2020年4月23日木曜日

天明三年(一七八三)七月九日

 あれだけの土石流を吐き出したので、お山も静かになるかと思えたが、そうではなかった。村が埋まった八日の夜も大音響と共に大揺れが何度も来て、生き残った者たちの恐れと不安をかき立てた。もう一度、土石流が押し寄せたら観音堂も埋まってしまう。逃げようにも逃げる場所はない。一睡もできずに、泣きながら念仏を唱え続けて夜を明かした。
 五人増えて六十六人となった生存者たちは観音堂と若衆小屋に分かれて、降って来る石を避けていた。普段の付き合いによって、自然と四組に分かれた。
 およそ十畳の広さの観音堂にいるのは名主の儀右衛門の妻おさよ、問屋をしていた市太の家族、酒屋だったおみやの家族、旅籠屋をしていた清之丞(せいのじょう)の家族、しめて十九人。要するに家柄のいい人たちだった。
 おさよは干俣(ほしまた)村の名主、干川小兵衛の娘で、夫と三人の息子、母と姉、弟夫婦を亡くして、たった一人生き残った。あまりにも衝撃が強く、泣く事も忘れて、気が抜けたように呆然としている。
 市太の家族は祖父の市左衛門、母のおきつ、兄嫁のおきた、妹のおさやとおくら、叔母のおふさが生き残った。男で生きているのは祖父と市太だけだった。
 酒屋の家族はおみやと弟の平次、叔母と従弟(いとこ)が生き残り、両親と叔父、もう一人の叔母が亡くなった。兄の三右衛門は、その朝早くに大戸(おおど)に向かった。大戸が無事なら生きているかもしれない。
 清之丞の家族は、兄の吉右衛門の妻が亡くなっただけで、後は皆、無事だった。家族が助かったにもかかわらず、清之丞はすべての財産を失ったのは永泉坊のせいだとブツブツ愚痴ばかり言っていた。
 若衆小屋には筵(むしろ)敷きの八畳間が二部屋と十畳の広さの土間があり、部屋の前に一間(けん)幅の縁側がついていた。土間には流しはあるが竈(かまど)はない。火災にあって仮住まいしていた与七と治郎左の家族と、油屋をしていた八弥の家族、十五人が一部屋に収まり、唯一生き残った村役人、百姓代の仲右衛門と諏訪明神の宮守(みやもり)だった杢右衛門を中心に、その近所の者たち十二人がもう一部屋に入り、土間にいたのは若衆頭の杢兵衛夫婦、半兵衛父娘(おやこ)、山守の家族、おかよの姉妹、仙之助の両親、八兵衛の妻おまん、彦七の妻おしめ、おゆうの妹おまち、そして、市太とおろくもそこにいた。
 ギュウギュウ詰めの状態で、体を伸ばす事もできない。真っ暗闇の中、寝不足で溜まった疲労、家族を失った悲しみ、家財産を失った怒り、空腹と蒸し暑さに耐えながら、生き残った者たちは地獄のような長い夜を過ごした。
 朝方になっても小揺れは続いていたが、降る石はやんだ。皆、疲れ果てて、いつの間にか眠ってしまったらしい。市太は丸くなって寝ている人々を避けながら、明るくなった外へと出た。
 強い日差しが目にしみた。空を見上げると青空が広がっている。降り積もった石の上を歩いて観音堂の方に行くと石段の所に座り込んでいる者がいた。足音に気づいて振り返ったのはお頭の杢兵衛だった。他人の事は言えないが、やつれ果てた情けない顔だった。
「やあ、起きたか」
「ひでえ夜だった」と市太もお頭の隣に腰を下ろした。
 元結(もっとい)が切れたので、髪を藁(わら)で縛って茶筅髷(ちゃせんまげ)にしている。格好がいいとは言えないが、天下がひっくり返ったような非常事態、髪形など、とやかく言っている場合ではなかった。
 市太は目の前に広がる焼け石を眺めた。遥か遠くの方まで、焼け石に埋もれている。目の前の異常な景色を眺めながらも、この下に鎌原村があるなんて信じられなかった。何百人もの村人が生き埋めにされたなんて考えたくもなかった。
「まだダメだ」と杢兵衛が言った。「焼け石が熱くって歩けねえ」
「そうか、ダメか」と市太は杢兵衛を見た。
 杢兵衛は遠くを見つめながら、力なく首を振っていた。
「お頭、俺ア一晩中、ずっと考(かんげ)えてたんだが、永泉坊はどこに行っちまったんだ」
 杢兵衛は驚いた顔して市太を見た。「すっかり忘れてたぜ。どこにも行けねえはずなのに、どこにもいなかったなア」
「やっぱり、偉え行者さんで、天狗みてえに空を飛べるんだんべか」
「まさか、空は飛べまい。ただ、火渡りの行(ぎょう)ができるのかもしれんのう」
「そういやア、爺ちゃんがそんな事を言ってたっけ。火渡りの行か‥‥‥永泉坊が隣村にでも行って、この村の様子を知らせてくれりゃア、誰かが助けに来てくれるのになア」
「村人のために寝ずに祈祷をしたあげく、あんな追い出され方をされたんじゃア、まず無理だんべえな」
「そうだな‥‥‥」
「俺はいたたまれねえよ。永泉坊のように追い出された方が余程(よっぽど)、よかったかもしれねえ」
「お頭、何を言い出すんでえ」
「俺が村に帰(けえ)れと言ったばっかりに、ここを降りてった者(もん)がいるんだよ。誰とははっきりと覚えてねえが、五、六人、いや、十人はいるかもしれねえ」
「そんな事を悔やんだってしょうがねえだんべ。あん時は誰も、お山から土砂が流れて来るなんて夢にも思わなかったんだ。お頭はみんなのためを思って、そう言ったんだんべ。自分を責める事アねえや」
「そうは言ったって、みんな、一晩中、泣き明かしてんだ。自分のせいだと思いたくなる」
「お頭、今はそんな泣き言を言ってる時じゃねえ。生き残った者たちを何としてでも、ここから連れ出さなけりゃアならねんだ」
「わかってるよ、わかってる。でもなア、あん時、俺は火事を消してたんだ」
「えっ、火事があったのか」
「ああ、惣八んちが燃えていた。焼け石にやられたんかもしれねえ」
「惣八んちが燃えた‥‥‥惣八の奴はうちにいたのか」
「いや、いなかった。でも、うちにいた者はみんな無事だった。それで、後の事を近所の者に頼んで、俺はここに上がって来た。もし、あん時、俺が火事場にいたら死ななかった者がいるんだ」
「そしたら、お頭が死んでただんべ」
「俺一人で済んだんだ。俺一人が生き残って、十人も死ぬ事アねえ」
「お頭、自分を責めたってしょうがねえよ。亡くなった者たちのためにも俺たちが生きなきゃならねえ」
 足音がしたので振り返るとおろくが立っていた。目が腫れていて顔は青白かった。
「大丈夫か」市太が聞くと、おろくはうなづいた。
「少しは眠れたか」
「少しだけ」
「みんな、起きたのか」
「起きてるようだけど動く気力もないみたい」
「そうだんべな。帰るうちもなくなって、家族も失って、おまけに食う物もねえんだからな。起きろってえのが無理ってえもんだ」
「まだ、焼け石は熱いんですか」
「まだ、ダメだ」
「そうですか‥‥‥あの、あたし、何かする事ないかしら。じっとしていられなくて」
「何かと言っても、やる事といやア、水汲みぐれえしかねえだんべ」
 天気もいいし気分転換にもなるだろうと、市太はおろくを連れて水汲みに行く事にした。おかよも姪っ子を妹のおこうに預けて付いて来た。杢兵衛は半兵衛と一緒に永泉坊がどうやって、ここから出て行ったのかを調べに行った。
「おしめさんがいて、ほんと助かったわ。あたしなんかお乳も出ないし、一晩中泣かれたら、石の降る中、外に出なきゃならなかった」
 子守から解放されて、おかよはホッと息をついた。
「でも、あの子、両親が亡くなったの知らないのよ」
「おめえがおっ母になるしかあるめえ」
「だって、お乳が出ないもん。おしめさん、独りぼっちになっちゃったし、おしめさんがおっ母さんになった方がいいかもしれない」
「そうか。その方がお互えに、いいのかもしれねえなア。いや、お父はまだ死んだと決まっちゃアいねえ。おめえの兄貴だって馬方で出てったんだんべ。生きてるかもしれねえ」
「でも、母ちゃんは死んじゃったのよ」
「やめようぜ、死んだ者の話はよう。切りがねえ」
「そうね。でも、あたしたち、これからどうなるの」
「どうなるのって、生き抜くに決まってべえ」
「そうだけどさ、ここを出た後、どこかに避難するんでしょ。その後の事さ。また、この村に戻って来るわけ」
「村なんか、もうねえや。田畑もすっかりなくなっちまった。こんなとこに戻って来たってどうしょうもねえじゃねえか」
「それじゃア、どうするのさ。みんなバラバラになって、あちこちの村に住み付くの」
「そんな事アわからねえ」
「若旦那たちは大笹の問屋が親戚だから、何とかなるだろうけど、あたしたちなんか頼れる親戚なんかありゃしない。どうしたらいいのかわからないよ」
「何とかなるさ。大笹で茶屋を始めりゃいい」
「無一文なんだよ。そんな事できっこない」
「みんな無一文だ」
「もう、どうしたらいいのさ。こんな事なら、いっその事、死んじゃった方がましだよ」
「なに言ってんでえ。せっかく、生き残ったんにそんな事を言っちゃア、死んでった者たちに申し訳が立たねえ。土砂の下には五百人もの村の者が埋まってんだぜ。みんな、死にたかアねえのに、突然、死んじまったんだ」
 おかよは黙り込んだ。おろくはずっと黙っている。
 三人は森を抜けて、かつて大笹道が通っていた谷間に出た。土砂がすっかり谷間を埋めている。左右両方から、まだ焼けている黒い火砕流(かさいりゅう)が押し寄せていたが、つながる事はなく、歩く事ができた。そこを抜けて、また森の中に入り、しばらく登って行くと古井戸に着く。
 昔はここから村の用水を引いていたらしいが、いつの頃か、水量が減ってしまって、お山の中腹にある水源から引くようになった。それでも涸れる事はなく、村人たちは畑への行き帰りに飲み水として利用していた。昨日、土砂を掘り返したので、岩の間からチョチョロと綺麗な水が流れ出している。
 おかよは水をすくうと飲み、顔を洗った。「ああ、冷たい。おろくさんもどうぞ。気持ちいいわよ」
 おろくはうなづいて、水を飲んだ。
「これじゃア水浴びはできないわね」とおかよは手拭いを濡らして首を拭いた。
「うめえなア」と市太も水を飲み、手拭いを濡らすと、諸肌を脱いで汗ばんでベトベトしている体を拭いた。「おめえたちも遠慮する事アねえや。体を拭けよ。気持ちいいぜ」
「だって‥‥‥」とおろくが恥ずかしがる。
「わかったよ。俺が見張っててやらア」
 市太は少し下まで降りて行き、二人に背を向けた。二人は安心して体を拭き始めた。
「おろくさんも独りぼっちになっちゃったのね」
「ええ。これからどうしたらいいのか、ちっともわからないわ」
「大丈夫よ。おろくさんは若旦那に付いてけばいいのよ。どうせ、一緒になるんでしょ」
「でも‥‥‥」
「もう面倒を見る家族もいないんだし、これからは若旦那と一緒に、好きに生きればいいのよ」
「‥‥‥」
「あっ、ごめん。そんな意味で言ったんじゃないの。家族の分まで幸せになれって事よ」
「今、思うと、あたしたちが助かったのは叔父さんのお陰なの。叔父さんが観音堂に行くって駄々をこねなければ、あたしも市太さんも‥‥‥」
「そうだったの。あたしだって、おこうがいなくなったから捜しに来て助かったのよ。お店の片付けをしてたら今頃は‥‥‥」
「おい、誰か、来たぞ」と市太が言った。
 二人は慌てて、着物の袖を通した。
「若旦那、見たわね」とおかよが睨む。
「なに言ってんでえ。兄貴と一緒に草津に行った時、みんなで湯に入ったじゃねえか。おめえは酔っ払って裸踊りもしたんだぜ」
「嘘ばっかし。裸踊りは鉄つぁんだろ」
「そうだっけ。兄貴も面白え踊りを色々と知ってたな」
 やって来たのは扇屋の吉右衛門と清三郎。
「早えな」と吉右衛門は市太たちを見る。「弟の具合が悪くなってな、どうも、熱があるようなんだ」
「扇屋の旦那が」と市太は聞く。
「ブヨブヨ太ってるからな、腹が減り過ぎたんだんべえ」
「そいつア大変だ。みんな、弱ってるから気を付けなきゃならねえ」
「ああ、わかってる。江戸にいた時、火事に会って焼け出された事があるんだ。お救い小屋に避難したんだがな、そん時、流行(はや)り病(やめえ)で死んでった者が多かった。食い物を貰っても病になるんだ。食い物がなかったらたまらねえ。早いうちに、ここから出ねえとせっかく生き延びたのに病にやられる者が出て来る」
「流行り病か。気を付けなきゃならねえな」
 吉右衛門と清三郎は水を汲むと戻って行った。市太たちは持って来た桶をその場に置いて、さらに奥へと入って行った。
 森を抜けると畑に出た。見晴らしがよく、浅間山がよく見えた。相変わらず黒煙をモクモク上げている。軽井沢方面の空は真っ黒だった。浅間山の姿は変わりなかったが、その下に広がる景色はまったく違っていた。山頂から伸びていた黒い舌はさらに広がって山裾まで伸びている。山裾にあった原生林はすっかり土砂に埋まって、所々に倒れた大木がゴロゴロ転がり、土砂の上を覆(おお)っている焼け石からは煙が立ち昇っていた。まさに、灼熱(しゃくねつ)地獄を思わせる恐ろしい風景だった。
「信じられない‥‥‥」
 おかよもおろくも目(ま)の当たりにした荒涼とした景色を呆然と眺めていた。畑に行けば何か食べる物があるかもしれないと思ったのに、やはり無駄だった。度重なる砂にやられて作物は全滅していた。
 市太は畑の上に横になって空を見上げた。父親と兄、叔父と三人の従弟妹(いとこ)が亡くなったなんて、どうしても信じられなかった。兄がいなければ問屋が継げると思ってはいたが、問屋どころか村までがなくなってしまった。反対していた父親や村役人たちもいなくなり、おろくと一緒になれても貸本屋もやれない。おかよには、どうにかなると言ったが、家族とおろくを抱えて、この先、どうしたらいいのか、さっぱりわからなかった。
 いつの間にか眠ってしまったらしい。おろくに起こされて目を覚ますと空は曇って、雨がポツポツ降っていた。
「あれ、今、何時(なんどき)だ」
「わからないけど、四つ(午前十時)頃じゃないかしら」
「もう四つか。一時(いっとき)も寝ちまったか。おめえは起きてたのか」
「あたしもウトウトとしちゃった。おかよさんはまだ寝てるわ」
 左を見るとおかよは着物の裾を乱し、足を投げ出して気持ちよさそうに眠っていた。
「あまり寝相がいい方じゃねえな」
 市太が揺り起こすと、おかよは跳び起きて、「あれ、ここはどこ」と寝ぼけた。
「ここはな、極楽浄土さ」
「馬鹿言わないでよ。あたしゃまだ死んじゃいないわよ」
「おめえ、鉄つぁんて寝言を言ってたぜ」
「あら、ほんと」とおかよは市太の後ろで笑っているおろくの顔を見た。
 おろくは首を振った。
「このデホーラク(嘘つき)が」
「いけねえ。本降りになって来やがった」
 三人は慌てて森の中に入り、水を汲んで観音堂へと戻った。

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目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...