市太と半兵衛、それと、昨日、狩宿から来た丑之助、仙之助、孫八を加えた五人は焼け石の上を歩いて、大笹に向かっていた。三右衛門と長治の二人は今朝になって怪我をしている事がわかり、連れて来るのはやめにした。
焼け石も大分、冷めていた。市太と半兵衛は草履(ぞうり)よりはましだろうと、三右衛門と長治が履いて来た歯の減っている下駄を履いている。笠と蓑(みの)も借りてきた。
埋まらずに残っている金毘羅(こんぴら)山を目指して一行は進んだ。昨夜、丑之助が話した通り、ひどいものだった。観音堂から見た時は、ほとんど平らに見えたのに、実際に歩いてみるとデコボコだらけだった。太い木の幹は好き勝手な格好で埋まっている。こんな物がよく流れて来たと呆(あき)れる程の大きな岩がゴロゴロ転がっている。厄介(やっかい)なのが焼け石だった。表面は冷えているが中の方はまだ熱い。固まっていればいいのだが、中には柔らかいのもあって、そこを歩こうものなら、足が埋まって火傷(やけど)をしてしまう。足元を確かめながら進まなければならず、ちっとも前に進まない。丑之助たちが二里の距離を八時間も掛かったというのもうなづけた。泥だらけになって、半里にも満たない距離を二時間もかけ、ようやく、金毘羅山に到着した。
飯を食べていた丑之助たちは元気いいが、六日間も飲まず食わずの市太と半兵衛はもう限界だった。とても、あと四倍も歩けそうもない。二人は金毘羅山の森の中に倒れ込んだ。
「おい、丑、俺アもうダメだ。大笹には行けそうもねえ」と市太が弱音を吐くと、
「わしも無理じゃ」と半兵衛も言う。「おめえたちで行って来てくれ」
「大笹はやめて、大前にするか」と孫八が言う。
「大前は川向こうだからな。橋が無事なら行けるが、大丈夫だんべえか」
「とにかく、山の上まで行って見てみらア。どの辺までやられてるかわかるだんべ」
孫八と丑之助と仙之助は山を登って行った。三人を見送ると市太と半兵衛は横になった。
「畜生、情けねえが体がいう事を聞かねえ。これ程、大変(てえへん)だとは思ってもいなかった」
「わしだって同じさ。まったく、情けねえよ」
「俺たちがこんなざまじゃア、とても女子供は歩けねえな」
「ああ、無理だんべえ。かと言って、あのまま、あそこにいても危ねえよ」
「せっかく生き残ったのに、あんなとこで死んだんじゃア情けねえ」
「あの三人に大笹まで行ってもらって、何か食い物を持って来てもらうしかねえな」
「そうだな‥‥‥もう一晩、あそこで過ごすのか‥‥‥」
「せめて、雨がやんでくれりゃアいいのに」半兵衛はボロボロになった手拭で顔を拭いた。
やがて、孫八たちが戻って来た。
「大前の方までずっと焼け石で埋まってる。橋も流されちまったかもしれねえ」
「そうか。大笹の方はどうだ」と市太は上体を起こしながら聞いた。
「よくわからねえ。わからねえけど行ってみるしかねえ」
「そうだな。行くしかねえな」
「どうする」と丑之助が心配そうに、横になったままの半兵衛を見ながら市太に聞く。
「俺たちゃダメだ。ここで休んでから観音堂に戻る。戻るのも大変だがな」
「そうか。それじゃア俺たちで行くか」
「食い物と病人を運ぶ頑丈(がんじょう)な人足を頼まア」
「わかった。気を付けてな」
「おめえたちも気を付けてくれ」
孫八たちは山麓を大笹の方へと向かった。
「大笹が無事ならいいが」と市太は三人の後ろ姿を眺めながら言った。
「ああ」と半兵衛が返事をする。
「伯父御が無事なら、きっと助けてくれるさ」
「ああ」
「おみのの奴だって飛んで来るだんべ」
半兵衛の返事はなかった。
「おい、半兵衛、大丈夫か」と市太は半兵衛の肩をたたいた。
疲れ果てて、雨が降っているにもかかわらず、このまま、眠ってしまいたい心境だった。しかし、こんな所で眠ってしまったら死んでしまうかもしれない。市太は力を振り絞って、半兵衛の上体を起こした。
「ああ、大丈夫だ。帰るか」と言うが立ち上がる気力もないようだ。
「おふじちゃんが待っている。帰ろうぜ。通って来た足跡をたどって行きゃア、来る時よりは楽だんべえ」
「ああ、行くか」
二人はやっとの思いで立ち上がった。足がフラフラしていて立っているのも容易ではない。市太は手頃な枝を拾って半兵衛に渡し、自分のも拾い、杖代わりにした。
「行くぞ」と市太が焼け石の上に踏み出した時、山の後ろの方から叫んでいる声が聞こえて来た。何事だと二人は耳を澄ました。
「市太、助かったぞ」と丑之助が叫んでいた。
「どうしたんだ」と市太は叫んだが、力が出ず、大声にはならなかった。
二人が枝にすがって立ちすくんでいると丑之助が笑いながらやって来た。
「助かった。大笹から助けがやって来た」
「なに、そいつア本当か」
「ああ、本当だ。見た所、十人ぐれえはいる」
「助かった」とつぶやくと急に気が抜けたように半兵衛はその場に座り込んだ。
やって来たのは、おみのと藤次、大笹の若い衆が六人、それと、惣八と安治、市太の叔父、弥左衛門もいた。そして、永泉坊もいる。永泉坊は両足に布切れを巻き付けて、大男におぶさっていた。
「市太兄い、生きてたのね」
男姿のおみのが泣きべそをかきながら抱き着いて来た。
「助かった‥‥‥」市太はおみのを抱き締めながら、皆の顔を見回した。
「おい、市太、情けねえ面をしてるぜ」と藤次が市太の顔を見て苦笑した。
市太はおみのの肩にすがりながら、「すまねえな」と笑った。知らずに涙がこぼれてきた。市太は慌てて、涙をこすった。
「なアに、困った時はお互え様さ」と藤次は市太を見つめてうなづいた。なぜか、藤次の目にも涙が光っていた。
「こんなもゲッソリとしちゃって‥‥‥」とおみのが市太を見上げて、心配そうに言う。
「もう大丈夫さ」と市太はおみのにうなづいて、藤次の隣にいる惣八と安治に目を移す。
「おめえら生きてたのか」
二人は神妙な顔してうなづいた。
「中居に行ってて助かったんだ」と惣八は言った。
「中居?」
「ああ、生首(なまくび)を取りに行ってたんだ」
「生首だと‥‥‥そうか、小金吾の首か」
「そうさ」
「そうか‥‥‥とにかく、生きててよかった」
「市太兄い、永泉坊様が来て、みんなが観音堂にいるから助けてくれって教えてくれたんだよ。でもさ、熱くて歩けなくて、やっと、今日になって来られたんだよ」
「なに、永泉坊が‥‥‥」
市太が永泉坊を見ると大男の背中の上で、「みんな、無事か」と聞いて来た。
「無事とは言えねえ。病人が何人もいる」
「そうじゃろう。早く、行った方がいい」
市太と半兵衛も若い衆におぶさって観音堂に戻った。みっともないが歩けないのだからしょうがない。おぶさっている市太に惣八と安治がやたらと話しかけて来た。再会できた事が余程、嬉しかったのだろう。市太にしても同じ思いだ。死んだものと諦めていた二人が、思いもかけない所にヒョッコリと現れた。まるで、夢でも見ているような気分だった。
二人の話によると、惣八が八兵衛に頼まれて中居村に行こうとしたら、丁度、安治が家から出て来た。おまんの事を相談しようと一緒に出掛けたのだという。
すべての小道具を集めた八兵衛だったが、四幕目の最後に使う小金吾の生首だけがまだだった。大工の八右衛門に頼んで木彫りの生首を作ってもらったが、どうも気に入らない。どうしても、生々しさが伝わって来なかった。どうしようかと悩んでいた時、高崎から中居に嫁いで来た娘の父親が人形師だと聞いた。八兵衛はその娘を通じて、人形師に小金吾の生首を頼んだ。完成したら高崎まで取りに行くつもりだったが、人形師が完成した生首を持って草津に来た。湯治を兼ねて娘の顔を見に来たらしい。娘が草津まで行って、生首を持って来たので取りに来てくれと連絡があった。ところが、その日、八兵衛は怪我人の治療で忙しく、それどころではない。それで、惣八が代理として出掛けて行ったのだった。
中居村に着き、小道具の生首を受け取って、茶屋で一休みしている時だった。浅間山が大爆発した。大揺れの後、しばらく地鳴りが続き、物凄い音がしたかと思うと、吾妻(あがつま)川に山のような土砂が流れ落ちて来た。あっと言う間に、吾妻川は土砂で埋まり、川沿いの家々は押し流された。二人が休んでいた茶屋は高台にあったので無事だった。恐ろしい光景を目の当たりにして、二人は震えながら呆然としていた。あんなものが吾妻川に押し寄せたという事は鎌原村も危ないと急いで帰ろうとしたが、橋は流され、川向こうに行く事はできなかった。物凄い量の土砂が滝のように吾妻川に落ち、上流から流れて来る土砂とぶつかり、物凄い音を立てて勢いよく流れて行く。真っ赤に燃えている焼け石も混ざって、煙を上げながら、家々を押し潰し、樹木を押し倒し、人や馬も容赦なく押し流して行く。
西窪(さいくぼ)まで行けば、川向こうに行けるだろうと行ってみたがダメだった。西窪村は全滅していた。土砂と焼け石に埋まり、家は一軒もなかった。西窪がこんな有り様なら浅間山に近い鎌原は絶望だった。二人は家を失った者たちと一緒に大前村を目指した。大前村も全滅だった。街道も埋まり、街道に沿って建つ家々もすべて埋まっていた。山の中を抜けて大笹に着いたのは日暮れ近くだった。大笹は無事だった。二人は一安心して、市太の伯父、黒岩長左衛門を頼った。長左衛門の家には避難民が溢れていた。
長左衛門は避難民のために小屋を建てて、逃げて来た者たちに食事を与え、家を失った者たちを収容した。二人もその小屋で寝起きをしながら、焼け石が冷えるのを待っていた。
永泉坊が来たのは十日の昼過ぎだった。両足を火傷(やけど)して倒れているのを助けられて連れて来られた。永泉坊から観音堂に生存者が五十人余りいると聞き、すぐにでも飛んで行きたかったが行けなかった。
「おめえが生きてんのは永泉坊から聞いて知ってたよ。ただ、俺たちの家族の事はわからねえんだ。どうなんでえ、生きてんのか」
「残念だが」と市太は首を振った。
「‥‥‥ダメだったか」
「‥‥‥ただ、おまんとおさやは生きてるぞ」
惣八と安治は急に目を輝かせて、「よかったなア」と喜び合った。
「あっ、そうだ。おゆうが大笹で待ってんだ」と惣八が思い出して言う。
「草津から来たのか」
「ああ。おしまと一緒にな。勘治は無事なんだんべえ」
「いや、ダメだった」
「‥‥‥おゆうには、とても言えねえ」
惣八が言う通り、おゆうと面と向かったら、市太にも言えそうもなかった。市太は顔を上げて、前を見た。もう中程まで来たのか、焼け石の中に浮かぶ小島のような観音堂の森が近くに見えて来た。すぐ、目の前をおぶさって行く永泉坊の足を眺めながら、「あんな足でどうして、永泉坊は戻って来たんだ」と惣八に聞いた。
「仕上げの祈祷をするそうだ」
「そのためにわざわざ戻って来たのか」
「らしいな。今日は初七日だんべ。亡くなった者たちの冥福を祈るんだそうだ」
「もう初七日になるのか‥‥‥」
市太には今日が何日なのかわからなかった。村がなくなったのが八日だったのは覚えている。余りにも恐ろしい目に会ったため、時間の感覚が鈍り、あれから十日以上も経っているようにも思え、また、二、三日しか経っていないようにも思えた。
「永泉坊は焼け石の上を歩いて大笹まで行ったのか」
「そう言ってたよ。修行を積んでるから、火の上も歩けるんだそうだ」
「ほんとかよ、信じられねえ」
「俺も信じられなかったんさ。それで、しつこく聞いたら、とうとう、ほんとの事を教えてくれた。竹馬に乗って来たんだとさ」
「竹馬か。そうか、そいつア気づかなかった」
「それでも、大笹まで三日も掛かったそうだ」
「そうだんべなア。あん時ゃアまだ、真っ赤に焼けてたんべえ」
観音堂に着くと、おみのはおろくやおかよに手伝ってもらい、お粥(かゆ)を作り始めた。長期間、物を食べていない者に普通の食事を与えると腹を壊してしまうと、断食(だんじき)を何度もやっている永泉坊の指示によって消化のいいお粥にしたのだった。
永泉坊は追い出された事など少しも恨まず、観音堂で祈祷を始めた。自分の事で精一杯だった村人たちは皆、今日が初七日だった事をすっかり忘れていた。足が不自由にもかかわらず、わざわざ、亡くなった者たちのために来てくれた永泉坊に両手を合わせずにはいられなかった。最初に永泉坊を罵(ののし)った山守の隠居、長兵衛は何度も何度も頭を下げていた。
暖かいお粥を食べて、生き返った者たちは永泉坊と一緒に亡くなった者たちの冥福を祈り、観音堂を後にした。
歩く気力もなかった市太と半兵衛も力が出て来た。一番おかしかったのは扇屋の旦那だった。ずっと具合が悪くて、ゲッソリしていたのが、お粥を食べた途端に嘘のように顔色がよくなった。あんなにデブデブと太った男をおぶって行くのは大変だろうと心配したが、何とか一人で歩けそうだ。どうしても歩けない者たちは大笹から来た若い衆におぶってもらい、雨の中、大笹へと向かった。
仙之助は母親を背負い、孫八は祖父を背負い、安治は大工の八右衛門のおかみさんをおぶっていた。丑之助は祖父の長兵衛を背負うのかと思えば、祖父は他人任せにして、おしめを背負い、惣八はちゃっかりとおまんをおぶっていた。
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