2020年4月3日金曜日

天明三年(一七八三)六月九日

 村芝居を上演するには役者は勿論の事、下座(げざ)と呼ばれる義太夫語り(チョボ)と三味線、笛や大小の鼓(つづみ)、鉦(かね)や太鼓はなくてはならない存在だった。役者は若衆組(わけーしぐみ)が中心になって演じるが、下座は大人たちが担当した。市太の祖父、市左衛門とおろくの兄、甚太夫が稽古をつけている。その他に衣装やカツラ、大(おお)道具、小道具が必要だった。
 衣装はお頭の妻おすみが中心になって女衆(おんなし)が縫っている。高価な布は使えないが、それなりに工夫してやっている。カツラは七右衛門という手先が器用な男がいて、馬の抜け毛を集めて作っている。村で芝居が始まったのは、もう五十年も前の事、その頃はカツラもお粗末で、まるでお化けのようだったという。年々、工夫して、今では玄人(くろうと)顔負けのカツラを作っていた。
 大道具は舞台の背景や建物、樹木や岩などで、大工の八右衛門と桶屋(おけや)の利右衛門が担当して、絵は幸助が担当している。まだ、舞台上には大道具はない。大道具を舞台に上げて稽古が始まるのは七月になってから。それでも、すでに組立式の建物や張りぼての岩や樹木はできていた。背景の絵は幸助が鉄蔵の意見を参考にして、すでに描き始めている。
 小道具は役者が身につけたり、手に取ったりする小物で、担当しているのは馬医者の八兵衛。妻のおまんと一緒に小道具を集めている。子供がなく、二人だけで暮らしているので、家の中は小道具で埋まっていた。
 おろくのお陰で衣装ができたので、市太は惣八を誘って、小道具を見に八兵衛の家に向かっていた。先月の末に噴火した浅間山も静まり、ここ二、三日、いい天気が続いている。ようやく、夏らしい暑さになって来た。
「おまんはどうでえ。うまく行きそうか」と市太は惣八の顔色を窺いながら聞く。
「勿論さ」と惣八はニヤニヤしながら、「おめえの方はどうなんでえ」と市太を見る。
「まあな、うまく行ってるよ」市太も昨夜の事を思い出しながらニヤニヤする。
「負けたとしても、おろくを抱けるわけだ。楽しみだぜ」と惣八は肘で市太を小突く。
 そんな事は絶対にさせねえと思うが、顔には出さず、「俺だって、おまんを抱けるたア楽しみだ」と市太も強がる。
「そいつは俺の物(もん)だぜ」惣八は自信ありげに市太が腰に下げた煙草入れを顎(あご)で示す。
「なに言ってやがる。おめえの匕首(あいくち)こそ、俺の物さ」
「まあ、お互え頑張ろうぜ。勘治じゃねえがよう、俺アおまんをものにしたら、スッパリと堅気(かたぎ)に戻ろうと思ってんだ」
「ほう」と言いながら、市太は惣八の顔を見る。惣八は遠くの方を見つめていた。
「稼業に励むのか」と市太は聞く。
「まあな。江戸屋の旦那から硫黄(いおう)稼ぎで使う炭を一手に扱わねえかと話があったらしい」
「へえ。しかし、万座の炭は干小(ほしこ)の旦那が仕切ってんだんべえ」
「そうなんだが、干小の旦那もあっちこっち手を広げてるから、炭まで手が回らねえんだんべ。詳しい事ア知らねえが、その話が決まりゃア俺がやる事になる。親父ももう年だからな、そろそろ、俺も身を固めねえとな」
「おなべと一緒になるのか」
「親同士も決めてるらしいし、一人で村を出るより、おなべと一緒の方がいいだんべ」
「その前(めえ)に、おまんと一発、決めてえってわけか」
「そういうこった。だがな、やたらと路考(ろこう)の奴が出入りしやがって、まったく邪魔だぜ」
「そういやア、路考んちは隣だったっけ。奴も桔梗屋の姉さんを先生に寝取られて、今度はおまんを狙ってんじゃアねえのか」
「そうじゃねえんだ。おまんが路考の衣装を縫ってんだよ」
「ほう、路考の衣装はおまんが縫ってんのか」
「奴は三幕目で典侍(すけ)の局(つぼね)、四幕目じゃア若葉の内侍(ないし)の役だ。典侍の局の方をおまんが縫ってんだけど、それが十二単衣(ひとえ)なんだ。ああじゃねえ、こうじゃねえって、さんざ文句を言ってるぜ。そういやア、権太の衣装はおろくが縫ってるらしいぜ」
「ああ、知ってるよ」
「ほう、そうかい。いい線行ってるようじゃねえか」
「まあな。おめえじゃねえが、一発決めて、江戸におさらばするんさ」
「それにしてもよう、おろくなんか、そんなにいいかね。まあ、面(つら)は悪かアねえが、何を考えてんだかわかんねえとこがあるからな。まあ、親父に見つからねえように、うまくやるこったな。あの親父を怒らせたら半殺しにされるぜ」
「てめえこそ、気を付けるこった。八兵衛に見つかったら、それこそ片輪にされるぜ。怪我した馬を担(かつ)いじまう程の馬鹿力だ。骨の一本や二本、折られる覚悟はしとけよ」
「わかってらア。そんなドジは踏まねえ。それより、おめえ、稼ぎ口は決まったんか」
「決まらねえ。どうにかならアな。鉄蔵の兄貴もいるしな」
「兄貴はまだ帰(けえ)らねえのか」
「ああ。おかよが首を長くして待ってらア」
「おかよも本気で惚れちまったようだな。兄貴と一緒に江戸に行くのかなア」
「さあな。兄貴もまだ、それ程、売れてる絵画きじゃねえからな、まだ、所帯(しょてえ)を持つ気はねえだんべ」
「他所者(よそもん)に惚れりゃア、泣きを見るんは充分、承知してるだんべに、おかよの奴もやっぱり女だな」
 諏訪の森を越え、桔梗屋を過ぎて二軒先の左手に延命寺への参道がある。延命寺は浅間大明神の別当(べっとう)を務める古くからの天台宗寺院で村の菩提寺(ぼだいじ)。浅間焼けが続くと村役人たちが集まって、ここで祈祷(きとう)が行なわれる。観音堂も、市太の家の裏の方にある十王堂も、村外れにある熊野権現(ごんげん)、飯縄(いいづな)権現、神明宮(しんめいぐう)、八幡社も皆、延命寺が管理している。和尚や役僧の他に若い僧たちも修行に励んでいた。
 参道の向かいに勘治の家、鶴屋がある。江戸から帰って、すぐに草津に行った勘治はその後、今月の四日、おゆうに会いに草津に行った。その時は、市太と惣八も、おなつ、おなべを連れ、鉄蔵とおかよも一緒に行った。鉄蔵は大喜びで絵を描きまくっていた。桐屋という料理屋にいる雪之助も呼んで、大騒ぎをして楽しんだ。
 おゆうは思っていたより元気だった。壷(つぼ)と呼ばれる客室の掃除をするため、壷廻り女と呼ばれる仕事で、客に頼まれれば町の案内をしたり、食事を共にしたりもする。おゆうは器量よしで三味線もうまいので、客たちに引っ張り凧(だこ)の人気だという。勘治としては気が気でなく、早く嫁に迎えたいと思っているが、おゆうは結構楽しくやっているようだった。
 参道を過ぎると百姓代を務める仲右衛門の家があり、その隣は組頭の新右衛門、新右衛門の娘、おきよは娘義太夫をおなつと競い合っている。おきよに惚れているのが幸助で、奥手の幸助はおきよの前に立つと何も言えない。おきよを美人絵に描いて口説こうと鉄蔵から教わって、今、描いているらしいがどうなる事やら。おきよの家の隣は二代目の権太をやった孫右衛門、その隣は大工の八右衛門、一軒おいて桶屋の利右衛門の家がある。利右衛門の妹、おみよといい仲なのが、幸助の弟の伊之助。兄と違って手が早い。桶屋の隣が安治の家で、通りを挟んで向かいが馬医者、八兵衛の家だった。
 鎌原村には馬が二百頭もいるので何かと忙しい。おまけに馬方たちも年中、怪我をしている。病気の治療はできないが、怪我の治療は八兵衛が任されていた。
 門口(かどぐち)で声を掛けて縁側の方に回ると、鎌原路考こと権右衛門が来ていて、縫い事をしているおまんと何やらいい雰囲気で話をしている。惣八は顔をしかめて市太を振り返り、愛想笑いを浮かべて二人に挨拶をした。
 惣八が夢中になるのもわかる程、おまんはいい女だった。お頭、杢兵衛の妹で、嫁に行く前は惣八の家のすぐ近くに住んでいた。惣八よりも四つ年上で、ガキの頃からずっと憧れていたらしい。
 女形(おんながた)の権右衛門は勿論、普段は男の格好をして馬方をやっている。色が白く細面(ほそおもて)でなで肩、普段の仕草も女そのもの。市太以上に芝居に命を懸けていて、馬方をしている時は日に焼けないように顔や手足はいつも隠している。かといって、男色(なんしょく)好みではない。長い事、桔梗屋のおゆくとできていて、女の仕草はおゆく仕込みらしい。
「あ~ら、若旦那じゃない。お珍しいこと」
 そう言ったのはおまんではなく、権右衛門。「今度のお芝居じゃ、若旦那とのからみの場面がなくて残念だわ。来年は是非とも、やりたいわね」
「そうだな」と市太も愛想笑いをしながらうなづく。
「惣やんはまたお手伝い? 毎日、大変ね」
「うるせえ。俺アな、先生に頼まれて手伝ってんだ」
「そうだったわね。あんたんちはお金持ちだから、いい小道具を買い集めてよ」
「うるせえってえんだよ」
「おかみさん、気を付けた方がいいわよ。惣やんはおかみさんがお目当てなのよ」
「何を言ってやがるんだ。この野郎」
「まあまあ、二人ともよしなさい。そんな事ないわよ、ねえ。惣八さんは小道具に興味を持っただけなのよ。小道具方(がた)なんて裏方だから、どうでもいいように思われがちだけど、お芝居は小道具次第で、よくも悪くもなるのよ。あたしもようやく、その事に気づいたの。うちの人も張り切ってやってるんだけど、何かと忙しいでしょ。惣八さんが手伝ってくれるので、本当に助かってるのよ」
 おまんが入れてくれたお茶を飲んでいると、近所の馬を診に行っていた八兵衛が帰って来た。路考は若葉の内侍(ないし)の衣装を見て来ようと、おまんの義理の姉に当たるおすみのもとへと出掛けて行った。市太と惣八は上がり込んで、いがみの権太の小道具を見せてもらった。
 『義経千本桜』の四幕目、下市村(しもいちむら)の場(椎の木)に初めて登場するいがみの権太は旅支度で、平維盛(たいらのこれもり)の妻、若葉の内侍と息子六代君(ろくだいのきみ)の供をして来た若侍、小金吾(こきんご)に難癖(なんくせ)をつけて金をゆすり取るという筋だった。
 八兵衛は三度笠に合羽(かっぱ)、革籠(かわご)に風呂敷包み、革籠の中に入れる手拭いや浴衣(ゆかた)、煙管(きせる)に煙草入れを見せてくれた。
「まあ、こんなもんだんべ」
「他の物はいいが、この煙草入れに煙管はサマにならねえな」と市太は言う。
「そいつは俺が前に使ってた物だ。重要な場面に使う煙管だと、もっと大振りのを捜すんだが、ちょっと一服するだけだ。それでもいいと思ったんだ。何なら、おめえが自分のを使っても構わねえよ」
「そうするよ。こいつを使う」と腰の煙草入れを示す。
「ああ、そうしな。権太の小道具は簡単だったが、知(とも)盛(もり)は難しいぜ。まあ、難しけりゃ難しい程、やり甲斐(げえ)があるってえもんだがな」
 市太は八兵衛が集めた小道具を色々と見せてもらった。今まで、小道具の事などあまり考えなかったが、様々な小道具を見せてもらうと、小道具の重要さというものが身にしみてよくわかった。
 惣八が八兵衛に頼まれて小道具を捜しにどこかに行くと、市太も八兵衛夫婦と別れて、ブラブラと表通りに出た。このまま、おろくの家に行きたかったが、父親がいるので行きづらい。昨夜、一緒に酒を飲んで、芝居話で弾んだが、やはり、苦手な存在だった。
 桔梗屋の前の用水では汗をかいた馬が六頭、水を飲んでいる。桔梗屋を覗くと他所から来た馬方たちが休んでいる。忙しそうなので、顔を出すのはやめ、古着屋の前を通るとおなつに声を掛けられた。おなつに誘われるまま、おなつの部屋に行き、おなつが弾き語る『お染久松』を聞いていた。
「ねっ、もし、あたしが舞台に上がったら、江戸に行っても、これで何とかなるわよね」
 おなつはすっかり、市太と一緒に江戸に行くつもりでいた。

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目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...