2020年4月10日金曜日

天明三年(一七八三)六月二十七日

 朝から浅間山が唸り続けていた。
 二日前にひょっこり現れた紀州熊野の山伏(やまぶし)、永泉坊(えいせんぼう)が今朝から観音堂で祈祷(きとう)を始めた。永泉坊は市太の祖父、市左衛門の古くからの知り合いで、厳しい修行を積んだ偉い行者(ぎょうじゃ)様だという。見るからに厳しい顔をしていて、浅間山の鬼退治には持って来いだった。
 市太はすっかり、おろくに夢中になっていた。自分ちの畑仕事などした事もないくせに、おろくんちの畑仕事に精出している。おろくの父親は、そんな事をしなくもいいと恐縮しているが、まだ、ろくに歩けないのだからしょうがない。松五郎は銭を稼ぐために馬方をしているし、甚太夫や三治では畑仕事はできない。おろく一人ではとても手に負えなかった。せっかく、小石をどけたのに、放ったらかしじゃア勿体ねえ、俺がやるしかねえじゃねえかと張り切っている。
 朝早くから夜遅くまで、おろくの所に入り浸りで、家に帰るのは寝る時だけ。まるで、おろくの婿(むこ)になったようだ、と村ではもっぱらの評判になっていた。
 おろくの作った夕飯を当然のように囲炉裏端に座り込んで、おろくの家族と一緒に食べる。父親は仏頂面(ぶっちょうづら)だが何も言わない。甚太夫も何も言わないが、こっちは仏面(ほとけづら)、松五郎と三治はすっかり身内のように接している。寝たきりの母親は時折、見舞うと両手を合わせて拝むばかりだった。
 夕飯が済むとおろくを誘って芝居の稽古。時には三治を連れて松五郎も付いて来る。甚太夫も義太夫の稽古のない日は顔を出す。芝居の稽古のない日は観音堂へ行ったり、市太の家の土蔵の中にしけこんだり、とにかく、二人だけの時を持つ。今日は芝居の稽古があり、仲よく寄り添って諏訪の森へと出掛けて行った。
 永泉坊の祈祷が効いたのか、日暮れと共に浅間山の唸りはなりをひそめた。灰や小石が振って来る事もなく、村人たちは一安心して諏訪の森へと集まって来た。
 舞台の前に仲間に囲まれて惣八がいた。少しやつれた顔をして、市太を見ると照れ臭そうに笑った。
「やっと、娑婆(しゃば)に出られたぜ」
「よかったなア。こっぴどく、やられたようだな」
「それ程でもねえが、まいったぜ」
「とにかく、よかった。だけどよお、芝居(しべえ)の役は降ろされちまったなア」
「しょうがねえや」
「まあ、俺の権太を見ててくれ。そして、今晩は飲もうぜ。大丈夫なんだんべ」
「ああ、平気さ。昼間、真面目に稼業に精出したからな」
「そうか。話す事が一杯(いっぺえ)あるんだ。楽しみにしてるぜ」
 稽古が終わると市太たちはゾロゾロと巴屋へと向かった。途中、市太は惣八を誘って、みんなから離れて話を聞いた。
「おまんの事だけどよ、先生から聞いたぜ」
 そう言うと惣八はニヤッと笑った。
「ああ、うまく行ってたんだ。言おうと思ったんだけどよ、何か、言いづらくてな。それでも誰かに言いたくて、たまたま先生に会ったんで、内緒にしてくれって言っちまったんだ。村の者が誰も知らねえとこを見ると、先生はほんとに内緒にしてくれたらしいな」
「俺だけだんべ。知ってんのは」
「今、思えば、先生から村の者に伝わって、噂になってくれりゃアいいと思ったのかもしれねえ」
「本気で惚れちまったのか」
 惣八は立ち止まって、遠くの方を見つめながらうなづいた。
「八兵衛の留守に、愚痴を聞かされてなア、八兵衛なんかにゃ勿体ねえ、俺が幸せにしてやるってな、本気になっちまった」
 惣八は市太の顔を見て苦笑すると歩き出した。
「元の鞘(さや)に納まっちまったぜ」と市太は教える。
「ああ、聞いたよ」
「どうすんでえ」
「もう、どうするもこうするもねえよ」
「おなべはまだ一人だぜ」
「おなべか‥‥‥いい娘だけどな」
「おまんのがいいのか」
「忘れられねえんだ。土蔵ん中で、おまんの事ばかり考えてた」
「そうか‥‥‥例の賭けだけどよう、ありゃアもうやめだぜ」
「ああ、念仏講なんてとんでもねえや。それで、おめえの方は一体(いってえ)、どうなってんでえ。おろくの婿になる気なのか」
「そうじゃねえよ」
「村の者はみんな言ってるぜ。三代目(さんでえめ)の権太は初代(しょでえ)の権太に婿入りしたってな」
「へっ、言いてえ奴にゃア言わしておくさ」
「それじゃア、やっぱり、江戸に行くのか」
「当たり前(めえ)よ」
「おろくは、それまでの遊びってわけか」
「そんなの決まってべえ」と市太はつい勢いで言ってしまった。惣八のように本心を告げる事はできなかった。「勘治は堅気(かたぎ)になっちまうし、おめえは蔵ん中だし、退屈しのぎに畑仕事をしてたんさ」
「そうか、そうだんべなア。俺アもうしばらくは親の機嫌を取らなくちゃアならねえ」
「わかってるよ。俺はアホの三治をからかって遊んでらア」
「アホの三治か。ガキの頃、よくからかって遊んだっけ。あそこんちの親父、鬼のような面して追っかけて来やがった。おめえ、あの親父、大丈夫なのか」
「ああ、今は怪我してるからな、追っかけて来る事もできねえ。まあ、いつも、苦虫(にがむし)をかみ殺したような面アしてるから苦手だがな」
 巴屋の前で、おろくが待っていた。
「おろくの奴、やけに色っぽくなったんじゃねえのか」と惣八が肘で市太を突く。
「長え事、蔵ん中にいたから、そう見えるんだんべ」
「そうかもしれねえ。娘たちがみんな、可愛く見えるぜ」
 惣八が店に入ると、おめでとうとみんなが迎え、蔵出し祝いの宴が始まった。
「ねえ、おなべを呼んで来ようか」とおかよが気を利かす。
「いいよ。どうせ、怒ってんだんべ」
「そんな事ないみたいよ」
「でもよう、おなべは今、義太夫の稽古に忙しいんじゃねえのか」と幸助が言う。
「そうか。明後日(あさって)だっけ、代表を決めるの」と市太は思い出す。
「おなつとおきよの二人が競うんじゃなかったのか」と惣八が聞く。
「そうだったんだけど、あんたが閉じ込められちゃってから、おなべもやる気になってね、おなつと毎日、お稽古に励んでるのよ」
「そうか。でも、おなべは無理だんべえ」
「あたし、三人共、聞いてみたけど、五分五分ってとこじゃない」
「ほんとかよ」と幸助が驚いた顔をする。「おきよが一番だと思うけどな」
「おめえにゃア、何でも、おきよが一番さ」
 安治に冷やかされて、幸助はむきになる。
「そうじゃねえよ。前評判はそうだったんべ」
「前評判はね。でも、おなべもおなつもほんとに真剣にやってるの。当日になってみなけりゃわかんないわね」
「ほんとかよ。そいつはやべえな。おきよの奴、もう自分だと思って安心してやがる」
「もし、おきよが選ばれなかったら、あんたのせいかもね」
「そうだぜ。おめえがちょっかい出したから、おきよの腕が鈍ったんだ」
「そんな‥‥‥」
「ねえ、若旦那、おなつの事だけどね、もう、はっきりと別れたんでしょ」
 おかよが急に言い出し、市太はまごついて、おろくを気にする。
「おめえ、なに言ってんでえ、今更」
「いえね、おろくさんのためにもはっきりしといた方がいいと思ってね」
「そんなの、もうとっくに別れてらア。顔を合わせたって口もきいちゃアいねえよ」
「実はね、うちの兄貴がさ、どうも、おなつの事、好きみたいなんだよ」
「なに、長治がか」
「そう。でも、若旦那がおっかなくって、おなつに声も掛けられないのさ」
「なに言ってやんでえ。長治がおなつとどうにかなったって、俺が怒る筋アねえ。好きにしろい」
「兄貴に言っとくわ。まあ、うまく行くかどうかはわからないけどね」
「長治とおなつか‥‥‥難しいかもしれねえな」と安治がもっともらしい顔で言う。
「安とおさやはどうなんでえ」と勘治が二人を見て笑う。
「俺たちは‥‥‥」と安治はおさやを見ながら口ごもる。
「おさやは安治さんの事、好きなんですよ」とおみやが口を出す。
「おみやったら、なに、そんな事、言うのよ」
 おさやは顔を赤らめて、おみやをぶつ真似をする。
「だって、本当じゃない。見てられないのよ。あたしはちゃんと言ったのよ。仙さんに好きだって」
「いよおっ、仙の字」
 みんながキャーキャー囃し立てる。仙之助は真っ赤な顔して照れている。
「みんな、いいのね、好きな人が側にいて」おかよが溜め息をつく。
「兄貴はまだ、江戸に着かねえだんべなア」
「おかよ、俺だって側にいねえんだぜ」と勘治が言うと、
「おめえ、おゆうに会いに行ってるのか」と惣八が聞く。
「ああ、行ってるよ。十日に一度ぐれえしか行けねえけどな」
「一緒になるつもりなのかい」
「当たり前(めえ)だ。家柄だの身分違えだの、くそくらえだ」
「実は俺もそいつで悩んでんだ」と幸助が勘治を見る。「おきよの親父は組頭だからな、どうも、身分違えらしい」
「そんなの、くそくらえって言ったんべ」
「だってよう、うちはもう二親共いねえし、おきよの両親に断られりゃアそれまでだ」
「馬鹿野郎、そんな情けねえ事でどうする。大人たちと戦って、うまくやるんだよ」
「そう言ってもなア、俺にゃア自信がねえ」
「しっかりしなさいよ、もう。こうやって見れば、若旦那とおろくさんだって身分違いじゃない。安治さんとおさやだって、仙さんとおみやだって、みんな、そうじゃないさ」
 おかよに言われて、皆、初めて気づいたように回りを見回す。
「そう言われてみりゃア、みんな、身分違えだ。どうなっちまったんでえ」
「誰かが誰かを好きになるのに身分なんて関係ないのさ。そんな古いしきたりなんか、あたしたちでぶち壊してやろうじゃない」
「おう、そいつアいいぞ」と勘治は張り切る。「でも、俺たちだけでやってもダメだ。若衆組を動かせりゃアいいんだが」
「そいつは難しいぜ」と市太は言う。「すでに所帯(しょてえ)を持ってる奴も多いからな。奴らの中にゃア身分違えで諦めて、他の奴と一緒になった奴もいるだんべ。そいつらが何と言うかだな」
「まずは市太、おめえたちだんべ」
「勘治、何を言ってるんでえ」
「問屋の伜のおめえが最初に掟(おきて)を破りゃア、後は何とかなるぜ」
「掟破りか、破るのは好きだけどよう」
「おめえたちが見本を見せりゃアいい。そうすりゃア、幸助とおきよも一緒になれるし、安とおさやも、仙とおみやも一緒になれるってえもんだ。勿論、俺アおゆうと一緒になる」
 その夜、市太たちは村の身分差をなくすという事を熱くなって語り合った。

2020年4月9日木曜日

天明三年(一七八三)六月二十四日

 昨夜、おゆくに勧められて飲み過ぎた鉄蔵の具合が悪く、村を出たのは昼過ぎだった。
 狩宿まで送って行った市太と幸助が村に帰って来たのは、日もすっかり暮れて真っ暗になっていた。幸助と別れた市太は小宿(こやど)村の知り合いから借りた提燈(ちょうちん)をぶら下げて、真っすぐにおろくの家に向かった。おろくは首を長くして待っていた。市太が入り口で声を掛けるとすぐに出て来て、嬉しそうに笑った。
「大丈夫か」と聞くと、「大丈夫よ」と明るい声で言う。
 市太はおろくの手を取って、「お嬢様、今晩はどこに行きやしょう」
「市太郎様のお好きな所へなんなりと」
「今夜は星が降るようだ。観音堂へと参(めえ)りやしょう」
「あい」
 二人は寄り添いながら観音堂へと向かった。
「おかよさんはどうでした」
「もう見ちゃアいられねえや。強がっていながらも半分は泣きべそだ。たっぷり、別れを惜しめって置いて来た」
「やっぱりね。でも、一人で大丈夫かしら」
「なアに、村の者が年中、狩宿まで行ってる。誰かを捕めえて一緒に帰(けえ)って来るだんべ」
「そうね。馬方してる人で、おかよさんを知らない人はいないもんね」
「そうさ。おかよに頼まれりゃア、鼻の下を伸ばして馬に乗せて帰って来らア」
「でも、鉄蔵さんもいなくなっちゃって、村も淋しくなるわね」
「そうだな。兄貴はいい奴だったよ」
「若旦那はまた会えるからいいじゃない」
「その若旦那ってえのはやめろって言ったろ」
「ごめんなさい、市太さん」
「江戸には行きてえが、おめえと別れがたくなって来たぜ。おめえと一緒に行けりゃア文句なしなんだがな」
「あたしはダメです。うちの者を放っては行けないもの」
「桔梗屋の姉さんじゃねえが、早いとこ、おめえの兄貴の嫁さんを捜さなくちゃアな」
「難しいわ。兄さん、目が見えないんだもの」
「目が見えなくたって、立派なお師匠じゃねえか。本も読めねえのに浄瑠璃をすっかり覚えちまうなんて、ほんとに大(てえ)したもんだぜ。すげえと思うよ」
「兄さんはいいけど、寝たきりの母ちゃんに、手に負えない叔父さんもいるもの。無理よ」
「そう簡単に無理なんて言うなよ。無理かどうかやってみなけりゃわからねえ。捜せばいるかもしれねえよ」
 二人は石段を昇って、観音堂に着くと空を見上げた。まさしく、降るような星空だった。
「あたしね、いつもお星様にお願いをしてたのよ」夜空を見上げたまま、おろくが言った。
「どんな願いだ」と市太はおろくの横顔に聞いた。
「母ちゃんが起きられるようになりますように。兄さんの目が見えますように。叔父さんがまともになれますようにって」
「自分の事ア願わねえのか」
「あたしの事なんか諦めてたもの」
「それがよくねえんだよ。おめえはすぐに諦める。諦めてちゃア何も始まらねえ」
「だって‥‥‥ほんとは若旦那、いいえ、市太さんとこうなるように願ってたわ。まさか、かなうなんて思ってもいなかったけど」
「俺だって、おめえとこうなりてえと願ってた。かなうなんて思ってもいなかったさ」
「嘘ばっかり」
「ほんとさ。おめえが俺なんか相手にしてくれねえと思ったもんさ」
「そんな事ないよ」
「だって、おめえ、なかなか、うちから出てくれなかったじゃねえか」
「あの時は怖かったの。市太さんがあたしに声を掛けてくれるなんて信じられなかったし、あたしをからかって、みんなであたしの事を笑ってるんだろうって思ったのよ」
「なんだ、おめえ、そんな事、思ってたのか」
「そう。怖かったの」
「それで、あんなにおどおどしてたんだな」
「そうよ。いつ、みんなに笑われるかと思って」
「つまらねえ事を考えやがる」
「だって、信じられなかったんだもの。今でも信じられない。みんなと一緒に、お酒を飲んだり、一緒に騒いだり‥‥‥ほんとはあたし、みんな、死んじゃえばいいって願った事もあるわ」
「みんなって家族がか」
「そう。母ちゃんも父ちゃんも、叔父さんも兄さんも、姉さんも弟の松も、みんな、死んじゃえばいいって‥‥‥みんながいなくなれば、あたしは好きな事ができるのにって」
「おめえがそんな事を考えるたア見直したぜ」
「なに、それ」
「じっと我慢してるだけじゃア、ダメさ。たまには怒らなけりゃアな。俺なんか、うるせえ親父と兄貴なんか死んじまえって年中、思ってらア。兄貴がいなくなりゃア、うちを継げるからな。なにも村を出る事もねえ」
「ほんとは村を出たくないのね」
「おめえと別れてまで出たかアねえよ。かと言って、村に残ってもやる事がねえ」
「やっぱり、江戸に行くのね」
「芝居(しべえ)が終わったら、行く事になるだんべ」
「そう‥‥‥」
「今頃、兄貴とおかよもこうやって星を見てるかな」
「そうね」
 市太がおろくを抱き寄せようとした時、突然、後ろから声が掛かった。
「ねえ、若旦那なの」
 二人はビクッとして振り向いた。声の主はおゆくだった。
「何だ、姉さんか。脅かさねえでくれ。こんなとこで何してんだ」
「よかった」とおゆくはホッとして胸を撫でた。「若旦那とおろくちゃんなら大丈夫ね」
「何が大丈夫なんでえ」
「ちょっと来てよ」
 おゆくに連れられて若衆小屋に行くと、小屋の中に錦渓(きんけい)がいた。
「先生」と市太は思わず叫んだ。
「おい、声がでけえぞ」と錦渓は人差し指を立てて口に当てた。
 市太は回りを見回して、誰もいない事を確認してから、「先生、一体(いってえ)、どうしたんです。江戸に帰(けえ)ったんじゃねえんですかい」と小声で聞いた。
「村を追い出されたからって、何も持たずにノコノコ江戸には帰れねえ。帰った振りして、隠れて明礬(みょうばん)捜しをしてたのさ」
「村の者に見つかったら半殺しにされますよ」
「だからこうして隠れてるんじゃねえか」
「隠れるったって、ここは危ねえ。若え者が逢い引きに使ってんだ。俺たちだったからよかったものの、他の奴に見つかりゃア、すぐに村の者に知れちまう」
「それはわかってたけどさ」とおゆくが言う。「まさか、店ん中で会うわけにゃアいかないだろ。それで、ここに来たんだけど、どっか、いい隠れ家はないもんかねえ」
「急に言われてもなア」
「なに、ちょっと二人で会えりゃアいいんだ。わしは今、山ん中の炭焼き小屋に隠れてる」
「今の時期、炭焼き小屋は大丈夫(でえじょぶ)だと思うけど、気を付けた方がいいですよ。誰かに見つかっちまったら、八蔵の奴、山狩りをするって言い出すかもしれねえ」
「わかってる。充分に気を付けるさ」
「先生、まず、その格好を変えた方がいいんじゃねえですか」と市太は言う。
「なに、格好を変えるのか」
 錦渓は自分の着物を見回した。確かに市太の言う通り、浪人姿は江戸でこそ目立たないが、こんな田舎では目立ってしまう。
「それじゃア、すぐに先生だってわかっちまう。馬方の格好がいい。馬方なら、どこにでもいる。ちょっと見ただけじゃアわからねえ」
「そうねえ、それはいい考えよ」とおゆくも納得。
「俺がちょっくら、うちから持ってくらア。先生、ちょっと待っててくんねえ」
 市太は家に行こうとして振り返り、おろくに声を掛ける。
「おめえ、どうする。まだ、大丈夫か」
「えっ、そうね、大丈夫だと思うけど」
「お父さんがうるさいんでしょ。今日は帰った方がいいわよ。また明日、会えるんだし」
 おゆくが言うと、おろくは市太を見つめてうなづいた。
 市太はおろくを送ってから家に帰り、筒袖(つつそで)に股引(ももひき)、橘屋の印半纏(しるしばんてん)に草鞋(わらじ)を持ち出した。今日は芝居の稽古もないので、通りはひっそりと静まり返っている。誰にも会わずに観音堂に戻ると、錦渓に馬方の衣装を差し出す。錦渓は素早く着替えた。
「どうだ。馬方に見えるか」と錦渓は聞くが、何かが違う。
「頭が違うのよ」とおゆくが言った。
 錦渓は師匠の源内を真似て総髪(そうはつ)に髷(まげ)を結っていた。やはり、月代(さかやき)を剃らなければサマにならない。今度はおゆくが剃刀(かみそり)を取りに帰った。おゆくがいなくなると、市太は鉄蔵が江戸に帰った事を教えた。
「そうか。奴も帰(けえ)ったか‥‥‥惣八の奴はどうした」
「まだ、蔵ん中です」
「奴も調子に乗り過ぎたな。一度でやめときゃアいいのに」
「一度でやめときゃアいいって、そりゃ、どういうこってす」
「何だ、おめえ、知らねえのか。惣八の奴、捕まる四、五日前、おまんをものにしたって喜んでたぜ」
「そいつア、ほんとですか」
「ほんとさ。おめえに言ってなかったのか」
「そんな事、一言も聞いてねえ」
 捕まる四、五日前と言えば、鉄蔵が大笹から鎌原に帰って来た頃だった。その晩、芝居の稽古があって、終わった後、おかよの店で鉄蔵の帰りを祝って、みんなで飲んだ。惣八は何をしていたのか、遅くになってから店に現れた。何も言わなかったが、あの時、おまんと会っていたのだろうか。
「奴は本気だったのかもしれねえな」と錦渓が言った。「本気でおまんに惚れちまったんだろう。だから、おめえには言えなかった。どうせ、惣八は遊びのつもりで、おまんをものしてやるとか言ってたんだろう。遊びなら一発やりゃアそれでおしめえだ。未練を持つなんて野暮(やぼ)ってもんだ‥‥‥それで、おまんの方はどうなった。離縁されたのか」
 市太は首を振った。「元の鞘(さや)に戻ったようで」
「そうか。惣八の筋書き通りには行かなかったか」
「惣八の筋書きは離縁だったんですか」
「そりゃそうだろう。離縁になりゃア、一緒になれるからな」
「あの馬鹿が、何を考えてやがるんだ」
「おめえも惣八の事が言えるか。江戸に行くって言いながら、おろくとよろしくやってるじゃねえか。まあ、そういうわしも他人(ひと)の事をとやかく言える義理じゃねえがな‥‥‥ほんと言うとな、明礬なんかどうでもいいんだ。さっさと江戸に帰ろうと思ったんだが、突然、追い出されちまったからな、おゆくの奴とちゃんとした別れってえのをしてねえ事に気づいたんだ。それで、こうして戻って来たんだよ」
「何だって? それじゃア、姉さんに会うためにわざわざ、危ねえとこに戻って来たって言うんですか」
「まあ、そういうこった。ところが、面と向かったら、だらしねえ事に言えなくなっちまってな、このザマだ。マゴマゴしてたら月代まで剃られちまう。おい、何とかしてくれ」
「まったく、先生も何やってんでえ」と市太は笑い転げる。
「笑い事じゃねえ」
「それで、先生は姉さんとどうしてえんです」
「まあ、早え話があれだよ」
「抱きてえんですか」
「まあ、早く言えばな」
「そんなら簡単じゃねえですか。二人で大笹でも行って旅籠(はたご)に泊まりゃアいいだんべ」
「おお、そうか。大笹には結構、立派な旅籠屋があったっけな。大笹までなら一時(いっとき)もありゃア行ける。しかし、今からじゃア遅えだろ」
「大丈夫ですよ。あそこの問屋は俺の親戚ですから、俺の名前を言って、おみのってえ娘に頼めば何とかしてくれますよ」
「おう、そうか。そいつはありがてえ」
「姉さんが来たら、余計な事は言わねえで、さっさと大笹に行った方がいいですよ。姉さん、先生がいなくなってから毎晩、大荒れなんだから」
「そうか。おゆくは大荒れだったか。そいつア大変だったなア」
「大変なんてもんじゃねえ。大迷惑だった」
「そうか、そうか」と錦渓は急に御機嫌な顔をしてうなづいている。
 剃刀と水を持って来たおゆくに錦渓は、「これからすぐ、大笹に行く事になった。一緒に行けるか」と誘う。
「えっ」とおゆくは何の事かわからず、市太を見る。
「二人で相談して、大笹に腰を落ち着けて、明礬捜しをすりゃアいいって事になったんだ」
「あっ、そうか」とおゆくもうなづく。「何もこの村にこだわらなくてもよかったんだ。そうよ、大笹に行けばいいんじゃない」
「それで、先生はどうしても、姉さんと一緒に行きてえんだそうだ」
「えっ、そりゃまあ、あたしは構わないけど」
「よし、話は決まった」
「でも、このままじゃア、うちの者に一言、言ってかないと」
「俺がうめえ事言ってやるから、早く行きなよ。姉さんだって、会いたくてしょうがなかったんだんべ」
「やだよ、若旦那ったら。それじゃア、これ、お願いね」
 おゆくは剃刀と水の入ったとっくりを市太に渡すと、錦渓の腕を取って提燈をぶら下げ、いそいそと石段を降りて行った。
「くそっ、とんだ馬鹿見た。こんな事なら、土蔵ん中にしけこみゃアよかったぜ」
 市太は仕方なく桔梗屋に顔を出して、おゆくが急用ができて大笹に出掛けた事を告げると、家に帰って小便をして寝た。

2020年4月8日水曜日

天明三年(一七八三)六月二十三日

 舞台では三幕目の『渡海屋(とかいや)』の稽古をやっている。いよいよ、本番まで、あと一月、何とか、皆、様になって来た。
 市太とおろくは仲よく見物。今晩は市太の出番はない。
「そろそろ行くか」と市太はおろくの手を引いて、おかよの店、巴屋に向かった。
「今日はほんとにすみませんでした」とおろくは謝った。
「なに、気にするねえ。どうせ、昼間はやる事がねえんだ」
「父ちゃんも助かったって言ってます」
「おめえを連れ出すにゃア、とっつぁんの機嫌を取らなけりゃならねえからな。お陰で昨夜(ゆんべ)も一緒にいられた」
「はい」とおろくは少し赤くなる。
 一昨日(おととい)の晩、念願かなって、おろくを抱いた市太は次の日の昼、どうしても、おろくに会いたくなって、おろくの家に行った。家には誰もいなかった。寝たきりの母親はいたのかもしれないが返事はない。隣の武蔵屋の女将に聞くと、畑じゃないかという。畑の場所を聞いて行ってみると、おろくは弟の松五郎、叔父の三治も一緒になって、畑の中の小石をどけていた。杖(つえ)をついた父親も危ない足取りで小石を片付けている。市太の家では市太が大笹の市祭りに行った日に、手の空いている男衆(おとこし)に手間賃を払って片付けたらしい。唯一の働き手である松五郎が手間賃稼ぎに他人の田畑の小石を片付けていて、自分の家の畑は後回しになってしまった。市太は見るに見かねて手伝った。
 昨日、今日と仕事に精出し、何とか、小石も片付けた。おろくの父親も感謝して、昨夜は芝居の稽古がないのに、市太と出掛けるのを許してくれた。市太はおろくを自分の部屋に連れて行き、江戸芝居の役者番付や役者絵を見せて、有名な役者の話を聞かせ、ついでに土蔵に連れ込んで、しっぽり濡れた。
 巴屋には鉄蔵、幸助とおきよが来ていた。
 幸助はおきよを美人絵に描いて贈り、やっと、自分の気持ちを伝える事に成功した。おきよの方もまんざらでもないらしい。
「あら、お揃いで。いらっしゃい」とおかよが笑顔で迎える。
「おめえ、大丈夫(でえじょぶ)か」と市太はおかよを心配する。
「大丈夫さ。こうなる事は最初からわかってたのよ。平気、平気」と強がりながら、おかよはお勝手の方に引っ込んだ。
「あたしも手伝った方がいいわね」とおろくもお勝手の方に行く。
 市太はうなづいて、座敷に上がり込む。
 鉄蔵は煙草をふかし、幸助は鉄蔵の手帳を眺めながら一人で唸っている。朝から晩まで絵を描いているので何冊めの手帳かわからない。風景、人物、虫や花、目につく物は何でも描いていた。
 市太の祖父、市左衛門のために茶の湯の掛け物を描き、市左衛門が茶の湯仲間に見せびらかすと、わしにも描いてくれと引っ張り凧になった。鉄蔵は喜んでサラサラと絵を描いた。大笹の黒長に頼まれて襖絵(ふすまえ)を描いた事が知れると村の者たちも欲しがり、あっちこっちに出向いては襖絵を描いていた。その合間には娘たちの姿も描いている。鉄蔵の絵に対する執念はまったく驚くべきものだった。
「兄貴、扇屋の仕事は終わったのかい」市太は鉄蔵の隣に座り込んで聞く。
「ああ、やっと終わったぜ」
「兄貴も忙しかったなア」
「お陰で、懐(ふところ)は大分(でえぶ)、暖(あった)かくなった。江戸に帰(けえ)っても当分は遊べるってえもんだ」
「また、吉原に入り浸りですかい」
「いや、今度は深川さ」
「深川か。あそこにゃア粋(いき)な芸者衆がいるんだんべ。いいなア」
「江戸に来たら連れてってやるよ」と鉄蔵は笑う。「深川は吉原ほど金がかからねえからな」
「そいつアありがてえ」
「おろくとうまく行ってるようだが、おめえ、別れられるのか」
「そいつなんだ。今はちょっと別れられねえ。あと一月でどうなるか。芝居(しべえ)が終わってから考(かんげ)えるさ。兄貴の方はどうなんでえ。おかよと簡単に別れられるのかい」
「つれえが、今の俺はまだ半人前(めえ)だからな、一人前にならなけりゃア話にならねえ。会いたくなったら、また来るさ。まあ、おかよの方もそういつまでも待っちゃアいられねえだろうがな」
「兄貴の腕は確かなんだ。有名になる事ア間違えねえや」
「いや、まだまださ。上には上がいるもんだ。ここに来て、何とか、俺の絵ってえもんがつかみかけて来た。江戸に帰って、またやり直しだ」
「早く有名になって下せえよ。村の者たちもみんな応援してるんだ」
「ああ、見ていてくれ」
 桔梗屋のおゆくがとっくりを抱えてやって来た。
「なんだ。まだ、みんな揃ってないのかい」
「やあ、姉さん、わざわざ、店を閉めてまで来てくれて悪(わり)いなア」
「なあに、たまにはお客になって、とことん飲むのさ」
「おい、姉さん、また、酔い潰れるまでやるつもりかよう」と市太が顔をしかめる。
「この間の冷や酒はきいたねえ。でも、うまかったろ。ちゃんと持って来たからね、みんなで飲もうや」
 芝居の稽古も終わり、勘治、安治、仙之助、おさやとおみやもやって来て、鉄蔵の送別会が始まった。普通だったら、当然、この場にいるはずの惣八、おなつ、おなべの顔はない。惣八は未だに土蔵から出してもらえないし、おなつとおなべは、それぞれ、市太、惣八との仲が気まづくなり、芝居の稽古で顔を合わせても口もきかなかった。
 おろくは市太の隣に当然のように座って、ちょっぴり酒を飲みながら、みんなの話を聞いていた。
「おまんだけど、どうやら、八兵衛とよりを戻したらしいぜ」と安治が言うと、待ってましたとおゆくが話に乗ってくる。
「おすみから聞いたんだけどね。一時は離縁するって話まで行ったらしいよ。おまんは子供ができないだろ。跡継ぎを産まない女なんか、いらないって言ったらしいのよ。おすみも子供ができないからね、くやしいって、あたしに愚痴(ぐち)を言いに来たのさ」
 おすみはお頭、杢兵衛のおかみさんで、おゆくとは同い年、愚痴を言い合う仲だった。
「それで、どうなったんだ」と市太が聞く。
「お頭が何とか説得したみたい。結局、おまんと惣八は何もなかったみたいね」
「でも、あん時、おまんは帯を解いてたんだんべ」と幸助も興味深そうに話に加わる。
「それがさ、その帯は芝居で使う帯だって言うんだよ。おまんは路考の衣装を担当してたからね、筋はちゃんと通ってるのさ」
「それにしたって、路考は帯を解いたおまんの姿を見てるんだんべ」
「部屋ん中は暗かったからね、はっきりとは見てないらしいのよ。散らかってる帯を見て、暗闇ん中に惣八とおまんが二人っきりでいたんで、路考は大騒ぎしたんだよ」
「それじゃア、蔵ん中に閉じ込められた惣八は馬鹿みたってえ事か」
「世間体が悪いからしょうがないさ。他人(ひと)様のおかみさんに手を出そうとしたのは確かなんだからね。二人が元の鞘(さや)に納まりゃ、そのうち、出られるだろ」
「俺は最初(はな)っから、おかしいと思ってたぜ」と市太は言う。「その日、惣八は稽古に出てたんだ。出番が終わって、すぐにおまんのとこに行ったって、あの大揺れが来るまで四半時(しはんとき)(三十分)ぐれえしかなかった。四半時で口説き落とせるはずがねえ」
「そうだよな。奴にそんな腕はねえぜ」と安治もうなづく。
「でもね」とおゆくが身を乗り出す。「八兵衛とおまんの仲もしっくり行ってなかったのは確かなんだよ。八兵衛は最近、やたらと追分の女郎屋に通ってて、淋しい思いをしてたらしい。そんな時、惣八が毎日のように出入りしてりゃア、なるようになっちまうさ。もし、あん時、お山が焼けなかったら、間違いなく間男(まおとこ)してたろうねえ」
「姉さんも今、先生がいなくなって、おまんと同じ心境かい」
「ああ、そうさ。淋しくって夜も眠れないのさ。おかよちゃん、あんたも鉄つぁんがいなくなれば同じだよ。覚悟しときな」
「おい」と鉄蔵がおかよを見る。「俺がいなくなったら、淋しくなって、すぐに他の男とできちまうのか」
「なに言ってんのよ。そんな事あるわけないじゃない。一年でも二年でも、あたしはあんたを待ってるさ」
「嬉しいねえ。さすが、俺が惚れた女だ」
「おろくちゃん。あんたもだよ」
 おゆくが突然、おろくの名を呼んだので、みんなの視線がおろくに集まる。
「えっ」とおろくは皆の顔を見回す。
「若旦那も芝居が終わりゃア江戸に行くんだろ。淋しくって、毎日、泣いてなくちゃアならないよ」
「そんな‥‥‥」
「ほんとさ。江戸に行きゃア、いい女は一杯いるからねえ。まったく、気が気じゃないよ」
「姉さん、そんな事、言わないで下さいな。あたしも心配になってきた」おかよが鉄蔵の顔を見つめる。
「そうだ。男たちが帰って来なかったら、あたしたち三人で江戸に行こうか」
「そうね、そうしましょ」とおかよはおゆくに賛成。
「おろくちゃん、あんたも行くのよ」
「でも‥‥‥」
「でもじゃないの。あんたはもう充分にうちのために働いて来たのよ。そろそろ、自分の事を考えなさい。姉さんだっているんだし、兄さんがしっかりしたお嫁さんを貰えばいいのよ。ねえ、若旦那、おろくちゃんのために、兄さんにお嫁さんの世話してやってよ。世話好きな、いい人をね」
「そうか。その手があったな」市太は、そいつはいい考えだとおろくを見てうなづく。
 おろくも軽くうなづくが、難しいわよという顔付き。
「それにしても、あんた、随分、変わったわね」おゆくがおろくに言う。「今まで、あんたの笑い顔なんて見た事なかったけど、若旦那と仲良くなってから、すっかりいい女になっちゃって」
「ほんとよ。お芝居の事も詳しいんで、あたし、びっくりしちゃった」おかよが言うと、市太の妹のおさやもうなづいて、
「兄さんがお芝居のお稽古におろくさんを連れて来た時、あたし、誰だかわからなかった。何となく、おどおどしていて、兄さん、何で、こんな人を連れて来たんだろうって思ったの。でも、だんだんと打ち解けて来て、だんだんと綺麗になって行くんだもの。あたし、びっくりしちゃった」
「自惚(うぬぼれ)鏡のお陰だな」と鉄蔵が笑う。
「なアに、自惚鏡って」
「江戸土産さ」
「へえ、若旦那、おろくちゃんに自惚鏡をやったんだ。あたしも先生から貰ったわよ。あれはほんと、よく写るわ」
「俺もおゆうにやったんだが、えれえ喜ばれたよ」と勘治も言う。「草津は普通の鏡は使えねえそうだ」
「ねえ、兄さん、自惚鏡って何なの」おさやは市太に聞く。
「先生のお師匠が作ったビイドロの鏡さ。銅の鏡なんかより、ずっと綺麗に写るんだ」
「ずるい。兄さん、おろくさんにそんなの買って来て、あたしには簪(かんざし)だけなの」
「いいじゃねえか。そのうち、安に買ってもらえ」
「あたしも綺麗になるんなら、そんな鏡が欲しい。ねえ、安治さん、江戸まで行って買って来て」
「おさやちゃん、急に何を言ってんだよ」
「仙さん、あたしにもね」とおみやも言う。
「俺が江戸に帰ったら、みんなに送ってやろう」と鉄蔵が言うと娘たちは大喜び。
「でもな、その鏡のお陰で、おろくが綺麗になったわけじゃアねえ」と鉄蔵は言う。「ただ、自分に自信を持ったから綺麗になったんだよ」
「自信だなんて、そんなの持ってませんよ」おろくは恥ずかしそうに手を振る。
「自信というか、今までは自分の事なんか誰も見向きもしねえと思ってた。ところが、市太が自分を好きになってくれた。市太のためにも綺麗にならなくちゃアならねえって気持ちが、おろくを輝かせたんだ。女ってえなア、いつでも誰かに見られてると思うと綺麗になるもんだ。おかよや姉さんのようにな」
「うまい事、言うじゃない。これで、お酒が飲めれば文句ないんだけどね」とおゆくがおかよを見て笑う。
「いいんですよ。お酒なんか飲めなくたって」
「おやおや、御馳走様」
 四つの鐘(午後十時)が鳴ると、おろくは帰ると言い出した。あまり遅くなると明日の晩、出られなくなるので、市太も諦めて送って行った。安治はおさや、仙之助はおみや、幸助はおきよを送り、戻って来ると再び、宴が始まった。

2020年4月7日火曜日

天明三年(一七八三)六月二十一日

 浅間山が焼け、石が降って来て、山守のとっつぁんが死に、錦渓先生は追い出された。
 次の日は大笹の市祭りだった。今年の村芝居は『菅原(すがわら)伝授(でんじゅ)手習(てならい)鑑(かがみ)』、市太はおろくを誘い、おろくも一緒に行くと言ってくれた。楽しみにしていたのに、村に不幸があったのに遊んではいられないと断られてしまった。
 芝居好きな村人たちも葬式を放っては行けないと諦め、勘治も安治も行けないと言う。仕方なく、鉄蔵とおかよを連れて大笹の芝居を見に行った。
 大笹に着くと藤次がすぐに現れて、市太たちを歓迎してくれた。やけにニヤニヤしている。
 おみのとうまく行ってるのかと聞くと、「まあな」ととぼけて、祭りの準備が大変だったと愚痴(ぐち)をこぼす。鎌原に石が降った時、大笹にも降って、二、三寸も積もったという。
「祭りも近えのによう、まったく、まいったぜ。まあ、何とか無事に漕(こ)ぎ着けたがな」
 露店を冷やかしながら黒長の家に行くとおみのが珍しく、女の格好をして待っていた。髪もちゃんと島田に結って、市太の江戸土産の銀の簪(かんざし)を差し、浴衣(ゆかた)姿が色っぽい。鉄蔵は目を丸くして驚き、さっそく、その姿を絵に写し始めた。
「どうしたんでえ。おめえ、頭がおかしくなったのか」と市太が冷やかすと、
「そうさ。この前、お山から降って来た石に当たってねえ。ちっと、いかれちまったのさ」といつもの口調で言って笑った。
「ほう。そいつアとんだ災難だったな。ついでだから、ずっと、いかれてろよ。その方がおめえの親父も喜ぶだんべ」
「ふん、そうは行かないよ。こんな窮屈(きゅうくつ)な格好すんのは今日だけさ。年に一度の事だからね、たっぷりと拝んでおきな」
「その姿、藤次の奴にも見せたのか」
「何だって? 何で、いちいち、あんな奴に見せなきゃならないんだい」
 そうは言っても、顔はほんのり赤くなっている。おみのにもようやく遅い春がやって来たらしい。二人の行く先にはいくつもの険しい山が立ち塞(ふさ)がっているだろうが、おみのなら何とか乗り越えそうだ。
 女らしくなったおみのと一緒に芝居を見て、おみのの手作りの弁当を食べて、酒を飲み、鉄蔵とおかよは大喜びだったが、相手のいない市太はちっとも面白くない。芝居が終わると二人を置いて、さっさと村に帰って来た。
 すでに、五つ(午後八時)を回って、村はひっそりと静まっている。山守の葬式も無事に終わったらしい。おみのから貰った珍しいお菓子を持って、市太はおろくを訪ねた。
 父親の甚左は山守の葬式の手伝いに行ったまま、まだ帰らない。母親も叔父の三治も、もう寝たので、少しだけなら出られるという。
 市太はおろくを誘って観音堂に登った。空は曇って月も星も出ていない。提燈(ちょうちん)の明かりを頼りに薄暗い石段を二人は寄り添いながら登って行った。観音堂にも裏にある若衆小屋にも誰もいなかった。
 市太は若衆小屋の縁側におろくを誘った。
「今日はごめんなさい」とおろくは謝った。
「そう、何度も謝るな。もういいよ」
「一緒に行きたかった。でも、言い出せなかったんです。山守のおじさんが亡くなったから行けなくなったっていうのは嘘なんです。どうしても、言い出せなかったんです」
「もういいよ。おめえが一日(いちんち)、うちを明けるとなりゃア大変(てえへん)だ。誰か、おめえの代わりをする奴がいなけりゃならねえからな。そこまで考えが及ばなかった俺も悪かったんだ」
 気詰まりな沈黙が流れた。ガサガサッと音がして、鳥が鳴きながら飛び立って行った。
「そういやア、おめえの父ちゃんと山守のとっつぁんは仲がよかったんだっけな」
「ええ、飲み友達だったんです。うちにもよく来て、一緒に飲んでました。若い頃は一緒に悪さをしてたみたい」
「あの二人が若かった頃ってえのは、とても想像できねえな」
「そうね‥‥‥あの、お芝居はどうでした」
「ああ、面白かったよ。『菅原伝授手習鑑』ってえんだけど知ってるか」
「兄がお稽古してるのを聞いた事あります」
「そん中の『寺子屋』だ。喧嘩相手なんだが、藤次ってえ奴がいてな、松王丸をうまく演じていやがった。大笹の連中も結構やるぜ。だが、奴らには絶対負けられねえ。後(のち)の語り草になるような権太を演じてみせる」
「若旦那なら大丈夫ですよ。父ちゃんも若旦那ならうまくやるだんべって言ってました」
「そうか。でも、おめえの父ちゃんがやったんは『鮨屋(すしや)』だったからな。『椎(しい)の木』の権太はまだ、ちょい役のようなもんだ。来年の『鮨屋』をやりたかったんだけどな、もう、いいや。あと一年も我慢できねえ」
「お芝居が終わったら、ほんとに江戸に行っちゃうんですか」
「ああ、そのつもりさ。この村にいても俺のやる事は何もねえんだよ」
「あと一月ちょっとしかないんですね」
「なあ、おめえも一緒に行かねえか」
「えっ」
「冗談だよ。いや、本心かもしれねえ。もし、俺が身を固めるとすりゃア、おめえしかいねえのかもしれねえな」
「そんな、あたしなんか‥‥‥」
「おめえ、ガキの頃、俺がやった鈴をまだ持ってんだってな」
「えっ、松が言ったんですね。まったく、あの子ったら‥‥‥あたし、ほんとは若旦那と一緒にどこまでも行きたい。でも‥‥‥」
「いいんだ」
 市太はそっとおろくを抱き締めた。そして、おろくの口を吸った。おろくは拒まなかった。市太はおろくを抱き上げると若衆小屋の中に入って行った。
 四半時(しはんとき)(三十分)がゆっくりと流れた。二人が小屋から出て来た時、下弦(かげん)の月が顔を出していた。おろくは恥ずかしそうに顔を伏せて、もつれ髪を撫で上げた。
「もう帰らなくちゃ」
「そうだな」
 市太はおろくを送って行った。そのまま、うちに帰る気にはならなかった。惣八は土蔵に閉じ込められたままだし、鉄蔵とおかよは帰って来ないだろう。市太は桔梗屋へと足を向けた。
 安治がおゆくと二人だけで、しんみりと酒を飲んでいた。市太がのっそりと顔を出すと、
「あれ、大笹泊まりじゃなかったのか」と安治が驚いた。
 市太は手を振りながら腰を下ろす。
「兄貴とおかよに、たっぷりと見せつけられてな、一人じゃア面白くもねえんで帰って来たんさ」
「おろくは行かなかったのか」
「ああ、今朝んなって断られたよ」
「若旦那を振るたア、あの娘も大したもんだねえ」とおゆくが市太の顔を見て、ケラケラ笑う。
「いや、振られたわけじゃねえ」と言いながら、市太もつい笑ってしまう。
「何でえ、やけに嬉しそうじゃねえか。向こうで何かあったのか」
「何にもねえさ」市太は嬉しさを押し殺して話題を変える。「それより、先生が突然、あんな風になっちまって、姉さんも淋しいだんべ」
「あら、わざわざ、慰めに来てくれたの。嬉しいねえ」
「そうさ。姉さんが酔っ払うと手に負えねえからな。介抱してやろうと思ってよう」
「それはどうも御親切様なこって」
「でも、安とうまくやってたようだ。俺の出番はねえらしい」
「なに言ってんでえ。俺はただ、先生の事を姉さんと話してただけだ」
「冗談だ。そうむきになるなよ。それにしても、石をぶつけられて追い出されるたアなア」
「まったく、先生が可哀想だよ。先生の明礬(みょうばん)捜しとお山焼けがどう関係あるってえのさ。そんなのちゃんと考えりゃアわかりきった事だろ。まったく、情けないよ、あたしゃア、あんな人たちと一緒に暮らしてたなんて‥‥‥」おゆくは急に泣き出した。
 市太と安治が慰めるが、声を出して泣き続ける。突然、「畜生!」とわめいて、酒をあおると涙を拭いて無理に笑う。
「あ~あ、もう、こんな村なんかにいたくない。あたし、先生を追って江戸に行こうかな。ねえ、若旦那、あんた、先生んち、知ってんだろ。ねえ、あたしを連れてってよ」
「姉さんと一緒に江戸に行くのか」
「あたしとじゃア、やだってえの」
「そうじゃねえけどよ。色っぺえ姉さんと一緒に旅すりゃア間違えを起こしそうだぜ」
「それだっていいじゃないさ」
「まあな」
「よーし、今晩はとことん飲むわよ」
「おう。付き合うぜ」
 おゆくはフラフラした足取りで立ち上がるとお勝手の方に消えた。
「おい、もうかなり飲んでんじゃねえのか」
 市太が聞くと安治はうなづいた。
「俺が夕方、顔を出した時にゃア、もう一人でやってたよ。俺が来てからだって、グイグイ飲んでる。もう一升は飲んでんじゃねえのか」
「だんべえな」
「あんなに酔っ払ったの見た事ねえけど、姉さんは底無しなのか」
「まあ、それに近えな」
「なあ、俺、もう帰ってもいいだんべ」
「何でえ、もう帰るのか」
「ちょっと、先生の事を話そうと思って来ただけなんだ。それが姉さんの愚痴に付き合わされて、帰るに帰れなくなっちまった。後はおめえに任せる」
「そいつはねえぜ。二人だけになったら、どうなるかわからねえ」
「そんな事言ったってよう、俺はもう限界だ。これ以上は飲めねえや」
 安治が逃げようとするのを市太は袖を引っ張って引き留める。
「もうちっと付き合ってくれよ。そうだ、後でおさやといい思いができるように取り持ってやるからよう」
「えっ、そいつアほんとか」
「ああ、おさやの奴もおめえの事を嫌えじゃアねえそうだ」
「ほんとかい」
「ああ、ほんとだとも」
「それなら、もう少し付き合うぜ」安治は嬉しそうな顔して腰を落ち着ける。
 一升どっくりを抱えて、おゆくが戻って来た。
「今晩は飲み明かすぞ」と言って、三つの湯飲みの中に酒を注ぎ始めた。
「姉さん、今度は冷やで行くのかい」
「いちいち燗(かん)なんかしてられるかい。面倒臭え」
 安治は顔をしかめる。
「遠慮なしに飲んどくれ。今夜はあたしの奢(おごり)りだよ」
「遠慮なくいただくぜ」と市太はグイッと飲む。「おっ、こいつアうめえや。いつもの奴と違うな」
「そうさ。お江戸のお酒だよ。先生があたしのためにわざわざ、送ってよこしたのさ」
「ほう、そうだったのかい」
「祭りん時、みんなで飲もうと思ってたんだけどね、もう、先生はいないし、先生を追い出した奴らに飲ませる事もないからねえ、口を開けちまったんだよ。まだ、たっぷりあるからね、遠慮はいらないよ」
 安治も一口、飲んでみる。
「おう、確かにうめえや。最初(はな)っから、こいつを出してくれりゃアよかったのに」
「忘れてたんだよ。お江戸の話になって、急に思い出したのさ」
「こいつア四方(よも)の滝水(たきすい)って銘酒じゃねえのか」と市太は吉原で聞いた酒の名を思い出して言う。
「何だか知らないけどね。お江戸の銘酒さ。さすが、お江戸だ。うまいじゃないか」
 おゆくはグイグイ冷や酒を飲み続けて、錦渓の思い出話を始めた。
 安治は途中で酔い潰れてしまい、おゆくもロレツが回らなくなって来た。
 市太はおゆくの機嫌を取りながら、部屋まで連れて行った。おゆくの叔母がまだ起きていたので、後の事を頼んで、安治を起こして連れ帰った。

2020年4月6日月曜日

天明三年(一七八三)六月二十日

 灰の混じった雨が降り続いた。
 惣八の騒ぎがあった次の日も五つ(午後八時)頃、浅間山が焼けて、物凄い音と共に地面が大揺れした。その時、市太は珍しく家にいて、祖父の離れで、市左衛門から狂歌(きょうか)を教わっていた。今、江戸では狂歌が流行(はや)っているという。狂歌ができれば、有名な文人たちとも付き合える。有名な文人と付き合えば、何とかなると都合のいい事を考えている。
 突然、家が大揺れしたと思ったら、霰(あられ)でも降って来たかと思うほど屋根の音がうるさくなって、話し声も聞こえなくなった。明かりを消して外に飛び出したら、痛くてたまらない。よく見ると降って来たのは霰ではなく、なんと小石だった。驚いた事に、石が雨に混ざって降っている。こんな事があるのか信じられなかったが、痛みは本物、市太は慌てて、家の中に飛び込んだ。
 大揺れの後、小揺れが何度もあり、小石は半時(はんとき)(一時間)近くも降り続いた。軽い石だったが、大きい物は直径が五分(ごふ)(約一、五センチ)程もある。半時で、大小様々な小石は三寸(約九センチ)ばかりも積もった。
 翌日、村は大騒ぎ、田畑の作物はすべて、石にやられて全滅してしまった。惣八の間男(まおとこ)騒ぎではなくなった。昨日、朝から晩まで、顔を合わせれば、惣八とおまんの事をあれこれ噂していた村人たちは、一夜明けると二人の事などすっかり忘れて、ゴーゴー音を立てて黒煙を噴き上げている浅間山を恨めしそうに睨(にら)みながら、絶望した顔付きで、もうダメだ、もうダメだと嘆いていた。
 雨が小降りになった昼過ぎから、村総出で小石掃きが始まった。積もった石をどけなければ、馬がまともに歩けない。用水の中に溜まった石も浚(さら)わなければならない。市太も若衆組(わけーしぐみ)のみんなと一緒に作業に加わった。お山から降った小石は驚くべき量だった。通りの脇に石を積んだ小山がいくつも並び、それはまた、面白い景色でもあったが、何の役にも立たない石だった。
 さらに、悪い事が重なった。山守(やまもり)の長太が山から帰って来ないと家族が騒ぎ出して、若衆組を中心に村総出の山狩りが始まった。前日の小石掃きで腰が痛くてしょうがない市太もブツブツ文句を言いながら山の中に入って、山守の親爺を捜し回った。
「惣八の奴、土蔵に閉じ込められちまったらしいな」と安治が棒で灰を被った草をかき分けながら言う。
「そいつアしょうがねえだんべ。金で片を付けるにしろ、世間体ってもんがあるからな。それより、おまんの方はお頭んちにいるようじゃねえか。八兵衛と別れるんかな」
「八兵衛の方は中居にいる親父が危篤(きとく)で、それどころじゃねえんだんべ」
「まったく、惣八の奴もとんだ事をしてくれたぜ」
 市太は「いてて」と言いながら腰を伸ばす。安治も腰を伸ばすと傍らにある石に腰掛ける。
「結局んとこ、奴はうまくやったんかなア」
「わからんな」と市太も倒れている木の幹に腰掛ける。
「お頭がおまんから聞いた話によると、おまんは縫い上がった路考の衣装を試しに着ようとしただけだそうだ。惣八に頼まれて、おまんとしても十二単衣が着てみたかったんだんべ。帯を解いた時、大揺れが来て、表に出ようとアタフタしてたら路考が来たそうだ」
「何でえ。それじゃア、惣八は何もしてねえんじゃねえか」
「おまんの話によるとそうなるけど、真相は闇(やみ)ん中だ。やる前(めえ)に大揺れが来たんかもしれねえし、やった後に来たんかもしれねえ」
「それにしたってよう、亭主の親父が危篤だってえのに間男なんかするか」
「それがよう、八兵衛の親父の危篤は初めてじゃねえらしい。親父の危篤をだしにして、何度も追分の女郎と会ってたらしいんだ」
「そういやア、馴染みの女郎がいたっけ」市太は腰をたたきながら、「確か、甲州屋だっけかな」と思い出す。
「それで、今回も女郎のとこに泊まりに行ったに違えねえとしゃくになって、惣八を追い返さねえで一緒に酒を飲んでたそうだ」
「それじゃア、お山が焼けなけりゃア、うまくやってたかもしれねえってわけだな」
「多分な」
「まったく、ついてねえ野郎だ」
「これで、惣八の負けだな。奴が蔵に入ってる隙に、おろくをものにすりゃア、おめえの勝ちだ」
「ふん。奴が土蔵に押し込められたんじゃ、賭けはやめだ」
「そんな‥‥‥念仏講(ねんぶつこう)はどうなるんだ」
「何を調子のいい事を言ってやがる。おめえの企(たくら)みに乗った俺たちが馬鹿だったよ。おめえの企みをおさやに言ってやるぞ」
「そいつはうまくねえや」
「おい、おめえら、何やってる。もっと真剣に捜せ」
 お頭の杢兵衛に怒鳴られて、市太と安治は深い山の中へと入って行った。
「それにしてもよう、山守のとっつぁんはどうして、お山が焼けてんのに、お山ん中に入(へえ)って行きやがったんでえ」
「そいつは違うぜ。とっつぁんがお山に入った時は何ともなかったんだ。その晩、突然、焼けたんだんべえ」
「そうか。それにしたって世話を焼かせやがる。どうせ、怪我でもして、どっかの炭焼き小屋にいるんじゃアねえのか」
「炭焼き小屋にはいねえそうだ」と言ったのは勘治だった。いつの間にか、市太たちの側で草をかき分けていた。
「丑に聞いたんだが、お山ん中の炭焼き小屋はみんな捜したそうだ」
「勘治、おめえ、あの後、草津に行ったのか」と市太は聞く。
「ああ、行って来たよ」
「どうだ、おゆうは」
「相変わらずさ」と言って、勘治はニヤニヤ笑う。「毎日(まいんち)、草津の湯に入ってるせいか、肌がしっとりとしていやがった」
「なに、のろけてやがるんでえ。親の方は説得したのか」
「ああ、大丈夫だ。草津で客商売に慣れてくれりゃア、丁度いいと言ってらア」
「家柄の方はどうなんでえ」
「そんなの平気さ。おゆうがいる宮文(みやぶん)の旦那に頼んで、養女になってから嫁いでくりゃアいいのさ」
「ほう。そういう手があったか」と市太は勘治の顔を眺めながら、一人うなづく。「成程なア、おめえも色々と考えてんだな」
「おゆうと一緒になれなけりゃ、俺も草津に行くって親を脅したんさ」
「そうか」
「おめえは最近、おろくに夢中になってるようだが、おろくと一緒になるつもりなのか」
 市太は勘治の質問に驚くが、そんな素振りは見せずに、「そんな事ア考えちゃいねえよ」とさりげなく答える。
「所帯(しょてえ)を持つつもりなら、おろくはいいかもしれねえぜ。だが、遊ぶだけなら、やめた方がいいな」
「どうして」
「おめえは遊びでも、向こうは真剣になるからさ。ああいう女は思い詰めると恐ろしいぜ」
「それは言えるかもしれねえな」と安治も言う。
「おめえんちは金持ちだ。おろくの家族を抱えたって、女中を雇えば何とかなる。いっそ、身を固めちまえよ」
「そうは行かねえ。所帯を持っても俺にゃアやる事がねえ」
「問屋は継げねえし、つれえとこだな。いっその事、おろくを連れて村を出たらどうでえ。おろくの家族は女中に任せてよ」
「おろくが承知しねえだんべ」
「まあな。おめえも厄介(やっけえ)な女に惚れたもんだ」
 市太、勘治、安治の三人はのんきに女の話をしながら山守を捜していた。三人が腹減ったなアと一休みしている時、「おーい、見つかったぞ」と誰かが怒鳴った。
 山守の長太はすでに冷たくなっていた。頭や顔にひどい傷があり、顔には乾いた灰がこびり付いていた。三日間の雨で、血はすっかり流れてしまったようだ。長太の側にお山から飛んで来たらしい五、六寸もある石がゴロゴロ転がっている。その石が長太の頭に当たって亡くなってしまったようだ。
 伜(せがれ)の八蔵と丑之助の話によると、長太は十七日、雨が小降りになった昼過ぎから山に入って行った。御山見役の黒長の旦那から、近いうちに大笹の関所の橋の掛け替えがあるので、必要な用材を調べてくれと頼まれていたらしい。その日は帰らなかった。山に泊まるのはいつもの事で、普通なら家族も心配などしないが、その夜、お山が焼けたので心配になった。翌日、八蔵と丑之助の兄弟は父親を捜しに行こうとしたが、お山はまだゴロゴロ唸っている。祖父の長兵衛に止められて、二人は諦めた。その夜もお山が焼けて、石が降って来た。十九日の昼過ぎ、雨も小降りになり、お山も静まって来たので、二人は父親が泊まりそうな炭焼き小屋を捜し回った。どこにもいないし、父親がいたという形跡も見当たらない。山の事なら隅から隅まで知っている父親だから心配ないと思うのだが、その夜も帰って来なかった。山守が山で行方知れずになったなんて恥ずかしい事だが、八蔵は意を決してお頭の杢兵衛に父親の事を告げ、山狩りが始まったのだった。
 長太の遺体が村に運ばれると、また大騒ぎとなった。お山が荒れ狂うのは、明礬(みょうばん)捜しをしている錦渓がお山のあちこちを掘り返したせいだと言い出す者がいて、四月以来、何度も繰り返す浅間焼けに不安と恐れを抱いていた村人たちが同調した。錦渓のいる『江戸屋』は大勢の村人に囲まれ、錦渓の言い分も聞かなかった。錦渓が明礬の事を詳しく説明しようと難しい事を言えば言う程、村人たちの反感を買った。市太たちが何とか押さえようとしても無駄だった。田畑が全滅し、お山に対する怒りを何にぶつけていいかわからなかった村人たちが山守の死によって、その怒りを一気に爆発させてしまった。その対象に錦渓が選ばれてしまったのだった。まるで、何かに取り憑かれたかのように、村人たちは錦渓に怒りをぶつけていた。運の悪い事に、江戸屋の脇に小石の山があった。村人たちは小石をつかむと江戸屋に投げ付けた。これ以上、ここにいると江戸屋がつぶれてしまうと、錦渓は仕方なく、荷物をまとめて村から逃げ去った。逃げる錦渓に石を投げ付けて、村人たちは勝ち誇ったように鬨(とき)の声を挙げた。
 村人たちの先頭になっていたのは長太の伜、八蔵だった。八蔵の祖父、長兵衛がやめさせようとしても八蔵は聞かなかった。狂ったように村人たちを煽(あお)っていた。
 八蔵は父親の跡を継ぐため、父親と共に山の中にいる事が多かった。普段は物静かな、おとなしい男だった。村芝居でも表に出る役者ではなく、ツケ拍子(びょうし)を担当している。ツケ拍子とは舞台の上手(かみて)に座って、拍子木(ひょうしぎ)で舞台上に置いた板を打つ事で、芝居の進行に欠かせなかった。地味な役だが、ツケ拍子を間違えれば芝居は台なしになってしまう。責任感のある役だった。そんな役をこなしている八蔵が父親の突然の事故死によって、あんなにも変わってしまうなんて市太には信じられなかった。

2020年4月5日日曜日

天明三年(一七八三)六月十七日

 舞台の上で、権太(ごんた)役の市太が、路考(ろこう)の演じる若葉の内侍(ないし)、おなつの弟、五郎の演じる若君、栄次の演じる小金吾(こきんご)を見送り、だまし取った二十両を懐(ふところ)に入れて逃げようとする。そこに権太の女房、小せんを演じる江戸屋の伜、伊勢松が子役の善太の手を引き登場。
「これ、権太どの、こなさん、どこへ行かしゃんす」
「おお、小せんか。わりゃア店を明けて、どこへ行った」
「あい、わたしゃ旅人のお頼みで、坂本へ薬を買いに行ったわいな」
「そりゃ丁度よかった。われがいたら、また邪魔をしように」
『言う胸倉(むなぐら)を取って引き据え』とチョボが入り、小せんの台詞が続く。
「これ、こなさんに騙(かた)りさそうというて、はずしていぬぞや。最前、戻りかかったところに、わっぱさっぱ差し出たら、騙りの正銘(しょうめい)あらわれ、どんな事になろうも知れぬと、あの松陰から聞いていたわいな。ええ、こなさんは恐ろしい企(たく)みする人じゃのう‥‥‥」
 そこで伊勢松は台詞に詰まってしまった。市太はイライラしながら、小声で、「姿は産めども」と教えてやる。
 伊勢松は思い出して、「姿は産めども心は産まぬと、親御は釣瓶(つるべ)鮨屋(すしや)の弥助の弥左衛門様というて」
 その時、ゴロゴロゴロと石臼(いしうす)を回すような音がして、舞台が揺れた。
「何だ。畜生め、また、お山が焼けたのか」と市太は浅間山の方を見るが、樹木が邪魔してお山は見えない。
 舞台の揺れは益々ひどくなり、立ってもいられない。みんなが慌てて明かりを消す。
「危ねえ。みんな、こっから降りろ」とお頭の杢兵衛が叫んだ。下座の大人たちも楽器を抱えて慌てて舞台から降りる。
 市太は舞台から飛び降りると、稽古を見ていたおろくのもとへと急ぎ行く。おろくと一緒に鉄蔵とおかよ、勘治もいる。少し離れて、市太の妹のおさやがおみや、安治、仙之助と一緒にいる。皆、不安な顔付きで座り込んでいた。
「また始まったな」と絵を描いていた鉄蔵は筆をしまう。
「まったく、いつになったら治まるんでえ」文句を言いながら市太はおろくの隣に行く。
「ほんと、いやねえ、もう」とおかよが顔をしかめる。
「あたし、帰らないと」おろくが心配顔で市太に言う。
「そうだな」と市太はうなづく。
「若旦那、ちゃんと送ってやりなさいよ」とおかよが声を掛ける。
「おーい、みんな、今晩の稽古はこれで終わりだア」と杢兵衛が叫んで、皆、ゾロゾロと帰って行く。
 もう少し一緒にいてえが仕方がねえと市太はおろくを家まで送って行く。地面の揺れは治まらず、真っすぐ歩くのも一苦労。おろくは市太の腕につかまり、これ幸いと市太はおろくの肩を抱き寄せ、恋の道行(みちゆき)と洒落(しゃれ)る。
 昼間はずっと雨降りだったが、日暮れにはやんで、おぼろな月が顔を出している。月明かりの下、寄り添って歩くのはいいが、馬のいななきが方々から聞こえて来てやかましい。
 諏訪の森を抜けて表通りに出ると家から飛び出した者たちが、あっちに固まり、こっちに固まり、お山の方を見ながら冴えない顔を突き合わせている。おろくは素早く、市太から離れた。
「もう大丈夫です。ありがとうございました」
「なに、うちまで送ってくよ」
「でも、村の人たちに見られます」
「見られたっていいじゃねえか。それとも、俺のようなゴロツキと一緒じゃ、うまくねえか」
「そんな‥‥‥」
「地鳴りの道行はもうおしめえか」と鉄蔵が後ろから声を掛けた。
 鉄蔵とおかよも仲良く寄り添っている。
「見物が多すぎるとよ」
「こいつアすげえ。すぐに噂になっちまうな」
「あれ、何だろう」とおかよが北の方を見る。
 人だかりがして、何やら騒いでいる。
「また金四郎の馬鹿が嚊(かかあ)と一緒に素っ裸で飛び出したんじゃねえのか」
「もっと向こうのようよ。ねえ、鉄つぁん、ちょっと行って見ましょうよ」
 おかよに引かれて鉄蔵は騒ぎを見に行った。
 市太はおろくを送るため、反対方向へと行く。ようやく、揺れも静まって、人々は安心して家の中へと戻って行く。真っ暗だった家々からも明かりが漏れて来た。
 市太とおろくは近からず遠からずの距離を保ちながら歩く。市太の家の前にはもう誰もいない。浅間山を見ようと観音堂へ登って行く者が何人かいた。観音堂への通りを過ぎると表通りにはもう人影はない。おろくの家からは明かりが漏れ、ひっそりとしていた。
「どうやら、みんな、無事のようだぜ」
「わざわざ、すみません」
「いちいち謝る事アねえ。それより、今日は台詞の間違えはなかったんべ」
「はい。見事でした」とおろくはうなづく。
 芝居の事など何も知らないだろうと思っていたおろくは『義経千本桜』を初めから終わりまで、すっかり暗記していた。市太が権太をやると決まった時から、兄から教わって、すべてを覚えたのだという。兄に似て記憶力は物凄い。権太の台詞もすべて知っていた。
「また、明後日(あさって)、迎えに来るからな」
「はい」
「ほんとは毎晩、会いてえんだが、まあ、我慢するか」
「あたしなんかと一緒にいたら、おなつさんが」
「おなつなんか、どうでもいいんだよ」
「そんな‥‥‥」
「それじゃアな」
 市太は手を振るとおろくと別れた。おろくは市太の後ろ姿をしばらく見送っていたが、溜め息をつくと家の中に入った。
 ようやく、杖(つえ)をつけば歩けるようになった父親と兄が囲炉裏端にいた。弟の松五郎は叔父の部屋にいるらしい。おろくが芝居の稽古を見に行けるのも松五郎が叔父の面倒を引き受けてくれたからだった。松五郎はおろくが市太と付き合うのに文句なく賛成だが、父親はそうじゃない。今の所、口では言わないが、身分が違い過ぎると心の中では反対しているに違いない。おろくもその事は充分、承知している。かなわぬ恋と知りながらも、少し位は人並みに恋に焦がれてみたかった。しかも、相手は子供の頃から憧れていた市太、いつも、仲間に囲まれて楽しそうにしている姿を遠くから眺め、諦めていたのに、どうした訳か、市太の方から近づいて来た。毎日が、まるで夢のように楽しい。その夢もいつか終わるのはわかっている。多分、父親の口から、その事を言われれば、その時が終わりになるのだろう。まだ、その事を言わないでと祈りながら、おろくは父親の顔を見た。
「また、お山の鬼が騒ぎ出したな」と父親は言った。
「はい。お芝居のお稽古も中止になりました」
「そうか。たまには若え者たちと一緒に騒ぐのもいいさ。おめえには苦労の掛けっ通しだからな」
「父ちゃん、ありがとう」
「いや、いいんだ‥‥‥」
 父親は何か言いたそうだったが何も言わなかった。おろくはホッとして母親の具合を見に行った。
 市太が巴屋を覗くと鉄蔵とおかよはまだ帰っていなかった。客もいなくて、奥のお勝手で、おかよの兄嫁おべんが割れた食器を片付けている。
「あら、若旦那、おかよは一緒じゃないの」
「ああ、途中で別れたんだ。もう、帰ってるかと思ったんだが」
「まったく、まいったよ。棚から落ちて、みんな割れちゃったのよ」
「そいつは気の毒なこった」
「まったく、いやんなっちゃうよ。突然だもんね。こう揺れが続くようだと考えなくちゃならないわ。若旦那んとこは大丈夫だったの」
「さあな。あれだけ揺れりゃア、うちも何かが落っこちたんべえ」
「もう揺れないかねえ」
「そいつアわからねえが、少しは治まったようだ。姉さん、酒を頼まア」
「はいよ」
 市太が座敷に上がり込もうとした時、安治が駈け込んで来た。
「やっぱり、ここか。市太、大変(てえへん)なんだ」
「なにうろたえてんだ。大揺れはとっくに治まったぜ」
「そうじゃねんだよ。惣八の奴がとうとうやっちまいやがった」
「惣八が? 奴が何をやったってえんでえ」
「おまんだよ。惣八とおまんがちちくり合ってるとこを見つかっちまったんだ」
「何だと」
「何だって、おまんさんてえのは八兵衛さんのおかみさんの事かい」とおべんも驚いて、お勝手から出て来た。
「そうなんだ。八兵衛はまだ帰らねえんだけど、近所の者(もん)が集まって、もう大騒ぎさ」
「あの野郎、ドジをしやがって」
「とにかく、一緒に来てくれや」
 市太は走りながら、詳しい事情を聞いた。
 惣八は今晩の芝居の稽古に出ていた。駕籠かき役の惣八は初めの方にチョコッと出るだけなので出番が済むと、すぐにおまんの家に行ったらしい。八兵衛が出掛けたのを知っていて、思いを遂げる絶好の機会だと思ったに違いない。しかし、皮肉にも、二人がちちくり合っている時、大揺れが来た。発見者は路考だった。路考は若葉の内侍の役で舞台にいた。大揺れが起きると衣装の事を心配して、おまんの家へと急いだ。驚いた村人たちが家の明かりを消して、通りに飛び出しているのに、おまんの姿は見当たらない。家の中は真っ暗、路考は家の中に声を掛けた。返事はないが、人のいる気配はする。縁側の方に回って障子を開けると、差し込んだ月明かりの下に見えたのは、おまんの解かれた帯と酒を飲んでいたらしいお膳、慌てて着物を直している惣八の姿、そして、部屋の隅に乱れ髪のおまんが虚ろな目をして丸くなっていた。
 路考は驚いて騒ぎ出す。すぐに近所の者たちが集まって来て大騒ぎとなった。
 市太が行った時には、惣八の父親がすでに来ていた。近所の男衆に殴られたのか、父親に殴られたのか、惣八の顔は腫れて血まみれになっている。おまんは青ざめた顔をしてうなだれ、兄の杢兵衛とその妻おすみが見守っていた。
 惣八の父親が村の衆に謝って、皆に引き取ってもらった。市太たちも追い返され、仕方なく、鉄蔵たちと一緒に引き返した。やじ馬の中に、おなべとおなつの姿もあった。泣きそうな顔したおなべをおなつが慰めている。二人は市太たちに声も掛けずに去って行った。
「惣八め、とんだ事をやっちまった」おまんの家を振り返りながら市太が言う。
「どうなっちまうんだんべえ」と安治が心配する。「それにしても、ほんとにやっちまったんだんべか」
「そいつは本人に聞かなきゃわからねえ」
「おまんさんがそんな事するとは思えないわ」とおかよは否定する。
「しかしなア、路考の話だと、おまんは帯を解いてたって言うぜ」
「自分で解いたのかしら」
「そうじゃなきゃア、惣八が力づくで解いたかだ」
「八兵衛が帰って来りゃア、惣八の奴、ただじゃア済まねえぞ」
 その後、何度か小さな揺れがあった。市太たちはおかよの店で、惣八の事を心配しながら遅くまで飲んでいた。
 四つ(午後十時)を過ぎた頃、惣八が父親と一緒に巴屋の前を通って家に帰って行った。市太たちが見ているのに気づいて、情けない顔をチラッと向けた。八兵衛が帰って来て、話がついたのか、うなだれたままトボトボと歩いて行った。
 惣八が帰るのを見送ると、お開きにして、市太たちもそれぞれ家に帰った。

2020年4月4日土曜日

天明三年(一七八三)六月十三日

 市太は珍しく、家の仕事を手伝っていた。祖父に江戸に行きたいと言うと、そうかとうなづいて、江戸にいる知り合いを紹介してやろうと言った。そして、お前は一体、何がやりたいんだと聞いて来た。
「おまえはわしによく似ている。兄貴の庄蔵は父親そっくりの真面目一方だ。まあ、問屋の跡継ぎには丁度いいのかもしれんが、わしから見ると、もの足らん。何かこう、こじんまりとしていてな。おまえにはそうなって欲しくはない。何をやってもかまわんが、ほんとに夢中になれるものを捜せ」
 ほんとに夢中になれるものは何なのだろうと考えながら、市太は仕事をしていた。別に問屋の仕事が嫌いなわけではない。だが、跡を継ぐのは兄だった。父親の弟、市太からみれば叔父もいるし、従弟(いとこ)もいる。自分の出番なんかなかった。要するに、この村にいても自分のやるべき事は何もない。だから、村から出る。村を出るなら江戸に行きたい。でも、江戸に行って何をする。祖父の知人のもとに行けば数日間は何とかなるだろう。しかし、その後はどうする。俺は何をやったらいいんだ‥‥‥わからなかった。
 今日は朝から小雨が降っているのに、大笹から松代(まつしろ)藩の武家荷物が次々に送られて来て大忙しだった。村の男衆(おとこし)はほとんど馬方をして狩宿(かりやど)へと出掛けて行った。昼頃、鉄蔵が帰って来たとおかよが知らせに来た。
「なに、兄貴が帰って来たのか」
「今、うちでお昼を食べてるわ」
「そうか。そういやア、俺も腹が減ったな」
 市太は側にいた叔父の弥左衛門に一声掛けて、おかよと一緒に向かいにある『巴屋』に向かった。
「大丈夫なの。忙しそうだったじゃない」とおかよは心配する。
「どうせ、俺なんか当てにしちゃアいねえよ」
「そう? 叔父さん、やな顔をしてたわよ」
「年中、ああいう面なんだ。気にすんな」
 大笹から来た馬方たちで店の中は混んでいた。おかよの兄嫁おべんと妹のおこうが手伝っている。鉄蔵は座敷の隅の方で茶漬けを食らっていた。市太が声を掛けると手を上げて笑った。
「兄貴、お帰り。いい絵は描けましたか」
「まあな。旦那は喜んでくれたよ。たっぷりとお礼をくれたんで路銀(ろぎん)が助かった」
「そいつアよかった。兄貴がいねえもんだから、何か面白くなかったよ」
「よく言うぜ」
「ほんとさ」
「この前、おなつと大喧嘩しちゃったしね」とおかよが嬉しそうな顔して鉄蔵に教える。
「へえ、あんなに仲よかったのに、どうしてだい」と鉄蔵が不思議そうに聞く。
「それがね」とおかよが市太を見て、笑いながら、「この若旦那、他の女に手を出したのよ」
「なに言ってやがる。まだ、手も足も出しちゃアいねえ」と市太はおかよを睨むが、
「でも、そのうち出すんでしょ」とおかよは平気な顔して言う。
「へえ、あんな可愛い娘(こ)を振ってまで、手を出す娘(むすめ)がいるのかねえ」
「それがね、まったく以外なのよ。村でも一番目立たない娘なの。お母さんが寝たきりだからしょうがないんだけどね、何となく暗い娘なのよ」
「ほう。一度、会ってみてえな」
「きっと、今晩、会えるわよ、ねっ」
「多分な」と市太はうなづく。
「今晩、何かあるのかい」
「お芝居のお稽古」
「ああ、そうか。今日は半(奇数)の日か」
「うちからちっとも出ない人が、どうした訳か、ここんとこ、お芝居を見に来るのよ」
「うまくやってるようじゃねえか」
「今んとこはな。先はわからん」と言いながらも、市太の顔は自然とニヤニヤ。
 市太も茶漬けで昼飯を済ませると、鉄蔵に聞いてみた。
「兄貴はどうして絵を描いてんです」
「どうしてだと? そんなの理由なんかねえや。描きてえから描いてんだ。描かずにいられねえからさ」
「描かずにいられねえから‥‥‥」
「そうさ。絵だけじゃねえ。俺は戯作(げさく)も書く。大(てえ)して売れねえが、自画自作の黄表紙(きびょうし)を三つ売り出した。わ印(じるし)(春本)も一冊出したよ」
「へえ、兄貴は戯作も書くですか。こいつアたまげた」
「何もたまげる事アねえ。俺より年下の北尾政演(まさのぶ)なんか、自画自作の黄表紙が売れに売れて吉原でも大持てだよ」
「へえ、そんな奴がいるんですかい」
「ああ、紅葉山の東に住む京屋の伝蔵で山東(さんとう)京伝(きょうでん)だとさ。ふん、奴には負けたかねえ」
「大丈夫ですよ。兄貴は負けやしません」
「おめえに言ってもらってもしょうがねえや」
「兄貴、俺ア何をやったらいいんだんべ」
「やりてえ事をやりゃアいいさ」
「そのやりてえ事がわからねえんだ」
「そういう時ア、旅に出りゃアいい。俺もな、自分の絵がわからなくなっちまったのよ。てめえの絵が売れねえもんだから、師匠の真似したり、重政(しげまさ)の真似したり、清長(きよなが)の真似したり、結局、自分の絵がわからなくなっちまった。おめえたちと出会って、しばらく、江戸を離れようと思ったんだ。旅に出て、ようやく、自分の絵ってえもんを思い出したぜ。他人の真似なんかしたってダメなんだ。自分の描きてえように描きてえ絵を描きゃアいいのさ。その描きてえ絵を描くってえのが、一番難しいんだがな」
「自分が描きてえ絵を描くんですか」
「そうさ。それしかねえのよ」
「描きてえ絵を描くか‥‥‥」
「絵だけじゃねえよ。何だってそうだ。最初は誰でも他人の真似から始まる。だが、真似ばかりしてたって始まらねえ。自分のものってえもんを出さなくちゃアな」
「自分のものか‥‥‥」
 馬方たちが入れ替わり立ち代わり入って来るので二人は店を出た。まだ、小雨がシトシト降っている。
「兄貴、観音堂でも行きますか」
「例の小屋か。それより、おめえが惚れた女ってえのに会ってみてえな」
「えっ、おろくにですかい」
「おかよの話じゃ、年中、うちにいるってえじゃねえか。うちに行きゃア会えるんだろ」
「まあ、会えるには会えるんだが、親父がうるせえからな」
「親父もうちにいるのかい」
「こないだの浅間焼けで怪我して、まだ、仕事ができねえんだ」
「そういやア、そんな事を言ってたな。甚太夫(じんだゆう)とかいう盲(めくら)の義太夫語りのうちだな」
「ああ、そうなんだ」
「よし、行こう」と鉄蔵は南の方に足を向ける。
「兄貴、本気なんですか」と市太は後を追う。
「ああ、本気さ」
「まいったなア」
「何がまいるんだ。おめえだって会いてえんだろ」
「まあ、そりゃア会いてえけど‥‥‥」
「会いたけりゃ会えばいいんだ。何も遠慮する事アねえ」
「別に遠慮してるわけじゃねえけど」
「ちょっと待て」と鉄蔵は急に立ち止まった。「その娘だけど、そこんちに、ちょっと気のふれた野郎がいねえか」
「ええ、いますよ」
「ああ、あの娘か。会った事あるぜ。そうか、あの娘に惚れたのか‥‥‥よし、行こう。この前、絵に描こうとしたら断られたんだ」
「えっ、兄貴がおろくを」
「あれは絵になるぜ。是非とも描かなくちゃアならねえ」
 市太は鉄蔵に引っ張られるようにして、おろくの家に行った。うまい具合に、おろくは用水の水を汲んでいた。市太が近づいて来るのに気づくと、顔を上げて微かに笑った。
「やあ」と市太は声を掛ける。
「お出掛けですか」とおろくは聞いて来た。
 おろくの家は村の南の外れの方だった。真っすぐ行けば山の秣場(まぐさば)へ、左に曲がれば沓掛(くつかけ)道だった。市太が鉄蔵と一緒に追分宿に行くとでも思ったのだろう。
「いや、おめえの顔を見に来たのさ」と市太が照れ臭そうに言う。
「えっ、昼まっから酔ってるんですか」おろくは市太と鉄蔵の顔を見比べる。
「若旦那はおめえさんに酔っちまったらしい」と鉄蔵が口を挟む。早くも手帳を広げ、矢立てから筆を出していた。
「兄貴がおめえを絵に描きてえってんで連れて来たんだ」
「そんな、あたしなんか」
「すまねえな。ほんのちょっとの間だ。じっとしていてくんねえ」
 鉄蔵はスラスラと筆を動かした。市太は後ろから手帳を覗き込んだ。あっと言う間に、おろくの顔が写された。
「やっぱり、兄貴は大(てえ)したもんだ」
 鉄蔵はおろくに絵を見せた。
「これがあたしなの。信じられない。わざと綺麗に描いたんですね」
「そうじゃねえ。紛れもなく、こいつアおめえだよ」
 市太がそっくりだと言っても、おろくは信じない。
「そうだ」と市太は手を打った。「おめえにいい物(もん)をやる。先生のお師匠、源内先生が考え出したっていうビイドロ(ガラス)の鏡だ。『自惚(うぬぼれ)鏡』と言ってな、銅の鏡よりずっと綺麗に写るんだ。そいつを見りゃア、おめえも信じるだんべ」
「そんな‥‥‥」
「今晩、持って来るよ」
「そんな、いいんです」
「なに、遠慮するなよ」
「あの、あたし、もう行かなくちゃ」
「今晩、迎えに来るからな」
 おろくは恥ずかしそうに、うなづいて家の中に入って行った。
「いい娘だな。おめえに気があるようだ。だが、厄介(やっけえ)な女だな。寝たきりの母親に怪我した父親、盲の兄貴に気のふれた野郎までいたら、おめえと遊ぶ暇もねえ。わざわざ、難しい女に目を掛けるたア変わった野郎だな、おめえも」
「別に変わっちゃアいねえ。好きになった女がたまたま、そうだっただけだ」
「そうかねえ。まあ、いいや、おめえの事だ。好きにするがいい」
 鉄蔵は市太の顔を見ながらニヤニヤ笑う。
「兄貴、何がおかしいんでえ」
「何となく、俺に似てると思ってな」
「兄貴に似てる? 俺が」
「そうさ。簡単に手に入(へえ)る物にはすぐに飽きて、わざわざ難しい物に取り組む所がな」
「へえ、兄貴もそうなのかい」
「まあな。ちょっと臍(へそ)が曲がってるらしい」
 二人は顔を見合わせて笑うと道を引き返して、観音堂裏の若衆小屋へと向かった。

目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...