朝早くから観音堂は賑やかだった。女衆(おんなし)は食事の支度を始め、男衆(おとこし)は小屋の中を片付けたり、庭の掃除をしたり、大笹から借りた提燈(ちょうちん)を飾り付けている。
今日はお諏訪様の祭りだった。本来なら、諏訪明神の参道に露店がズラリと並んで、笛や太鼓が鳴り響き、境内にある舞台で芝居が上演されるはずだった。今はお諏訪様も舞台もない。それでも、ずっと働き詰めだった者たちの気分転換と、助けてくれた大笹の人々に感謝するため、観音堂において、ささやかな祭りをしようと皆で決めたのだった。
芝居はもうできない。三幕目で生き残ったのは、知盛(とももり)役の杢兵衛と典侍(すけ)の局(つぼね)役の権右衛門だけで、義経も弁慶もいなかった。四幕目で生き残ったのは、いがみの権太役の市太と若葉の内侍(ないし)役の権右衛門、駕籠(かご)かき役の丑之助と仙之助だけで、権太から金をだまし取られる小金吾(こきんご)も、権太の妻の小せんもいなかった。そこで、前座にやる予定だった娘義太夫をやる事に決まった。おなつも、おきよも、おなべもいなかった。でも、おゆうがいた。おかよもできるし、おさやとおみやもいた。皆、稽古をしていないので自信がないと辞退したが、舞台もないし、稽古のつもりでやってくれればいいと言われて引き受けた。
やがて、大笹からゾロゾロと人々がやって来た。おみのが祝いの酒を持って来てくれた。藤次は香具師(やし)を連れて来てくれた。露店も並んで、大分、祭りらしくなって来た。まだ足の火傷(やけど)が治らない永泉坊も来てくれ、観音堂で亡くなった者たちの冥福(めいふく)を祈る祈祷(きとう)をしてくれた。大笹や干俣(ほしまた)にいた村人も集まって来た。
市太の家族たちも来た。祖父の市左衛門は馬の背に乗ってやって来た。もう七十を過ぎているのだから当然だが、急に老け込んでしまったようだった。
「わしもみんなと一緒に村作りをしたいんじゃが、体の方が言う事をきかん。すまんのう」
「いいんだよ、爺ちゃん。ちゃんとしたうちができるまで、大笹にいてくれよ」
「おまえと半兵衛が村作りを始めたと聞いた時は本当に嬉しかったぞ」
「爺ちゃんが言ってた、本当にやりてえ事ってえのが、やっと見つかったんだ」
「そうか、そうか」
市左衛門は目を潤ませながら、何度もうなづき、孫の姿を見つめていた。
「爺ちゃん、村を見てくれ。まだほんの少しだけど、焼け石も掘り返して、今、新しい小屋も建ててるんだ。藤次のお陰で、大笹の若衆が毎日、手伝ってくれる。みんな、喜んで、ただ働きをしてくれるんだ」
「そうか。無駄に喧嘩ばかりしてたんじゃなかったな」
「うん、いい奴さ」
「市太郎、あたしはもう何も言いませんよ」と市左衛門の隣にいた母親が言った。
「おさよさんから、おまえがしている事をよく聞きました。もし、お父さんが生きていたとしても、おまえと同じ事をしたでしょう。村のために頑張って下さい。それと、おろくの事も反対はしません」
「母さん‥‥‥」市太は心の中でお礼を言った。
母親は祖父を連れて、村の方に降りて行った。
「兄ちゃん、よかったね」と笑うと妹のおさやとおくらは女衆の所に行って、手伝い始めた。
「市太、わしも仲間にいれてくれ」と叔父の弥左衛門が言った。
「仲間だなんて、村の者はみんな一緒だ」
「子供たちを失って二人だけになり、馬方たちも死なせてしまった。思い出すのが辛くてなア。村を離れて、二人だけでどこかで暮らそうと思ってたんだが、どこに行ったって忘れる事などできやせん。もう、逃げるのはやめにしたよ。わしらも村に戻る事に決めた。亡くなった者たちのためにも、新しい鎌原を作らなけりゃならんと気づいたんだ。わしも一緒に働くよ」
「叔父さん‥‥‥」
弥左衛門は市太にうなづくとやつれた妻を連れ、祖父たちを追って村に降りて行った。
怪我をした父親の手当をするために大笹にいたおゆうとおまちの姉妹も来た。
「今日は頼むぜ」と市太が言うと、
「任せといて」とおゆうは胸をたたいた。「おなつやおなべも、きっと聞いてるだろう。二人に負けないように頑張るよ」
扇屋の旦那も三味線を抱え、家族を連れて、ニコニコしながらやって来た。
「おまえたちのやってる事は気に入らないが、今日は祭りじゃ。その事は忘れてやって来た。わしにも義太夫をやらせてくれ」
以前、甚太夫から義太夫を習っていた旦那衆は皆、亡くなり、生き残っているのは扇屋の旦那ただ一人だけだった。
「お願いしますよ、旦那。久し振りに自慢の喉を聞かせて下せえ」
市太は逆らわなかった。娘義太夫だけでは間が持たず、祖父の市左衛門にもやってもらおうと思っていたのだった。
「おさよさんをうまく騙(だま)したようじゃが、わしはそう甘くはない。今に見ておれよ」
市太は何も言わなかった。
油屋の家族も来た。山守の家族も来た。丑之助の兄、八蔵はまだ正気に戻らないらしい。
伯父の長左衛門と干小(ほしこ)の旦那が揃ってやって来た。驚いた事に、大戸(おおど)の加部(かべ)安左衛門も一緒だった。三人は吾妻郡(あがつまごおり)の三分限者(ぶげんしゃ)と呼ばれる金持ちだった。加部安(かべやす)は四十年配、黒長は五十年配、干小は七十に近かった。
「結構な祭り日和(びより)じゃ」と長左衛門は言って、甥の市太を干小の旦那と加部安の旦那に紹介した。
「昨日、加部安の旦那が被災地を見にやって来てな、祭りの事を話したら、是非、行きたいと言ったんじゃよ。加部安の旦那も、この村のために援助したいと言っておる」
「しかし、ひどいもんじゃな」と加部安は顔をしかめて首を振った。「村がそっくり埋まってしまうとは、まったく信じられん事じゃ。大戸にも様々な噂が流れて来て、天と地が引っ繰り返ったような騒ぎじゃったが、実際に見てみると予想以上の悲惨さじゃ。新しい村を作るそうじゃな。わしもはばかりながら力になろう」
「ありがとうございます。三人の旦那にそう言っていただけりゃア、みんなの励みになりますよ」
「市太、祭りの前にちょっと話があるんじゃが、村の者を皆、集めてくれんか」と長左衛門が言った。「見たところ、大笹と干俣に分かれていた者たちも、今日はほとんど、来ているようじゃ」
「はい、わかりました」
三人の旦那が今後の村作りのための話をするのだろうと、市太は村人たちに新しい小屋の方に行ってくれと声を掛けて回った。
村人たちは何事だと、ゾロゾロと石段を降りて行った。石段に被っていた焼け石も剥(は)がされて、十三段だった石段が十五段になっている。一尺程の厚さの焼け石が掘り返されて、細い道が続いていた。村人たちはその細い道を歩いて行き、焼け石の中に用水が流れているのを見て、歓声を挙げた。
大笹や干俣にいて、ただ嘆き悲しんでいた者たちにとって、それは信じられない光景だった。黒い焼け石の中を綺麗な水がキラキラ輝きながら流れている。それは希望の光だった。村人たちは用水に掛け寄ると、水を手ですくって飲んだ。それはまさしく、鎌原の水だった。大笹や干俣の水とは微妙に違う。生まれてから、ずっと飲んでいた水だった。村の者たちはその水を飲んだだけで感動して、知らず知らずに涙が流れて来た。
まだ、柱と屋根だけの小屋に鎌原村の生存者が集まった。怪我人と病人を除き、村人たちが集まるのは久し振りだった。
「みんな聞いてくれ」と長左衛門が言った。
ざわついていた村人たちは黙って、三人の旦那の方を見た。
「まあ、座って、話を聞いてくれ」
村人たちが座ると長左衛門は話し始めた。
「わしら三人で相談したんじゃが、この村の再建のために、惜しまず協力する事にした」
村人たちの拍手と歓声が挙がった。
「そこで、みんなに頼みがあるんじゃ。新しい村を作るというのは大変な事じゃ。まして、村人のほとんどは亡くなってしまった。まだ正確な数はわからないが、生存者は百人前後じゃと思う。以前は六百人近くいたのじゃから、五百人近くは亡くなった勘定となる。これだけの者が亡くなってしまえば、以前のような村に戻す事は不可能じゃろう。家族がみんな揃ってるうちもあるまい。鎌原村は古い村で、家柄だの身分なども古くからの掟に従って来た。しかし、今、そんな古い掟に縛られたら何もできなくなってしまう。そこで、ただ今から、ここにいる者たちは皆、血のつながった一族だと思い、今後、身分差などなく、皆、平等だと思うようにお願いしたい」
「そんな馬鹿な」と扇屋の旦那が反対した。「わしが持ってた土地はどうなるんじゃ。家財産を失って、土地まで失ったんでは生きては行けん。たとえ、旦那方の意見でもそればかりは聞く事はできん」
「扇屋の旦那の言う事もわかる。先祖代々伝えて来た土地を失うのは辛い事じゃろう。しかし、その土地もすっかり焼け石に埋まってしまっている。焼け石を掘り起こしても、その下はお山から流れて来た土砂がある。耕してみたところで、以前のような田畑に戻るとは思えん。山にしたってそうじゃ。樹木はほとんど土砂に流されてしまっている。以前のごとく、森に戻るのは何十年、いや、百年以上掛かるかもしれん。そんな土地にこだわって、村作りに反対しても仕方ないじゃろう」
「しかし‥‥‥土地の事は百歩譲って諦めたとしよう。しかし、身分差を無くさなくても」
「いや。新しい村を作るには、まず、家族を作らなければならん。子孫を残さなければ、せっかく作った村も潰れてしまう。そのためには、夫をなくした者は、妻を亡くした者と、親を亡くした子供は、子供を亡くした親と一緒になって、新しい家庭を築かなくてはならん。家柄が違うだの、身分差があるなどと言ってはおれん。今、ここにいる者たちは皆、財産もなく、はっきり言って無一文じゃ。皆、同じ所に立っているんじゃ。皆、平等の立場から新しい村を協力して作って行くんじゃよ」
「そんな‥‥‥よう、油屋の旦那、旦那も反対してたんべ。何か言ってやれ」
扇屋の清之丞は油屋の八弥を促した。
「ああ、わしも反対していた。だが、考えが変わった」と八弥は言った。
「何じゃと。どうして考えを変えるんじゃ。土地をすっかり取られちまうんだぞ」
「ああ、わかってる。ここに来るまでは、わしもはっきり反対じゃった。しかし、あの水を、用水の水を飲んだ時、わしは目が覚めたんじゃよ。わしはまだ生きてるってな。わしの隣に住んでた駒屋の一家はみんな死んだ。久兵衛の一家も、弥五左(やござ)の一家も、桶屋の一家も、桔梗屋の一家も、塩屋の一家も、みんな死んじまったんじゃ。生きてるだけでも感謝せにゃアいかんのじゃ。あの水がまた飲めるだけでも感謝せにゃアいかんのじゃよ。土地や家柄なんか、もういい。みんなで新しい村を作って行こうじゃねえか」
亡くなった者たちを思い出して、皆、目を潤ませていた。それでも、油屋の旦那が言った事に、そうだそうだと言いながら拍手をしていた。清之丞はまだ諦めず、村役人でただ一人生き残った仲右衛門を促した。
「わしは家族をみんな失った。今はまだ、村の事まで考えられねえ。百姓代の役は返上する。もう、わしを頼りにしねえでくれ」
「村役人の事はまた後で決める事にしよう」と長左衛門が言った。「こうなると、反対しているのは扇屋の旦那だけになるが、まだ、一緒に村作りをしようという気にはなれんかな」
「そんなのなれんわ。お上のお役人様に訴えてやる」
「それは無理じゃと思うがな」
「そんな事はない。土地を奪い取るなど、無理難題が通るはずはない」
「お上のお役人様もやがて来るじゃろう。お役人様の役目は早いうちに村の再興をはかり、年貢が滞(とどこお)りなく納められるようにする事じゃ。ただ一人、村作りに反対しているとなると、逆にお咎(とが)めを受けるかもしれんぞ」
「そんな‥‥‥」
「扇屋の旦那」と干小の旦那が声を掛けた。「去年、旅籠屋を建て直した時、貸してあった金があったのう。あれはいつ返してくれるのかな。確か、期限は来月じゃと思ったが」
「旦那、何も今、そんな事を」
「話を聞いていると、皆、無一文じゃという。もしかしたら、返してもらえんのじゃないかと心配になったんじゃ。確かに、来月、返してくれるんじゃな」
「いや、それは‥‥‥旦那、冗談はやめて下せえ。村がこんな有り様だってえのに、そんな事、無理に決まってるじゃねえですか」
「なに、返せないのか。返せないとなると困った事になる。お上(かみ)に訴えなくてはなるまいのう」
「そんな、旦那、何を言ってんです」
「確か、土地が抵当じゃったな。焼け石に埋まった土地など貰っても役にも立たんが、まあ、いいじゃろう。おまえが持っていた土地をすべて貰おう。そうすれば、借金は帳消しにしよう」
「そんな無茶な」
「どうする」と長左衛門が聞いた。「干小の旦那が帳消しにしてくれるそうだ」
「そんなの無茶苦茶だ」
「そうとは思えんぞ。今の状態じゃア、いつになったら借金が返せるか、まったくわからんじゃろう。この先、家を建てたりすれば借金はなお、かさむ事になる。役に立たん土地を手放して借金が帳消しになれば、何の負担もなく生きて行けるぞ」
「畜生、みんなで寄ってたかって‥‥‥」
「親父、みっともねえよ」と伜の清三郎が言った。「みんなが必死になって、新しい村を作ろうとしてるのに、土地なんかにこだわって。俺はみんなとやるよ。親父が反対したって、俺はやるよ」
「清三郎‥‥‥」と言いながら、清之丞は妻の顔を見た。
妻は泣きながら首を振っていた。
「わかったよ‥‥‥帳消しにしてくれ」
「やったぜ」と惣八が叫び、市太に向かって拳を振り上げた。
「よし」と長左衛門は干小の旦那を見ながら、満足そうにうなづいた。「これで反対する者はいなくなった。村人が一つになったわけじゃ。前にも言った通り、血を分けた一族だと思って、今後は皆、平等だと思うようにしてほしい。急に言っても無理じゃろうが、夫を失った者は妻を失った者と一緒になって、家庭を築いてほしい。言いたい事はそれだけじゃ。みんなが一つになった所で、祭りを始めようか」
「当然の事じゃが、鎌原様は例外じゃ」と干小の旦那が付け足した。
皆、ゾロゾロと観音堂へと戻った。
「うまく行ったな」と半兵衛が市太の側に来て言った。
「ああ、よかった。まさか、三人の旦那があんな事を言うたア思ってもいなかった」
「おさよさんじゃよ」と半兵衛は笑った。「おさよさんが旦那たちを説得したらしい」
「そうだったのか。昨日、大笹に帰っちまったから、やっぱり、こんなとこで一緒に暮らすんは無理だったんかなって思ってたんだ」
「いや、そうじゃねえ。あの人は頭のいい人じゃ。俺たちが村の者をまとめるのに苦労してたのに、あっと言う間に、村を一つにまとめちまった」
「そうだなア。まさしく、あっと言う間だ。おさよさんがここに来たのは三日前(めえ)だ。たったの三日で村人をまとめ、新しい小屋まで立て始めた。大(てえ)した人だ。あんな人が今まで表に全然、出て来なかったなんて信じられねえ」
「何が信じられないの」とおろくが口を出した。一緒におさよがいた。
「なアに、いい村ができそうだって話してたのさ」
「あたしたちもよ。でも、みんなが戻って来ちゃったら、あの小屋だけじゃア足らなくなるでしょ。三人の旦那さんがいるうちに、もう一つ、小屋をお願いしようって言ってたの」
「おう、そうだな。おさよさん、お願えしますよ。そういう事ア、おさよさんに任せるのが一番だ」
「ええ、頼んでみるわ」
祭りが始まった。祝い酒が配られ、キビ餅(もち)も配られた。
「大(てえ)した事アできねえが、今日は存分に楽しんでくれ」と市太は藤次に感謝を込めて言った。
「娘義太夫が出るそうじゃねえか。大笹には義太夫を語る娘はまだいねえ。また、鎌原に先越されちまったな」
「なアに、まだ真似事さ。ほんとは、おなつがやるはずだった。真剣に稽古に励んでたのに残念だ」
「おなつってえのは、あのおなつか」
「そうさ。村の代表に選ばれたんだ」
「へえ、あいつがなア。そいつア是非、聞きたかった」
「おなつの代わりにおゆうがやるよ。是非、聞いてやってくれ」
「おう、楽しみだ」
若衆小屋の奥の部屋を舞台に見立て、おゆうが義太夫の弾き語りを始めた。
「故郷(ふるさと)は大和(やまと)五条に名のみして、今は浪速(なにわ)の上塩町(うえしおまち)、格子作りも小作りに、三輪の山本ならね共、杉立つ軒(のき)の酒ばやし~」
草津で覚えたという『艶姿女舞衣(あですがたおんなまいぎぬ)』の『酒屋』の場。今日の招待客、大笹の者たちは手前の部屋と縁側に座ってもらい、入り切れない者たちは土間に座って聞いてもらった。村の者たちは庭に座り込んで聞いている。
伜と妻に裏切られて、一人すねていた扇屋の旦那も三味線の音を聞くと我慢できなくなって来た。もう何でも好きにするがいい。それより、わしにもやらせてくれとイライラして来た。おゆうが終わると無理やり割り込んで、奥の部屋に座り込んだ。座は白けかけたが、そんな事はお構いなし、清之丞は真剣な顔をして三味線を弾き始め、自慢の喉を披露(ひろう)した。
「夜ごと日ごとの入船(いりふね)に、浜辺賑わう尼ケ崎、大物(だいもつ)の浦に隠れなき渡海屋(とかいや)銀平(ぎんぺえ)、海を抱えて船(ふな)商売、店は碇帆(いかりほ)木綿(もめん)、上り下りの積み荷物、運ぶ船頭(せんどう)水主(かこ)の者、人絶えのなき船問屋、世をゆるがせに暮らしける~」
演目は『義経千本桜』の『渡海屋』の場だった。ざわついていた者たちも声をひそめて、じっと耳をそばだてた。去年の祭りで義経千本桜の序幕と二幕目を演じたので、村の者は勿論、大笹の者たちも、ここまでの経緯を知っている。皆、今年の今日、続きを見るのを楽しみにしていた。諦めていたのに、扇屋の旦那が続きを語ってくれた。一同、シーンとなって聞き入っていた。
扇屋の旦那は一気に四幕目の下市村の場まで、無心になって語り続けた。語り終え、ホッと肩の力を抜くと、聞いていた者たちから喝采(かっさい)が起こった。中には泣いている者もいる。登場人物に亡くなった者たちを重ね合わせて聞いていたのだろう。清之丞は照れながら、
「来年の今日は、舞台の上で村の若衆(わけーし)によって、必ずや、演じられる事じゃろう。幸いな事に、いがみの権太と知盛、そして、路考は生きている。この三人がいれば、あとは何とかなるだんべ」
喝采はいつまでもやまなかった。
「これで大丈夫ね」とおろくが市太の耳元で囁(ささや)いた。
市太はおろくを抱き寄せて、うなづいた。