2020年4月7日火曜日

天明三年(一七八三)六月二十一日

 浅間山が焼け、石が降って来て、山守のとっつぁんが死に、錦渓先生は追い出された。
 次の日は大笹の市祭りだった。今年の村芝居は『菅原(すがわら)伝授(でんじゅ)手習(てならい)鑑(かがみ)』、市太はおろくを誘い、おろくも一緒に行くと言ってくれた。楽しみにしていたのに、村に不幸があったのに遊んではいられないと断られてしまった。
 芝居好きな村人たちも葬式を放っては行けないと諦め、勘治も安治も行けないと言う。仕方なく、鉄蔵とおかよを連れて大笹の芝居を見に行った。
 大笹に着くと藤次がすぐに現れて、市太たちを歓迎してくれた。やけにニヤニヤしている。
 おみのとうまく行ってるのかと聞くと、「まあな」ととぼけて、祭りの準備が大変だったと愚痴(ぐち)をこぼす。鎌原に石が降った時、大笹にも降って、二、三寸も積もったという。
「祭りも近えのによう、まったく、まいったぜ。まあ、何とか無事に漕(こ)ぎ着けたがな」
 露店を冷やかしながら黒長の家に行くとおみのが珍しく、女の格好をして待っていた。髪もちゃんと島田に結って、市太の江戸土産の銀の簪(かんざし)を差し、浴衣(ゆかた)姿が色っぽい。鉄蔵は目を丸くして驚き、さっそく、その姿を絵に写し始めた。
「どうしたんでえ。おめえ、頭がおかしくなったのか」と市太が冷やかすと、
「そうさ。この前、お山から降って来た石に当たってねえ。ちっと、いかれちまったのさ」といつもの口調で言って笑った。
「ほう。そいつアとんだ災難だったな。ついでだから、ずっと、いかれてろよ。その方がおめえの親父も喜ぶだんべ」
「ふん、そうは行かないよ。こんな窮屈(きゅうくつ)な格好すんのは今日だけさ。年に一度の事だからね、たっぷりと拝んでおきな」
「その姿、藤次の奴にも見せたのか」
「何だって? 何で、いちいち、あんな奴に見せなきゃならないんだい」
 そうは言っても、顔はほんのり赤くなっている。おみのにもようやく遅い春がやって来たらしい。二人の行く先にはいくつもの険しい山が立ち塞(ふさ)がっているだろうが、おみのなら何とか乗り越えそうだ。
 女らしくなったおみのと一緒に芝居を見て、おみのの手作りの弁当を食べて、酒を飲み、鉄蔵とおかよは大喜びだったが、相手のいない市太はちっとも面白くない。芝居が終わると二人を置いて、さっさと村に帰って来た。
 すでに、五つ(午後八時)を回って、村はひっそりと静まっている。山守の葬式も無事に終わったらしい。おみのから貰った珍しいお菓子を持って、市太はおろくを訪ねた。
 父親の甚左は山守の葬式の手伝いに行ったまま、まだ帰らない。母親も叔父の三治も、もう寝たので、少しだけなら出られるという。
 市太はおろくを誘って観音堂に登った。空は曇って月も星も出ていない。提燈(ちょうちん)の明かりを頼りに薄暗い石段を二人は寄り添いながら登って行った。観音堂にも裏にある若衆小屋にも誰もいなかった。
 市太は若衆小屋の縁側におろくを誘った。
「今日はごめんなさい」とおろくは謝った。
「そう、何度も謝るな。もういいよ」
「一緒に行きたかった。でも、言い出せなかったんです。山守のおじさんが亡くなったから行けなくなったっていうのは嘘なんです。どうしても、言い出せなかったんです」
「もういいよ。おめえが一日(いちんち)、うちを明けるとなりゃア大変(てえへん)だ。誰か、おめえの代わりをする奴がいなけりゃならねえからな。そこまで考えが及ばなかった俺も悪かったんだ」
 気詰まりな沈黙が流れた。ガサガサッと音がして、鳥が鳴きながら飛び立って行った。
「そういやア、おめえの父ちゃんと山守のとっつぁんは仲がよかったんだっけな」
「ええ、飲み友達だったんです。うちにもよく来て、一緒に飲んでました。若い頃は一緒に悪さをしてたみたい」
「あの二人が若かった頃ってえのは、とても想像できねえな」
「そうね‥‥‥あの、お芝居はどうでした」
「ああ、面白かったよ。『菅原伝授手習鑑』ってえんだけど知ってるか」
「兄がお稽古してるのを聞いた事あります」
「そん中の『寺子屋』だ。喧嘩相手なんだが、藤次ってえ奴がいてな、松王丸をうまく演じていやがった。大笹の連中も結構やるぜ。だが、奴らには絶対負けられねえ。後(のち)の語り草になるような権太を演じてみせる」
「若旦那なら大丈夫ですよ。父ちゃんも若旦那ならうまくやるだんべって言ってました」
「そうか。でも、おめえの父ちゃんがやったんは『鮨屋(すしや)』だったからな。『椎(しい)の木』の権太はまだ、ちょい役のようなもんだ。来年の『鮨屋』をやりたかったんだけどな、もう、いいや。あと一年も我慢できねえ」
「お芝居が終わったら、ほんとに江戸に行っちゃうんですか」
「ああ、そのつもりさ。この村にいても俺のやる事は何もねえんだよ」
「あと一月ちょっとしかないんですね」
「なあ、おめえも一緒に行かねえか」
「えっ」
「冗談だよ。いや、本心かもしれねえ。もし、俺が身を固めるとすりゃア、おめえしかいねえのかもしれねえな」
「そんな、あたしなんか‥‥‥」
「おめえ、ガキの頃、俺がやった鈴をまだ持ってんだってな」
「えっ、松が言ったんですね。まったく、あの子ったら‥‥‥あたし、ほんとは若旦那と一緒にどこまでも行きたい。でも‥‥‥」
「いいんだ」
 市太はそっとおろくを抱き締めた。そして、おろくの口を吸った。おろくは拒まなかった。市太はおろくを抱き上げると若衆小屋の中に入って行った。
 四半時(しはんとき)(三十分)がゆっくりと流れた。二人が小屋から出て来た時、下弦(かげん)の月が顔を出していた。おろくは恥ずかしそうに顔を伏せて、もつれ髪を撫で上げた。
「もう帰らなくちゃ」
「そうだな」
 市太はおろくを送って行った。そのまま、うちに帰る気にはならなかった。惣八は土蔵に閉じ込められたままだし、鉄蔵とおかよは帰って来ないだろう。市太は桔梗屋へと足を向けた。
 安治がおゆくと二人だけで、しんみりと酒を飲んでいた。市太がのっそりと顔を出すと、
「あれ、大笹泊まりじゃなかったのか」と安治が驚いた。
 市太は手を振りながら腰を下ろす。
「兄貴とおかよに、たっぷりと見せつけられてな、一人じゃア面白くもねえんで帰って来たんさ」
「おろくは行かなかったのか」
「ああ、今朝んなって断られたよ」
「若旦那を振るたア、あの娘も大したもんだねえ」とおゆくが市太の顔を見て、ケラケラ笑う。
「いや、振られたわけじゃねえ」と言いながら、市太もつい笑ってしまう。
「何でえ、やけに嬉しそうじゃねえか。向こうで何かあったのか」
「何にもねえさ」市太は嬉しさを押し殺して話題を変える。「それより、先生が突然、あんな風になっちまって、姉さんも淋しいだんべ」
「あら、わざわざ、慰めに来てくれたの。嬉しいねえ」
「そうさ。姉さんが酔っ払うと手に負えねえからな。介抱してやろうと思ってよう」
「それはどうも御親切様なこって」
「でも、安とうまくやってたようだ。俺の出番はねえらしい」
「なに言ってんでえ。俺はただ、先生の事を姉さんと話してただけだ」
「冗談だ。そうむきになるなよ。それにしても、石をぶつけられて追い出されるたアなア」
「まったく、先生が可哀想だよ。先生の明礬(みょうばん)捜しとお山焼けがどう関係あるってえのさ。そんなのちゃんと考えりゃアわかりきった事だろ。まったく、情けないよ、あたしゃア、あんな人たちと一緒に暮らしてたなんて‥‥‥」おゆくは急に泣き出した。
 市太と安治が慰めるが、声を出して泣き続ける。突然、「畜生!」とわめいて、酒をあおると涙を拭いて無理に笑う。
「あ~あ、もう、こんな村なんかにいたくない。あたし、先生を追って江戸に行こうかな。ねえ、若旦那、あんた、先生んち、知ってんだろ。ねえ、あたしを連れてってよ」
「姉さんと一緒に江戸に行くのか」
「あたしとじゃア、やだってえの」
「そうじゃねえけどよ。色っぺえ姉さんと一緒に旅すりゃア間違えを起こしそうだぜ」
「それだっていいじゃないさ」
「まあな」
「よーし、今晩はとことん飲むわよ」
「おう。付き合うぜ」
 おゆくはフラフラした足取りで立ち上がるとお勝手の方に消えた。
「おい、もうかなり飲んでんじゃねえのか」
 市太が聞くと安治はうなづいた。
「俺が夕方、顔を出した時にゃア、もう一人でやってたよ。俺が来てからだって、グイグイ飲んでる。もう一升は飲んでんじゃねえのか」
「だんべえな」
「あんなに酔っ払ったの見た事ねえけど、姉さんは底無しなのか」
「まあ、それに近えな」
「なあ、俺、もう帰ってもいいだんべ」
「何でえ、もう帰るのか」
「ちょっと、先生の事を話そうと思って来ただけなんだ。それが姉さんの愚痴に付き合わされて、帰るに帰れなくなっちまった。後はおめえに任せる」
「そいつはねえぜ。二人だけになったら、どうなるかわからねえ」
「そんな事言ったってよう、俺はもう限界だ。これ以上は飲めねえや」
 安治が逃げようとするのを市太は袖を引っ張って引き留める。
「もうちっと付き合ってくれよ。そうだ、後でおさやといい思いができるように取り持ってやるからよう」
「えっ、そいつアほんとか」
「ああ、おさやの奴もおめえの事を嫌えじゃアねえそうだ」
「ほんとかい」
「ああ、ほんとだとも」
「それなら、もう少し付き合うぜ」安治は嬉しそうな顔して腰を落ち着ける。
 一升どっくりを抱えて、おゆくが戻って来た。
「今晩は飲み明かすぞ」と言って、三つの湯飲みの中に酒を注ぎ始めた。
「姉さん、今度は冷やで行くのかい」
「いちいち燗(かん)なんかしてられるかい。面倒臭え」
 安治は顔をしかめる。
「遠慮なしに飲んどくれ。今夜はあたしの奢(おごり)りだよ」
「遠慮なくいただくぜ」と市太はグイッと飲む。「おっ、こいつアうめえや。いつもの奴と違うな」
「そうさ。お江戸のお酒だよ。先生があたしのためにわざわざ、送ってよこしたのさ」
「ほう、そうだったのかい」
「祭りん時、みんなで飲もうと思ってたんだけどね、もう、先生はいないし、先生を追い出した奴らに飲ませる事もないからねえ、口を開けちまったんだよ。まだ、たっぷりあるからね、遠慮はいらないよ」
 安治も一口、飲んでみる。
「おう、確かにうめえや。最初(はな)っから、こいつを出してくれりゃアよかったのに」
「忘れてたんだよ。お江戸の話になって、急に思い出したのさ」
「こいつア四方(よも)の滝水(たきすい)って銘酒じゃねえのか」と市太は吉原で聞いた酒の名を思い出して言う。
「何だか知らないけどね。お江戸の銘酒さ。さすが、お江戸だ。うまいじゃないか」
 おゆくはグイグイ冷や酒を飲み続けて、錦渓の思い出話を始めた。
 安治は途中で酔い潰れてしまい、おゆくもロレツが回らなくなって来た。
 市太はおゆくの機嫌を取りながら、部屋まで連れて行った。おゆくの叔母がまだ起きていたので、後の事を頼んで、安治を起こして連れ帰った。

2020年4月6日月曜日

天明三年(一七八三)六月二十日

 灰の混じった雨が降り続いた。
 惣八の騒ぎがあった次の日も五つ(午後八時)頃、浅間山が焼けて、物凄い音と共に地面が大揺れした。その時、市太は珍しく家にいて、祖父の離れで、市左衛門から狂歌(きょうか)を教わっていた。今、江戸では狂歌が流行(はや)っているという。狂歌ができれば、有名な文人たちとも付き合える。有名な文人と付き合えば、何とかなると都合のいい事を考えている。
 突然、家が大揺れしたと思ったら、霰(あられ)でも降って来たかと思うほど屋根の音がうるさくなって、話し声も聞こえなくなった。明かりを消して外に飛び出したら、痛くてたまらない。よく見ると降って来たのは霰ではなく、なんと小石だった。驚いた事に、石が雨に混ざって降っている。こんな事があるのか信じられなかったが、痛みは本物、市太は慌てて、家の中に飛び込んだ。
 大揺れの後、小揺れが何度もあり、小石は半時(はんとき)(一時間)近くも降り続いた。軽い石だったが、大きい物は直径が五分(ごふ)(約一、五センチ)程もある。半時で、大小様々な小石は三寸(約九センチ)ばかりも積もった。
 翌日、村は大騒ぎ、田畑の作物はすべて、石にやられて全滅してしまった。惣八の間男(まおとこ)騒ぎではなくなった。昨日、朝から晩まで、顔を合わせれば、惣八とおまんの事をあれこれ噂していた村人たちは、一夜明けると二人の事などすっかり忘れて、ゴーゴー音を立てて黒煙を噴き上げている浅間山を恨めしそうに睨(にら)みながら、絶望した顔付きで、もうダメだ、もうダメだと嘆いていた。
 雨が小降りになった昼過ぎから、村総出で小石掃きが始まった。積もった石をどけなければ、馬がまともに歩けない。用水の中に溜まった石も浚(さら)わなければならない。市太も若衆組(わけーしぐみ)のみんなと一緒に作業に加わった。お山から降った小石は驚くべき量だった。通りの脇に石を積んだ小山がいくつも並び、それはまた、面白い景色でもあったが、何の役にも立たない石だった。
 さらに、悪い事が重なった。山守(やまもり)の長太が山から帰って来ないと家族が騒ぎ出して、若衆組を中心に村総出の山狩りが始まった。前日の小石掃きで腰が痛くてしょうがない市太もブツブツ文句を言いながら山の中に入って、山守の親爺を捜し回った。
「惣八の奴、土蔵に閉じ込められちまったらしいな」と安治が棒で灰を被った草をかき分けながら言う。
「そいつアしょうがねえだんべ。金で片を付けるにしろ、世間体ってもんがあるからな。それより、おまんの方はお頭んちにいるようじゃねえか。八兵衛と別れるんかな」
「八兵衛の方は中居にいる親父が危篤(きとく)で、それどころじゃねえんだんべ」
「まったく、惣八の奴もとんだ事をしてくれたぜ」
 市太は「いてて」と言いながら腰を伸ばす。安治も腰を伸ばすと傍らにある石に腰掛ける。
「結局んとこ、奴はうまくやったんかなア」
「わからんな」と市太も倒れている木の幹に腰掛ける。
「お頭がおまんから聞いた話によると、おまんは縫い上がった路考の衣装を試しに着ようとしただけだそうだ。惣八に頼まれて、おまんとしても十二単衣が着てみたかったんだんべ。帯を解いた時、大揺れが来て、表に出ようとアタフタしてたら路考が来たそうだ」
「何でえ。それじゃア、惣八は何もしてねえんじゃねえか」
「おまんの話によるとそうなるけど、真相は闇(やみ)ん中だ。やる前(めえ)に大揺れが来たんかもしれねえし、やった後に来たんかもしれねえ」
「それにしたってよう、亭主の親父が危篤だってえのに間男なんかするか」
「それがよう、八兵衛の親父の危篤は初めてじゃねえらしい。親父の危篤をだしにして、何度も追分の女郎と会ってたらしいんだ」
「そういやア、馴染みの女郎がいたっけ」市太は腰をたたきながら、「確か、甲州屋だっけかな」と思い出す。
「それで、今回も女郎のとこに泊まりに行ったに違えねえとしゃくになって、惣八を追い返さねえで一緒に酒を飲んでたそうだ」
「それじゃア、お山が焼けなけりゃア、うまくやってたかもしれねえってわけだな」
「多分な」
「まったく、ついてねえ野郎だ」
「これで、惣八の負けだな。奴が蔵に入ってる隙に、おろくをものにすりゃア、おめえの勝ちだ」
「ふん。奴が土蔵に押し込められたんじゃ、賭けはやめだ」
「そんな‥‥‥念仏講(ねんぶつこう)はどうなるんだ」
「何を調子のいい事を言ってやがる。おめえの企(たくら)みに乗った俺たちが馬鹿だったよ。おめえの企みをおさやに言ってやるぞ」
「そいつはうまくねえや」
「おい、おめえら、何やってる。もっと真剣に捜せ」
 お頭の杢兵衛に怒鳴られて、市太と安治は深い山の中へと入って行った。
「それにしてもよう、山守のとっつぁんはどうして、お山が焼けてんのに、お山ん中に入(へえ)って行きやがったんでえ」
「そいつは違うぜ。とっつぁんがお山に入った時は何ともなかったんだ。その晩、突然、焼けたんだんべえ」
「そうか。それにしたって世話を焼かせやがる。どうせ、怪我でもして、どっかの炭焼き小屋にいるんじゃアねえのか」
「炭焼き小屋にはいねえそうだ」と言ったのは勘治だった。いつの間にか、市太たちの側で草をかき分けていた。
「丑に聞いたんだが、お山ん中の炭焼き小屋はみんな捜したそうだ」
「勘治、おめえ、あの後、草津に行ったのか」と市太は聞く。
「ああ、行って来たよ」
「どうだ、おゆうは」
「相変わらずさ」と言って、勘治はニヤニヤ笑う。「毎日(まいんち)、草津の湯に入ってるせいか、肌がしっとりとしていやがった」
「なに、のろけてやがるんでえ。親の方は説得したのか」
「ああ、大丈夫だ。草津で客商売に慣れてくれりゃア、丁度いいと言ってらア」
「家柄の方はどうなんでえ」
「そんなの平気さ。おゆうがいる宮文(みやぶん)の旦那に頼んで、養女になってから嫁いでくりゃアいいのさ」
「ほう。そういう手があったか」と市太は勘治の顔を眺めながら、一人うなづく。「成程なア、おめえも色々と考えてんだな」
「おゆうと一緒になれなけりゃ、俺も草津に行くって親を脅したんさ」
「そうか」
「おめえは最近、おろくに夢中になってるようだが、おろくと一緒になるつもりなのか」
 市太は勘治の質問に驚くが、そんな素振りは見せずに、「そんな事ア考えちゃいねえよ」とさりげなく答える。
「所帯(しょてえ)を持つつもりなら、おろくはいいかもしれねえぜ。だが、遊ぶだけなら、やめた方がいいな」
「どうして」
「おめえは遊びでも、向こうは真剣になるからさ。ああいう女は思い詰めると恐ろしいぜ」
「それは言えるかもしれねえな」と安治も言う。
「おめえんちは金持ちだ。おろくの家族を抱えたって、女中を雇えば何とかなる。いっそ、身を固めちまえよ」
「そうは行かねえ。所帯を持っても俺にゃアやる事がねえ」
「問屋は継げねえし、つれえとこだな。いっその事、おろくを連れて村を出たらどうでえ。おろくの家族は女中に任せてよ」
「おろくが承知しねえだんべ」
「まあな。おめえも厄介(やっけえ)な女に惚れたもんだ」
 市太、勘治、安治の三人はのんきに女の話をしながら山守を捜していた。三人が腹減ったなアと一休みしている時、「おーい、見つかったぞ」と誰かが怒鳴った。
 山守の長太はすでに冷たくなっていた。頭や顔にひどい傷があり、顔には乾いた灰がこびり付いていた。三日間の雨で、血はすっかり流れてしまったようだ。長太の側にお山から飛んで来たらしい五、六寸もある石がゴロゴロ転がっている。その石が長太の頭に当たって亡くなってしまったようだ。
 伜(せがれ)の八蔵と丑之助の話によると、長太は十七日、雨が小降りになった昼過ぎから山に入って行った。御山見役の黒長の旦那から、近いうちに大笹の関所の橋の掛け替えがあるので、必要な用材を調べてくれと頼まれていたらしい。その日は帰らなかった。山に泊まるのはいつもの事で、普通なら家族も心配などしないが、その夜、お山が焼けたので心配になった。翌日、八蔵と丑之助の兄弟は父親を捜しに行こうとしたが、お山はまだゴロゴロ唸っている。祖父の長兵衛に止められて、二人は諦めた。その夜もお山が焼けて、石が降って来た。十九日の昼過ぎ、雨も小降りになり、お山も静まって来たので、二人は父親が泊まりそうな炭焼き小屋を捜し回った。どこにもいないし、父親がいたという形跡も見当たらない。山の事なら隅から隅まで知っている父親だから心配ないと思うのだが、その夜も帰って来なかった。山守が山で行方知れずになったなんて恥ずかしい事だが、八蔵は意を決してお頭の杢兵衛に父親の事を告げ、山狩りが始まったのだった。
 長太の遺体が村に運ばれると、また大騒ぎとなった。お山が荒れ狂うのは、明礬(みょうばん)捜しをしている錦渓がお山のあちこちを掘り返したせいだと言い出す者がいて、四月以来、何度も繰り返す浅間焼けに不安と恐れを抱いていた村人たちが同調した。錦渓のいる『江戸屋』は大勢の村人に囲まれ、錦渓の言い分も聞かなかった。錦渓が明礬の事を詳しく説明しようと難しい事を言えば言う程、村人たちの反感を買った。市太たちが何とか押さえようとしても無駄だった。田畑が全滅し、お山に対する怒りを何にぶつけていいかわからなかった村人たちが山守の死によって、その怒りを一気に爆発させてしまった。その対象に錦渓が選ばれてしまったのだった。まるで、何かに取り憑かれたかのように、村人たちは錦渓に怒りをぶつけていた。運の悪い事に、江戸屋の脇に小石の山があった。村人たちは小石をつかむと江戸屋に投げ付けた。これ以上、ここにいると江戸屋がつぶれてしまうと、錦渓は仕方なく、荷物をまとめて村から逃げ去った。逃げる錦渓に石を投げ付けて、村人たちは勝ち誇ったように鬨(とき)の声を挙げた。
 村人たちの先頭になっていたのは長太の伜、八蔵だった。八蔵の祖父、長兵衛がやめさせようとしても八蔵は聞かなかった。狂ったように村人たちを煽(あお)っていた。
 八蔵は父親の跡を継ぐため、父親と共に山の中にいる事が多かった。普段は物静かな、おとなしい男だった。村芝居でも表に出る役者ではなく、ツケ拍子(びょうし)を担当している。ツケ拍子とは舞台の上手(かみて)に座って、拍子木(ひょうしぎ)で舞台上に置いた板を打つ事で、芝居の進行に欠かせなかった。地味な役だが、ツケ拍子を間違えれば芝居は台なしになってしまう。責任感のある役だった。そんな役をこなしている八蔵が父親の突然の事故死によって、あんなにも変わってしまうなんて市太には信じられなかった。

2020年4月5日日曜日

天明三年(一七八三)六月十七日

 舞台の上で、権太(ごんた)役の市太が、路考(ろこう)の演じる若葉の内侍(ないし)、おなつの弟、五郎の演じる若君、栄次の演じる小金吾(こきんご)を見送り、だまし取った二十両を懐(ふところ)に入れて逃げようとする。そこに権太の女房、小せんを演じる江戸屋の伜、伊勢松が子役の善太の手を引き登場。
「これ、権太どの、こなさん、どこへ行かしゃんす」
「おお、小せんか。わりゃア店を明けて、どこへ行った」
「あい、わたしゃ旅人のお頼みで、坂本へ薬を買いに行ったわいな」
「そりゃ丁度よかった。われがいたら、また邪魔をしように」
『言う胸倉(むなぐら)を取って引き据え』とチョボが入り、小せんの台詞が続く。
「これ、こなさんに騙(かた)りさそうというて、はずしていぬぞや。最前、戻りかかったところに、わっぱさっぱ差し出たら、騙りの正銘(しょうめい)あらわれ、どんな事になろうも知れぬと、あの松陰から聞いていたわいな。ええ、こなさんは恐ろしい企(たく)みする人じゃのう‥‥‥」
 そこで伊勢松は台詞に詰まってしまった。市太はイライラしながら、小声で、「姿は産めども」と教えてやる。
 伊勢松は思い出して、「姿は産めども心は産まぬと、親御は釣瓶(つるべ)鮨屋(すしや)の弥助の弥左衛門様というて」
 その時、ゴロゴロゴロと石臼(いしうす)を回すような音がして、舞台が揺れた。
「何だ。畜生め、また、お山が焼けたのか」と市太は浅間山の方を見るが、樹木が邪魔してお山は見えない。
 舞台の揺れは益々ひどくなり、立ってもいられない。みんなが慌てて明かりを消す。
「危ねえ。みんな、こっから降りろ」とお頭の杢兵衛が叫んだ。下座の大人たちも楽器を抱えて慌てて舞台から降りる。
 市太は舞台から飛び降りると、稽古を見ていたおろくのもとへと急ぎ行く。おろくと一緒に鉄蔵とおかよ、勘治もいる。少し離れて、市太の妹のおさやがおみや、安治、仙之助と一緒にいる。皆、不安な顔付きで座り込んでいた。
「また始まったな」と絵を描いていた鉄蔵は筆をしまう。
「まったく、いつになったら治まるんでえ」文句を言いながら市太はおろくの隣に行く。
「ほんと、いやねえ、もう」とおかよが顔をしかめる。
「あたし、帰らないと」おろくが心配顔で市太に言う。
「そうだな」と市太はうなづく。
「若旦那、ちゃんと送ってやりなさいよ」とおかよが声を掛ける。
「おーい、みんな、今晩の稽古はこれで終わりだア」と杢兵衛が叫んで、皆、ゾロゾロと帰って行く。
 もう少し一緒にいてえが仕方がねえと市太はおろくを家まで送って行く。地面の揺れは治まらず、真っすぐ歩くのも一苦労。おろくは市太の腕につかまり、これ幸いと市太はおろくの肩を抱き寄せ、恋の道行(みちゆき)と洒落(しゃれ)る。
 昼間はずっと雨降りだったが、日暮れにはやんで、おぼろな月が顔を出している。月明かりの下、寄り添って歩くのはいいが、馬のいななきが方々から聞こえて来てやかましい。
 諏訪の森を抜けて表通りに出ると家から飛び出した者たちが、あっちに固まり、こっちに固まり、お山の方を見ながら冴えない顔を突き合わせている。おろくは素早く、市太から離れた。
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
「なに、うちまで送ってくよ」
「でも、村の人たちに見られます」
「見られたっていいじゃねえか。それとも、俺のようなゴロツキと一緒じゃ、うまくねえか」
「そんな‥‥‥」
「地鳴りの道行はもうおしめえか」と鉄蔵が後ろから声を掛けた。
 鉄蔵とおかよも仲良く寄り添っている。
「見物が多すぎるとよ」
「こいつアすげえ。すぐに噂になっちまうな」
「あれ、何だろう」とおかよが北の方を見る。
 人だかりがして、何やら騒いでいる。
「また金四郎の馬鹿が嚊(かかあ)と一緒に素っ裸で飛び出したんじゃねえのか」
「もっと向こうのようよ。ねえ、鉄つぁん、ちょっと行って見ましょうよ」
 おかよに引かれて鉄蔵は騒ぎを見に行った。
 市太はおろくを送るため、反対方向へと行く。ようやく、揺れも静まって、人々は安心して家の中へと戻って行く。真っ暗だった家々からも明かりが漏れて来た。
 市太とおろくは近からず遠からずの距離を保ちながら歩く。市太の家の前にはもう誰もいない。浅間山を見ようと観音堂へ登って行く者が何人かいた。観音堂への通りを過ぎると表通りにはもう人影はない。おろくの家からは明かりが漏れ、ひっそりとしていた。
「どうやら、みんな、無事のようだぜ」
「わざわざ、すみません」
「いちいち謝る事アねえ。それより、今日は台詞の間違えはなかったんべ」
「はい。見事でした」とおろくはうなづく。
 芝居の事など何も知らないだろうと思っていたおろくは『義経千本桜』を初めから終わりまで、すっかり暗記していた。市太が権太をやると決まった時から、兄から教わって、すべてを覚えたのだという。兄に似て記憶力は物凄い。権太の台詞もすべて知っていた。
「また、明後日(あさって)、迎えに来るからな」
「はい」
「ほんとは毎晩、会いてえんだが、まあ、我慢するか」
「あたしなんかと一緒にいたら、おなつさんが」
「おなつなんか、どうでもいいんだよ」
「そんな‥‥‥」
「それじゃアな」
 市太は手を振るとおろくと別れた。おろくは市太の後ろ姿をしばらく見送っていたが、溜め息をつくと家の中に入った。
 ようやく、杖(つえ)をつけば歩けるようになった父親と兄が囲炉裏端にいた。弟の松五郎は叔父の部屋にいるらしい。おろくが芝居の稽古を見に行けるのも松五郎が叔父の面倒を引き受けてくれたからだった。松五郎はおろくが市太と付き合うのに文句なく賛成だが、父親はそうじゃない。今の所、口では言わないが、身分が違い過ぎると心の中では反対しているに違いない。おろくもその事は充分、承知している。かなわぬ恋と知りながらも、少し位は人並みに恋に焦がれてみたかった。しかも、相手は子供の頃から憧れていた市太、いつも、仲間に囲まれて楽しそうにしている姿を遠くから眺め、諦めていたのに、どうした訳か、市太の方から近づいて来た。毎日が、まるで夢のように楽しい。その夢もいつか終わるのはわかっている。多分、父親の口から、その事を言われれば、その時が終わりになるのだろう。まだ、その事を言わないでと祈りながら、おろくは父親の顔を見た。
「また、お山の鬼が騒ぎ出したな」と父親は言った。
「はい。お芝居のお稽古も中止になりました」
「そうか。たまには若え者たちと一緒に騒ぐのもいいさ。おめえには苦労の掛けっ通しだからな」
「父ちゃん、ありがとう」
「いや、いいんだ‥‥‥」
 父親は何か言いたそうだったが何も言わなかった。おろくはホッとして母親の具合を見に行った。
 市太が巴屋を覗くと鉄蔵とおかよはまだ帰っていなかった。客もいなくて、奥のお勝手で、おかよの兄嫁おべんが割れた食器を片付けている。
「あら、若旦那、おかよは一緒じゃないの」
「ああ、途中で別れたんだ。もう、帰ってるかと思ったんだが」
「まったく、まいったよ。棚から落ちて、みんな割れちゃったのよ」
「そいつは気の毒なこった」
「まったく、いやんなっちゃうよ。突然だもんね。こう揺れが続くようだと考えなくちゃならないわ。若旦那んとこは大丈夫だったの」
「さあな。あれだけ揺れりゃア、うちも何かが落っこちたんべえ」
「もう揺れないかねえ」
「そいつアわからねえが、少しは治まったようだ。姉さん、酒を頼まア」
「はいよ」
 市太が座敷に上がり込もうとした時、安治が駈け込んで来た。
「やっぱり、ここか。市太、大変(てえへん)なんだ」
「なにうろたえてんだ。大揺れはとっくに治まったぜ」
「そうじゃねんだよ。惣八の奴がとうとうやっちまいやがった」
「惣八が? 奴が何をやったってえんでえ」
「おまんだよ。惣八とおまんがちちくり合ってるとこを見つかっちまったんだ」
「何だと」
「何だって、おまんさんてえのは八兵衛さんのおかみさんの事かい」とおべんも驚いて、お勝手から出て来た。
「そうなんだ。八兵衛はまだ帰らねえんだけど、近所の者(もん)が集まって、もう大騒ぎさ」
「あの野郎、ドジをしやがって」
「とにかく、一緒に来てくれや」
 市太は走りながら、詳しい事情を聞いた。
 惣八は今晩の芝居の稽古に出ていた。駕籠かき役の惣八は初めの方にチョコッと出るだけなので出番が済むと、すぐにおまんの家に行ったらしい。八兵衛が出掛けたのを知っていて、思いを遂げる絶好の機会だと思ったに違いない。しかし、皮肉にも、二人がちちくり合っている時、大揺れが来た。発見者は路考だった。路考は若葉の内侍の役で舞台にいた。大揺れが起きると衣装の事を心配して、おまんの家へと急いだ。驚いた村人たちが家の明かりを消して、通りに飛び出しているのに、おまんの姿は見当たらない。家の中は真っ暗、路考は家の中に声を掛けた。返事はないが、人のいる気配はする。縁側の方に回って障子を開けると、差し込んだ月明かりの下に見えたのは、おまんの解かれた帯と酒を飲んでいたらしいお膳、慌てて着物を直している惣八の姿、そして、部屋の隅に乱れ髪のおまんが虚ろな目をして丸くなっていた。
 路考は驚いて騒ぎ出す。すぐに近所の者たちが集まって来て大騒ぎとなった。
 市太が行った時には、惣八の父親がすでに来ていた。近所の男衆に殴られたのか、父親に殴られたのか、惣八の顔は腫れて血まみれになっている。おまんは青ざめた顔をしてうなだれ、兄の杢兵衛とその妻おすみが見守っていた。
 惣八の父親が村の衆に謝って、皆に引き取ってもらった。市太たちも追い返され、仕方なく、鉄蔵たちと一緒に引き返した。やじ馬の中に、おなべとおなつの姿もあった。泣きそうな顔したおなべをおなつが慰めている。二人は市太たちに声も掛けずに去って行った。
「惣八め、とんだ事をやっちまった」おまんの家を振り返りながら市太が言う。
「どうなっちまうんだんべえ」と安治が心配する。「それにしても、ほんとにやっちまったんだんべか」
「そいつは本人に聞かなきゃわからねえ」
「おまんさんがそんな事するとは思えないわ」とおかよは否定する。
「しかしなア、路考の話だと、おまんは帯を解いてたって言うぜ」
「自分で解いたのかしら」
「そうじゃなきゃア、惣八が力づくで解いたかだ」
「八兵衛が帰って来りゃア、惣八の奴、ただじゃア済まねえぞ」
 その後、何度か小さな揺れがあった。市太たちはおかよの店で、惣八の事を心配しながら遅くまで飲んでいた。
 四つ(午後十時)を過ぎた頃、惣八が父親と一緒に巴屋の前を通って家に帰って行った。市太たちが見ているのに気づいて、情けない顔をチラッと向けた。八兵衛が帰って来て、話がついたのか、うなだれたままトボトボと歩いて行った。
 惣八が帰るのを見送ると、お開きにして、市太たちもそれぞれ家に帰った。

2020年4月4日土曜日

天明三年(一七八三)六月十三日

 市太は珍しく、家の仕事を手伝っていた。祖父に江戸に行きたいと言うと、そうかとうなづいて、江戸にいる知り合いを紹介してやろうと言った。そして、お前は一体、何がやりたいんだと聞いて来た。
「おまえはわしによく似ている。兄貴の庄蔵は父親そっくりの真面目一方だ。まあ、問屋の跡継ぎには丁度いいのかもしれんが、わしから見ると、もの足らん。何かこう、こじんまりとしていてな。おまえにはそうなって欲しくはない。何をやってもかまわんが、ほんとに夢中になれるものを捜せ」
 ほんとに夢中になれるものは何なのだろうと考えながら、市太は仕事をしていた。別に問屋の仕事が嫌いなわけではない。だが、跡を継ぐのは兄だった。父親の弟、市太からみれば叔父もいるし、従弟(いとこ)もいる。自分の出番なんかなかった。要するに、この村にいても自分のやるべき事は何もない。だから、村から出る。村を出るなら江戸に行きたい。でも、江戸に行って何をする。祖父の知人のもとに行けば数日間は何とかなるだろう。しかし、その後はどうする。俺は何をやったらいいんだ‥‥‥わからなかった。
 今日は朝から小雨が降っているのに、大笹から松代(まつしろ)藩の武家荷物が次々に送られて来て大忙しだった。村の男衆(おとこし)はほとんど馬方をして狩宿(かりやど)へと出掛けて行った。昼頃、鉄蔵が帰って来たとおかよが知らせに来た。
「なに、兄貴が帰って来たのか」
「今、うちでお昼を食べてるわ」
「そうか。そういやア、俺も腹が減ったな」
 市太は側にいた叔父の弥左衛門に一声掛けて、おかよと一緒に向かいにある『巴屋』に向かった。
「大丈夫なの。忙しそうだったじゃない」とおかよは心配する。
「どうせ、俺なんか当てにしちゃアいねえよ」
「そう? 叔父さん、やな顔をしてたわよ」
「年中、ああいう面なんだ。気にすんな」
 大笹から来た馬方たちで店の中は混んでいた。おかよの兄嫁おべんと妹のおこうが手伝っている。鉄蔵は座敷の隅の方で茶漬けを食らっていた。市太が声を掛けると手を上げて笑った。
「兄貴、お帰り。いい絵は描けましたか」
「まあな。旦那は喜んでくれたよ。たっぷりとお礼をくれたんで路銀(ろぎん)が助かった」
「そいつアよかった。兄貴がいねえもんだから、何か面白くなかったよ」
「よく言うぜ」
「ほんとさ」
「この前、おなつと大喧嘩しちゃったしね」とおかよが嬉しそうな顔して鉄蔵に教える。
「へえ、あんなに仲よかったのに、どうしてだい」と鉄蔵が不思議そうに聞く。
「それがね」とおかよが市太を見て、笑いながら、「この若旦那、他の女に手を出したのよ」
「なに言ってやがる。まだ、手も足も出しちゃアいねえ」と市太はおかよを睨むが、
「でも、そのうち出すんでしょ」とおかよは平気な顔して言う。
「へえ、あんな可愛い娘(こ)を振ってまで、手を出す娘(むすめ)がいるのかねえ」
「それがね、まったく以外なのよ。村でも一番目立たない娘なの。お母さんが寝たきりだからしょうがないんだけどね、何となく暗い娘なのよ」
「ほう。一度、会ってみてえな」
「きっと、今晩、会えるわよ、ねっ」
「多分な」と市太はうなづく。
「今晩、何かあるのかい」
「お芝居のお稽古」
「ああ、そうか。今日は半(奇数)の日か」
「うちからちっとも出ない人が、どうした訳か、ここんとこ、お芝居を見に来るのよ」
「うまくやってるようじゃねえか」
「今んとこはな。先はわからん」と言いながらも、市太の顔は自然とニヤニヤ。
 市太も茶漬けで昼飯を済ませると、鉄蔵に聞いてみた。
「兄貴はどうして絵を描いてんです」
「どうしてだと? そんなの理由なんかねえや。描きてえから描いてんだ。描かずにいられねえからさ」
「描かずにいられねえから‥‥‥」
「そうさ。絵だけじゃねえ。俺は戯作(げさく)も書く。大(てえ)して売れねえが、自画自作の黄表紙(きびょうし)を三つ売り出した。わ印(じるし)(春本)も一冊出したよ」
「へえ、兄貴は戯作も書くですか。こいつアたまげた」
「何もたまげる事アねえ。俺より年下の北尾政演(まさのぶ)なんか、自画自作の黄表紙が売れに売れて吉原でも大持てだよ」
「へえ、そんな奴がいるんですかい」
「ああ、紅葉山の東に住む京屋の伝蔵で山東(さんとう)京伝(きょうでん)だとさ。ふん、奴には負けたかねえ」
「大丈夫ですよ。兄貴は負けやしません」
「おめえに言ってもらってもしょうがねえや」
「兄貴、俺ア何をやったらいいんだんべ」
「やりてえ事をやりゃアいいさ」
「そのやりてえ事がわからねえんだ」
「そういう時ア、旅に出りゃアいい。俺もな、自分の絵がわからなくなっちまったのよ。てめえの絵が売れねえもんだから、師匠の真似したり、重政(しげまさ)の真似したり、清長(きよなが)の真似したり、結局、自分の絵がわからなくなっちまった。おめえたちと出会って、しばらく、江戸を離れようと思ったんだ。旅に出て、ようやく、自分の絵ってえもんを思い出したぜ。他人の真似なんかしたってダメなんだ。自分の描きてえように描きてえ絵を描きゃアいいのさ。その描きてえ絵を描くってえのが、一番難しいんだがな」
「自分が描きてえ絵を描くんですか」
「そうさ。それしかねえのよ」
「描きてえ絵を描くか‥‥‥」
「絵だけじゃねえよ。何だってそうだ。最初は誰でも他人の真似から始まる。だが、真似ばかりしてたって始まらねえ。自分のものってえもんを出さなくちゃアな」
「自分のものか‥‥‥」
 馬方たちが入れ替わり立ち代わり入って来るので二人は店を出た。まだ、小雨がシトシト降っている。
「兄貴、観音堂でも行きますか」
「例の小屋か。それより、おめえが惚れた女ってえのに会ってみてえな」
「えっ、おろくにですかい」
「おかよの話じゃ、年中、うちにいるってえじゃねえか。うちに行きゃア会えるんだろ」
「まあ、会えるには会えるんだが、親父がうるせえからな」
「親父もうちにいるのかい」
「こないだの浅間焼けで怪我して、まだ、仕事ができねえんだ」
「そういやア、そんな事を言ってたな。甚太夫(じんだゆう)とかいう盲(めくら)の義太夫語りのうちだな」
「ああ、そうなんだ」
「よし、行こう」と鉄蔵は南の方に足を向ける。
「兄貴、本気なんですか」と市太は後を追う。
「ああ、本気さ」
「まいったなア」
「何がまいるんだ。おめえだって会いてえんだろ」
「まあ、そりゃア会いてえけど‥‥‥」
「会いたけりゃ会えばいいんだ。何も遠慮する事アねえ」
「別に遠慮してるわけじゃねえけど」
「ちょっと待て」と鉄蔵は急に立ち止まった。「その娘だけど、そこんちに、ちょっと気のふれた野郎がいねえか」
「ええ、いますよ」
「ああ、あの娘か。会った事あるぜ。そうか、あの娘に惚れたのか‥‥‥よし、行こう。この前、絵に描こうとしたら断られたんだ」
「えっ、兄貴がおろくを」
「あれは絵になるぜ。是非とも描かなくちゃアならねえ」
 市太は鉄蔵に引っ張られるようにして、おろくの家に行った。うまい具合に、おろくは用水の水を汲んでいた。市太が近づいて来るのに気づくと、顔を上げて微かに笑った。
「やあ」と市太は声を掛ける。
「お出掛けですか」とおろくは聞いて来た。
 おろくの家は村の南の外れの方だった。真っすぐ行けば山の秣場(まぐさば)へ、左に曲がれば沓掛(くつかけ)道だった。市太が鉄蔵と一緒に追分宿に行くとでも思ったのだろう。
「いや、おめえの顔を見に来たのさ」と市太が照れ臭そうに言う。
「えっ、昼まっから酔ってるんですか」おろくは市太と鉄蔵の顔を見比べる。
「若旦那はおめえさんに酔っちまったらしい」と鉄蔵が口を挟む。早くも手帳を広げ、矢立てから筆を出していた。
「兄貴がおめえを絵に描きてえってんで連れて来たんだ」
「そんな、あたしなんか」
「すまねえな。ほんのちょっとの間だ。じっとしていてくんねえ」
 鉄蔵はスラスラと筆を動かした。市太は後ろから手帳を覗き込んだ。あっと言う間に、おろくの顔が写された。
「やっぱり、兄貴は大(てえ)したもんだ」
 鉄蔵はおろくに絵を見せた。
「これがあたしなの。信じられない。わざと綺麗に描いたんですね」
「そうじゃねえ。紛れもなく、こいつアおめえだよ」
 市太がそっくりだと言っても、おろくは信じない。
「そうだ」と市太は手を打った。「おめえにいい物(もん)をやる。先生のお師匠、源内先生が考え出したっていうビイドロ(ガラス)の鏡だ。『自惚(うぬぼれ)鏡』と言ってな、銅の鏡よりずっと綺麗に写るんだ。そいつを見りゃア、おめえも信じるだんべ」
「そんな‥‥‥」
「今晩、持って来るよ」
「そんな、いいんです」
「なに、遠慮するなよ」
「あの、あたし、もう行かなくちゃ」
「今晩、迎えに来るからな」
 おろくは恥ずかしそうに、うなづいて家の中に入って行った。
「いい娘だな。おめえに気があるようだ。だが、厄介(やっけえ)な女だな。寝たきりの母親に怪我した父親、盲の兄貴に気のふれた野郎までいたら、おめえと遊ぶ暇もねえ。わざわざ、難しい女に目を掛けるたア変わった野郎だな、おめえも」
「別に変わっちゃアいねえ。好きになった女がたまたま、そうだっただけだ」
「そうかねえ。まあ、いいや、おめえの事だ。好きにするがいい」
 鉄蔵は市太の顔を見ながらニヤニヤ笑う。
「兄貴、何がおかしいんでえ」
「何となく、俺に似てると思ってな」
「兄貴に似てる? 俺が」
「そうさ。簡単に手に入(へえ)る物にはすぐに飽きて、わざわざ難しい物に取り組む所がな」
「へえ、兄貴もそうなのかい」
「まあな。ちょっと臍(へそ)が曲がってるらしい」
 二人は顔を見合わせて笑うと道を引き返して、観音堂裏の若衆小屋へと向かった。

2020年4月3日金曜日

天明三年(一七八三)六月九日

 村芝居を上演するには役者は勿論の事、下座(げざ)と呼ばれる義太夫語り(チョボ)と三味線、笛や大小の鼓(つづみ)、鉦(かね)や太鼓はなくてはならない存在だった。役者は若衆組(わけーしぐみ)が中心になって演じるが、下座は大人たちが担当した。市太の祖父、市左衛門とおろくの兄、甚太夫が稽古をつけている。その他に衣装やカツラ、大(おお)道具、小道具が必要だった。
 衣装はお頭の妻おすみが中心になって女衆(おんなし)が縫っている。高価な布は使えないが、それなりに工夫してやっている。カツラは七右衛門という手先が器用な男がいて、馬の抜け毛を集めて作っている。村で芝居が始まったのは、もう五十年も前の事、その頃はカツラもお粗末で、まるでお化けのようだったという。年々、工夫して、今では玄人(くろうと)顔負けのカツラを作っていた。
 大道具は舞台の背景や建物、樹木や岩などで、大工の八右衛門と桶屋(おけや)の利右衛門が担当して、絵は幸助が担当している。まだ、舞台上には大道具はない。大道具を舞台に上げて稽古が始まるのは七月になってから。それでも、すでに組立式の建物や張りぼての岩や樹木はできていた。背景の絵は幸助が鉄蔵の意見を参考にして、すでに描き始めている。
 小道具は役者が身につけたり、手に取ったりする小物で、担当しているのは馬医者の八兵衛。妻のおまんと一緒に小道具を集めている。子供がなく、二人だけで暮らしているので、家の中は小道具で埋まっていた。
 おろくのお陰で衣装ができたので、市太は惣八を誘って、小道具を見に八兵衛の家に向かっていた。先月の末に噴火した浅間山も静まり、ここ二、三日、いい天気が続いている。ようやく、夏らしい暑さになって来た。
「おまんはどうでえ。うまく行きそうか」と市太は惣八の顔色を窺いながら聞く。
「勿論さ」と惣八はニヤニヤしながら、「おめえの方はどうなんでえ」と市太を見る。
「まあな、うまく行ってるよ」市太も昨夜の事を思い出しながらニヤニヤする。
「負けたとしても、おろくを抱けるわけだ。楽しみだぜ」と惣八は肘で市太を小突く。
 そんな事は絶対にさせねえと思うが、顔には出さず、「俺だって、おまんを抱けるたア楽しみだ」と市太も強がる。
「そいつは俺の物(もん)だぜ」惣八は自信ありげに市太が腰に下げた煙草入れを顎(あご)で示す。
「なに言ってやがる。おめえの匕首(あいくち)こそ、俺の物さ」
「まあ、お互え頑張ろうぜ。勘治じゃねえがよう、俺アおまんをものにしたら、スッパリと堅気(かたぎ)に戻ろうと思ってんだ」
「ほう」と言いながら、市太は惣八の顔を見る。惣八は遠くの方を見つめていた。
「稼業に励むのか」と市太は聞く。
「まあな。江戸屋の旦那から硫黄(いおう)稼ぎで使う炭を一手に扱わねえかと話があったらしい」
「へえ。しかし、万座の炭は干小(ほしこ)の旦那が仕切ってんだんべえ」
「そうなんだが、干小の旦那もあっちこっち手を広げてるから、炭まで手が回らねえんだんべ。詳しい事ア知らねえが、その話が決まりゃア俺がやる事になる。親父ももう年だからな、そろそろ、俺も身を固めねえとな」
「おなべと一緒になるのか」
「親同士も決めてるらしいし、一人で村を出るより、おなべと一緒の方がいいだんべ」
「その前(めえ)に、おまんと一発、決めてえってわけか」
「そういうこった。だがな、やたらと路考(ろこう)の奴が出入りしやがって、まったく邪魔だぜ」
「そういやア、路考んちは隣だったっけ。奴も桔梗屋の姉さんを先生に寝取られて、今度はおまんを狙ってんじゃアねえのか」
「そうじゃねえんだ。おまんが路考の衣装を縫ってんだよ」
「ほう、路考の衣装はおまんが縫ってんのか」
「奴は三幕目で典侍(すけ)の局(つぼね)、四幕目じゃア若葉の内侍(ないし)の役だ。典侍の局の方をおまんが縫ってんだけど、それが十二単衣(ひとえ)なんだ。ああじゃねえ、こうじゃねえって、さんざ文句を言ってるぜ。そういやア、権太の衣装はおろくが縫ってるらしいぜ」
「ああ、知ってるよ」
「ほう、そうかい。いい線行ってるようじゃねえか」
「まあな。おめえじゃねえが、一発決めて、江戸におさらばするんさ」
「それにしてもよう、おろくなんか、そんなにいいかね。まあ、面(つら)は悪かアねえが、何を考えてんだかわかんねえとこがあるからな。まあ、親父に見つからねえように、うまくやるこったな。あの親父を怒らせたら半殺しにされるぜ」
「てめえこそ、気を付けるこった。八兵衛に見つかったら、それこそ片輪にされるぜ。怪我した馬を担(かつ)いじまう程の馬鹿力だ。骨の一本や二本、折られる覚悟はしとけよ」
「わかってらア。そんなドジは踏まねえ。それより、おめえ、稼ぎ口は決まったんか」
「決まらねえ。どうにかならアな。鉄蔵の兄貴もいるしな」
「兄貴はまだ帰(けえ)らねえのか」
「ああ。おかよが首を長くして待ってらア」
「おかよも本気で惚れちまったようだな。兄貴と一緒に江戸に行くのかなア」
「さあな。兄貴もまだ、それ程、売れてる絵画きじゃねえからな、まだ、所帯(しょてえ)を持つ気はねえだんべ」
「他所者(よそもん)に惚れりゃア、泣きを見るんは充分、承知してるだんべに、おかよの奴もやっぱり女だな」
 諏訪の森を越え、桔梗屋を過ぎて二軒先の左手に延命寺への参道がある。延命寺は浅間大明神の別当(べっとう)を務める古くからの天台宗寺院で村の菩提寺(ぼだいじ)。浅間焼けが続くと村役人たちが集まって、ここで祈祷(きとう)が行なわれる。観音堂も、市太の家の裏の方にある十王堂も、村外れにある熊野権現(ごんげん)、飯縄(いいづな)権現、神明宮(しんめいぐう)、八幡社も皆、延命寺が管理している。和尚や役僧の他に若い僧たちも修行に励んでいた。
 参道の向かいに勘治の家、鶴屋がある。江戸から帰って、すぐに草津に行った勘治はその後、今月の四日、おゆうに会いに草津に行った。その時は、市太と惣八も、おなつ、おなべを連れ、鉄蔵とおかよも一緒に行った。鉄蔵は大喜びで絵を描きまくっていた。桐屋という料理屋にいる雪之助も呼んで、大騒ぎをして楽しんだ。
 おゆうは思っていたより元気だった。壷(つぼ)と呼ばれる客室の掃除をするため、壷廻り女と呼ばれる仕事で、客に頼まれれば町の案内をしたり、食事を共にしたりもする。おゆうは器量よしで三味線もうまいので、客たちに引っ張り凧(だこ)の人気だという。勘治としては気が気でなく、早く嫁に迎えたいと思っているが、おゆうは結構楽しくやっているようだった。
 参道を過ぎると百姓代を務める仲右衛門の家があり、その隣は組頭の新右衛門、新右衛門の娘、おきよは娘義太夫をおなつと競い合っている。おきよに惚れているのが幸助で、奥手の幸助はおきよの前に立つと何も言えない。おきよを美人絵に描いて口説こうと鉄蔵から教わって、今、描いているらしいがどうなる事やら。おきよの家の隣は二代目の権太をやった孫右衛門、その隣は大工の八右衛門、一軒おいて桶屋の利右衛門の家がある。利右衛門の妹、おみよといい仲なのが、幸助の弟の伊之助。兄と違って手が早い。桶屋の隣が安治の家で、通りを挟んで向かいが馬医者、八兵衛の家だった。
 鎌原村には馬が二百頭もいるので何かと忙しい。おまけに馬方たちも年中、怪我をしている。病気の治療はできないが、怪我の治療は八兵衛が任されていた。
 門口(かどぐち)で声を掛けて縁側の方に回ると、鎌原路考こと権右衛門が来ていて、縫い事をしているおまんと何やらいい雰囲気で話をしている。惣八は顔をしかめて市太を振り返り、愛想笑いを浮かべて二人に挨拶をした。
 惣八が夢中になるのもわかる程、おまんはいい女だった。お頭、杢兵衛の妹で、嫁に行く前は惣八の家のすぐ近くに住んでいた。惣八よりも四つ年上で、ガキの頃からずっと憧れていたらしい。
 女形(おんながた)の権右衛門は勿論、普段は男の格好をして馬方をやっている。色が白く細面(ほそおもて)でなで肩、普段の仕草も女そのもの。市太以上に芝居に命を懸けていて、馬方をしている時は日に焼けないように顔や手足はいつも隠している。かといって、男色(なんしょく)好みではない。長い事、桔梗屋のおゆくとできていて、女の仕草はおゆく仕込みらしい。
「あ~ら、若旦那じゃない。お珍しいこと」
 そう言ったのはおまんではなく、権右衛門。「今度のお芝居じゃ、若旦那とのからみの場面がなくて残念だわ。来年は是非とも、やりたいわね」
「そうだな」と市太も愛想笑いをしながらうなづく。
「惣やんはまたお手伝い? 毎日、大変ね」
「うるせえ。俺アな、先生に頼まれて手伝ってんだ」
「そうだったわね。あんたんちはお金持ちだから、いい小道具を買い集めてよ」
「うるせえってえんだよ」
「おかみさん、気を付けた方がいいわよ。惣やんはおかみさんがお目当てなのよ」
「何を言ってやがるんだ。この野郎」
「まあまあ、二人ともよしなさい。そんな事ないわよ、ねえ。惣八さんは小道具に興味を持っただけなのよ。小道具方(がた)なんて裏方だから、どうでもいいように思われがちだけど、お芝居は小道具次第で、よくも悪くもなるのよ。あたしもようやく、その事に気づいたの。うちの人も張り切ってやってるんだけど、何かと忙しいでしょ。惣八さんが手伝ってくれるので、本当に助かってるのよ」
 おまんが入れてくれたお茶を飲んでいると、近所の馬を診に行っていた八兵衛が帰って来た。路考は若葉の内侍(ないし)の衣装を見て来ようと、おまんの義理の姉に当たるおすみのもとへと出掛けて行った。市太と惣八は上がり込んで、いがみの権太の小道具を見せてもらった。
 『義経千本桜』の四幕目、下市村(しもいちむら)の場(椎の木)に初めて登場するいがみの権太は旅支度で、平維盛(たいらのこれもり)の妻、若葉の内侍と息子六代君(ろくだいのきみ)の供をして来た若侍、小金吾(こきんご)に難癖(なんくせ)をつけて金をゆすり取るという筋だった。
 八兵衛は三度笠に合羽(かっぱ)、革籠(かわご)に風呂敷包み、革籠の中に入れる手拭いや浴衣(ゆかた)、煙管(きせる)に煙草入れを見せてくれた。
「まあ、こんなもんだんべ」
「他の物はいいが、この煙草入れに煙管はサマにならねえな」と市太は言う。
「そいつは俺が前に使ってた物だ。重要な場面に使う煙管だと、もっと大振りのを捜すんだが、ちょっと一服するだけだ。それでもいいと思ったんだ。何なら、おめえが自分のを使っても構わねえよ」
「そうするよ。こいつを使う」と腰の煙草入れを示す。
「ああ、そうしな。権太の小道具は簡単だったが、知(とも)盛(もり)は難しいぜ。まあ、難しけりゃ難しい程、やり甲斐(げえ)があるってえもんだがな」
 市太は八兵衛が集めた小道具を色々と見せてもらった。今まで、小道具の事などあまり考えなかったが、様々な小道具を見せてもらうと、小道具の重要さというものが身にしみてよくわかった。
 惣八が八兵衛に頼まれて小道具を捜しにどこかに行くと、市太も八兵衛夫婦と別れて、ブラブラと表通りに出た。このまま、おろくの家に行きたかったが、父親がいるので行きづらい。昨夜、一緒に酒を飲んで、芝居話で弾んだが、やはり、苦手な存在だった。
 桔梗屋の前の用水では汗をかいた馬が六頭、水を飲んでいる。桔梗屋を覗くと他所から来た馬方たちが休んでいる。忙しそうなので、顔を出すのはやめ、古着屋の前を通るとおなつに声を掛けられた。おなつに誘われるまま、おなつの部屋に行き、おなつが弾き語る『お染久松』を聞いていた。
「ねっ、もし、あたしが舞台に上がったら、江戸に行っても、これで何とかなるわよね」
 おなつはすっかり、市太と一緒に江戸に行くつもりでいた。

2020年4月2日木曜日

天明三年(一七八三)六月八日

 江戸から帰って来た錦渓(きんけい)は明礬(みょうばん)捜しに忙しかった。朝から晩まで『江戸屋』の伜、伊勢松を連れて山の中を歩き回っている。明礬石が発見された事によって、江戸の小松屋と掛け合い、資金の調達はうまく行ったが、思ったように見つからない。師匠の源内が作ったという奇妙な測量器を持って、毎日、泥だらけになっている。戯作者(げさくしゃ)志願の安治も馬方の仕事がない時は手伝いながら、錦渓から戯作の書き方を教わっていた。
 鉄蔵は大笹の黒長(くろちょう)に気に入られて、襖絵(ふすまえ)を描いてくれと頼まれた。鉄蔵は喜んで引き受け、そのまま、黒長の家に滞在している。惣八はおまんをものにするために小道具集めに精を出している。
 市太は今度の芝居を見事にやり終えたら、江戸に行こうと決めていた。この前、おなつと話したが、江戸に行って暮らすには何かをしなければならない。何をやったらいいか、真剣に悩んでいた。子供の頃から色々な事に興味を持って祖父に教わったが、どれも中途半端。博奕(ばくち)の腕には自信があるが、まさか、江戸で一端(いっぱし)の博奕打ちになる程の度胸はない。一体、何をやったらいいのか‥‥
 今晩は芝居の稽古もないので、市太は錦渓に相談しようと日暮れを待って桔梗屋に顔を出してみた。うまい具合に錦渓は酒を飲んでいた。他に客はなく、おゆくが隣に座って相手をしている。数日前、喧嘩したようだったが、よりを戻したらしい。
「あら、いらっしゃい。珍しく、一人なのね」
「何やら、みんな、忙しいらしくてな」と市太は軽く笑って、二人の側に行く。
「そういえば、お芝居の前座に娘義太夫をやる事に決まったらしいわね」
「娘たちも裏方だけじゃなくって、舞台に出てえらしい。雪之助に習った腕をみんなに披露しようって事になって、おなつの奴も負けん気が強えから、あたしがやるって稽古に励んでやがる」
「おなっちゃんも大分、腕を上げたようだね。でも、おきよちゃんもうまいからねえ」
「ああ、その二人のどっちかだんべ。おなべも負けられねえって頑張ってるようだ」
「おゆうちゃんもうまかったのに残念ね」
「そうだな。姉さんは出ねえのかい」
「あたしゃ娘って柄じゃないだろ。みんなが頑張ってるのに出しゃばる気はないよ」
 おゆくが酒の用意にお勝手に引っ込んだ後、市太は錦渓の向かい側に腰を下ろす。
「先生、今日は先生にちょっと相談があるんだ」
「何だ、わしに相談?」
 錦渓は伸びた無精髭を撫でながら、市太の顔を見る。
「俺、江戸に出ようと思ってんだけど、何かうめえ稼ぎ口はねえかな」
「ほう。とうとう出る事に決めたのか」
「芝居(しべえ)が終わったらだけど」
「そうか。江戸ってえとこはな、銭がありゃア面白えが、銭がねえと大変なとこだぜ」
「わかってるさ。だから、稼ぎ口を考えてんだ」
「稼ぎ口といってもなア。年期奉公ならあるだろうが、おめえの年で商家の小僧になるわけにも行くめえ」
「丁稚(でっち)小僧なんかになるか。そんなんじゃなくて、何かうめえ仕事はねえですか」
「まさか、江戸で問屋をやるわけにも行かねえしな。馬方稼業なら内藤新宿にでも行きゃア稼ぎ口があるかもしれねえな」
「江戸に行って馬方か。あまり冴えねえな」
「舟でも操れりゃア猪牙(ちょき)に乗って稼げるがな」
「猪牙か。ありゃア、なかなか粋(いき)だ」
「粋だが、そう簡単に操れるもんじゃねえよ」
「そうだんべなア」
 おゆくが酒を持って戻って来て、錦渓の隣に座ると市太に酌(しゃく)をする。
「ねえ、先生、吉原で何か仕事ねえですか。たとえば先生んちで」
 市太は大黒屋の花魁(おいらん)たちを思い出して、あんな所で仕事ができたら楽しいだろうと錦渓の返事に期待する。
「ねえ事もねえが、吉原で働いてる奴らは皆、一癖も二癖もある奴らばかりだからな、あんな世界にゃア入らねえ方がいいよ」
「へえ、そうなんですか」
「吉原ってえとこは表向きはきらびやかだが、裏に回りゃア恐ろしいとこだ。下手をすりゃア命に関わる事になりかねん」
「そんなおっかねえとこなんですか」
「女を売り買いしてるとこだからな、それなりに裏があるんだよ。人情に負けたら命がいくつあっても足らねえ」
「ねえ、それどういう意味なの」とおゆくが口を挟む。
「あそこで働いてみりゃアわかるが、客として遊びに来た時とは違って、遊女たちの裏が見えてくる。綺麗に着飾っちゃアいるが、根は不幸な女たちだ。男なら何とかしてやろうと思うのが男気(おとこぎ)ってえもんだ。だが、あそこでそんなもんを出そうもんなら、命がいくつあっても足らねえって言うんだよ。女たちを商品だと割り切らなけりゃア生きちゃアいけねえ。わしはそんな世界に嫌気がさして、あそこから飛び出したんだよ」
「そうだったの‥‥‥」
「あそこは遊びに行くとこだ。働くとこじゃねえよ」
「吉原はダメか‥‥‥何か、いい仕事はねえかな」
「難しいな。渡り職人のように手に職でも持ってりゃア何とかなるだろうがな」
 おゆくもあれこれと真剣になって考えてくれたが、結局、いい考えは浮かばなかった。
 三人で顔付きあわせて酒を飲んでいると、おゆくの甥(おい)の次郎が帰って来た。
「あら、随分と遅かったじゃない」
「うん。遅くなって仕事が入って、松と一緒に行って来たんだ」
「仕事って、狩宿まで行って来たの」
「そうさ。松も一緒なんだけど、飯食わしてくれるかい」
「ああ、いいともさ」
 次郎が松五郎を連れて入って来た。松五郎は市太の顔を見ると軽く頭を下げて、隅の縁台に腰を下ろした。
「親父の具合(ぐええ)はよくなったか」と市太は声を掛けた。
「はい。お陰様で‥‥‥」
「姉ちゃんは元気かい」
「はい‥‥‥でも」
「でも、何でえ」
「いえ、あの、ちょっと、いいですか。ちょっと話があるんですけど」
「何でえ、改まって。仕事の話じゃア俺に言っても始まらねえよ」
「そうじゃねえんです。ちょっと」
 市太は松五郎に誘われるままに茶屋を出た。上弦(じょうげん)の月が照らす中、通りの中央を流れる用水の所に馬が二疋、うまそうに水を飲んでいる。用水の側まで行くと松五郎は振り返って、「あのう、姉ちゃんの事なんですけど」と口ごもった。
「姉ちゃんがどうした」
「最近、姉ちゃん、ため息ばかりついてて、つまらねえ事で俺に当たるんです」
「疲れたんじゃねえのかい」
「いえ、若旦那が毎日のように来てた時は、姉ちゃん、浮き浮きしてました」
「へえ、そうかい」
「若旦那、姉ちゃんに鈴をやったって本当なんですか」
「鈴?」
「はい。馬に付ける鈴です」
「馬の鈴をか‥‥‥簪(かんざし)ならこの前(めえ)、やったが」
「簪? それは知らねえけど、姉ちゃん、鈴を大事(でえじ)に持ってんです。ずっと前(めえ)に、若旦那から貰ったんだって、この前、言ってました」
 市太には覚えがなかった。
「ずっと前って、いつの事でえ」
「さあ。でも、姉ちゃんがあの鈴を大事に持ってんのは、かなり前からです。俺が馬方をやる時、その鈴をくれって言ったら、これは一番大事な物だからダメだって言いました。そん時は若旦那から貰ったなんて言わなかったけど、若旦那が見舞いに来るようになってから教えてくれたんです」
「そうか‥‥‥」
 市太がおろくに鈴をやったとすれば、それは、おろくが兄の甚太夫を連れて市太の家に通っていた時しか考えられない。その時、何げなくやった鈴を、今まで大事に持っているなんて、市太には信じられなかった。
「本当に、あの鈴は若旦那がやった物なんですか」
「ああ。もう十年も前の事だ」
「そうだったんですか。俺、信じられなくて。それだけ聞きたかったんです。すいません」
 松五郎は桔梗屋に戻って行った。市太は通りの向こう側に広がる諏訪の森をじっと見つめていたが、月を見上げると、おろくの家へと足を向けた。
 おろくは驚いた顔をして、市太を迎えた。
「とっつぁんの具合はどうだい」
 市太が聞くと、おろくは目を伏せて、「もう大丈夫です。御心配かけてすみません」と小声で言った。
「そうか、そいつアよかった‥‥‥ちょっと、出られねえか」
「えっ」
「ほんのちょっとだ」
「でも‥‥‥あの、あたし、若旦那に見せたい物があるんですけど」
「何でえ、見せてえ物って」
「どうぞ、お入り下さい」
 囲炉裏の間には誰もいなかった。縁側の方から甚太夫が弾く三味線が聞こえて来る。父親と母親は奥の間に寝ている。叔父の三治ももう寝たようだ。
 おろくに案内されて部屋に上がると、おろくは片隅に置いてあった風呂敷包みを広げた。
「ようやくできました」と言って、市太の前に差し出したのは弁慶(べんけい)格子(ごうし)の単衣(ひとえ)だった。
「こいつア、もしかしたら‥‥‥」市太は単衣から顔を上げておろくを見る。
「いがみの権太の衣装です」とおろくは市太を見つめて言う。
「おめえが縫ったのか」
「はい。おすみさんに頼まれて」
 おすみというのは若衆頭、杢兵衛のおかみさんで、衣装担当の責任者だった。
「そうだったのかい。おめえが権太の衣装を縫ってくれたのか。そいつア知らなかった」
「これを着て、立派なお芝居を見せて下さい」
 市太がうなづき、「ありがとうよ」とお礼を言うと、おろくは嬉しそうに笑った。
 市太も喜びながら、おろくの笑顔を久し振りに見たような気がしていた。市太はさっそく、単衣に袖を通した。
「こいつアいいや。衣装を付けるとすっかり権太に成り切るぜ」
 市太は上機嫌でおろくに権太の台詞を聞かせた。甚太夫が聞いていたのか、その場面に合わせて三味線を弾いて、チョボを語ってくれた。父親の甚左が杖を突きながら奥の間から出て来て、「よう、若旦那!」と声を掛けた。
「とっつぁん、照れ臭えからよしてくれ」
「なアに、うめえもんだ」
「初代(しょでえ)の権太から、そう言われるたア嬉しいねえ」
「わしも昔を思い出したぜ」
 二十七年前、手の付けられないゴロツキだった甚左はいがみの権太を演じて、村人の喝采(かっさい)を浴びて改心した。市太がまだ生まれる前の事である。その後、十四年前にも、ゴロツキだった孫右衛門が権太を演じて改心している。市太は三代目の権太だった。
 甚左はおろくに言って、隣の『武蔵屋』から酒を買わせると市太を相手に権太談義を始めた。おろくは嬉しそうに二人に酌をする。
 やがて、松五郎が馬を引いて帰って来た。市太がいるのを見て、姉の笑顔を見て、満足そうに一人うなづくと囲炉裏端に座り込んだ。浮き浮きしている姉を見るのは久し振りだったし、父親が得意になって芝居の話をするのは、もっともっと久し振りだった。

2020年4月1日水曜日

天明三年(一七八三)六月六日

 大笹(おおざさ)宿(じゅく)の市は一と六の日に開かれる六斎市(ろくさいいち)で、穀物、お茶、炭、薪(たきぎ)、煙草(たばこ)、木綿、真綿などの取引が行なわれ、近在は勿論の事、信州からも商人たちが訪れて来て賑わっていた。善光寺と草津温泉を結ぶ街道が通り、旅人の往来も激しい。宿場の西側に関所があり、特に女人(にょにん)の通行を取り締まっていた。ここの関所番を務めているのが鎌原村に住む鎌原様だった。
 元沼田藩士だった鎌原氏、西窪(さいくぼ)氏、栃原(とちはら)氏、横谷(よこや)氏の四人が二人づつ一月交替で務めている。皆、身分は武士で、西窪氏は西窪村に、栃原氏は赤羽根村(三原)に、横谷氏は横谷村(松谷)に住んでいる。今月は横谷氏と栃原氏が関所番に当たり、鎌原氏と西窪氏はそれぞれの村に帰っていた。
 おなつと仲直りした市太は鉄蔵とおかよ、惣八とおなべ、妹のおさやと隣の枡屋の娘、おみや、それに、おさやとおみやに気がある安治と仙之助を連れて大笹の市に出掛けた。
 大笹には市太たちの喧嘩相手の藤次がいる。市日には仲間を引き連れ、宿場の警固に当たっているに違いない。今月の二十一日には市祭りがあり、村芝居が上演される。それを見るためには、何としても藤次と休戦しなければならない。市太は従妹(いとこ)である黒長の娘、おみのを利用しようと考えた。
 宿場外れまで来た市太らは、安治、仙之助、おさや、おみやを先に送り、おみのを呼んで来てもらう事にした。女だてらに馬方をやっているので留守なら諦めなければならない。家にいてくれと願いながら待っていると、四半時(しはんとき)(三十分)程して、おみのは一人でやって来た。いつものように、首に手拭いを巻き、丈(たけ)の短い筒袖(つつそで)に印半纏(しるしばんてん)を着ている。
「よう、市太兄い、しばらくだね」とニッコリ笑う。
「ほう‥‥‥」と鉄蔵は驚いたようにおみのを見つめる。美しい顔付きと男勝りの身なりがあまりにも不釣り合いだった。絵になると思ったのか、じっと見つめている。
 市太は鉄蔵をおみのに紹介した。
「へえ、お江戸の絵画きさんなの」
「おめえも描いてもらやアいい。なかなかの凄腕(すごうで)だ」
「あたしなんか描いたってしょうがないさ。話は聞いたよ。藤次の事なら任せておきな」
「頼むぜ。祭りが終わるまでは、奴と騒ぎを起こしたくねえ」
「それはこっちの台詞(せりふ)さ」
 おみのと一緒に市太らは宿場に入った。
 市太たちが村外れにいるのを知っていたのか、藤次はすぐに現れ、言い掛かりをつけて来た。六尺棒を持った仲間を十人も従え、市太たちを取り囲む。
「おい、覚悟はできてんだんべえな」と藤次は市太の正面に仁王立ちしてニヤニヤ笑う。
「よく来やがった。たっぷりと歓迎してやるぜ」とドスのきいた声で言ってから、おみのに向かって、「お嬢さん、すまねえが、ちっとばかり、目をつぶっていてくだせえ」と声も態度も改めて言う。
「そうは行かないんだよ」とおみのは市太と藤次の間に割って入る。「あたしの顔を立てて、手を引いておくれ。いいかい、祭りが終わるまでは、お互いに手出しはなしだよ」
「何だって? そいつはできねえ。いくら、お嬢さんの頼みでも、奴らを許すわけにゃアいかねえんだ」
「許せと言ってんじゃないよ。祭りが終わるまで、あたしに喧嘩を預けなって言ってんだ。祭りが終わったら気が済むまでやるがいいさ」
「しかしなア」
「しかしじゃないよ。あたしの顔じゃア不足だってえのかい」
「そうじゃねえけど」
「あんたも男だろ。ここはきっぱり、男らしく手を打ったらどうだい」
「畜生、わかったよ。ここんとこはお嬢さんの顔を立てらア。おい、市太、祭りが終わるまでだぞ。あんまり、でけえ面をすんじゃねえぜ」
 藤次は市太を睨むと引き上げて行った。
「さすがだねえ」とおなつが感心する。
「すまねえな」と市太は頭を下げる。
「この貸しは後でちゃんと返してもらうさ」
「おう。たっぷりと返してやるよ」
 おさやたちは茶屋で休んでいた。安治も仙之助も思いもかけず、好きな女と一緒に大笹まで来られたので浮き浮きしている。市太たちも一休みしてから、賑やかな市を見て回った。鉄蔵はさっそく手帳を広げて絵を描き始める。市太たちには珍しくもない情景も鉄蔵の興味を引くらしい。素早く、何枚も何枚も絵を描き続けた。
 宿場を一回りした後、一行はおみのの家に行った。おみのの父、黒岩長左衛門は大笹村の名主(なぬし)であり、問屋を務め、造り酒屋もやっている。大戸(おおど)の加部(かべ)安左衛門、干俣(ほしまた)の干川小兵衛と共に、吾妻郡の三分限者(ぶげんしゃ)と呼ばれる金持ちだった。長左衛門は風流人で俳諧(はいかい)や狂歌を嗜(たしな)み、江戸の文人たちとの交際もあった。有名な浮世絵師、勝川春章の弟子である鉄蔵は大歓迎された。
「ほう、吉原で出会ったのか。わしも以前、行った事があるが、あそこはまさしく、夢の国じゃな」
「へえ、父ちゃんも吉原で遊んだんだ」とおみのが横目で睨む。
「いや、遊んだわけじゃない。見物しただけじゃよ。あんなとこで遊んだら田舎者は恥をかくだけじゃ」
「ほんとはたっぷりと恥をかいて来たんでしょ」
「何を言うか」
 さすがの長左衛門もおみのにはかなわない。
 鉄蔵の江戸話を肴(さかな)に長左衛門が造った酒を御馳走になり、つい長居をしてしまった。たまには泊まって行けという言葉に甘え、みんなでお世話になる事にした。
 その晩、市太は藤次に呼ばれた。一人で来いと言う。何を企んでいるのかわからないが、手打ちの後、騒ぎは起こすまいと誰にも言わずに出掛けて行った。指定された煮売茶屋に行くと藤次は一人で酒を飲んでいた。
 市太の顔を見ると、「一人か」と聞いて来た。
 市太は警戒しながらうなづく。
「まだ、手打ちの盃(さかずき)をしてなかったからな」と藤次は笑った。
「それで、わざわざ呼んだのか」
「まあ、たまにはいいじゃねえか。こんな時じゃねえと話もできねえ」
「何の話だ」
「まあ座れ」
 市太は座敷に上がって、藤次の前に座り込む。客は隅の方に一組いるだけだった。
「おめえたア何度もやり合って来たが、お嬢さんの言う通り、そろそろ、ほんとの手打ちをしようと思ってな」
「ほう」と言いながら、市太は意外な事を言った藤次の顔を見つめた。何かを企んでいるのかと思ったが、そうでもないらしい。
「祭りの後の喧嘩もやめって事かい」と市太は聞いた。
「そういう事だ。ガキじゃアあるめえし、いつまでも喧嘩してる事もあるめえ」
「まあ、そうだ。喧嘩じゃア解決しねえからな。お互え痛え思いをするだけだ」
「ああ。隣同士でいがみ合ってても、何の得にもなりゃアしねえ」
「ほう、急に物分かりがよくなったじゃねえか」
「そうじゃねえ。今まで話し合う機会(きけえ)がなかっただけだ」
「そうだな。面を突き合わせりゃア、口より手の方が先だったからな」
「どうだ。ほんまもんの手打ちと行こうぜ。そっちだって芝居(しべえ)の稽古が忙しい時期だんべ。つまらねえ怪我したら芝居に出られなくなる」
「だがよう、若え者を押さえられるのかい」
「大丈夫(でえじょぶ)だ。そっちはどうなんだ」
「こっちも大丈夫だ」
「よし、こっちの祭りが終わった後、みんなを集めて、改めて手打ちをやるとして、とりあえずは俺たちの手打ちと行こう」
 市太と藤次は盃を酌み交わした。
「いがみの権太をやるらしいな。楽しみにしてるぜ」
「おめえこそ、松王丸だんべ。楽しみだぜ」
 お互いに芝居好き、芝居の話を始めたらきりがない。自然と打ち解け、盃も弾む。市太が鎌原路考の自慢をすれば、大笹にだって路考はいると藤次も負けない。
「路考と言えばよう、おみのの奴だけど、あいつは嫁に行く気はねえのか。いつまでも、あんな格好して馬方してるわけにも行くめえ」
 市太が言うと、藤次もうなづく。
「勿体ねえこった。あれだけのいい女、村の男衆(おとこし)はみんな惚れてんのさ。だが、相手は名主のお嬢さんだ。どうせ、どこか遠くの村に嫁に行っちまうんだんべって諦めてるんさ。遠くに行っちまうくれえなら、今のままでいいから、ずっと村にいてくれって願ってんだ」
「それにしたって、もう十九だぜ。本人は嫁に行く気はまったくねえのか」
「嫁入り話はいくつもあるようだが、今んとこ、みんな断ってるそうだ」
「そうか‥‥‥おめえはどうなんでえ」
「何が?」
「おめえはおみのをどう思ってんでえ」
「俺なんか関係ねえや。身分違えさ」
「へっ、身分なんかどうでもいいや。おめえの気持ちが知りてえんだよ」
「俺の気持ちを聞いてどうすんでえ。俺を笑え者にするつもりか」
「そうじゃねえ。おみののあのなりを見てみろ。身分なんかを気にする玉じゃアねえぜ」
「そりゃそうかもしれねえけど‥‥‥」
「俺は最近、家柄だの身分だのってえのに無性に腹を立ててんだ。おめえもおゆうを知ってるだんべ。おゆうが勘治と別れて、草津に働きに出ちまったんだ」
「あのおゆうが草津に行ったのか」
「そうさ。勘治の奴は諦めちゃアいねえ。おゆうを嫁に貰うつもりでいる。大人たちが何を言おうとよう、俺たちで身分なんてもんをなくしちまおうじゃねえか。二本差し(侍)はしょうがねえが、俺たちゃア同じ百姓身分だ。上も下もねえ。好き同士なら一緒になって当然だんべ」
「まあ、そうだがよ」
「なあ、おめえ、おみのが好きなんだんべ。おめえの態度を見てりゃアわかる。好きなら好きで態度で示してみろよ。おみのみてえなジャジャ馬を扱えるのは俺が見たとこ、おめえしかいねえ。思い切って、おみのに言ってみろ。案外、うまく行くかもしれねえ」
「何を言ってやがんでえ。突拍子もねえ」
「何もしねえで諦めるなんざ、おめえらしくねえぜ」
「そんな事言ったってよう‥‥‥」
「おみのの気持ち次第(しでえ)だがな、見込みがあるようなら力になるぜ。ジャジャ馬に蹴られる覚悟を決めて、ぶち当たってみるこった」
 藤次は悩んでいた。いつもの突っ張りが消えて、弱々しくさえ見えた。
「うまくやれよ」と言って市太は別れた。

目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...