祈祷師は皆、恐れをなして村から逃げ去った。今、祈祷をしているのは観音堂と延命寺だけだった。永泉坊は本物の偉い行者様だと村人の信頼を得て、信者の数は見る見る増えて行った。
 観音堂に行くんだと三治が駄々をこね、市太とおろくは三治を連れて観音堂に行った。三治は大喜びで、一心に祈っている村人たちの中に入って行き、両手を合わせた。
「叔父さん、わかってるのかしら」とおろくは不思議そうに言う。
「三治だっておっかねえ思いをしてるんだ。観音さんにすがりたくなるだんべ」
「そうね。真剣になって拝んでる」
「ああいう姿を見ると何かジーンと来るなア。無垢(むく)というか、素直というか、汚え物なんか何も知らねえガキのようだ」
「そうねえ。世話は焼けるけど、いい人よ。結構、好き嫌いが激しいんだけど、市太さんは好きみたい」
「突然、若ランナって呼びやがる。まいるぜ」
「あたしたちもみんなの無事を祈りましょ」
 安心したのもほんのつかの間だった。また大爆発が始まった。人々は慌てて蔵へと逃げ帰った。そして、それからずっと悪夢の夜が続いた。浅間山は黒煙と火の玉を吐き出しながら焼け続け、ついに山裾の原生林が燃え出して、六里ケ原一帯は火の海となった。



 鎌原村の人たちはまったく知らなかったが、この日、風下の軽井沢は昼間だというのに真っ暗になり、降り積もった灰は五尺(約一、五メートル)にも及んだ。さらに、飛んで来た焼け石によって家々が焼け、宿場は壊滅状態に陥っていた。隣の沓掛、追分も軽井沢ほどのひどい被害はなかったが、皆、恐れをなして安全な岩村田や小諸方面に逃げ去っていた。勿論、市太たちの馴染みの女郎たちも旅籠屋の者たちと一緒に逃げ去っている。
 遠く離れた江戸でも、この日は一日中、揺れが続いて、灰が降っていた。深川で綺麗どころの芸者衆を描いていた鉄蔵は北西の空を眺めながら鎌原村の事を心配していた。

2020年4月19日日曜日

天明三年(一七八三)七月六日

 お山がいくらか静まったのは真夜中の九つ(午前〇時)時分だった。皆、ホッとして外に出た。相変わらず浅間山は唸っているが、揺れも弱まり、降って来る砂も少なくなった。峠は越しただろうとおろくたちもおかよたちも家に戻った。
 市太はおろくの母親を連れ帰ると、おろくと別れ、家に帰って眠った。浅間焼けと火事騒ぎで疲れ切っていた。揺れも気にせず、ぐっすりと眠った。
 もう少し寝ていたいのに、朝早く、兄の庄蔵にたたき起こされ、市太は竹箒(たけぼうき)を持って外に出た。若衆組の者たちが通りの砂を掃いていた。ひどい揺れが続いたが、倒れた家はなさそうだった。浅間山を見ると呆れる程の物凄い量の黒煙が東の方に棚引いている。軽井沢方面の空は真っ暗だ。夜中に見た時、火口付近が真っ赤に燃えていたが、今も燃えているのかはよくわからなかった。
 市太は砂を掃きながら、おろくの家へと向かった。おろくの家も無事だった。それでも、一回りしてみると、壁にヒビが入っている所が何箇所もある。補強しなければ危険だった。それに、屋根の上に積もった砂も危ない。市太はその事を甚左に告げて対策を練った。
 おろくの顔を見て安心し、諏訪の森の中の舞台に向かった。大工の八右衛門が来ていて、熱心に点検していた。
「よう、権太、昨夜(ゆんべ)は凄かったなア」と八右衛門は舞台の上から市太に声を掛け、「舞台(ぶてえ)の方は大丈夫(でえじょぶ)だ」とうなづく。
「そうか、よかった」と市太は八右衛門を見上げて笑うと、花道に積もった砂を竹箒で払い落とした。
「見物席の砂は後でみんなで片付けべえ。それより、治郎左と与七んちが焼けちまった。とんだ災難だ。こう毎日、お山が焼けたんじゃア片付けるのも大変(てえへん)だぜ」
「棟梁(とうりょう)が建てるのかい」
「そうなるだんべえが、一人じゃア無理だ。助(すけ)を頼まなけりゃならねえ」
「棟梁も大忙しだな」
「ああ、冬が来る前にやらなきゃなるめえ。忙しいこった」
 市太は棟梁と一緒に火事現場に向かった。途中、おまんの家に惣八の姿が見えた。
「おい、惣八、おめえ、何してる」市太が声を掛けると、
「おう、市太か。ちょっと手伝ってくれや」と惣八は手招きした。
「何がどうしたんだ」
「小道具がメチャクチャになっちまったんだ」
 市太は棟梁と別れて、おまんの家に入った。部屋の中は歩く間もないほど小道具が散乱している。
「ひでえなア、こいつア」
「棚からみんな落っちまんたんだ。ここだけじゃねえ。蔵の中もメチャメチャだ」
「おめえ、また、八兵衛に頼まれたのか」
「そうさ。馬の治療で忙しいんだとさ」
「そういやア、うちの馬も怪我したとか言ってたっけ。おまんと二人で片付けてんのか」
「そうだよ」
「ふーん。俺は邪魔だな。消えるよ」
「おい、そんな事言うなよ。手伝ってくれよ」
「俺も忙しいんだ」
 市太は手を振ると通りに戻った。
 焼け跡では治郎左と与八の家族が焼け残った家財道具を集めていた。近所の者たちも片付けを手伝っている。俺の出る幕じゃねえなと市太は竹箒をかついで、来た道を戻った。
 表通りの砂も大方、片付き、若い者たちは道端に座り込んで一服つけている。延命寺の参道の所で安治に声を掛けられた。市太が手を上げて答えると、安治は市太を延命寺の方に誘い、回りを気にしながら、「市太、桔梗屋の姉さん、知らねえか」と小声で聞く。
「知らねえけど、どうかしたのか」
「どこに行っちまったのか、いねえんだよ」安治は心配顔で市太を見る。
「大笹にでも行ったんじゃねえのか」と市太は言う。「ほれ、今日は六日だんべ。市に行ったんじゃねえのか」
「うちの者の話だと、一昨日(おってえな)の夕方(ばんがた)、どっかに行ったまま帰(けえ)って来ねえそうだ」
「一昨日の夕方からいねえのか」
「ああ。もしかしたら、先生の後を追って江戸にでも行ったんかなア」
「まさか。江戸に行くとなりゃア手形がいるだんべ。黙って行くわけがねえ」
「そうだよな。まさか、山守の親爺みてえに、お山で死んじまったんじゃねえだんべなア」
「まさか、姉さんがお山に行くわけがねえ。そのうち帰って来るさ。心配ねえよ」
 そう言って、安治と別れたが、不吉な予感がした。
 もしかしたら、錦渓先生がお山から帰って来ねえんじゃねえだんべか‥‥‥市太はおゆくがあの後、二度ばかり大笹に行って先生と会っているのを知っていた。大笹までは一時(いっとき)(二時間)もあれば行ける。いつも、夕方に店を閉め、向こうに泊まって四つ(午前十時)頃には帰って来て、店を開けていた。一昨日もそのつもりで大笹に行ったに違いない。それがまだ帰って来ないという事は、先生の身に何かがあったとしか考えられなかった。
 市太はおゆくの事を考えながら歩いていた。
「若ランナ」という声で我に返って、顔を上げるとおろくの家の前だった。何が嬉しいんだか、三治がニコニコしている。
「おめえはまったく幸せ者(もん)だよ」
 ドサッと砂が落ちて来たので屋根を見上げると松五郎が砂を落としていた。
「おい、手伝うか」
「いいえ。もうすぐ、終わりです」
「そうか。壁の方はこれからか」
「はい。親父が今、棟梁のとこに釘(くぎ)を貰いに行きました」
「打ち付ける板はあんのか」
「ええ、古い奴ですけど何とかなるだんべ」
 三治が市太の袖を引っ張った。
「若ランナ、おろくが待ってらア」
「おう、そうか」と市太が家の中に入ろうとすると三治が庭の方に引っ張った。
 おろくは裏庭で洗濯物を干していた。
「今日は土砂降りがなけりゃアいいがな」
「あら、市太さん。昨夜はありがとうございました。母ちゃんも喜んでました」
「そいつはよかった。もう、二度とねえ事を願うが、今度またあんなに揺れたら、また来りゃアいい」
「はい」
 市太は縁側に腰を下ろして空を見上げた。ここからは隣の家が邪魔していて、浅間山は見えない。ここから見える空は真っ青で、お山が焼け続けているなんて、まるで、嘘のようだった。
「今晩はお芝居のお稽古できるかしら」とおろくが聞いた。
「わからねえなア。揺れはねえが、お山の煙は相変わらず、すげえからな」
「昨日から衣装をつけてのお稽古だったのに、中止になっちゃったし、今晩はできるといいのにね」
「そうだな。おめえ、見に行けるのか」
「大丈夫よ」おろくは洗濯物を干しながら、市太を振り返って笑う。
「兄貴が見えねえようだけど、どっか行ったのか」
「姉ちゃんが桐屋さんに連れてったわ。旦那さんのお稽古よ」
「今更、チョボの稽古じゃあるめえ」
「あの旦那、来年もチョボをやるつもりなのよ。『鮨屋(すしや)』に『吉野の道行(みちゆき)』、『川連法眼館(かわつらほうげんやかた)』のお稽古をしてるのよ」
「へえ、気の早えこったな」
「お山のせいでお客さんもいないらしいし、うちにいる時は三味線なんて持った事もないのに、向こうにいる時は姉ちゃんも一緒になってやってるらしいわ」
「へえ、あの姉ちゃんも義太夫をやってたのか。おめえもやりゃアいいじゃねえか。お師匠さんが側にいるんだからよ。あれだけ物覚えがよけりゃア、すぐに上達するだんべ」
「だって、そんな暇はないもの」
「暇なんて作るもんさ。俺と芝居の稽古を見に行く前、おめえはうちで何してたんだ」
「何って、縫い物とか臼挽(うすひ)きとか色々してたわ」
「それをやめたからって、大して変わらねえだんべ」
「そりゃそうだけど」
「そうやって少しづつ自分の時間を作って行きゃアいい。話は変わるがよう、武蔵屋の前に俺んちの土地があるんだ。もしかしたら、そこで貸本屋がやれるかもしれねえ」
「えっ、ほんと」おろくは洗濯物を干す手を止めて、振り返る。
「多分、大丈夫だんべ」
「そうなったら、あたしたち、そこに住む事になるの」
「そういう事だな」
「そこなら、母ちゃんの看病もできるのね」おろくは嬉しそうに笑う。
「ああ、兄貴の嫁さんが見つかるまでは、おめえが見るしかねえからな。爺ちゃんが結構、乗り気でな、俺が本を背負ってあちこち行く時は店番するって張り切ってるよ。そのうち、江戸まで新しい本を仕入れに行かなきゃならねえ。そん時はおめえも一緒に行くんだぜ」
「行きたいけど、江戸に行くとなると何日も掛かるんでしょ。そんなの無理よ」
「そん時はよう、誰か面倒味のいい女を雇えばいいじゃねえか」
「そんな人いるかしら」
「何とかなるさ」
「あら、叔父さんがいない」とおろくが慌てて辺りを見回す。
「あれ、さっきまでそこにいたんだが」
 二人は三治を捜し回った。屋根から落とした砂を片付けていた松五郎も知らないという。家の中にも家の回りにもいない。表通りにも姿が見えなかった。
「どこか行きそうなとこはねえのか」
「滅多に遠くには行かないんだけど‥‥‥もしかしたら観音堂かしら」
「観音堂?」
「ええ。この間もいなくなっちゃって、捜してたら扇屋のおかみさんが観音堂にいるって教えてくれたの。今、あそこで御祈祷していて人が大勢、集まってるでしょ。それで、お祭りと間違えて行くんじゃないかしら」
 二人は慌てて観音堂に向かった。いつもはひっそりとしているのに、石段を行き来している者は多かった。苦しい時の神頼みで、皆、藁(わら)をもすがる心境でお参りに行くのだろう。観音堂の前に集まる信者の数は日に日に増していた。ざっと見回した所、五十人近くもいるようだ。これだけの人が集まれば、三治が祭りだと勘違いするのも無理はない。
 三治は信者たちに混じって座り込み、両手を合わせて一心に祈っていた。二人は安心して、一番後ろに座って、両手を合わせた。
 三治を連れ帰ろうと人垣を分けて行った時、ふと、おゆくの姿が目に入った。市太は小声で声を掛けた。
「あら、若旦那」と言ったおゆくの顔はやけにやつれていた。
「話があるのよ」とおゆくは市太を連れて人垣から出た。
「どうしたんだ。大笹に行ったんだんべ」
「ここじゃまずいわ。うちに来て」
「姉さん、どうしたんですか」と三治を連れて来たおろくが聞いた。おゆくの顔色を見て、ただ事ではないと察したらしい。
「あんたも一緒に来てよ」
 おろくは市太の顔を見た。
「三治なら一緒でも構わねえだんべ」
 市太とおろくは三治を連れたまま、おゆくの店に向かった。もう道端には若衆組の者たちの姿はなかった。
 おゆくは土間の方から市太たちを店の方に連れて行き、店の戸は閉めたまま、小声で話し始めた。
「先生がお山から帰って来ないのよ」
「やっぱりそうだったのか。嫌な予感がしてたんだ」
「一昨日の朝、いつものようにお山に入ってったんですって。その晩、あたし、先生んとこに行ったの。先生もあたしの来る事はちゃんと知ってるから、必ず、帰って来るはずなのに帰って来なかった。あたし、心配になって、おみのさんに相談したの。おみのさんも心配して、若い衆に声掛けて捜し回ってくれたのよ。でも見つからなかった。そして、昨日の夜のあの大焼けでしょ。先生、お山で死んじゃったのかしら」
「先生は何で、お山が焼けてんのに、お山に入(へえ)ってったんだ」
「その前に行った時、後もう少しだって言ってたわ。何かいい手掛かりを見つけたんじゃないの。それで、いても立ってもいられなくて。お山が焼けてても自分だけは大丈夫だって‥‥‥先生、思い込みが激しいから」
「おみのたちはまだ捜してるのか」
 おゆくは首を振った。
「昨日の大焼けで、それ所じゃないのよ。それで、あたしも引き上げて来たんだけど、十日の窪まで来て、観音堂で御祈祷やってるのを思い出して、先生の無事を祈ってたのよ」
「あの先生の事だ。無事に帰(けえ)って来るんじゃねえのかな」市太が励ますが、
「そうだといいんだけどねえ」とおゆくの顔付きは暗い。
「もしかしたら、江戸に帰ったんじゃねえのか。明礬を見つけてよう」
「だって、荷物はお宿にあるのよ。お山からそのまま、江戸に帰るわけないわ」
「そうか‥‥‥姉さん、また、大笹に行くのか」
「向こうに行っても、あたしにゃ何もできないからね。とにかく、お山が静かになってくれない事にはどうしょうもないわ」
「そうだな‥‥‥気持ちはわかるけど、あまり、酒を飲むなよ」
「わかってるさ。まだ、死んだって決まったわけじゃないもんね」
「寝てねんだんべ。まずはゆっくり休む事だ。お山が騒ぎ出しゃア寝たくても寝られなくなるからな」
「ああ、そうするよ」
 市太とおろくは三治を連れて桔梗屋を出た。
「姉さん、大丈夫かしら」とおろくが心配する。
「あの面(つら)はどう見たって、大丈夫とは言えねえ。もう冷や酒をあおってんじゃねえのか」
「放っておいてもいいの」
「放っておくしかねえよ。俺たちにゃア何もできねえ」
「若ランナ、お山の鬼が怒ってらア」
 三治に言われて浅間山を見ると、煙の量が増えていた。時々、煙の中に光が見える。
「こいつアまた来るかもしれねえぞ。早えとこ、うちの壁を補強しなきゃアならねえ」
 市太たちは急いで帰った。

2020年4月16日木曜日

天明三年(一七八三)七月五日

 浅間山は相変わらず、黒煙をモクモクと吹き上げ、ゴーゴーと唸っていた。
 市太とおろくが勘治と一緒に村に帰って来たのは、八つ半(午後三時)を過ぎていた。
 もしかしたら、おろくがいなくなったと村中で大騒ぎしているかもしれないと思ったが、その気配はなく、表通りに人影は少なかった。それでも警戒して、市太とおろくは勘治と別れ、隠れながら畑の中を通って、おろくの家まで行った。
 素早く、家に入ると囲炉裏端にいた甚左、甚太夫、三治、おくめの視線が一斉に二人に注がれた。
「おろく、あんた、一体、どこ行ってたのよ、まったく」
 真っ先に口を開いたのは姉のおくめだった。鬼のような顔をして、おろくを責めた。
「あんたのせいで、あたしはえらい目に会ったんだからね、どうしてくれるのよ」
「姉ちゃん、御免なさい」おろくは小さくなって謝る。
「おろくと若ランナらア」と三治が笑いながら近づいて来た。
「叔父さん、御免なさいね」とおろくは三治を捕まえた。
「若ランナはおろくの婿さんになったんらア」
「ちょっと、叔父さんは黙ってよ」おくめが目を吊り上げて言う。「もう、うるさいんだから。ねえ、若旦那も何の真似なの、おろくにはもう二度と近づかないはずなんでしょ」
「おろくを無断で連れ出した事は謝る。とっつぁん、すまなかった」市太は素直に頭を下げる。「おろくを責めねえでくれ。俺が無理やり連れてったんだ」
「この責任はちゃんと取って貰うわよ」
「おめえは黙ってろ」と今度は甚左がおくめに言った。「たった一日(いちんち)、うちの面倒を見たぐれえでグチャグチャ言うんじゃねえ。おろくは毎日(めえんち)やってたんだ」
「何よ。いつも、おろくの肩ばかり持つんだから。もういい。あたしは仕事に戻るわよ。これから忙しくなるんだから」
 おくめは膨れっ面で、市太とおろくに、フンと鼻を鳴らして出て行った。
「お山が毎日、騒いでんのに旅籠(はたご)にお客なんているのかい」と甚太夫がボソッと言った。
「どこに行ってたんだ」と甚左が静かな声で聞いた。
「草津です」と市太が答えた。
「草津か‥‥‥わしはおろくを草津にも連れてってやれなかった。親として情けねえな」
「父ちゃん、そんな事ないよ」とおろくが一歩、父親の方に踏み出した。
「おめえが突然、いなくなって心配(しんぺえ)したぞ。松が捜し回ったがどこにもいねえ。若旦那もいねえとわかって、一緒にどこかに行ったに違えねえと確信した。二人で駈け落ちして、もう帰って来ねえかもしれねえと思ったが、おめえの事だ。きっと戻って来ると、ずっと待ってたんだ」
「それじゃア、とっつぁん、村の者はまだ何も知らねえんだな」
「ああ、知らねえ」
「すまねえ。ここで騒ぎになりゃア、また面倒になる。もっとも、その覚悟をして、おろくを連れ出したんだが」
「覚悟だと? 若旦那の覚悟ってえのを聞かしてもらえねえか」
「勘当(かんどう)さ。騒ぎになりゃア、当然、勘当になる。勘当になっても俺と一緒になるかって聞いたら、おろくはうなづいてくれた。俺はどんな事になっても、おろくと一緒になるって決めたんだ」
「そうか‥‥‥」
「とっつぁん、俺とおろくが一緒になるのを許してくれねえか」
 甚左は囲炉裏の火を見つめたまま、何も言わなかった。
「父ちゃん‥‥‥」とおろくが泣きそうな声で言った。
「俺は諦めねえ」と市太は独り言のように呟いた。
「叔父さん」と甚太夫が手招きすると、おろくの側にいた三治は素直に囲炉裏端へ行って、おとなしく座り込む。
 甚左がゆっくりと顔を上げて市太を見た。「おろくと一緒になって、どうするつもりなんだ。勘当されたら食っても行けめえ」
「そいつを考えるために草津に行ったんだ。二人で色々考えた。茶屋をやろうかとも思ったが、おろくはおっ母の面倒を見なくちゃならねえから難しい。俺が天麩羅(てんぷら)や鮨(すし)の屋台をやろうとも思った。しかし、それで食って行くとなると評判になるような、うめえ物(もん)を売らなきゃならねえ。そうなると時がいる。そこで貸本屋をやろうと思うんだ」
「貸本屋だと。この村でそんなもんをやって食ってげるのかい」
「わからねえ。ただ、村の者はほとんど字が読める。面白え本を仕入れりゃア何とかなるんじゃねえだんべえか」
「貸本屋か‥‥‥わしにゃアよくわからねえな」
「貸本屋は大笹にもまだねえ。本をかついで大笹まで行ったっていい。近所の村を回りゃア、結構、稼げると思うんだが」
「若旦那が本をかついで回るのかい」
「そのつもりだ」
「ふーん」と言った後、甚左はおろくに目を移した。
「おろく、おめえの気持ちはどうなんだ」
 おろくは涙を拭いて、市太を見た。
 市太は力強くうなづいた。
 おろくもうなづいて父親を見ると、「あたし、あたしは市太さんに付いてきます」と必死になって言った。
「ほう」と甚左は細い目を見開いて驚いた。「市太さんに付いてきますか。おめえがそれだけはっきりと物を言うのも珍しいな」
「あたしも覚悟を決めたんです」
「そうか、おめえが覚悟を決めたか‥‥‥若旦那と会って、おめえは変わったな。強え女になった」
「そんな事‥‥‥」
「わかった。おめえたちが覚悟を決めたんじゃ、わしも腹をくくらなけりゃならねえな」
「それじゃア、とっつぁん、許してくれるのかい」
「許すも許さねえもねえだんべえ。許さなかったら、ほんとに駈け落ちしちまう。そんな事になったら、それこそ、問屋の旦那に顔向けができねえ」
「父ちゃん、ありがとう」おろくの目からまた涙がこぼれた。
「とっつぁん、すまねえ」と市太は心からお礼を言った。
 市太の心を見透かしたように、「礼にはおよばねえよ」と甚左は言った。「これから、若旦那の覚悟ってえのをしっかりと見せてもらう。口先だけだったら、おろくは絶対にやれねえ」
「任しておきねえ。さっそく、親父と掛け合って来る」
 市太はおろくにうなづくと出て行った。「やったぜ!」と大声で叫びたい心境だった。
 家に帰ると父親は留守だった。村役人の集まりに行ったという。祖父の離れに行くと市左衛門はいた。いつものように難しそうな本を読んでいた。
 市太は縁側に座ると、「爺ちゃん、今日の祈祷は終わったのかい」と声を掛けた。
 祖父は本から顔を上げて市太を見る。「ああ、ついさっき終わった所じゃよ」
「信者の数は増えて来てるのかい」
「ああ。毎日、少しづつ増えて来てるな」
「いつになったら、お山は静かになるんだ」
「そいつは誰にもわからん。ただ、じっと祈るだけじゃ」
「ふーん。ねえ、爺ちゃん、前に言ったんべ。おめえは何がやりてえんだって。やっと、やりてえ事が見つかったよ」
「ほう、そうか」と祖父は嬉しそうに笑った。「それで、何をやるつもりじゃ」
「貸本屋なんて、どうだんべえ」
「貸本屋か」と祖父は顎髭(あごひげ)を撫でていたが、「うむ」とうなづいた。
「貸本屋とは面白えとこに目をつけたな。この村でやれるかどうかわからんが、おまえがやりてえと思ったんならやってみるがいい」
「爺ちゃん、そこで頼みなんだけど、爺ちゃんが集めた本で、村の者たちが読みそうな奴を譲ってくれねえか」
「そんなのは構わんよ。死んだら、みんな、おまえに残すつもりだったんじゃからな」
「さすが、爺ちゃん、物わかりがいいねえ」
「しかし、おまえ、どこで、その貸本屋をやるつもりなんじゃ」
「武蔵屋の前の荒れ地なんかどうだんべ。あそこはうちの土地だんべ」
「武蔵屋の前か‥‥‥」と祖父は喜んでいる市太の顔をじっと見つめた。「おまえに聞きたいんじゃが、甚太夫の妹とはちゃんと別れたのか」
「いや、貸本屋はおろくと一緒にやるんだ」
「本気なんじゃな」と祖父は真顔で聞いた。
 市太も真顔でうなづいた。「爺ちゃんも反対なのかい。俺がおろくと一緒になるのに」
「わしとしては反対はせんがのう、村の掟が許さんじゃろう」
「例えば、おろくをお頭の養女にしてもダメなのかい」
「なに、杢兵衛の養女にするのか」
「例えばさ」
「うむ。侍(さむらい)の世界ではよくある事じゃな。町家(ちょうか)の娘を嫁に貰う時、侍の養女にしてから嫁がせるというのは。じゃが、この村では試しがない」
「俺たちが先例になる」
「うーむ」と祖父は顎髭を撫でる。
「おろくの親父は俺たちの事を許してくれた。後はうちの親父が許してくれればいいんだ。爺ちゃん、味方になってくれよ。頼む」
「うーむ。わしとしては問題ないとは思うが、掟に関する事は村役人たちが決める事じゃからのう。わしにはどうする事もできん」
「村役人たちが決めるのか‥‥‥」
「そうじゃ。まあ、貸本屋の方はわしも手を貸そう。やってみるがいい」
 暮六つ、夕飯の支度をしている時、轟音と共に大揺れが起こった。村の北外れの治郎左の家から出火して、隣の与七の家も全焼してしまった。市太も若衆組の者たちと一緒に、大揺れが続いて砂や石が降る中、消火活動を行なった。風がそれほど強くなかったので、何とか二軒だけでくい止める事ができた。怪我人はなく、家を失った二家族はとりあえず、観音堂裏の若衆小屋に移る事になった。
 今回の浅間焼けは物凄かった。大揺れはいつになってもやまない。浅間山の黒煙は凄い勢いで天高く昇り、絶えず稲光を発している。まるで、花火のように火が空に飛び散って、火口辺りは真っ赤に燃えていた。
 市太の家族は土蔵の中に避難した。土蔵のないおろくの家族が心配になり、市太は飛んで行った。
 おろくたちは綿入れの頭巾を被って、土間に固まっていた。馬屋の中では馬が気違いのように暴れている。家はミシミシきしみ、今にも崩れそうだ。市太もおろくたちと一緒に土間に座り込んで、揺れが治まるのをじっと待った。あまりの恐ろしさで皆、言葉も出ない。真っ暗の中、じっとうずくまっていた。
「とっつぁん、ここは危ねえ。うちの蔵に行くべえ」と市太は言った。
「そいつはダメだ。そいつはできねえ」と甚左は首を振る。
「つまらねえ意地なんか張ってる時じゃねえ。うちに潰されて死んだら元も子もねえ」
「ダメだ。病人もいるし、そんな事はできねえ」
「俺と松で戸板を運ぶ。おろくが兄貴と三治の手を引いて行きゃア何とかなる」
「市太さん、これを」とおろくが綿入れの頭巾をくれた。
「なに、俺はいい。おめえが被ってろ」
「いいえ、それは市太さんのです。あたしがみんなの分を縫いました」
「そいつはすまねえ」と市太は頭巾を被る。「こいつがありゃア、少しぐれえの石は大丈夫だ。行くぞ!」
 市太たちは石や砂が降る中を飛び出した。外は真っ暗だったが、稲光に照らされて、時々、明るくなった。地面がグラグラ揺れ、足元もおぼつかない。お互いに掛け声を掛けながら、やっとの思いで市太の家にたどり着いた。土蔵の戸は開いたままで、兄の庄蔵が顔を出していた。
「兄貴、病人なんだ、頼む」と市太は叫んだ。
「おい、早く入れ」
 蔵の中には巴屋の家族も避難していた。
「おろくさん、大丈夫」とおかよが、おろくの母親を心配した。
「ええ、大丈夫みたい」
「世話かけちゃって、ほんとにどうも申し訳ねえ」甚左がしきりに恐縮した。
「なに、気にする事はない。この非常時だ。蔵持ちが蔵のない者を助けるのは当然の事だ」
 暗闇の中から市太の父親の声が聞こえた。
 お山の大焼けは果てしなく続いた。このまま、この世が終わってしまうのかと思うほど長く続いた。たとえようもない物凄い音は鳴り続け、その度に昼間のような強い光を発した。村が埋まってしまうのかと思うほど砂は降り続け、地が裂けてしまうのかと思うほど揺れは続いた。皆、恐怖に脅えながら、暗闇の中にじっとうずくまっているより、なすすべはなかった。

2020年4月14日火曜日

天明三年(一七八三)七月四日

 浅間山は毎日、焼け続けていた。きりもなく黒煙を吹き上げて、砂や小石を降らせ、地鳴りは続き、物凄い爆音と共に大揺れが襲った。幸いに、まだ、家々が倒壊する事はないが、仕事はまったく手につかず、夜中に揺れが来た時は一睡もできない。あちこちで祈祷をやっていても、まるで効き目は現れない。村人たちは疲れきって、持って行きようのない怒りにイライラしていた。
 舞台作りも順調には行かず、芝居の稽古も中断となった。ちょっとした事で言い争いが始まって、喧嘩が絶えなかった。それでも、勘治が登場する三幕目は無事に終わり、昨日の晩、いがみの権太が登場する四幕目の下市村の茶屋の場面もうまく行った。今晩は四幕目の小金吾(こきんご)が討たれる松林の場面、勘治も市太も出番はない。午前中、舞台作りを手伝っていた市太は勘治と別れて、昼飯を食べに武蔵屋に向かった。
 武蔵屋には二人連れの旅人と大笹から来た馬方が三人、のんきに昼飯を食べていた。市太は外が眺められる縁台に腰掛けた。
「あら、若旦那、珍しいじゃない。今日は一人なの」
「ああ、うどんを頼まア」
「はいはい。お酒はいいの」
「いいよ」
 女将は何か言いたそうだったが、客がいるので何も言わずに奥に引っ込んだ。
 うどんを食べ終わった後、市太は酒を頼んだ。客は皆、帰って、市太だけが残された。
「いつになったら、お山は静まるんでしょうねえ。今朝なんか、明け方近くにあんなに揺れるんですもの、まったく、おちおち寝てもいられやしない」
 後片付けしながら、女将が声を掛けて来る。市太は適当に相槌(あいづち)を打ちながら聞いている。
「六里ケ原は大変らしいわよ。ここは小石や砂で済んでるけど、向こうは大きな石が降って来るんですって。馬が騒いで、もう大変らしいわ。怪我人も何人も出て、誰も沓掛方面に行きたがらないそうよ。それ程、急ぐ荷物もないんで、お山が落ち着くまで見送ってるらしいけど、そういくつも荷物を止めてはおけないし、うちの人が行かなきゃならなくなるかもしれないなんて言ってたわ。それにね、お山から降る砂のお陰で、馬草の被害も相当なもんだそうよ。このままだと冬の飼葉がなくなっちゃうって‥‥‥」
 市太が突然、店から飛び出した。何事かと女将が外を見ると、市太は水を汲みに出て来たおろくと会っていた。
「しょうがないねえ」と女将は首を振ると下げ物を持って奥に入った。
 それから四半時(しはんとき)後、市太は村外れの道祖神(どうそじん)の前に座り込んでいた。仲よく寄り添っている双体道祖神を眺めながら、古い煙管で一服つけている。やがて、おろくがやって来た。
「困ります。ほんとに」おろくは息を切らせながら言う。
「俺に会いたくなかったのか」と市太はおろくを見つめる。
「そりゃア会いたかったけど、でも」とおろくは目を伏せる。
「親父がおっかねえか」
「そうじゃありません」おろくは首を振ると市太を見上げる。
「じゃア、どうしてなんだ」
「どうしてって、所詮、あたしと若旦那は一緒にはなれないんです」
「どうして」
「どうしてって、家柄が違うもの」
「ふん、そんなのくそくらえって言ったんべ」
「そんな事言ったって無理です。あたし一人ならいいけど、みんなに迷惑が」
「誰に迷惑が掛かるって言うんでえ」
「誰にって、若旦那の親御さんや、うちの家族に」
「ふん、まあ、いいや。ここでゴチャゴチャ抜かしてる暇なんぞねえ。行くぞ」
 市太はおろくの手を取った。
「行くってどこに」
「草津だ。これから草津に行って、今後の事を考える」
「草津ですって」おろくは目を丸くして驚き、手を放そうとする。
「放して下さい。そんなの無理です。あたしはただ、煙管と煙草入れを返しに来ただけです」
「そいつはおめえに預けとくと言ったんべ。一緒になれるまで持っててくれ」
「そんな‥‥‥」
「とにかく、一緒に行くんだ」
 市太は強引におろくの手を引いた。
「ダメです。草津なんかに行けません」
「おめえ、草津に行った事あんのか」
「ないけど‥‥‥」
「たった半日で行けるのによう、行った事もねえなんて、おめえ、情けねえじゃねえか」
「そんな事言ったって」
「たった一度の我がままだ。おめえの親父だって許してくれるだんべ。それによう、もし、別れるような事になっても、一緒に草津に行けりゃア諦めもつくだんべ。今のまま、別れたくはねえ。なア、そうだんべ」
「だって、黙っては行けない」
「なに言ってんでえ。親に言ったら反対されるに決まってべえ。最後だと思って付き合ってくれ」
「でも、こんな格好じゃア」
「格好なんか構うこたアねえや。ちょっと遊びに行くだけだ。行くぞ」
 市太はグスグズしているおろくの手を引いて、中居への道を進んで行った。時々、後ろを振り返っていたおろくも村が見えなくなると意を決して、いそいそと市太の後ろに従った。
 中居村の茶屋で勘治が気を揉みながら待っていた。
「来られねえんじゃねえかと心配(しんぺえ)したぜ。よかった。よかった」
「おゆうに会いに行くんだ」と市太はおろくに説明する。
「おめえたちが羨ましいぜ。何だかんだ言いながらも、会おうと思えば毎日、会えるんだからな。俺たちなんか十日に一度しか会えねえ、畜生め」
「早く行こうぜ」と市太は勘治を促した。「まだ、村に未練があるようだ」とぼんやりと川向こうを見ているおろくを気にしている。
「大丈夫だよ」と勘治がおろくに言う。「心配する事アねえ。たまには姉ちゃんに苦労させりゃアいいんだ。うちの事をみんな、おめえに押し付けて、色惚け爺いとイチャついてんだからな」
「それに、松がうまくやってくれるだんべ。松と兄貴は俺たちの味方さ」
 おろくは微かに笑った。
「やっと笑ったな。そう来なくっちゃアいけねえや。これから、俺たちの稼業を決めに行くんだ」
「えっ」とおろくは何の事というような顔をして市太の顔を見る。
「二人でよう、何か、新しい商売(しょうべえ)を始めるんさ。まだ、村にねえ商売だ。草津にゃア色んな店があるだんべ。そいつをおめえと一緒に見に行こうと思ったのさ」
「二人でって、若旦那は江戸に行くんでしょ」
「ああ、行くさ。おめえと一緒にな。その前におめえと一緒に商売を始めてよう、銭を溜めなきゃならねえ」
「でも‥‥‥」
「でもじゃねえ。おめえ、俺と一緒になんのは嫌なのか」
「そんな‥‥‥」
「俺はもう、おめえと一緒になるって決めたんだ。頼むから一緒になってくれ」
「若旦那‥‥‥」
「若旦那じゃねえって言ったんべ」
「市太さん」
 見つめあうおろくと市太。
「何やってんでえ。見ちゃアいられねえぜ」
 その時、ドドーンと雷が落ちたような音が響き、グラッと地が揺れた。浅間山を見ると、また黒煙を吹き上げている。茶屋で休んでいた者たちが飛び出して来て、浅間山を眺めた。
「大丈夫だ。砂が降って来るだけだんべ」
 市太は心配そうなおろくの手を引いて草津へと急いだ。その後、何度か浅間山が鳴り、小揺れがあったが、離れているせいか、灰や砂が降って来る事はなく、日暮れ前には草津の入り口にある白根明神に到着した。
「おめえたちに合わせてのんびり来たが、もう待ち切れねえ。俺は先に行くぜ」
 勘治は二人を置いて、さっさとおゆうがいる宮崎文右衛門の宿屋に飛んで行った。
 ここまで来てしまったら、もう、どうしようもない。おろくもすっかり開き直り、家族の事も忘れて、嬉しそうに市太に寄り添った。二人は宿屋の立ち並ぶ立町(たつまち)の坂を下って、草津の中心、広小路(ひろこうじ)へと行く。
 湯煙を上げている湯池(ゆいけ)(湯畑)を眺め、「まあ、すごい」とおろくは驚く。
「おう、さすが、一月前(めえ)と違って、客が一杯(いっぺえ)だア。この前来た時は鉄蔵の兄貴も一緒だったんだ」
「おなつさんもでしょ」
「それを言うな。あん時アほんとにおめえの事を諦めかけた。おめえと一緒にこうして来られるなんて、まったく夢みてえだよ」
「あたしだって‥‥‥」
 湯治客の下駄の音が響き渡り、広小路を囲んで立つ宿屋の二階、三階からは三味線の浮かれ調子も聞こえて来る。市太はおろくに草津の事を説明しながら、『滝の湯』の側に建つ湯本安兵衛の宿屋に向かった。
 安兵衛の宿屋は湯治客が一杯だった。丁度、夕飯時で、客たちが壷(つぼ)(部屋)の前で自炊をしているのが見え、おかずを売る者たちが威勢のいい声を掛けながら廊下を歩いている。
 主人の安兵衛は鎌原村の事を心配して、色々と聞いて来た。草津でも時々、揺れて、雷のような音が響き渡り、夜になると客たちは浅間焼けの火柱を眺めに白根明神の辺りまで出掛けて行くという。
「それにしても、お二人だけで来られるのは珍しいですな。若旦那のお嫁さんですか」
「ええ、そうなんです。これからもよろしくお願いします」
「いやいや、こちらこそ」
 安兵衛は御祝儀(ごしゅうぎ)代わりだと眺めのいい部屋を取ってくれた。部屋に案内されるとおろくは大喜びだった。そこは広小路を見下ろせる最上級の部屋だった。
「こんなすごいお部屋に泊まれるなんて、まるで、お姫様になったみたい」
「すげえな。俺もこんな部屋は初めてだ」
 驚くのはまだ早かった。安兵衛は夕飯まで御馳走してくれた。その御馳走を前にして、おろくは益々、自分と市太の身分差を思い知らされたようだった。
「おめえに一つ、聞きてえ事があるんだ」と市太は黙り込んでしまったおろくに言った。
「なアに」とおろくは顔を上げた。
「もし、俺が問屋の若旦那じゃなかったら、おめえも俺の事を好きにはならなかったのか」
「そんな事を急に言われても」
「桔梗屋の姉さんに言われたんだ。俺から若旦那を取っちまったら、何もねえ、ただのゴロツキだってな」
「そんな事はありません」
「いや、姉さんの言う通りかもしれねえ。この部屋を取れたのも、この御馳走も、俺の力じゃねえ。ただ俺が問屋の若旦那だからだ。俺じゃなくたっていいんだ。誰だっていいんだよ。例えば、おめえの弟の松が若旦那でも、こういう待遇を受けるんだ。それが若旦那ってえもんだ。俺から若旦那を取ったら、何も残らねえ。それでも、おめえは俺が好きなのか。ほんとのとこを聞かせてくれ」
「あたし、若旦那、いえ、市太さんが好きです。たとえ、若旦那じゃなくても」
「若旦那じゃなけりゃア、こんな贅沢(ぜえたく)はできねえんだぜ。客が混んでるからって薄暗え狭え部屋に通されて、勿論、こんな御馳走なんか食えねえで、自炊しなけりゃならねえ。それでもいいのか」
 おろくはうなづいた。
「食うための芸もねえし、勿論、銭もねえんだぜ。それでも、いいのか」
 おろくは力強くうなづいた。
「よし、決まった。おめえがそう言ってくれたんで、俺もようやく覚悟を決めたぜ」
「覚悟って、何を決めたんです」
「この先、どうなるかわからねえが、俺はおめえと一緒になるって事さ。前にもその事は言ったが、ただの口先だけだった。でも、これからは本気だ。若旦那としてではなく、ただの一人の男として、俺はおめえと一緒に生きる事に決めた。これからは二度と若旦那と呼ばねえでくれ」
「市太さんこそ、あたしなんかでいいんですか。あたしにはお荷物が一杯いるんですよ」
「そんな事ア合点(がってん)承知之助さ。みんな引っくるめて、おめえに惚れたんだ。おめえとなら、いや、おめえだからこそ、この先一緒に苦労して行けそうなんだ」
「市太さん‥‥‥」
「これが最後の贅沢だと思ってよう、今晩は楽しくやろうぜ」
 おろくは目を潤ませながらうなづいた。

2020年4月13日月曜日

天明三年(一七八三)七月一日

 いよいよ、舞台作りが始まった。大工の八右衛門と桶屋(おけや)の利右衛門を中心に、手のあいている若衆組(わけーしぐみ)の者が手伝い、朝から作業が始まった。
 一幕物ではないので、舞台上の場面は幕の合間に次々に変わる。それを手際よくやらなければならないので、大道具を担当する者たちは大変だった。三幕目の最初の場面は船問屋の渡海屋(とかいや)、次が大物浦(だいもつのうら)。四幕目は下市村の茶屋と上市村の松林の場面に分かれている。今日は渡海屋の場面を作り、夜になって、実際に演技をしてみて具合の悪い所を直す予定。舞台上の大道具だけでなく、舞台の左横にある若衆小屋から舞台に向かって花道も作らなければならないし、若衆小屋を桟敷(さじき)席と楽屋(がくや)に分けなければならない。見物席も綺麗に草むしりをして整えなければならないし、やる事は色々とあった。
 市太と勘治も八右衛門を手伝って花道作りをやっている。
「やっぱり、花道がねえと芝居(しべえ)の舞台(ぶてえ)ってえ感じがしねえな」
「ここを通って、『暫(しばらく)』がやってみてえな」と勘治が言うと、
「おう、いいなア」と市太は『暫』の見得(みえ)を切る。
「俺たちが中老(ちゅうろう)になったら、やろうじゃねえか。あっ、そうか、おめえはいねえんだっけ」
「そうと決まったわけじゃねえ」
「一体(いってえ)、どうするつもりなんでえ」
「わからねえよ」
「俺としちゃア、おめえに最初の掟破りをしてもらいてえがな、惨(みじ)めな結果に終わるんじゃア逆効果だ。おめえとおろくが村八分(むらはちぶ)にされたんじゃ、見せしめになっちまって、誰も後には続かなくなっちまう」
「誰が村八分だと」と八右衛門が口を出す。
「何でもねえんだ」と勘治が首を振る。
 八右衛門は勘治と市太の顔を見比べてから声を出して笑う。「おめえたち、あまり悪さをするんじゃねえよ。惣八みてえに役を降ろされちまうぞ」
「わかってるよ」
「噂をすりゃア何とやらだ。間男(まおとこ)野郎が来やがったぜ」
 惣八が木箱を抱えて、やって来た。
「おーい、惣八、おめえ、何やってんだ」
 市太が呼ぶと、惣八は二人に気づいて、「見たとおりさ」と近寄って来た。
「何でえ、その箱は。差し入れか」
「なに言ってやがる。小道具に決まってべえ」
「小道具だと。それじゃア、おめえ、まだ懲りずに、おまんのうちに出入りしてんのか」
「しょうがねえ。八兵衛に頼まれたんだ」
「八兵衛に頼まれただと」市太は勘治と顔を見合わす。
「そうさ。昨日、お山が焼けて、また、怪我人が出たんべえ。馬も何頭か怪我したらしくてな、八兵衛の奴、そっちが忙しくて、小道具まで手が回らねえそうだ。そこで、俺にやってくれってな」
「八兵衛が忙しいのはわかるが、おめえに頼むたア余程の間抜け野郎だな」
「それがよう、意外(いげえ)な運びになってんだよ」
「何でえ、その意外な運びってえのは」
「ここじゃア何だ、後で話すよ」
「おい、勿体(もってえ)つけるなよ」
「後だ、後。おめえらも忙しいだんべ。そうだなア、昼飯時に桔梗屋に来てくれ」
 そう言うと惣八は舞台の方へと行った。
「何でえ、ありゃア」
 正午の鐘が鳴った後、市太と勘治が桔梗屋に行くと惣八は待っていた。他所から来た馬方たちで店は混んでいる。惣八は二人を誘って店を出た。
「おい、昼飯を食うんじゃねえのか」
「話が聞きてえんだんべ。ここじゃア、ダメだ。そうだ、おめえの部屋に行くべえ」
 惣八は一人で決めるとさっさと鶴屋に向かった。
「ここに来るのも久し振りだな」と惣八は懐かしそうに勘治の部屋を見回す。
「昨夜(ゆんべ)は市太が酔っ払って来やがって、そのまま泊まったんだ。今晩はおめえも泊まり込むんじゃあるめえな」
「そうだな。それもいいかもしれねえ」
「ダメだ。おゆうと一緒になるために親の機嫌を取ってるってえのに、おめえらが出入りし始めたら、何もかもぶっ壊しだ」
「それより、何でえ。さっきの続きを聞かせろよ」と市太は煙草盆(たばこぼん)を引き寄せると勘治の煙管(きせる)で一服つける。
「実はな」と惣八は市太と勘治の顔を眺め、気を持たせてから話し始める。「今朝早く、うちに八兵衛がやって来たんだ。とうとう殴り込みに来やがったかと俺ア覚悟を決めて出て行った。どうせ、一度は話を付けなきゃならねえからな。うちの者たちが心配そうに見守っていやがったんで、俺は平気な顔を装って出て行った。奴は観音堂まで俺を誘って、途中、一言もしゃべらなかった」
「観音堂じゃア祈祷(きとう)をやってたんべえ」と市太が聞く。
「いや、まだ誰もいなかった。奴はお山を眺めながら俺に言ったんだ。おまんとは別れるつもりだったとな」
「なに、ほんとかよ」と勘治が驚く。
「ほんとさ、俺もたまげたぜ」
「それじゃア筋が通らねえじゃねえか。何で、よりを戻したんでえ」と市太も納得できない。
「まあ、聞きねえ。八兵衛が言うにはな、あの騒ぎがあって、思い切って別れるつもりだった。ところが、うちの親父が謝りに行って、何もなかった事にしてくれって頼んだんだ。実際(じっせえ)、あの夜は何もなかったんだがな。親父がいくらか包んだんだんべ。八兵衛は親父の言う通り、何もなかった事にして、おまんとよりを戻した。いや、よりを戻した振りをしてるんだ」
「それじゃア、今も別れるつもりでいるのか」
「そうらしい」
「女がいるのか」
「ああ、中居村にいるそうだ」
「追分の女郎の外にも女がいやがったのか」
「追分の方はもうとっくに切れてるらしい。おまんに気づかれそうになったんで、追分の女郎を持ち出したんだそうだ」
「へえ。それで、おめえとおまんの仲を許したってえわけか」
「そこまではっきりとは言わねえが、小道具の事を頼むって言われた」
「ほう。その小道具の中に、おまんも含まれるってえ事か」勘治が笑いながら言う。
「馬鹿言うな。おまんは小道具なんかじゃねえ」
「そうむきになるなよ」と市太がなだめる。「それで、八兵衛とおまんはいつ別れるんだ」
「祭りが終わったら別れるって言ってた」
「そうか。で、おめえはおまんと一緒になるのか」
「そのつもりだ」
「おまんは石女(うまずめ)だぜ。いいのか」
「いいさ。どうせ、俺ア次男だ。跡継ぎなんかいらねえ」
「まあ、よかったじゃねえか。とにかく、祭りが終わるまでは騒ぎを起こさねえこったな」
「わかってるよ。じっと我慢さ。てえ訳だ。まあ、おめえたちも頑張れや。さてと、飯でも食いに行くか」
 惣八は言いたい事を言うと浮き浮きしながら部屋から出て行った。
「いい気なもんだぜ、まったく」
「なあ、惣八とおまんはどうなんだ」と勘治が市太に聞く。
「何が」
「家柄さ」
「おまんはお頭の妹だ。親父は村役人をしてたしな、惣八んとこと同じだんべ」
「そうか。面白くも何ともねえな」
「惣八の奴もいよいよ身を固めるか」
「あとはおめえだけだ」
「畜生、何かいい手はねえのかよう」
「難しいな」
 二人も桔梗屋に向かった。年寄りや女衆(おんなし)がゾロゾロと延命寺に向かっていた。
「何かあるのかい」と市太が勘治に聞く。
「また、御祈祷(ごきとう)が始まるそうだ」
「へえ。延命寺でも始まるのか。観音堂でもやってるし、験(げん)比べってえわけかい」
「それだけじゃねえよ。熊野権現でも飯縄(いいづな)権現でも始まってるらしい。この二、三日、あちこちから祈祷師(おがみや)がやって来て、信者を集めて御祈祷だ。所詮、銭儲けに集まって来た下らねえ奴らだが、こう毎日、お山が焼けたんじゃ、何かにすがりたくなるのも無理アねえ」
「村の不幸で銭儲けか。許せねえ奴らだな」
「許せねえたってしょうがねえ。信じる者がいるんだからな。おめえんちの爺さんだって、永泉坊とかいう行者(ぎょうじゃ)の熱心な信者だんべえ」
「あの山伏は爺ちゃんが信じるだけあって、ただ者じゃアねえぜ」
「みんな同(おんな)じさ」と勘治は首を振る。「あの行者が観音堂で御祈祷を始めたんは三日前だんべ。ちっとも効き目がねえじゃねえか。お山が静まる気配はまったくねえ。ますます激しくなってるぜ」
「そうじゃねえんだ」と市太は言う。「永泉坊の話によると、お山を静める事アどんなに偉え行者でもできねえんだそうだ。自然の力ってえのは偉大で、祈祷なんかじゃ左右できねえ。永泉坊がやってる祈祷はお山を静めるんじゃなくて、観音様にすがって、村人たちの無事を祈ってるそうだ」
「へえ。村人たちの無事をねえ。うめえ事言うじゃねえか。それならうまく行くかもしれねえ」
 桔梗屋で昼飯を食べると、二人は舞台作りに戻った。今日は大丈夫だろうと安心していた八つ(午後二時)頃、浅間山が唸り始めた。揺れも加わって来て、作業は中断となった。
 晴れ渡っていた青空はあっと言う間に薄暗くなり、灰がチラチラ降って来る。浅間山を見ると黒煙を天高く吹き上げていた。
「ここにいてもしょうがねえ。俺ア帰るぜ。近えうちに草津に行くつもりだからな、親の機嫌を取らなきゃならねえ」
 勘治は帰って行った。市太は観音堂へと向かった。昨日より信者たちの数は増えていた。二十人はいるようだ。特に女衆が多い。毎日のように砂や石が降って来るので、工夫して綿入れの頭巾(ずきん)を被っている者もいる。
 観音堂内に入りきれず、前の庭に座り込んで一心に祈っている者たちを横目に見ながら、市太は浅間山を眺めた。この世のものとは思えない凄い眺めだったが、もう見慣れている。天まで貫く黒煙の太い柱を眺めながら、市太はおろくの事を思っていた。
 親子の縁を切り、おろくと一緒になったとしても、うまく行くたア思えねえ。親父に頭を下げて馬方をやって、ろくに作物も取れねえ畑仕事に精を出し、朝から晩まで働いてもギリギリの生活だんべ。かといって、このまま、おろくと別れて江戸に行きたかアねえ。
 勘治のようにおろくを誰かの養女にして、嫁に迎えるという手もあるが、一緒になってから何をしたらいいのかわからねえ。一緒に江戸に出るのは無理だんべ。となりゃア、ここにいて何かをやらなけりゃアならねえ。一体、何をやりゃアいいんだ‥‥‥
 突然、大音響と共にグラッと揺れた。市太は咄嗟(とっさ)に松の木にすがった。
 浅間山を見ると黒煙の中に稲光(いなびかり)が走っている。後ろで女衆が騒ぎ出した。
「大丈夫だ。落ち着け、落ち着くんだ」と誰かが怒鳴っている。
 やがて、砂が降って来た。
 聞き慣れた声がしたので振り返って見ると、おなつがいた。おなべも一緒だった。そして、おかよの兄、長治と隣に住む伊八がいた。二人とも市太より一つ年下、二人にはおなつとおなべは勿体ねえとは思ったが、余計な口出しができる立場じゃない。見て見ぬ振りをして、手拭を被ると揺れる石段を駈け降りた。

2020年4月12日日曜日

天明三年(一七八三)六月二十九日

 市太が目を覚ましたのは昼四つ(午前十時)を過ぎていた。頭がガンガン痛かった。
 おろくの家から戻った市太は父親に詰め寄った。父親は絶対に許さないと言い切った。先祖代々続いた家柄に傷が付くという。
「おまえがそんな我がままを言い張るとおろくが悲しむ事になるんだ」
「そんな事はねえ」
「わしがおまえたちの事を許してもどうにもならんのだ。これは村の掟(おきて)なんだ。古くからの掟を破るわけには行かん。破った者がどうなるかわかってるのか。村八分(むらはちぶ)にされるんだぞ。おまえを勘当しなければ、うちも村八分にされる。当然、おろくのうちも村八分だ。村八分にされたら、馬方の仕事はできないし、甚太夫だって義太夫を教えてはいられない。あの家は食って行けなくなる。村八分にされないためには、おろくを勘当しなければならない。おろくがいなくなったら、母親の看病は誰がするんだ。おろくの事は忘れるんだ」
 自分の部屋に戻ると、やけ酒を飲み始め、明け方近くに酔い潰れて眠ってしまったらしい。着ている着物は砂だらけだった。
 市太は着替えるとフラフラと外に出た。問屋はいつものように忙しそうだ。馬方に指図している兄や叔父を避けるようにして表通りへと出た。
 浅間山を見上げると黒い煙を吹き上げて、ゴーゴー唸っている。いつまた、大揺れが来てもおかしくない状況だった。
「若旦那、なにボケッとしてるの」と声を掛けられた。
 巴屋の暖簾から、おかよが覗いていた。
「おろくさんと何かあったのね」
「いや、そうじゃねえが」
「目が真っ赤じゃない」
「ああ、ろくに寝られなかったからな」
「みんな、そうよ。朝から田畑を見回ってたわ。また、全滅しちゃったのよ。もう、終わりだって、みんな、嘆(なげ)いてるわよ」
「そうか‥‥‥そうだんべなア。あんなに砂が降って来やがったからな」
 市太は用水の脇にしゃがむと水をすくって飲んだ。
「おろくさんちもそうなんでしょ」
「多分な‥‥‥ちょっと見て来るか」
 市太はおろくの家には寄らずに、直接、畑の方に行った。無残だった。やっと芽を出した作物が皆、砂に潰されていた。知らずに涙があふれ出て来た。
「畜生、畜生」と言いながら、市太は砂をつかんでは投げ捨てた。
 黒煙を吹き上げている浅間山を睨みながら、市太はいつまでも畑にいた。もしかしたら、おろくが来るかもしれないと待っていたが、おろくは現れず、トボトボと畑を離れた。
 延命寺の正午を告げる鐘が鳴って、すぐだった。浅間山が噴火した。耳をつんざく音が鳴り響いて、地面が傾いた。
 市太は村外れを歩いていた。慌てて身を伏せて、浅間山を見ると黒煙は勢いよく天高くまで昇りつめ、時折、火柱が立っていた。見る間に砂や小石が降って来た。市太は手拭で頬被りをすると、おろくの家に向かった。
 家が揺れるので、家の中にいたら危ない。かと言って、外に出れば石や砂が降って来る。村人たちはどうしていいかわからずにオロオロしていた。
 おろくたちは家の中の土間に固まっていた。松五郎と馬はいなかった。母親は横になったまま、戸板の上にいる。誰がどうやって、ここまで運んだのかわからなかった。
「うちは大丈夫だ。帰ってくれ」
 市太の姿を見ると甚左は冷たい声で言った。
 市太はおろくをじっと見つめていた。おろくも泣き腫らした顔で市太を見つめていたが、袂(たもと)から市太の煙管と煙草入れを出して差し出した。それを見て、三治が被っていた菅笠を市太に差し出した。その時、家がグラッと揺れた。
「ここにいちゃア危ねえ」と市太は身を伏せて叫んだ。
「危ねえたってしょうがねえ。おめえさんには関係ねえこった。さっさと出てってくれ」
「そいつはおめえに預けておく」
 市太は煙管と煙草入れは受け取らず、菅笠だけを返してもらい、それを被って外に出た。
 雷がいくつもまとまって落ちて来たような音が鳴り響き、耳をふさいで身を伏せた。よろけながらも、ようやく、家にたどり着いた。
 繋(つな)がれた馬たちが悲鳴を上げて騒いでいる。女たちは土蔵の中に避難していた。母親から祖父と妹たちが無事かどうか見て来てくれと頼まれ、市太は観音堂へと向かった。
 お山は雷のようにゴロゴロ鳴り、揺れは少しも治まらない。砂は音を立てて降って来る。十日の窪(くぼ)は雨が降ると雨水が溜まって、十日も引かない事から名付けられたというが、今は雨水ではなく、お山から降った砂や灰が溜まっていた。市太は足を埋めながら砂の上を歩き、這うようにして石段を登った。
 観音堂では熊野の山伏、永泉坊の祈祷が続いていた。お堂が揺れるのも構わず、一心に護摩(ごま)を焚いている。祖父たちの姿は見えない。裏の若衆小屋を覗くと土間に集まっていた。市太も小屋の中に飛び込んだ。
「ひでえ目に会った」
「この土砂降りの中、わざわざ、拝みに来たのか」と市左衛門はのんきな事を言う。
「まさしく、土砂降りだ」と市太は菅笠を脱いで、砂を払う。「うちに帰(けえ)ったら、おっ母が爺ちゃんの事を心配してたんだ。みんな、無事なのか」
「大丈夫じゃ、わしらにゃ観音様が付いている」
 祖父と妹のおさやとおくら、酒屋の旦那と娘のおみや、山守の隠居と亡くなった山守のおかみさん、名主の母親と姉、扇屋の旦那とその母親、仙之助の両親もいた。皆、永泉坊の熱心な信者だった。
「爺ちゃん、いつになったら、お山は静かになるんだい」
「そんな事はわしにもわからん」
「山守の爺さんにもわからねえのか」
「わからねえ」と長兵衛は首を振る。「ただ、言える事はお山が吐き出す物をすべて吐き出さねえ事には、今度のお山焼けは治まらねえだんべ」
「腹ん中が空っぽになるまで続くってえのか」
「多分な」
「後どのくれえ砂や石が降りゃアいいんでえ」
「そいつがわかりゃア、行者さんに御祈祷なんか頼まねえだんべ」
「畜生め、どうせなら、さっさとみんな吐き出しちまえばいいのによ。ちっとづつ小出しになんかしてねえで」
 みんなが無事だったので、市太は安心して若衆小屋を離れた。大揺れもいくらか治まり、降っていた砂も小降りになった。浅間山を見ると、天を貫いていた黒煙も東にたなびいている。どうやら、峠は越したようだ。
 表通りに出ると村人たちは皆、家から出て浅間山の方を見ている。市太は通りに突っ立ったまま、おろくの家の方を見た。武蔵屋の女将の姿はあったが、おろくの姿はなかった。市太はうなだれ、反対方向の自分の家に足を向けた。が、家の前を素通りして、桔梗屋に向かった。
「姉さん、大丈夫だったかい」
「あら、若旦那」とお勝手から顔を出したおゆくは、「もうメチャクチャよ」とブツブツ文句を言っている。それでも、頭にかぶった手拭を取ると、「あたしの心配してくれたの」と嬉しそうに笑う。
「ああ、先生の名代(みょうでえ)だ」
「ありがとう。あたしは大丈夫よ」
「昼時だったけど、客はいなかったのか」と市太は店の中を見回して聞く。縁台や板の間は綺麗に片付いていた。
「いたわよ。大笹の馬方衆がね」
「もう帰ったのか」
「ええ、おっそろしいって、みんな、震えながら慌てて帰ってったわ」
「大笹より、こっちの方が揺れるのかな」
「そうみたいね。ねえ、おろくちゃんちの畑仕事をしなくてもいいの。砂が降ったから大変でしょうに」
「いいんだ。姉さん、酒をくれ」
「あら、珍しい。昼まっから飲むなんて久し振りじゃない」
「そうだっけ」
「みんなが一緒の頃はよくやってたけど、勘治たちが抜けて、おなっちゃんも抜けて、今はみんなバラバラになっちゃったもんね」
「そうでもねえよ。勘治とは昨夜も飲んだ」
「あら、そう。何があったか知らないけど付き合ってあげるわ。例のお酒持って来るわね」
「すまねえな」
 市太はおゆくを相手に飲んで、愚痴をぶちまけた。
「なに情けない事を言ってんだい。やっぱり、あんたは問屋のお坊ちゃまだよ。家柄だの身分だの、そんな物をなくすなんて言いながら、自分はちゃっかり問屋の若旦那ってえ身分に座ってるつもりかい。笑わせるねえ。何だかんだ言う前に、まず、自分が身分を捨ててみな。若旦那ってえ身分を捨てて、ただの男になってみな。へん、偉そうな事言ったって、そんな事アできないだろう」
「うるせえ、若旦那なんて、くそくらえだ」市太はぐいぐい酒を飲む。
「言うだけなら誰だってできるさ。あんた、わかってんのかい。若旦那ってえ身分がなくなったら、あんたなんか役立たずのただのゴロツキさ。こうやって、昼まっから、お酒なんか飲んじゃアいられないんだよ。おまんまだって食えやしないし、女だって誰も近づいちゃア来ないんだよ」
「そんな事アねえ」
「そんな事アあるさ。あんたが若旦那だから、今まで無事にいられたんだ。もし、あんたがおろくんちに生まれてたら、どうなってたと思う。今頃は無宿者(むしゅくもん)になって、どこをさまよっているやら。もしかしたら、もう殺されてるかもね」
「うるせえ。いい加減な事を言うな」
「いい加減じゃないさ。ほんとの事だよ。あたしだってそうさ。あんたが若旦那だったから寝たんだよ。おなつだってそうだろ。あんたが若旦那だから好きになったんだよ。おろくだって同(おんな)じさ」
「違う。そんな事アねえ」
「それじゃア、聞くけど、あんたから若旦那を取ったら、何が残るんだい」
「何が残るって、俺は俺だ。ちっとも変わらねえ」
「わかってないねえ。もっとも生まれ落ちてから今まで、若旦那として育って来たんだから無理ないけどね。やっぱり、あんたには甘えがあるよ。いざという時は親が何とかしてくれるだろうってね」
「そんな事アねえよ」
「だって、そうだろ。今回だって何とかなるって軽い気持ちでおろくと付き合ったんだろ。あんたは江戸に行くって言ってたじゃないか。そのくせ、おろくに近づいた。最初から遊びだったんだろ。それが何だい、今頃、泣き言を言って。あんたよりもずっと、おろくの方が辛いんだよ。あんたにおろくの気持ちがわかるのかい」
「畜生、俺はどうしたらいいでえ」市太は頭を抱える。
「きっぱりとおろくの事は忘れる事さ」とおゆくはきつい事を言う。「それが一番いいだろうねえ」
「いや、俺は諦めねえ」
「強情だねえ。よっぽど、おろくがいいんだねえ。あたしもそれだけ惚れられてみたいよ」
 市太はおろくの事を思いながら酔い潰れた。夢の中か現実か、家がグラッと大揺れしたが、起きるのも面倒だった。もう、どうにでもなれと開き直っていた。
 その夜、祭りの前座を務める娘義太夫を決めるため、おなつ、おなべ、おきよの三人が競い合って、代表はおなつに決定した。おなつは大喜びだったが、市太が来ていないので寂しそうだった。

2020年4月11日土曜日

天明三年(一七八三)六月二十八日

 しばらく、なりを静めていた浅間山がまた、活動し始めた。昨日、朝から日が暮れるまでゴロゴロ唸っていて、今日の昼は太い黒煙を吹き上げ、灰と砂を降らせた。観音堂では熊野の行者(ぎょうじゃ)、永泉坊(えいせんぼう)の祈祷(きとう)が続き、市左衛門を初めとして信心深い村人たちが見守っていた。ところが、祈祷の甲斐もなく、夜の四つ(午後十時)より地鳴りが始まった。
 その時、市太は巴屋にいた。おろくと観音堂裏の若衆小屋で会って、送って行った後だった。巴屋には勘治と幸助がいて、昨日の続きを真剣に話し合っていた。
「おい、おろくと会ってたのか」とニヤニヤした顔付きの市太に勘治が声を掛けて来る。
「まあな」と市太はそっけなく答える。
「覚悟は決めたんだんべえな」
「何でえ、覚悟ってなア」
「決まってべえ。おろくと所帯(しょてえ)を持つ事さ」
「所帯を持つのはいいが、その後、どうすんでえ。俺がやる事はこの村にはねえ」
「今みてえに、おろくんちの畑仕事をしてりゃアいいだんべ」
「なに言ってやがる。そんなの毎日(めえんち)できるわけがねえ」
「できるわけがねえって、できなけりゃア、おめえ、生きちゃア行けねえだんべ」
「ちょっと待てや。おめえ、何か勘違えしてねえか。俺がおろくんちに婿に入(へえ)るわけじゃねえ。俺がおろくを嫁に貰うんだ」
「なに寝ぼけた事言ってやんでえ、なあ」と勘治は幸助と顔を見合わせて笑う。「おめえの親がおろくを嫁に迎えると思ってんのか。おめえのおっ母は黒長(くろちょう)の妹だぜ。兄貴の嫁さんだって、大笹の中屋(旅籠屋)の娘だんべ。ただの百姓の娘を嫁に迎えるわけがねえ。おめえがおろくと一緒になるには、おめえが親子の縁を切るしかねえんだよ」
「何だと、勘当(かんどう)されるってえ事かい」
「そうさ。それだけの覚悟がいるってこった」
「まさか、そこまではするめえ」
「考えが甘えぜ。おめえんちは問屋なんだぜ。しかも代々、年寄役も務めてる。そんなうちが村の掟(おきて)を破るなんて、できるわけがねえ。村の者に示しがつかなくなるからな」
「くそっ、勘当されたら、俺ア生きちゃアいられねえぜ」
「そうさ。毎日、朝から晩まで汗水流して働かにゃアならねえ。おろくと一緒になるってえのはそういう事だ」
「くそったれが‥‥‥おめえの方はどうなんでえ。おめえだって同じだんべ。勘当されてもおゆうと一緒になるのか」
「いや、俺は勘当されねえ。おゆうは草津の宮文(みやぶん)の養女になって、俺んとこに嫁いで来るんだ」
「なに都合のいい事をいってやがる。そんなうまく行くかい」
「大丈夫だ。実際(じっせえ)、おゆうは今、村にいねえ。村の者たちも、おゆうが草津に働きに出てる事ア知ってる。でも、半年経って、草津から嫁いで来りゃア、何だ、おゆうは養女になってたのかと村の者も納得する。肝心なのは、村の者におかしいじゃねえか、筋が違うんじゃねえかって思わせねえ事なんだよ」
「ふん、てめえはうめえ具合(ぐええ)に行って、俺は勘当かよ」
「仕方ねえんだ。おめえが勘当されてまで、おろくと一緒になりゃア、他の奴らも覚悟を決めるってえもんだ。おきよだって、勘当されても幸助と一緒になるし、おめえの妹だって、勘当されても安と一緒になるってえもんだ。そうして、だんだんと掟を破って行って、しめえには掟なんかなくしちまうんだ」
「へっ、要するに俺アいけにえってえわけかい」
「そうだ。下らねえ掟を潰すためのいけにえだ。だがな、決して、無駄にはならねえぜ」
「畜生、毎日毎日、砂にまみれて畑仕事かよ」
「馬方だってできる」
「へっ、勘当されたうちに頭を下げて、馬方すんのか」
「おろくとずっと一緒にいられるんだぜ」
「市太、頼むぜ。俺たちのためにもよう。おめえが見本を見せりゃア、みんな、覚悟を決めるに違えねえ」
 幸助がそう言った時、家がグラッと揺れた。
「何でえ、また、お山が焼けたのかよう」
「大丈夫だんべえ。大した揺れじゃねえ」
 その後、小刻みな揺れが続いた。市太は家に帰り、横になってからも勘治が言った事を考えていた。ようやく、ウトウトしだした頃だった。雷が落ちたような物凄い音がして、寝ていた体が飛び上がる程の大揺れが起きた。
 市太は慌てて隣の部屋に声を掛けた。
「おい、大丈夫か」
「兄ちゃん、怖いよう」
「早く、外に出るんだ」
 市太は妹のおさやとおくらを両脇に抱えて外へと向かった。小揺れが始まった時、明かりはすべて消したので、家の中は真っ暗だ。囲炉裏の辺りから兄、庄蔵が叫んだ。
「早く、外に出ろ。市太、爺さんを頼むぞ」
 市太は二人の妹を中庭に出すと、すぐに離れにいる市左衛門の所に行った。声を掛けると、すでに市左衛門は縁側から外に出ていた。祖父を連れて中庭に戻ると皆、集まっている。廐(うまや)の馬が脅(おび)えて騒いでいた。叔父の弥左衛門が甥の五郎八を連れて廐に向かった。
「おめえたちは村を回って、火の用心を確かめて来い」
 父親に言われて、市太と庄蔵は表通りへ飛び出した。
 真っ暗の中、人々があちこちでざわめいている。馬のいななきと野良犬の鳴き声がやかましい。市太はおろくの事が心配になって来た。寝たきりの母親と盲目(もうもく)の兄、アホの三治を抱えて、無事に家から出られただろうか。俺はこっちに行くと言って、さっさとおろくの家に向かった。
 浅間山はゴーゴー唸り、大地の揺れは続いている。まるで、酔っ払っているかのように足元がおぼつかない。おまけに空から砂が降って来た。
「火の用心、火の用心」と叫びながら、市太はおろくの家に走った。惣八に声を掛けられ、惣八にも見回りを頼んだ。
「わかった」と言うと惣八は市太と反対の方に走って行った。
 おまんの家に行くつもりかと思ったが、他人の事まで構ってはいられない。おろくの家の前には誰もいなかった。
「おろく、大丈夫か」と叫びながら、市太は家の中に入って行く。暗くて、何も見えない。馬が騒いでいるだけで、声を掛けても返事はなかった。
「おい、若旦那か」と声を掛けられ、入り口の方を見ると男が立っている。
「誰だ」
「俺だ。半兵衛だ。みんな、裏庭の方にいる」
「おっ母も大丈夫なのか」
「ああ。俺がおぶって連れ出した」
「そうか。よかった」
 裏庭に行くと寝かされた母親の回りに皆が座り込んでいた。
「みんな、大丈夫か」と市太が聞くと、「ええ、大丈夫」とおろくは言った。
 脅えているのか、その声はやけに沈んでいる。誰もいなかったら、抱き締めてやりたいがそうもいかない。
「そうか、よかった」市太は一人うなづくと、「半兵衛、みんなを頼む。俺は一回りしてくらア」と通りの方に出た。
「火の用心、火の用心、みんな、大丈夫かア」とあちこちで叫んでいる。
 若衆組の者たちが見回りをしているようだ。市太も走り出した。浅間山の方を見上げると時折、雷のように光を放っている。その光によって、真っ黒な煙がモクモクと立ち昇っているのが見えた。まるで、地獄絵でも見ているような、何とも恐ろしい光景だった。このまま、この世が終わってしまうのではと思わせる不気味な眺めだった。
 火事も起こらず、怪我をした者も出なかった。大揺れは半時程で治まった。その代わり、降って来る砂の量が多くなって、外に出てはいられなくなった。皆、お山が静まる事を祈って家の中に戻った。
 市太は一旦、家に戻って菅笠(すげがさ)を被り、おろくの家に向かった。家に入ると皆、不安な面持ちで囲炉裏端に座っていた。隣の半兵衛と姉のおくめの姿はない。甚左は相変わらずの仏頂面、甚太夫は市太の声を聞いて顔を上げたが、すぐにうつむく。三治もさっきの揺れが恐ろしかったと見えて、やけにおとなしい。松五郎は何か言いたそうな顔をしたが、父親を気にして何も言わない。おろくと母親の姿はなかった。
「まったく、ひでえ目に会った。また、砂が降って来やがった。畜生め、一体(いってえ)、何の恨みがあるってえんでえ」
 松五郎がおろくは部屋の方だと顔で示した。市太はうなづいて上がり込んだ。
 おろくは真っ暗な自分の部屋にいた。
「もう明かりを付けても大丈夫だんべえ」
 市太は囲炉裏から火を貰おうと行燈(あんどん)を持って行こうとする。
「いえ、いいんです。明かりはつけないで」
「どうかしたのか。まあ、明かりなんかなくったって構わねえけどよ」
 市太はおろくの側に座って、おろくを抱き寄せようとする。
「若旦那、お話があります」とおろくは身を引いた。
「何でえ、改まって」
「あたし、もう、若旦那とは会えません」
「なに言ってるんでえ。とっつぁんから何か言われたのか。そんなの気にすんな」
「いいえ。もう、お会いできません」
「急に何を言ってんだよ。ついさっき、俺と一緒になるって言ったじゃねえか」
「でも、夢だったんです。若旦那と一緒になるなんて、所詮、夢だったんです」
「夢なんかじゃねえ。現実だ。俺はおめえと一緒になるって決めたんだ」
「ダメなんです。そんな事できません」
 おろくはずっと顔をそむけていた。暗くてよく見えないが泣いているようだった。
「どうしたんだ、急に。一体、何があったんだよう」
「何もありません。お願いです。もう、うちには来ないで下さい」
「まったく、何を言ってやがんでえ。だって、おめえ、おかしいじゃねえか。何だって、急に気が変わるんでえ。とっつぁんに何か言われたんだな。同じ権太をやった仲だ。俺の気持ちはわかってくれるだんべと思ってたのに、畜生。俺は諦めねえからな、絶対に、おめえと一緒になる。もう意地でもなってみせるぜ」
 市太はおろくの部屋から出て、囲炉裏端に行くと座り込んだ。腰から煙草入れを外すと、煙管(きせる)に煙草を詰め、囲炉裏の火で一服つけた。誰も何も言わなかった。屋根に当たる砂の音と馬がガサゴソ動く音、そして、家が小刻みに揺れた。煙を吐いて、吸い殻を囲炉裏の中に捨てると市太は甚左を見た。
「おろくが言った通りだ」と甚左は俯き、囲炉裏の火を見つめたまま言った。「もう二度とうちには来ねえでくれ」
「どうしてなんでえ」
「そんなのは若旦那もわかってるだんべ」
「俺にゃアわからねえ。今まで何も言わなかったのに、何でそんな事を急に言い出すんだ」
「今まで、おろくにゃア娘らしい事もしてやれなかった。うちに籠もりっきりで友達もいねえ。たまにはみんなと一緒に遊べと言っても、友達もいねえから、みんなの中に入(へえ)って行けねえ。そんな時、若旦那がおろくを誘ってくれて、おろくも喜んで芝居の稽古を見に行った。みんなと一緒になって楽しそうだった。おろくも娘らしくなってよかったと思ってたんだ。まさか、若旦那とおろくが村の噂にのぼるなんて夢にも思っていなかった。もう、これ以上は会っちゃアならねえ」
「噂になったって、そんな事アいいだんべ。言いてえ奴にゃア言わせとけばいいんだ」
「いや、ダメだ。若旦那がおろくを思う気持ちはわかる。おろくの方も若旦那に夢中だ。しかし、所詮、二人は一緒にはなれねえんだ。先になって泣きを見るより、今のうちに別れた方がいい」
「いや、俺は諦めねえ。たとえ、うちを勘当されたって、おろくと一緒になる」
「ダメだ。早まっちゃアいけねえ。そんな事をしたら、わしらは生きちゃアいられねえ」
「とっつぁん、何を言ってるんでえ」
「わしら馬方はな、問屋には逆らえねえんだ」甚左は吐き捨てるように言った。
「とっつぁん、もしかしたら、親父が来たんじゃねえのか。なっ、そうだんべ」
 甚左は何も言わなかった。市太は甚太夫と松五郎を見た。二人とも顔を背けている。三治を見ると、驚いたような顔して市太を見ていた。
「おい、松、親父が来たんだな」
 松五郎は首を振ったが、嘘を付いている顔付きだった。
「畜生、余計な事をしやがって」
 市太は凄い見幕(けんまく)で、おろくの家を飛び出して行った。煙管と煙草入れ、被って来た菅笠も忘れていた。

目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...