2020年4月30日木曜日

天明三年(一七八三)七月二十三日

 昼近く、おさよとおろくが戻って来た。一緒に来た藤次に率いられて、大笹の若い衆が角材や板を運んで来る。
 昼飯の支度をしていた女衆が驚いて、おさよとおろくの回りに集まって来た。
「うまく行ったわ」とおろくは笑った。
「干小(ほしこ)の旦那さん?」とおかよが聞く。
 おろくはうなづいて、「黒長の旦那さんも協力してくれたの」と言った。
「さすが、おかみさんね」とおかよたちは感心して、おさよを見る。
「わたしはただお手伝いしただけよ。みんなの気持ちが通じたのよ」
 そう言っている間にも、小屋作りの資材が次々に運び込まれた。
「あの人たちにもお昼、お願いね」とおろくはおかよに言うと、藤次を連れて市太の所に向かった。
 用水を掘り起こす仕事は順調に進んでいた。藤次は小屋の事を市太たちに説明した。小屋の大きさは間口(まぐち)三間(さんげん)、奥行十間で、冬に備えて囲炉裏を四ケ所つけるという。
「ほう、そいつア助かる」と市太たちは喜ぶ。
「それだけの大きさがありゃア、当分は間に合うだんべ」とうなづきあった。
「明日から建て始めようと大工(でえく)たちも集めてあるんだ」と藤次は気の早い事を言う。
「明日からか」と市太は驚く。
「早え方がいいだんべ」
「そりゃアそうだが」
「そこでだ、どこに建てる」
 市太は半兵衛を見た。
「観音堂よりはこっちの方がいいだんべな」と半兵衛は言った。
「そうだな」と市太もうなづいた。
 市太は昼飯にしようと仕事をやめさせ、皆を観音堂に返した後、半兵衛と藤次と一緒に、小屋を建てる場所を捜した。今後、皆の家を建てる予定もあるので、邪魔にならない場所を選ばなければならない。村の中央に当たる諏訪明神の境内にしようかとも思ったが、やはり古井戸に近い方がいいだろうと村の南の端、おろくの家のあった辺りに決定した。
 昼飯を食べながら、市太はおろくから、昨日、ここを出てからの事を聞いた。
「昨夜(ゆうべ)はおみのさんのお部屋に泊めてもらったのよ」とおろくは楽しそうに言った。
「へえ、一晩中、話し込んでたんだんべえ」
「ええ。市太さんと藤次さんの喧嘩の事とか色々話してくれたわ」
「あいつ、余計な事は言わなかったんべえな」
「余計な事も教えてくれたみたい」とおろくは笑った。「兄貴は女好きだから気をつけなさいって」
「あの、馬鹿が。そういやア、おみのの姿が見えねえが、今日は来ねえのか」
「向こうで、ここに運ぶ荷物の指図をしてるの。最後に来るはずよ」
「そうか。それで、名主のおかみさんは真っすぐ、干俣(ほしまた)に帰(けえ)ったのか」
「いいえ。おさよさんも黒長さんのお屋敷に泊まったのよ。市太さんの家族を説得してたみたい。その前に、あたしと一緒に、みんながお世話になってる旅籠屋に行って、おみやちゃんの叔母さんや油屋の旦那さん、立花屋の善次さんたちを説得して回ったの」
「成果はあったかい」
「枡屋さんとこは大丈夫。うるさい大人は叔母さんしか残ってないし、生き残っただけでも感謝しなくちゃって。おみやちゃんもお兄さんの怪我が治ったら、すぐにでも来るって言ってたわ。油屋さんとこは難しいわね。かなりの土地を持ってたから、やっぱり、それにこだわってるの。息子さんたちは、そんな事を言っている時じゃないって言うけど、あそこの旦那さんはイッコク者だから難しいわ」
「立花屋の善次はどうなんだ」
 立花屋というのは橘屋の分家だった。市太の祖父、市左衛門の弟、武左衛門が分かれて、笹板(ささいた)と呼ばれる屋根を葺(ふ)く板を扱っていた。善次は武左衛門の伜で、村が埋まった日、妻と一緒に妻の実家のある原町に行っていて助かった。妻の母親が突然、倒れて、村が埋まった日も危篤(きとく)状態が続き、妻を原町に残したまま、善次は一人、村に向かった。大戸から須賀(すが)尾(お)を抜け、万騎(まんき)峠を越えて狩宿まで行ったが、そこから先は行けなかった。狩宿で鎌原の馬方たちと出会い、再会を喜んだが、村は全滅したという。仕方なく、原町に戻ると妻の母親も亡くなっていた。
 村を失い、家族も失い、嘆き悲しんでいた時、大笹に鎌原の生存者がいるという噂を聞いた。母親の初七日を済ませた二人は大笹へと向かった。須賀尾通りでは大笹まで行けないし、吾妻川沿いも危険だという。二人は暮坂(くれさか)峠を越えて草津に行き、中居に降りて大笹に向かった。大笹に伜の松次郎が生きていた。伜と再会できて二人は喜んだが、実家の母親は亡くなり、嫁ぎ先の両親も亡くなり、家も村も失い、あまりにも衝撃が強かったため、妻のおつたは倒れてしまった。今も具合が悪く、大笹の旅籠屋で寝込んでいる。
「一応、話はしたんだけど、それどころじゃないみたい。それにあの時、村にいなかったから、村の状況もわからないんじゃないかしら。ここに来て、この有り様を見ればわかってくれると思うけど」
「そうなりゃいいけどな」
「そして、今朝早く、干俣村に行ったのよ。干小の旦那さんが作ってくれた小屋に、みんないたわ。百姓代の仲右衛門さん、扇屋の旦那さん、宮守(みやもり)の杢右衛門さんを説得したの。仲右衛門さんは一人だけ生き残った村役人さんなのに、村の事なんか考えられる状態じゃなかったわ。家族を失った悲しみから立ち直れないみたい」
「若え嫁さん貰って、子供ができたばかりだったからな」
「ええ。扇屋の旦那さんは、弟の吉右衛門さんはこっちに来てるけど、難しいわね。持ってた土地は絶対に手放さないって強気だった。おさよさんが説得しても無駄だったわ。おさよさんもついに頭に来て、旦那さんの土地はそのままにして置きます。お好きになさいと言ったの。旦那はそれでいい。誰にも渡さんと言ったわ。おさよさんは新しい村を作るにあたって、土地はすべて村の物とみなして、みんなで焼け石を除いて整地をします。旦那さんの土地はそのままにして置きますので、家族の皆さんと一緒に掘り返して下さいって。旦那さんは困ったようだったけど、まだ強気で、お上のお役人様が来れば、そんな勝手な事をさせんて言ってたわ」
「へえ、あのおかみさんが扇屋の旦那を脅したのか。そいつア見物(みもの)だったな」
 市太はおさよが清之丞をやり込める場面を想像して、声を出して笑った。
「旦那さんは無理でも、息子さんは来るような気がするわ」
「そうか、あの旦那は一番手ごわそうだな」と市太は無精髭を撫でる。「宮守の旦那はどうなんだ」
「お諏訪様もなくなっちゃったけど、必ず再建します。是非とも宮守を務めて下さいって言ったら、引き受けてくれたわ。でも、娘のおみなちゃんの具合が悪くて、おみなちゃんがよくなったら行くって約束してくれた」
「そいつアよかった。あっ、そうだ。俺んとこはどうなんだ」
「お爺様はそれも仕方ないじゃろうって言ったようだけど、お母さんと叔父さんは反対してるみたい」
「そうだんべな。おふくろは黒長の妹だから、くだらねえ誇りってえもんを持ってる。叔父御も土地を持ってたからな、それにこだわってんのかもしれねえ。跡継ぎの五郎八は死んじまったが。叔父御はまだ、馬方たちを死なせたんは自分のせいだと思ってんのかな」
「さあ、そこまでは聞かなかったけど。でも、おさよさんが村作りに加わったと聞いて、びっくりしていたそうよ」
「そりゃアそうだんべ。俺だって驚いたぜ。ところで、おかみさんは何だって、おめえを連れてったんだ」
「それがよくわからないのよ」とおろくは首を傾げる。「もしかしたら、市太さんと半兵衛さんの事を詳しく聞きたかったのかもしれないわ。市太さんの事は村一番のゴロツキ、半兵衛さんの事はただの馬方の一人としか知らなかったみたい。その二人がどうして、中心になって村作りをしてるのか理解できなかったんじゃないの」
「そうかもしれねえな。それで、おめえ、俺たちの事をちゃんと教えてやったのか」
「勿論よ。それに、おみのさんがあたしたちの事を教えたら驚いてたわ。おさよさんたら、家柄の違う者同士が一緒になれないって事も知らなかったのよ」
「本当かよ、そいつア」
「ほんとなのよ。鎌原様と村役人さんたちは別として、他の人たちはみんな同じだと思ってたみたい」
「信じられねえな。だって、村の祝言(しゅうげん)には名主夫婦が立ち会うんだぜ。そんな事を知らねえなんて」
「あたしも信じられなかったけど、ほんとなのよ。それで、あたしたちが身分差のない村を作るっていうのは、そういう事なのかって、やっとわかったみたい」
「何だ、それじゃア、おかみさんは新しい村の意味もわからずに仲間に入ったのか」
「昨日はね。でも、今はちゃんとわかってるわ。市太さんの事も半兵衛さんの事も、勿論、新しい村の事も」
 おさよを見ると半兵衛と話をしていた。おさよと話をするのは初めての半兵衛は小さくなって、やたらと恐縮しているようだった。
「何を話してるんだんべ」と市太が二人の方を見ながら言った。
「おさよさん、色々な事を知りたがってるのよ」とおろくも二人の方を見た。「十年以上も住んでたのに、村の事は旦那さんに任せっきりで、何も知らなかったのを恥じてたわ。もっと、村の人たちと接していればよかったって。今までの穴埋めをしようと必死なんじゃないかしら」
「俺もあまり話した事アねえが、いい人みてえだな」
「そりゃアいい人よ。あたしだって、兄さんを名主さんちに連れてった時、挨拶をするくらいで話したのは初めて。昨日、一緒に来てって言われた時はどうしよう、何を話したらいいんだろうって心配したけど、おさよさんの方から色々と聞いて来てくれて。あたしが名主さんのおかみさんて呼んでたら、みんな、平等なんでしょ、おさよって呼んでくれって。何か、とても張り切ってるみたい」
「おさよさんか‥‥‥年増(としま)だが、いい女だ。半兵衛の奴、まいっちまうんじゃねえのか」
「いいんじゃないの。お互いに連れ合いを亡くしちゃったんだから」
「羨ましいわね、仲がよくって」とおかよが顔を出した。
「あれ、おめえ、おそめはどうしたんだ」
「おしめさんに預けたわ。おそめったら、おしめさんの事をお母さんだと思ってるみたい。おしめさんもおそめの事を気に入ってるみたいだし、このまま、おしめさんの子供にしちゃおうかしら」
「それもいいんじゃねえのか。おめえも子持ちじゃア嫁の貰い手もいめえ」
「なに言ってんのよ」とおかよは市太の肩を小突く。「あたしには鉄つぁんがいるさ。早く、お茶屋を開いて、鉄つぁんが来るのを待ってなくちゃアね」
「この村の事は江戸にも伝わったのかなア」市太が言うと、
「わからないわ」とおかよは首を振る。
「兄貴の事だ、今頃、こっちに向かってるかもしれねえ」
「いいのよ。そんな気休め言わなくても」
「気休めなんかじゃねえ。本気でそう思ってる」
「そうなら嬉しいけど」おかよは寂しそうに笑った。
 資材運びはまだ続いていた。女たちは次から次へと来る大笹の若い者たちのために昼飯の支度が忙しかった。昼飯を食べ終えたおろくとおさよは食べていない女たちと交替した。
 男たちは食事の後、一服すると小屋を建てる場所に向かった。大笹から来た者たちにも手伝ってもらい、夕方までには焼け石を掘り起こし、整地もできた。
「明日は大工を連れて来るからな」と藤次は言って、若い衆を引き連れ帰って行った。
「兄貴、おさよさんのお陰でうまく行ったね」と最後の荷物と一緒に来たおみのが笑った。
「おさよさんが伯父御に頼んだのか」
「あたしも頼んだけど、こんなに事が早く運んだのは、おさよさんのお陰なのよ。おさよさんが干小の旦那を大笹に連れて来てね、村中にある資材を集めさせて、大工さんも呼んで、これでどういう小屋が作れるかって聞いて、納得すると次々に運ばせたのよ。まったく、小気味よかったわ。うちの親父と干小の旦那だけだったら、まだ、何だかんだ言ってて、今日のうちに資材を運んで、建てる場所の整地までできやしないわ」
「そうだったのか。結構、やるじゃねえか、あのおかみさん」
「そうね、強い味方ができたわね」
「大笹のみんなにも何かお礼をしなきゃアならねえが、今の俺たちにゃア何もできねえ。まったく、歯痒(はがゆ)いぜ」
「そんな事、気にすんなって。人並みな暮らしができるようになってから考えな」
「すまねえ」
「いいのよ」とおみのも手を振って帰って行った。
 おさよは残って、みんなと一緒に小屋に寝泊まりする事になった。不自由な生活だが、食べ物のなかった、あの六日間に比べたら何でもないと気にしなかった。

2020年4月29日水曜日

天明三年(一七八三)七月二十二日

 鎌原では新しい村作りのための共同生活が始まっていた。市太とおろく、半兵衛父娘、安治、仙之助の六人で始まった村作りは、次の日には惣八とおまん、丑之助とおしめ、おかよとおそめ、伊八と新五郎とおいちの兄弟、路考こと権右衛門も加わり、噂を聞いて干俣村からも杢兵衛、清之丞の兄の吉右衛門、孫八と富松の兄弟がやって来た。今では二十人の大所帯になっていた。市太が最初に決めたように皆、平等という事を守り、うるさい事を言う者もなく、和気あいあいと朝から晩まで仕事に励んでいた。
 その頃、干俣村の名主、干川小兵衛の屋敷で、鎌原村の名主、儀右衛門の妻だったおさよは縁側に座って、ぼうっと庭の池を眺めていた。
「おさよ」と呼ばれて振り返ると父親の小兵衛が後ろに立っていた。
「いい天気じゃな」
「はい」
「鎌原では大変な事をやってるらしいのう」
「大変な事?」
 おさよが不思議そうに、父親を見ると父親はうなづいて、おさよの隣に座り込んだ。
「さっき聞いて驚いたんじゃが、問屋の伜が中心になって、身分差のない、みんな平等な村を作ると張り切ってるそうじゃ」
「身分差のない平等な村‥‥‥」
「ああ。もっとも村人のほとんどが亡くなってしまったんじゃから、身分だの家柄だのと言ってはおられまいがのう。今朝もここから何人かが鎌原に行ったそうじゃ。おまえはここにいていいのか」
「あたしが行ったって、何もできない」おさよは力なく俯いた。
「亭主が亡くなり、子供も亡くなったので、もう村の事はどうでもいいのか。一人だけ残されたのは、おまえだけではあるまい。おまえにもやるべき事はあるはずじゃ」
「あたしに何をやれって言うの」
「それはおまえが自分で考える事じゃ。ここにいたければいてもいい。だがな、おまえは鎌原村の名主の妻だったんじゃ。村の者たちは皆、その事を知っている。おまえがいつまでも悲しんでいたら、村の者たちも立ち直る事はできんのじゃぞ。よく考えろ」
 父親が去った後もおさよは呆然としていた。家族を失った悲しみから立ち直れないのに、村のために何かをやるなんて不可能だった。これ以上、苦しみたくはなかった。早く、何もかも忘れてしまいたかった。それでも、父親が言った皆が平等な村というのが気になっていた。名主の娘に生まれて、名主のもとに嫁いだおさよに取って、身分差のない村など想像すらできなかった。
 おさよは重い腰を上げると村の者たちが避難している小屋に向かった。何も考える事もなく、ただの気分転換のつもりだった。父親が鎌原村の避難民のために建てた小屋なのに訪れるのは初めてだった。
 避難小屋には四十人近くの村人たちが不自由な生活をしていた。おさよを見ると皆、丁寧にお礼を言って来た。自分は何もしていないのに、お礼を言われるなんて後ろめたかった。具合の悪そうな者も何人かいたが、思っていたほど多くはなく、大部分の者たちは元気になっていた。ゲッソリしていた扇屋の旦那、清之丞もすっかり血色がよくなって、のんきに三味線を弾いていた。
「やあ、名主のおかみさん、大分まいってたようじゃが、元の別嬪(べっぴん)に戻って何よりじゃ。わしもようやく元気になったわい」
「それはよかったですね。旦那さんは村の方には戻らないのですか」
「あんなとこに戻れるか。ワルガキの市太が半兵衛の奴と一緒になって、身分差のねえ村を作るとほざいておる。みんな平等で、土地持ちや山持ちは認めんとほざいておるんじゃ。先祖代々伝わって来た、わしの土地はどうなる。ふざけやがって。おかみさんもそう思うじゃろう。名主さんちも土地持ちじゃった。今更、それを取り上げられてたまるもんか。なア、そうじゃろうが。まったく、ふざけやがって。今、あの村に集まってる奴らは土地なんか持ってねえ奴らばかりさ。市太と半兵衛に躍らされて、村作りなんかやってるが、そのうちに、お上(かみ)のお役人様がやって来りゃア、そんな事通用せんわ。以前のごとく、わしの土地はわしの物になるじゃろう、ハハハ」
 おさよは清之丞と別れるとそのまま、大笹に向かった。どうして、大笹に向かったのか、自分でもわからなかった。名主の妻としての自覚がそうさせたのかもしれなかった。
 大笹の問屋に顔を出して、鎌原までの道を聞くと、丁度、おみのと藤次が鎌原に運ぶ荷物を馬に積んでいた。人々が何往復もしたので、ようやく、馬も通れるようになっていた。
 おさよはおみのたちと一緒に鎌原に向かった。
「確か、あなたは名主さんのおかみさんではありませんか」とおみのが聞いてきた。
「はい。さよと申します」
「あたしは黒長の娘、みのです」
「まあ、あなたが黒長さんの」とおさよはおみのの姿を見て驚く。
 男のような格好をしていて、どう見ても名主の娘には見えなかった。
「気を付けて下さい。足元が悪いですから」
「ええ、大丈夫よ」
「この辺りは焼け石も冷めて、歩けるようになったんですけど、お山の裾野の方は、まだ燃えているんです」
 おさよはおみのが示す浅間山の山麓を見た。観音堂から大笹に連れて来られた時、半ば、気を失っていて、回りの景色なんて見ていなかった。改めて眺め、被害の大きさに驚くばかりだった。
「煙が上ってるのが見えるでしょ。夜になると火が燃えてるのがよくわかります。お山は相変わらず、唸っていますし‥‥‥あのう、おさよさんも村作りに加わるのですか」
「えっ」とおさよはおみのを見た。そんな事は考えてもいなかった。「いえ。ちょっと様子を見に」
「そうですか。おさよさんが加われば、村の者たちもみんな、従うと思います。家柄のよかった人たちは、どうしても身分差のない村作りに反対してしまいます。村がなくなってしまったのに、昔の事が忘れられないのです」
「市太郎さんが始めたのですか」
「はい。市太郎兄貴と半兵衛さんです」
 半兵衛と聞いて、おさよはドキリとした。世間知らずのおさよでも、馬方の頭である半兵衛の事は知っていた。話をした事もないはずなのに、なぜか、半兵衛という名が心の片隅に引っ掛かっていた。
「兄貴も最初は無理だって諦めていたんです。見た通り、辺り一面、焼け石で埋まってますものね。これを掘り返さなくては村なんてできません。誰だって、そんな事できないって思います。でも、半兵衛さんは毎日、一人で出掛けて行って、焼け石を掘り返していたんです。それを見て、兄貴もやらなきゃならないって思ったみたいです」
「半兵衛さんが一人でやっていたのですか」
「はい。皆を説得して回ってたけど、誰も従わなかったんです。でも、諦めないで、雨の日も一人で出掛けて行って‥‥‥兄貴が動いたら従う者も出て来ました。大笹の問屋には江戸に運ぶ荷物が溜まっています。それを運ぶにはどうしても、鎌原に問屋が必要なのです。兄貴が問屋をやれば、村人たちも馬方稼業ができます。畑がダメでも、馬方ができれば、あの村は立ち直れます」
「そうですか‥‥‥」
 一時(いっとき)余りで観音堂に着いた。八日前、もう二度とここには戻って来ないだろうと去って行ったのに、なぜか、戻って来てしまった。なぜだか、自分でもわからなかった。
 観音堂にお参りして、若衆小屋の方に行くと女たちが昼飯の支度をしていた。小屋の脇には洗濯物が干してあり、潰れていた物置も直っている。女たちは皆、若く、避難小屋にいる者たちに比べて、ずっと明るい顔をして仕事に精出していた。
「あら、名主さんのおかみさんじゃない」とおそめをおぶったおかよが気づいて驚いた。
 女たちが手を止めて、おさよを見て頭を下げる。皆、以外そうな顔付きだった。
「おかみさんも来てくれたの。助かるわ」
「そうじゃないんだけど‥‥‥」
「まあ、お茶でも飲んで休んで下さいな。道が悪いからお疲れでしょ」
 おかよがおさよを縁側に連れて行くと、おろくがすぐにお茶を出した。
 小屋の中を見ると綺麗な筵(むしろ)が敷き詰められて、部屋の隅には布団が積まれ、役者絵を貼り付けた枕(まくら)屏風(びょうぶ)、燈明台(とうみょうだい)もいくつもあり、火鉢(ひばち)や煙草(たばこ)盆(ぼん)まで置いてあった。
「みんな、ここで寝泊まりしてるの」とおさよはおかよに聞いた。
「そうなんですよ。でも、だんだんと人が多くなっちゃって。ねえ、おかみさん、干小(ほしこ)の旦那さんに新しい小屋を建ててくれるように言ってくれません」
「それは構わないけど」
「うちの親父にも言っとくわ」と荷物を降ろしたおみのが来て、口を出した。「二十人を越えちゃったもんね。ここじゃア狭いわよ」
「御苦労様」とおろくはおみのにもお茶を差し出す。
「お酒を持って来たわ。みんな、久し振りでしょ」
「ありがとう。みんな、喜ぶわ」おろくはお礼を言った後、「あれ、藤次さんは」とおみのに聞く。
「兄貴たちの方に行ったんじゃない。うちの若え者を連れて来て、手伝わせるかって言ってたから、その事を相談しに行ったのよ」
「荷物を運んでもらうだけで充分ですよ。これ以上、みんなに迷惑をかけちゃア悪いわ」
「そんな事、気にしないで。逆の立場だったら、兄貴は真っ先に飛んで来て助けてくれるわ。困った時はお互い様よ。兄貴と藤次はお互いに男気(おとこぎ)を競って来たから、助けたくってしょうがないのよ」
「どうも、すみません」
 フフフとおみのはおろくを見ながら笑った。「もうすっかり、兄貴のおかみさんみたい」
「あら、そんな意味で言ったんじゃ」
「いいのよ。あたしも応援するからね、頑張ってよ」
「ありがとう」
 おさよはおかよとおろくから、ここの生活振りを聞いた。おろくも、おしめも、惣八も、安治も、権右衛門も家族を失って、たった一人になっていた。それでも、ここに来て村作りをやっている。村の事も家族の事も、悲しい事は何もかも忘れて、実家で静かに暮らそうとしていた自分が情けなく思えて来た。亡くなった家族のためにも、この地に戻って来なくてはならないと、おさよは強く感じていた。
 話の後、おさよはおみのの案内で、焼け石を掘り返している男たちの所へ行った。男たちは汗と泥にまみれて用水の溝を掘っていた。おさよが来た事に気づくと皆、手を休めて頭を下げた。
「皆さん、御苦労様です。どうぞ、続けて下さい」
「あの、おかみさんもここに来てくれるんですか」と市太が汗を拭きながら聞いた。
 おさよは皆の顔を見回した。皆、生き生きとした目をしていた。その中に半兵衛の姿もあった。半兵衛は日に焼けた顔で、おさよを見つめていた。
 おさよは突然、鎌原村に嫁いで来た当時の事を鮮明に思い出した。おさよは十六歳で、半兵衛は二十二、三歳だった。半兵衛は花嫁行列を手伝ったり、その後も名主の家に出入りしていた。十二歳も年上の儀右衛門に嫁ぎながらも、おさよは時々、見かける半兵衛に淡い恋心を抱いていた。その後、半兵衛も嫁を貰い、おさよも子育てが忙しく、そんな事はすっかり忘れていた。それが今、十六歳の時に戻ったかのように、半兵衛に見つめられ、胸がときめいていた。おさよは慌てて半兵衛から視線をそらすと、市太を見て、力強くうなづいた。
「わたしにも手伝わせて下さい。あなたたちの村作りを」
「手伝うなんて。おかみさんはいてくれるだけで結構ですよ」
「いいえ。みんな平等なんでしょ。わたしも一緒に働きます」
「おかみさん‥‥‥ほんとにありがてえ。おかみさんが来てくれりゃア、もう百人力だ」
「おだてないで下さい。わたしなんか何もできないのよ」
「いやいや、おかみさんにしかできねえ事があるんだ」
「えっ」と驚くおさよに市太は、新しい村作りに反対している者たちの説得を頼んだ。市太や半兵衛が説得しても反発してうまくは行かない。名主の妻だったおさよから説明すれば、うまく行くような気がした。
「来ない人は来なくてもいいんじゃないの」とおさよは聞いた。
「そうは行かねえんだ。村がある程度、できてから、この土地は俺のだって駄々をこねられると困るんだ。それに、できれば生き残った者はみんな、戻って来てほしい」
「そうね、その方がいいかもしれない」
 おさよは快く引き受けて、おみのと藤次と一緒に大笹に戻って行った。なぜか、その時、手伝ってもらう事があるからと、おろくを連れて行った。

2020年4月28日火曜日

天明三年(一七八三)七月十九日

 半兵衛は毎日、鎌原村に通っていた。山守の八蔵を連れて来た次の日も、一日中、雨が降っていた昨日も、半兵衛は一人で出掛けて、村の再建の事を考えていた。夕方、大笹に戻って来ると、あそこに新しい村を作ろうと毎晩、市太を説得した。
 土砂の上を覆(おお)っている焼け石の厚さは一尺(約三十センチ)程度だから、掘り返せば畑もできるだろう。古井戸も掘り返してみたら、あふれる程の水が出て来た。以前のように表通りの中央に用水を引けば村は復活する。半兵衛は強い口調で言うが、市太は乗り気ではなかった。村一面を覆っている焼け石をどけるだけでも容易な事ではない。村の者が総出でやっても、いつまで掛かるか見当もつかない。用水だの表通りだのというのは、その後の話だった。
 市太だけでなく、村の者たち、みんなに説得して回ったが、半兵衛の言う事にうなづく者はいなかった。それでもくじけず、半兵衛は今日も一人で出掛けて行った。
 雨もやんで、いい天気だった。長左衛門の炊き出しはまだ続いている。大前村や西窪村の被災者たちのほとんどは自分の村に帰って、それぞれ小屋掛けして新しい生活を始めていた。大前村も西窪村も家屋はすべて、土砂に埋まるか流されていた。それでも、生存者が多く、田畑もいくらか残っていたので、皆、自分の村に帰っている。今、炊き出しの世話になっているのは鎌原の被災者と怪我をして動けない者たちだった。
「おはよう。今日はいいお天気よ」とおろくが市太の側にやって来た。おろくは毎日、炊き出しを手伝っていた。
「半兵衛さん、今日も一人で出掛けたわ」
「そうか」と市太は気のない返事をする。
「たった一人だけでも、焼け石をどけるんですって」
「そんなの無理だよ。できっこねえさ」
「ねえ。あなたは前にあたしに言ったわ。無理だって最初から諦めるなって。無理かどうかやってみなけりゃわからないって」
 市太はおろくの顔を見つめた。おろくは何かを訴えるように市太をじっと見つめている。
「おめえ、俺に行けって言いてえのか」
「あの村は馬方で持ってた村でしょ。問屋がなければ、村の人たちも安心して戻れないわ」
「俺に問屋をやれってえのか」
「あなたしかいないじゃない。あなたがやればみんなついて来るわ」
 市太はおろくから目をそらして、煙を上げている浅間山を見た。
 おろくの言う通り、問屋をやるのは市太しかいなかった。叔父の弥左衛門も生き残ったが、多くの馬方たちを死なせたのは自分のせいだと落ち込んでいる。三人の子供も失って、立ち直るのは難しい。
 市太はおろくに視線を戻すと、「おめえの気持ちはどうなんでえ」と聞いた。「おめえも村に戻りてえのか」
 おろくは力強くうなづいた。
「半兵衛さんと同じように、あたしにもあの村しかないもん。家族が埋まってるあの土地を放っておいて、他所(よそ)の土地で暮らすなんて考えられない。他所の土地で幸せに暮らしたとしても、きっと、後悔すると思う」
「畜生め!」と市太は大声で怒鳴った。「結局はあそこに戻るしかねえのかよお」
「行くの」とおろくは期待を込めて聞く。
 市太は仕方ねえという顔付きでうなづいた。「まずは腹拵(はらごしれ)えだ」
 雑炊(おじや)を食べると市太とおろくは半兵衛の後を追って鎌原村に向かった。
「この道も馬が通れるようにしなきゃアならねえな。大笹から鎌原まで二里、鎌原から狩宿までも二里、それに、六里ケ原を通って追分や沓掛(くつかけ)までも掘り返さなけりゃならねえ。まったく、気の遠くなるような話だぜ」
「でも、誰かがやらなきゃア。みんなで力を合わせれば、できない事はないのよ」
「おめえ、やけに強気になったじゃねえか」
「市太さんが教えてくれたんじゃない。家柄が違う者同士が一緒になるなんて、できっこないって諦めてたのに、市太さんは絶対にできるって、決して諦めなかった。諦めない限り、必ず、できるんだって、あたし、市太さんから教わったのよ」
「なに言ってんでえ。俺ア他人(ひと)様に教えるような柄(がら)じゃねえ。でもよう、これから作る新しい村に下らねえ掟(おきて)なんかいらねえな。身分差なんかねえ平等な村を作ろうぜ」
「でも、そんな事できるかしら」とおろくは少し弱気になる。
「できるかしらじゃねえ。作るんだよ、俺たちで」と市太は言った。
 ようやく、いつもの市太に戻ったようだと、おろくは嬉しそうに笑う。
「鎌原様が持ってたっていう人別帳とやらも埋まっちまった。家柄なんかわかりゃアしねえ。新しい村にそんな物はいらねえんだ。よーし、こいつア面白くなってきやがった。やる気が出て来たぜ」
「そんな村ができたら、ほんと、素敵ね」
「ああ、やりてえ事ア何でもできるぜ。早え者勝ちだ。旅籠屋をやりてえ奴は旅籠屋をやりゃアいい。お茶屋がやりたかったらやりゃアいい。土地持ちも山持ちもそんな者はいねえ。みんな、平等に一から始めるんだ。畑が欲しけりゃ、焼け石をどけて畑にすりゃアいい。切り取り御免てえ奴だ」
 市太は久し振りに浮かれていた。何だか知らないが、体中から力が湧き出て来るようだった。市太はおろくを抱き上げるとグルグルと振り回した。おろくはキャーキャー言いながら、市太に抱き着いていた。
「おろく、俺ア今までずっと、自分が何をやりてえのか、わからなかった。やりてえ事が見つからねえんで、江戸に行くなんて言ってたんだ。でも、今、やっと、やりてえ事が、いや、やるべき事が見つかった。命懸けでやるべき事が見つかったんだ」
「なアに、命懸けでやるべき事って」
「村作りさ。新しい村作りだ。この果てしもねえ焼け石を掘り起こして道を作り、村を作るんだ。一生を懸けても終わらねえかもしれねえが、一生を懸ける値打ちはあるぜ。おめえも手伝ってくれるな」
 おろくは市太に抱かれたまま、うなづいた。「あたしも懸けます。市太さんにあたしの一生を」
「おめえならわかってくれると思ってた。畜生め、やっと俺の出番が来やがった」
 半兵衛はたった一人で焼け石を掘り起こしていた。市太とおろくを見ると、
「若旦那、きっと来てくれると思ってたぜ」と汗を拭きながら、嬉しそうに笑った。
 市太は来る途中で考えた、新しい村の構想を半兵衛に話した。
「身分差のねえ平等な村か。うむ、そいつアいい思いつきじゃ。だが、反対する者もいるじゃろうのう」
「真っ先に反対しそうなのは扇屋の旦那だんべ。土地も山も持ってたからな。納得させるなア容易じゃねえが、やれねえ事アねえ。決して諦めなけりゃア何とかなる」
「そうじゃな。こうやって少しづつ掘り返して行くだけじゃ」
「半兵衛、ところで、この縄(なわ)は何なんだ」
 半兵衛は縄を一直線に張って、それに沿って焼け石を掘り返していた。
「こいつは用水じゃ。まず、用水を掘って、その両脇に以前のように表通りを作る。そして、通りに面して、うちを建てるんじゃ」
「成程。用水を作るのはわかったが、こんなとこから掘るより、上流から掘った方がいいんじゃねえのか」
「わしもそう思って、上流の方からやり始めたんじゃがな、昨日、古井戸んとこを掘っちまったんで、びしょびしょに濡れちまうんじゃ。半ば、涸れてたんに、あんなにも水が出て来るたア思ってもいなかった。用水ができてから古井戸を掘りゃアよかったと後悔してんじゃよ」
 半兵衛に連れられて古井戸の所まで行くと、水が驚く程、湧き出ていて焼け石の中に染み込んでいた。
「こいつアすげえ。しかし、勿体(もってえ)ねえなア」
「ああ、失敗(しっぺえ)した」
「ねえ、これだけ水があれば、もう、ここに住めるんじゃないの」とおろくが言う。
「住むって、また、あの小屋に住むのか」
「いちいち、大笹から通うよりはいいでしょ。あっちにいてもやる事はないんだし」
「そうだ。おろくの言う通りじゃよ。道が悪(わり)いんで夜は歩けねえ。日が暮れる前(めえ)に向こうに着くように帰(けえ)らなけりゃアなんねえ。ここにいりゃア、夜明けから日暮れまで、びっしりと仕事に掛かれる」
「そうか、そうだな」と市太も同意する。「大笹から食料を持って来りゃア、ここでも暮らせる。いつまでも、伯父御の世話になってるわけにもいかねえ。よし、明日、食料を運ぶべえ。明かりや布団もあった方がいいな」
「いや、そんな贅沢(ぜえたく)はできめえ。まだ馬は通れねえんだからな」
「伯父御に頼むさ。いや、藤次に頼んべえ。奴なら人足を出してくれるだんべ」
「藤次ってえのは、あの藤次か」と半兵衛が不思議そうに聞く。
「そうさ。さんざ、喧嘩したあの藤次さ。半兵衛に仲裁してもらった事もあったっけな」
「ああ、あん時はまったく、ひでえ目に会った。しかし、あの藤次に頼むたアどうなってんでえ」
「まあな。この前(めえ)、仲直りをしたんさ」
「ほう、そうじゃったんか。確かに、奴に頼みゃア、布団だんべが、竈(へっつい)だんべが、何でも運んでくれるだんべ」
「今晩、帰(けえ)ったら、みんなに声掛けべえ。惣八と安は来るだんべ。おかよとおゆうも来るかもしれねえ」
「みんなで一緒に暮らすなんて楽しそうね。あたし、あの小屋のお掃除をしてるわ。住むとなれば綺麗にしなくちゃ」
 おろくは観音堂の方に戻って行った。
「働き者(もん)じゃな」とおろくの後ろ姿を見ながら半兵衛が言った。
「ああ、朝から晩まで動いてねえと気が済まねえらしい」
「働き者なんは前(めえ)から知ってたが、おろくは若旦那と仲よくなってから変わったよ。明るくなったし、強え女になった。若旦那、嚊天下(かかあでんか)になるぜ」
「半兵衛だって、嚊天下だったんべえ」
「ああ、嚊天下じゃった‥‥‥わしはな、かみさんを草津に連れてってやる事もできなかったんじゃよ。若旦那はおろくを連れてったんだってな」
「どうして、それを知ってんだ」
「桐屋の蔵に避難した時、おろくの姉ちゃんから聞いたんじゃ。毎日、毎日、忙しいって、かみさんにいい思いもさせてやれなかった。それだけが悔やまれてなア。今頃、言っても遅えやなア。さてと仕事に掛かるか」
 半兵衛と市太は八つ半(午後三時)頃まで焼け石と格闘して汗を流し、おろくが綺麗に掃除した小屋で一休みしてから大笹に帰った。

2020年4月27日月曜日

天明三年(一七八三)七月十六日

 浅間山は相変わらず、黒煙を吹き上げながら唸っていた。それでも、以前に比べれば、煙の量は半分程に減っている。このまま、静まってくれと祈るばかりだった。
 市太とおろく、半兵衛、おゆうの四人は焼け石の上を歩いていた。おみのたちが二往復したので、すでに足跡が道になっていて、思っていたよりも歩くのは楽だった。
 昨日のようないい天気ではなく、空は雲が覆っていて蒸し暑い。砂が降って来るのを警戒して菅笠(すげがさ)を被り、焼け石を警戒して下駄を履いている。半兵衛が先頭を歩き、おゆう、おろく、市太と一列に並んで観音堂を目指した。惣八、安治、丑之助も誘ったが来なかった。あんな所に行っても何もねえ。昨日、狩宿まで行って疲れたから、今日はのんびりしたいと言う。惣八はおまんと、安治はおさやと、丑之助はおしめと、改めて再会を喜びたいのだろうと無理には連れて来なかった。
 観音堂から大笹に行った時、あんなに苦労したのが嘘のように、一時(いっとき)余りで観音堂に着いた。当然の事だが、観音堂の中は永泉坊が祈祷した時のままだった。この狭い中に、二十人もの人が六日間も寝起きしていたとは、とても信じられなかった。裏に回って若衆小屋を見ると無残な姿で建っていた。何度も潰(つぶ)れそうになって、みんなで必死に補強してきたのだった。雨降る中、屋根に積もった砂や石をどけたり、雨漏りの修理をしたのが、遠い昔の事のように思い出された。みんなの命を救ってくれた汚い桶に雨水が溜まったまま置かれてあった。
「ひでえとこにいたもんだ」と半兵衛が感慨(かんがい)深げに呟(つぶや)いた。
「ここに四十人も‥‥‥」とおゆうが驚いた。
「そうさ。俺たちはその土間にギュウギュウ詰めになってたんだ。揺れは来るし、石は降るし、しかも、食う物(もん)はねえ。雨は降り続くし、まったく、生きた心地(ここち)もしなかったぜ」
「腹を減らしながら、あんた、ここで、ものにした女の数を数えてたんでしょ」
「おめえ、何て事、言うんでえ」
「だって、ここは、あたしたちの逢い引きの場所だったじゃない。あたしと勘治だって、何度もここで‥‥‥」
 おゆうは涙ぐんでいた。
 市太も勘治の事を思い出していた。一緒に悪さをして、一緒に江戸にも行った勘治がいないなんて、信じろと言っても無理だった。
「しかし、この小屋は頑丈じゃったなア。さすが、棟梁(とうりょう)じゃ。これだけの腕を持ちながら、まったく、残念な事じゃ」
 四人は若衆小屋を離れ、観音堂に両手を合わせると石段を降りた。あれだけあった石段はたったの十三段しかない。そこから広々と焼け石が広がっている。
「何これ、こんなにも埋まっちゃったの‥‥‥」
 村の姿を初めて見るおゆうは呆然と立ち尽くした。勘治がどこかに生きているかもしれないという希望は目の前の景色によって、一瞬のうちに吹き飛んでしまった。
「信じられねえが、これが現実なんだ」と市太がおゆうに言う。
「みんな、埋まっちゃったのよ」とおろくが言った。
「一瞬の内だった。みんな、逃げる暇もなかったに違えねえ。誰も、こんな土砂がお山から攻め寄せて来るなんて思いもしなかった。うちの爺ちゃんだって、山守の隠居だって、こんな事ア初めてだと言っていた。どうする事もできなかったんだ」
 半兵衛が埋まった村に向かって両手を合わせていた。市太もおろくもおゆうも両手を合わせて、亡くなった者たちの冥福(めいふく)を祈った。
 まずは、ずっと続いている足跡に沿って歩いてみた。大きな岩や大木があちこちに埋まっている。表通りがどの辺にあったのかもわからない。
「あれがお諏訪様の屋根じゃな」と半兵衛が指さした。
 神社特有の屋根の上部が焼け石の上に顔を出している。諏訪明神の本殿は小高い丘の上にあったので、すべて埋まらなかったのだろう。
「あそこがお諏訪様なら舞台はあの辺だな」と市太が指をさす。
 落葉松(からまつ)の枝が顔を出しているだけで、舞台の屋根は見えなかった。市太は足跡のない焼け石の上に一歩踏み出してみた。下駄が焼けた様子はない。手で触って見ても熱くはなかった。
「もう大丈夫みてえだぞ」と市太は半兵衛に言う。
「それでも気をつけた方がいい。中の方は熱(あち)いかもしれねえ」
 市太はうなづくと一歩一歩確かめながら、舞台があったと思える辺りに行ってみた。焼け石はすっかり堅くなっていた。
「もう大丈夫だ」と市太は皆に言った。
 半兵衛はうなづくと焼け石の上に踏み出した。思い切り焼け石を下駄で蹴ってみた。砕けた焼け石の中をよく見てみたが燃えている様子はなかった。
「大丈夫のようじゃな」
 おろくもおゆうも恐る恐る焼け石の上に上がった。四人は足元に気をつけながら、村の上を歩き回った。この辺りが表通りだ、この辺りが俺の家だ、あたしの家だと確認し合ったが、空しさがつのるばかりだった。だんだんと皆、口数が少なくなって、観音堂に戻ると石段に腰を下ろした。
「何だかんだ言ったってしょうがねえ。もう、村はなくなっちまったんだ」市太が言うと、
「村はこの下にちゃんとある」と半兵衛は強い口調で言った。
「そんな事アわかってる。だが、もうダメだ。こんなとこに戻っちゃア来られねえ」
「若旦那、わしはな、ここで生まれたわけじゃアねえ。はっきり言やア来たり者(もん)じゃ。だが、わしはこの村に骨を埋めるつもりで、今まで生きて来た。わしに取って、この村は故郷(ふるさと)なんじゃ。ここより他に行くとこなんて、どこにもねえんじゃ」
「そんな事、半兵衛に言われなくたってわかってらア。俺アこの村で生まれて、この村で育ったんだ」
「いいや、わかってねえ。故郷ってえもんが、どんなもんだか、若旦那にゃアわかってねえ。わしは故郷を捨てた。追い出されたんじゃ。無宿者(むしゅくもん)にされて、あちこちさまよった。江戸に出た事もある。だが、何をやってもうまくは行かねえ。結局は旅から旅への流れ者じゃ。六里ケ原で行き倒れになって、馬方に助けられて、この村に来た。今まで、人並みに扱ってもらった事なんかなかったんに、大旦那(市太の祖父)は、わしを人並みに扱ってくれた。大旦那のお陰で、わしはこの村で人並みな暮らしができたんじゃ。嚊(かかあ)も貰って子供もできた。亡くなった嚊や子供のためにも、わしはここに戻って来なくちゃならんのじゃ。大旦那に恩返しするためにも、もう一度、ここに鎌原村を作らなけりゃアならんのじゃ」
 市太は焼け石に埋まった村を眺めながら、ここに村を作るなんて不可能だと思っていた。
「若旦那は江戸に出るって言ってたな。それもいいじゃろう。だがな、今、江戸に行っても若旦那にゃア、もう故郷はねえんだぜ。帰るとこはどこにもねえんだぜ。無宿者と同じじゃ。帰るとこがねえってえのは辛え事じゃ」
 市太は黙っていた。おろくもおゆうも何も言わなかった。
 ガタッと何かが倒れる音がした。四人は一斉に振り返った。
 観音堂の中に人影が見えた。
「誰かいるわ」とおゆうが脅(おび)えた声で言った。
 市太と半兵衛は警戒しながら観音堂に近づいた。観音堂にいる人影もじっとしたまま、こちらを見つめている。
「あれ、おめえは山守の八蔵じゃねえのか」と半兵衛が声を掛けた。
 ボサボサのザンバラ髪で、着ている着物もボロボロだった。腰にナタをぶら下げ、自分で作ったのか奇妙な下駄を履いている。脅えたような目付きでこっちを見ていた。変わり果てた姿だが、間違いなく八蔵だった。
「おめえ、生きてたのか」と半兵衛が言うと、八蔵は逃げるように観音堂の中に隠れた。
 暴れ回る八蔵を二人はやっとの事で捕まえ、観音堂の外へ連れ出した。八蔵は脅えきっていた。目付きが虚ろで、何を聞いても、アーアーウーウー唸るばかりだった。
「生きてたなんて信じられねえ」と市太は八蔵を見ながら言う。「あん時、延命寺の和尚たちと一緒に、お山に登ったはずなのに」
「余程、おっかない目に会ったのね」とおゆうが言った。
「怪我してる。早く洗った方がいいわ。あたし、水を汲んで来る」
 おろくは観音堂にあった桶を持って古井戸の方に向かった。
「おい、ちょっと待て。一人じゃ危ねえ」
 市太は八蔵を半兵衛とおゆうに頼むとおろくの後を追った。
「大丈夫よ」
「いや、八兵衛のように、お山で生き残った獣が出て来るかもしれねえ。奴らは凶暴になってるからな、何をするかわからねえ」
「脅かさないでよ」
「おめえに怪我されたかアねえんだよ」
 市太はおろくから桶を受け取った。
 市太が汲んで来た水を見ると八蔵はむさぼるように飲んだ。水を飲んで安心したのか、おろくが傷口を洗っている間も騒ぐ事はなかった。切傷が何ケ所もあったが、それ程、深い傷はなく、歩く事はできそうだった。
「さて、今日のとこは、これで帰るか」
 半兵衛が言うと皆もうなづいて、八蔵を連れて大笹に向かった。
 大笹に戻ってみると鎌原村の生存者たちのおよそ半数の四十人余りが、一里半程北にある干俣(ほしまた)村に移っていた。
 鎌原村の名主(なぬし)、儀右衛門の妻おさよは干俣村の名主、干川小兵衛の娘だった。家族全員を失い、たった一人で生き残っていた。娘が生きていると聞いて、飛んで来た小兵衛は大笹に来て、長左衛門が鎌原村の避難民を旅籠屋に入れて面倒を見ている事を知った。長左衛門だけに負担させるのは申し訳ないと半数の者を引き取って行ったのだった。
 干俣村に行った者の中に杢兵衛夫婦もいた。杢兵衛の妻おすみは干俣村の生まれだった。百姓代の仲右衛門や扇屋の家族、おしまの家族、孫八の家族らが干俣村に移っていた。
 山守の家族は大笹に残っていた。祖父の長兵衛も母親も弟の丑之助も幽霊でも見ているかのように八蔵を見た。八蔵には家族もわからなかった。脅えたような目で自分を囲む者たちを眺めて、アーウー唸っている。変わり果てた姿に驚きはしたものの、生きていてよかったと母親は八蔵を抱き締めると泣き出した。

2020年4月26日日曜日

天明三年(一七八三)七月十五日

 大笹に来た鎌原村の生存者たちは衰弱しきっているので旅籠屋に収容された。風呂に入れる者は体を洗って、乾いた着物に着替え、お粥(かゆ)を食べて、布団の上に体を伸ばして、ゆっくりと眠った。
 市太は昼過ぎまで眠っていた。目が覚めて隣を見るとおろくはいない。半兵衛と娘のおふじはぐっすりと眠っている。おまちも眠っているが姉のおゆうの姿はなかった。
 厠(かわや)に寄ってから、市太は外に出た。
 雲一つない青空が広がっていた。お天道(てんと)様を見るのも久し振りだ。日差しは強く、眩(まぶ)しかった。市太は体を伸ばすと深呼吸をした。生きていてよかったとしみじみと感じた。
 表通りには近在の避難民たちが虚ろな顔をして行き来している。問屋に行くと、庭に大釜を出して女衆(おんなし)が炊き出しをしていた。仮普請(かりぶしん)の小屋の中には年寄りや子供たちが疲れきった顔で横になっている。市太は呆然とそれを眺めながら、ひどい目に会ったのは自分たちだけではなかったのだと実感した。
「おなか、減ったでしょ」と声がして振り向くと、おろくがいた。
 襷(たすき)掛けをしたおろくが、お粥の入ったお椀と箸(はし)を差し出した。
「すまねえ。おめえ、ずっと手伝ってたのか」
「そうじゃないけど、目が覚めちゃったから。ここに来たら、おゆうさんが手伝ってたんで、あたしも一緒にやってたの」
「ほう、おゆうもいるのか」
「ほら、あそこに」
 おろくが示す方を見ると、木陰で休んでいる者たちに、おゆうがお粥を配っていた。
「へえ、あんな事をするたア、あいつも草津に行って変わったな」
「さっき、一緒にお粥を食べて、色々と話を聞いたの」
「勘治の事か」
 おろくはうなづいた。
「信じられないって、勘治さんが亡くなった事が。もしかしたら、どこかで生きていて、ここに来るかもしれないって」
「そうか‥‥‥そうだんべなア。俺だって信じられねえ。惣八や安が生きてたように、勘治も生きてると思いてえ」
 市太は腰を下ろすとお粥を食べ始めた。
「食欲も大分、出て来たぜ」
「あたしもお代わりしちゃった」とおろくは笑った。
「大分、顔色もよくなって来たな」
「うん、昨夜はよく眠れたもん」
「夢ん中にな、三治が出て来たぜ。いつものように笑いながら、若ランナって呼びやがった。俺の手を引いて観音堂に連れて行こうとするんだ。でも、石段がやけに長くてな、いくら登っても観音堂に着かねえんだ」
「それでどうしたの」
「どこからか、鈴の音が聞こえて来てな、振り返るとおめえが石段を登って来たんだ。俺がおめえを待ってる隙に、三治はずっと先の方まで登ってって見えなくなっちまった」
「そう‥‥‥きっと、極楽に行っちゃったのね」
「そうかもしれねえな」
 おろくは目頭を軽く拭くと無理に笑って、「おみのさんたち、朝早くから狩宿に行ったんですって」と話題を変えた。
「馬方たちを連れて来るのか」
「そうだって。惣八さんや安治さん、丑之助さんたちも一緒に行ったみたい」
「ほう、奴らも行ったのか。狩宿まで行ったとなりゃア、一日じゃ帰って来られねえかもしれねえな」
「でも、今日はいいお天気だし、足跡をたどって行けば大丈夫だろうって、ここの旦那さんが言ってました。そうそう、さっき、お関所の鎌原様もお見えになったのよ」
「鎌原様か。そういやア、鎌原様の家族もみんな亡くなっちまったんだったなア」
「鎌原様と一緒にお関所にいた西窪(さいくぼ)様の御家族もみんな亡くなってしまったそうよ」
「そうか‥‥‥鎌原様には弟がいたっけなア。ヤットウの稽古で馬庭(まにわ)にいるはずだが、お屋敷もなくなって、兄弟二人しか残らねえとなると、これから大変だア」
 やがて、旅籠屋から鎌原村の者たちがやって来た。おろくはおゆうと一緒にお粥を配って回った。
 市太は問屋の裏にある長左衛門の屋敷に向かった。長左衛門は代々、名主を務める家柄で屋敷も立派だった。市太の家族は旅籠屋ではなく、ここの客間に世話になっている。庭でおみのの妹、おさえと出会った。男勝りの姉とは違っておとなしい娘だった。
 おさえの案内で客間に行くと主人の長左衛門が来ていた。みんな、ぐっすりと眠ったらしく、顔色もよくなっている。叔父の弥左衛門と兄嫁のおきたの姿はなかった。おきたは実家が大笹にあるので、そっちに行ったのだろうが、弥左衛門がいないのは、もしや、狩宿まで行ったのかと長左衛門に聞くと、やはり、そうだった。
「叔父御も随分と張り切ってるな」と市太が皮肉っぽく言うと、
「あれはあれなりに苦しんでいるのさ」と長左衛門は言った。「作右衛門が荷物を止めようとしたのを真田様の荷物を止めるわけには行かねえと言ったのは弥左衛門らしい。しかし、荷物があまりにも多すぎた。今更、やめるわけにも行かず、慌てて、ここに飛んで来たのさ。荷物を止めてくれってな。自分は助かったが、大勢の馬方たちは亡くなった。自分のせいだと責任を感じてるのさ」
「そうだったのか‥‥‥」
「おまえは旅籠屋の方にいるそうだな。観音堂にいた時も、小屋の方にいて、村人たちを励ましてたそうじゃねえか」
「いや、そんなんじゃねえ」
「わかってるよ」と長左衛門は意味ありげに笑った。「いい嫁さんを見つけたらしいな。さっき、会ったぞ。見た事もねえ娘が炊き出しを手伝っていた。小屋にいる病人たちの面倒もよく見ていた。感心な娘だと女衆に聞いてみたら、鎌原の娘だと言うが、それ以上は知らなかった。たまたま、昨日、鎌原まで行った若え者がいてな、あの娘はおめえの嫁さんだと言いやがった。そんな話は初耳だが、あれはいい娘だ。おめえもいい娘に目を付けたな」
「兄さん、まだ決まったわけじゃア」と母親が言った。
「なに、気にすんな」
「そうじゃなくて、あの娘は‥‥‥」
「いや、何でもないんじゃよ」と祖父が母親を押さえた。
「まあ、今の時期に祝言は挙げられまい。落ち着いたら盛大にやろうじゃないか。あれはいい嫁になるぞ」
 長左衛門は市太の肩を叩くと出て行った。
 長左衛門が消えると母親が市太に近寄って来て、「おまえ、いい加減に、おろくとは別れなさい」と強い口調で言った。「お父さんもお兄さんも亡くなって、家を継ぐのはおまえしかいないんですよ。もっと、しっかりしてもらわなくては困ります」
「おきつさん、市太郎はしっかりしているよ」と祖父が口を出した。「それはおまえさんだって、充分に承知しているじゃろう」
「それだって‥‥‥」と言いながら母親は急に泣き崩れた。
 市太はその場を離れ、炊き出しが行なわれている庭に向かった。半兵衛がおふじとおまちを連れて、お粥を食べていた。
「おう、若旦那、うめえぞ」
「俺アもう食べた。おふじちゃんの具合(ぐええ)もよくなったようだな」
「ああ、ぐっすり眠ったせいか、熱も下がった。わしもすっかり生き返ったようじゃ」
「そいつアよかった」と言いながら、市太はおろくの姿を捜していた。
「おろくなら旅籠屋の方に帰ってったぞ。若旦那を捜しに行ったんじゃねえのか」
「そうか」と市太は半兵衛と別れて旅籠屋に帰った。部屋にいるかと思ったが、おろくはいなかった。
「まったく、今度はここんちの飯炊きをやってるんじゃあるめえな」と市太はお勝手の方に顔を出してみた。
 お勝手にもおろくはいなかった。
「どこ行っちまったんでえ」
 宿の者に聞くと、裏の庭にいたという。行って見るとおろくは洗濯をしていた。
「おめえ、何やってんだ」
「あっ、市太さん。すっかり忘れてて」
「こいつア俺たちが着てた物だんべ。何も洗濯する程の物じゃアねえ」
「だって、綺麗に洗えばまだ大丈夫よ。みんな、無一文なんでしょ。着物だって貴重だわ」
「まあ、そうだけどよう、おめえが一人でやる事アねえだんべ」
「みんな、まだ疲れてるわ」
「おめえだって、まだ、まともじゃアねえんだぜ」
「でも、あたしはじっとしてるのは苦手なの」
「それにしたって、この汚えのを、おめえ一人でやるつもりかい。そいつア無理ってえもんだ」
「いいのよ。できるだけやるわ」
「まあ、好きにするさ」と市太もそれ以上言うのはやめて、おろくの側にしゃがみこむ。「だけど、無理すんなよ。まだまだ、これからが大変(てえへん)だからな」
「これからって?」
「色々あるだんべ。まず、住むとこを見つけなくちゃならねえし、うちも建てなくちゃアならねえ」
「ねえ、あたしたち、村に戻れるの」
「あんなとこに戻りてえのか」
「だって、みんなが埋まってるのに放って置くの」
「しょうがねえだんべ。あそこまで埋まってるってえ事ア三丈(じょう)(約九メートル)はあるぜ。そいつを掘り起こすのは至難の業だ」
「でも‥‥‥」
「とくかく一度、村がどうなっちまったのか、見に行かなきゃアなんねえな」
「あたしも連れてって」
「そうだな、それだけ元気がありゃア大丈夫(でえじょぶ)だんべ。明日、半兵衛を連れて行ってみるか」
「そうしましょ」と言いながらも、おろくは洗濯に励んでいる。
「見ちゃアいられねえ。手のあいてる女衆を連れて来らア」
 その晩、日が暮れてまもなく、狩宿から生存者たちが旅籠屋にやって来た。怪我をしている者たちも、皆に会いたいと無理を押してやって来た。その中におゆうの父親、三左衛門がいた。妻を失い、自分は怪我をしたが、二人の娘と再会し、涙を流して喜んでいた。三左衛門にはもう一人、嫁に行った一番上の娘おすわがいた。おすわは市太とも関係のあった器量よしで、嫁ぎ先の家族と一緒に亡くなっていた。
 幸助の弟、伊之助も怪我をしていた。兄の幸助と妹のはつ、そして、惚れ合っていた桶屋の娘おみよも亡くなっていた。おみよが生きている事を信じて、歯を食いしばって大笹まで来たが、夢は破れ、ガクッと泣き崩れた。
 路考こと権右衛門も生きていた。大笹まで来ても身内は一人もいなかった。おまんの姿を見つけると、「おかみさん、あんた、生きてたのね。よかったわア」と抱き着いて、ワアワア泣き始めた。
 畑で夫を亡くしたおふよの伜、音五郎も生きていた。たった一人残されたと悲しみに暮れていたおふよは再会を大喜びして、泣きながら神に感謝していた。武次郎もそうだった。独りぼっちになったと諦めていたら、父親が戻って来た。おみきも諦めていたら、夫と伜が戻って来た。
 感動的な再会が演じられる一方で、絶望の縁から出られない者も多かった。炊き出し、洗濯と張り切っていた、おろくも再会を喜ぶ者たちを見ながら、それを素直に喜ぶ事はできなかった。突然、顔を覆うと嗚咽(おえつ)しながら、その場から走り去った。
 市太が後を追うと、おろくは誰もいない部屋に戻って泣いていた。市太はそっとおろくを抱き締めた。

2020年4月25日土曜日

天明三年(一七八三)七月十四日

 今日も雨が降り続いていた。
 市太と半兵衛、それと、昨日、狩宿から来た丑之助、仙之助、孫八を加えた五人は焼け石の上を歩いて、大笹に向かっていた。三右衛門と長治の二人は今朝になって怪我をしている事がわかり、連れて来るのはやめにした。
 焼け石も大分、冷めていた。市太と半兵衛は草履(ぞうり)よりはましだろうと、三右衛門と長治が履いて来た歯の減っている下駄を履いている。笠と蓑(みの)も借りてきた。
 埋まらずに残っている金毘羅(こんぴら)山を目指して一行は進んだ。昨夜、丑之助が話した通り、ひどいものだった。観音堂から見た時は、ほとんど平らに見えたのに、実際に歩いてみるとデコボコだらけだった。太い木の幹は好き勝手な格好で埋まっている。こんな物がよく流れて来たと呆(あき)れる程の大きな岩がゴロゴロ転がっている。厄介(やっかい)なのが焼け石だった。表面は冷えているが中の方はまだ熱い。固まっていればいいのだが、中には柔らかいのもあって、そこを歩こうものなら、足が埋まって火傷(やけど)をしてしまう。足元を確かめながら進まなければならず、ちっとも前に進まない。丑之助たちが二里の距離を八時間も掛かったというのもうなづけた。泥だらけになって、半里にも満たない距離を二時間もかけ、ようやく、金毘羅山に到着した。
 飯を食べていた丑之助たちは元気いいが、六日間も飲まず食わずの市太と半兵衛はもう限界だった。とても、あと四倍も歩けそうもない。二人は金毘羅山の森の中に倒れ込んだ。
「おい、丑、俺アもうダメだ。大笹には行けそうもねえ」と市太が弱音を吐くと、
「わしも無理じゃ」と半兵衛も言う。「おめえたちで行って来てくれ」
「大笹はやめて、大前にするか」と孫八が言う。
「大前は川向こうだからな。橋が無事なら行けるが、大丈夫だんべえか」
「とにかく、山の上まで行って見てみらア。どの辺までやられてるかわかるだんべ」
 孫八と丑之助と仙之助は山を登って行った。三人を見送ると市太と半兵衛は横になった。
「畜生、情けねえが体がいう事を聞かねえ。これ程、大変(てえへん)だとは思ってもいなかった」
「わしだって同じさ。まったく、情けねえよ」
「俺たちがこんなざまじゃア、とても女子供は歩けねえな」
「ああ、無理だんべえ。かと言って、あのまま、あそこにいても危ねえよ」
「せっかく生き残ったのに、あんなとこで死んだんじゃア情けねえ」
「あの三人に大笹まで行ってもらって、何か食い物を持って来てもらうしかねえな」
「そうだな‥‥‥もう一晩、あそこで過ごすのか‥‥‥」
「せめて、雨がやんでくれりゃアいいのに」半兵衛はボロボロになった手拭で顔を拭いた。
 やがて、孫八たちが戻って来た。
「大前の方までずっと焼け石で埋まってる。橋も流されちまったかもしれねえ」
「そうか。大笹の方はどうだ」と市太は上体を起こしながら聞いた。
「よくわからねえ。わからねえけど行ってみるしかねえ」
「そうだな。行くしかねえな」
「どうする」と丑之助が心配そうに、横になったままの半兵衛を見ながら市太に聞く。
「俺たちゃダメだ。ここで休んでから観音堂に戻る。戻るのも大変だがな」
「そうか。それじゃア俺たちで行くか」
「食い物と病人を運ぶ頑丈(がんじょう)な人足を頼まア」
「わかった。気を付けてな」
「おめえたちも気を付けてくれ」
 孫八たちは山麓を大笹の方へと向かった。
「大笹が無事ならいいが」と市太は三人の後ろ姿を眺めながら言った。
「ああ」と半兵衛が返事をする。
「伯父御が無事なら、きっと助けてくれるさ」
「ああ」
「おみのの奴だって飛んで来るだんべ」
 半兵衛の返事はなかった。
「おい、半兵衛、大丈夫か」と市太は半兵衛の肩をたたいた。
 疲れ果てて、雨が降っているにもかかわらず、このまま、眠ってしまいたい心境だった。しかし、こんな所で眠ってしまったら死んでしまうかもしれない。市太は力を振り絞って、半兵衛の上体を起こした。
「ああ、大丈夫だ。帰るか」と言うが立ち上がる気力もないようだ。
「おふじちゃんが待っている。帰ろうぜ。通って来た足跡をたどって行きゃア、来る時よりは楽だんべえ」
「ああ、行くか」
 二人はやっとの思いで立ち上がった。足がフラフラしていて立っているのも容易ではない。市太は手頃な枝を拾って半兵衛に渡し、自分のも拾い、杖代わりにした。
「行くぞ」と市太が焼け石の上に踏み出した時、山の後ろの方から叫んでいる声が聞こえて来た。何事だと二人は耳を澄ました。
「市太、助かったぞ」と丑之助が叫んでいた。
「どうしたんだ」と市太は叫んだが、力が出ず、大声にはならなかった。
 二人が枝にすがって立ちすくんでいると丑之助が笑いながらやって来た。
「助かった。大笹から助けがやって来た」
「なに、そいつア本当か」
「ああ、本当だ。見た所、十人ぐれえはいる」
「助かった」とつぶやくと急に気が抜けたように半兵衛はその場に座り込んだ。
 やって来たのは、おみのと藤次、大笹の若い衆が六人、それと、惣八と安治、市太の叔父、弥左衛門もいた。そして、永泉坊もいる。永泉坊は両足に布切れを巻き付けて、大男におぶさっていた。
「市太兄い、生きてたのね」
 男姿のおみのが泣きべそをかきながら抱き着いて来た。
「助かった‥‥‥」市太はおみのを抱き締めながら、皆の顔を見回した。
「おい、市太、情けねえ面をしてるぜ」と藤次が市太の顔を見て苦笑した。
 市太はおみのの肩にすがりながら、「すまねえな」と笑った。知らずに涙がこぼれてきた。市太は慌てて、涙をこすった。
「なアに、困った時はお互え様さ」と藤次は市太を見つめてうなづいた。なぜか、藤次の目にも涙が光っていた。
「こんなもゲッソリとしちゃって‥‥‥」とおみのが市太を見上げて、心配そうに言う。
「もう大丈夫さ」と市太はおみのにうなづいて、藤次の隣にいる惣八と安治に目を移す。
「おめえら生きてたのか」
 二人は神妙な顔してうなづいた。
「中居に行ってて助かったんだ」と惣八は言った。
「中居?」
「ああ、生首(なまくび)を取りに行ってたんだ」
「生首だと‥‥‥そうか、小金吾の首か」
「そうさ」
「そうか‥‥‥とにかく、生きててよかった」
「市太兄い、永泉坊様が来て、みんなが観音堂にいるから助けてくれって教えてくれたんだよ。でもさ、熱くて歩けなくて、やっと、今日になって来られたんだよ」
「なに、永泉坊が‥‥‥」
 市太が永泉坊を見ると大男の背中の上で、「みんな、無事か」と聞いて来た。
「無事とは言えねえ。病人が何人もいる」
「そうじゃろう。早く、行った方がいい」
 市太と半兵衛も若い衆におぶさって観音堂に戻った。みっともないが歩けないのだからしょうがない。おぶさっている市太に惣八と安治がやたらと話しかけて来た。再会できた事が余程、嬉しかったのだろう。市太にしても同じ思いだ。死んだものと諦めていた二人が、思いもかけない所にヒョッコリと現れた。まるで、夢でも見ているような気分だった。
 二人の話によると、惣八が八兵衛に頼まれて中居村に行こうとしたら、丁度、安治が家から出て来た。おまんの事を相談しようと一緒に出掛けたのだという。
 すべての小道具を集めた八兵衛だったが、四幕目の最後に使う小金吾の生首だけがまだだった。大工の八右衛門に頼んで木彫りの生首を作ってもらったが、どうも気に入らない。どうしても、生々しさが伝わって来なかった。どうしようかと悩んでいた時、高崎から中居に嫁いで来た娘の父親が人形師だと聞いた。八兵衛はその娘を通じて、人形師に小金吾の生首を頼んだ。完成したら高崎まで取りに行くつもりだったが、人形師が完成した生首を持って草津に来た。湯治を兼ねて娘の顔を見に来たらしい。娘が草津まで行って、生首を持って来たので取りに来てくれと連絡があった。ところが、その日、八兵衛は怪我人の治療で忙しく、それどころではない。それで、惣八が代理として出掛けて行ったのだった。
 中居村に着き、小道具の生首を受け取って、茶屋で一休みしている時だった。浅間山が大爆発した。大揺れの後、しばらく地鳴りが続き、物凄い音がしたかと思うと、吾妻(あがつま)川に山のような土砂が流れ落ちて来た。あっと言う間に、吾妻川は土砂で埋まり、川沿いの家々は押し流された。二人が休んでいた茶屋は高台にあったので無事だった。恐ろしい光景を目の当たりにして、二人は震えながら呆然としていた。あんなものが吾妻川に押し寄せたという事は鎌原村も危ないと急いで帰ろうとしたが、橋は流され、川向こうに行く事はできなかった。物凄い量の土砂が滝のように吾妻川に落ち、上流から流れて来る土砂とぶつかり、物凄い音を立てて勢いよく流れて行く。真っ赤に燃えている焼け石も混ざって、煙を上げながら、家々を押し潰し、樹木を押し倒し、人や馬も容赦なく押し流して行く。
 西窪(さいくぼ)まで行けば、川向こうに行けるだろうと行ってみたがダメだった。西窪村は全滅していた。土砂と焼け石に埋まり、家は一軒もなかった。西窪がこんな有り様なら浅間山に近い鎌原は絶望だった。二人は家を失った者たちと一緒に大前村を目指した。大前村も全滅だった。街道も埋まり、街道に沿って建つ家々もすべて埋まっていた。山の中を抜けて大笹に着いたのは日暮れ近くだった。大笹は無事だった。二人は一安心して、市太の伯父、黒岩長左衛門を頼った。長左衛門の家には避難民が溢れていた。
 長左衛門は避難民のために小屋を建てて、逃げて来た者たちに食事を与え、家を失った者たちを収容した。二人もその小屋で寝起きをしながら、焼け石が冷えるのを待っていた。
 永泉坊が来たのは十日の昼過ぎだった。両足を火傷(やけど)して倒れているのを助けられて連れて来られた。永泉坊から観音堂に生存者が五十人余りいると聞き、すぐにでも飛んで行きたかったが行けなかった。
「おめえが生きてんのは永泉坊から聞いて知ってたよ。ただ、俺たちの家族の事はわからねえんだ。どうなんでえ、生きてんのか」
「残念だが」と市太は首を振った。
「‥‥‥ダメだったか」
「‥‥‥ただ、おまんとおさやは生きてるぞ」
 惣八と安治は急に目を輝かせて、「よかったなア」と喜び合った。
「あっ、そうだ。おゆうが大笹で待ってんだ」と惣八が思い出して言う。
「草津から来たのか」
「ああ。おしまと一緒にな。勘治は無事なんだんべえ」
「いや、ダメだった」
「‥‥‥おゆうには、とても言えねえ」
 惣八が言う通り、おゆうと面と向かったら、市太にも言えそうもなかった。市太は顔を上げて、前を見た。もう中程まで来たのか、焼け石の中に浮かぶ小島のような観音堂の森が近くに見えて来た。すぐ、目の前をおぶさって行く永泉坊の足を眺めながら、「あんな足でどうして、永泉坊は戻って来たんだ」と惣八に聞いた。
「仕上げの祈祷をするそうだ」
「そのためにわざわざ戻って来たのか」
「らしいな。今日は初七日だんべ。亡くなった者たちの冥福を祈るんだそうだ」
「もう初七日になるのか‥‥‥」
 市太には今日が何日なのかわからなかった。村がなくなったのが八日だったのは覚えている。余りにも恐ろしい目に会ったため、時間の感覚が鈍り、あれから十日以上も経っているようにも思え、また、二、三日しか経っていないようにも思えた。
「永泉坊は焼け石の上を歩いて大笹まで行ったのか」
「そう言ってたよ。修行を積んでるから、火の上も歩けるんだそうだ」
「ほんとかよ、信じられねえ」
「俺も信じられなかったんさ。それで、しつこく聞いたら、とうとう、ほんとの事を教えてくれた。竹馬に乗って来たんだとさ」
「竹馬か。そうか、そいつア気づかなかった」
「それでも、大笹まで三日も掛かったそうだ」
「そうだんべなア。あん時ゃアまだ、真っ赤に焼けてたんべえ」
 観音堂に着くと、おみのはおろくやおかよに手伝ってもらい、お粥(かゆ)を作り始めた。長期間、物を食べていない者に普通の食事を与えると腹を壊してしまうと、断食(だんじき)を何度もやっている永泉坊の指示によって消化のいいお粥にしたのだった。
 永泉坊は追い出された事など少しも恨まず、観音堂で祈祷を始めた。自分の事で精一杯だった村人たちは皆、今日が初七日だった事をすっかり忘れていた。足が不自由にもかかわらず、わざわざ、亡くなった者たちのために来てくれた永泉坊に両手を合わせずにはいられなかった。最初に永泉坊を罵(ののし)った山守の隠居、長兵衛は何度も何度も頭を下げていた。
 暖かいお粥を食べて、生き返った者たちは永泉坊と一緒に亡くなった者たちの冥福を祈り、観音堂を後にした。
 歩く気力もなかった市太と半兵衛も力が出て来た。一番おかしかったのは扇屋の旦那だった。ずっと具合が悪くて、ゲッソリしていたのが、お粥を食べた途端に嘘のように顔色がよくなった。あんなにデブデブと太った男をおぶって行くのは大変だろうと心配したが、何とか一人で歩けそうだ。どうしても歩けない者たちは大笹から来た若い衆におぶってもらい、雨の中、大笹へと向かった。
 仙之助は母親を背負い、孫八は祖父を背負い、安治は大工の八右衛門のおかみさんをおぶっていた。丑之助は祖父の長兵衛を背負うのかと思えば、祖父は他人任せにして、おしめを背負い、惣八はちゃっかりとおまんをおぶっていた。

2020年4月24日金曜日

天明三年(一七八三)七月十三日

 雨が毎日、降っていた。
 十日の午前中、若衆小屋も壊れるかと思う程の大揺れが来た。土砂が押し寄せて来るかと警戒したが、それはなく、正午頃には静まった。ただ、雨がお湯になって降って来たのには驚いた。まるで、草津の滝の湯を浴びているようで、男たちは裸になって湯を浴びた。
 一日中、雨が降っていたので、焼け石も冷えて歩けるだろうと思ったが、まだダメだった。夜になると雨降る中でも、焼け石が燃えて所々が明るかった。
 十一日、十二日も雨が降り続き、時々、揺れが来た。かなりの揺れなのだが、すっかり大揺れに慣れてしまった者たちにとっては何でもなかった。いちいち驚く気力もなく、もうどうにでもなれと開き直っていた。その頃、軽井沢方面では屋根に積もった灰が雨を含んで重くなり、家々が何軒も潰れていた。
 十三日になっても雨は降り続いた。幸い、灰を含んではいないので、溜めて置けば飲み水にもなり、体を拭くのにも役に立った。しかし、狭い小屋の中から外に出る事はできず、やる事もなく、ただじっとうずくまっているのは耐え切れない程の苦痛だった。
 ここに閉じ込められて五日が過ぎ、水ばかり飲んでいた生存者は皆、病人のようになっていた。中でも観音堂にいる扇屋の旦那はひどかった。下痢(げり)と発熱、空腹と疲労でゲッソリしている。失った財産の事ばかり愚痴っていた旦那がおとなしくなったのはいいが、看病疲れで妻も母親も倒れてしまった。市太の兄嫁おきたも旦那の病が移ったのか熱を出している。若衆小屋でも百姓代の仲右衛門が最初に倒れ、大工の八右衛門の妻おまて、仙之助の母おいよ、与左衛門の娘おすき、半兵衛の娘おふじと移り、彦七の妻おしめもやられ、おしめから乳を貰っていた、おそめも熱を出してグッタリしている。このままでは全滅の危機が迫っていた。
 市太、半兵衛、お頭の杢兵衛が毎日、焼け石の様子を見に行くが、まだ歩けそうもない。元気な男衆なら何とかなるだろうが、病人を連れて行くとなると難しい。しかも、雨の中、連れて行くのは危険だった。
「もうギリギリじゃねえのか」と軒下に座り込んで、雨を恨めしそうに眺めていた半兵衛が隣に立っている市太に言った。「誰かが助けを呼んで来なけりゃ、みんな倒れちまうぜ」
「そうだな。おふじちゃんも倒れちまったしな」と市太も座り込む。
「わしたちがここにいるのを誰も知らねえに違えねえ。誰かが知らせなくちゃならねえ」
「どこまで行けるかわからねえが、明日になったら俺が行ってくらア」
「いや、わしが行って来る」
「それじゃア、二人で行くべえ。こっちの事はお頭に頼みゃア大丈夫だんべえ」
「そうじゃな、そうするか」
 二人が密かに相談しているとおろくが顔を出した。おろくも可哀想な位にやつれ果てている。生まれつき、何かをやらずにはいられない性分で、母親の看病に慣れているからと倒れている者たちの面倒を見ていた。面倒を見ると言っても栄養を付ける食べ物はない。熱冷ましの手拭を代えてやるか、水を飲ませるか、体を拭いてやる事しかできないが、自分も倒れそうなのに他人の面倒を見るのは大変な事だった。
「明日、行くんですか」
「聞いてたのか」
 おろくはうなづいた。
「気を付けて下さい。まだ、熱いんでしょ」
「板切れを持ってって、熱いとこはそいつの上を渡って行きゃア、何とかなるだんべ。すぐに戻って来るよ。何か必要な物はあるか」
「そうねえ。やっぱり、食べ物でしょうね。何かを食べなきゃ、みんな歩く事もできないでしょう‥‥‥そうだ、もう大揺れは来そうもないし、明かりも欲しいわね」
「油か‥‥‥いや、ローソクの方がいいな」
「二人共、なに言ってんだ」と半兵衛が言う。「助けを連れて戻って来りゃア、もうここにいる必要はねえんじゃよ」
「あっ、そうか」
「それじゃア、明日も雨が降ってたら、笠に合羽(かっぱ)がいるわ、病人の分だけでも。駕籠(かご)も欲しいけど、道もないのに駕籠は無理ね」
「病人はおぶって連れて行くよりあるめえ。威勢のいい人足を連れてくらア」
 もう日暮れ間近だった。今日も一日が終わろうとしている。何もしないでボーッとしていると、どうしても亡くなった者たちの事が思い出された。
 おゆうと一緒になるために稼業に励んでいた勘治、おゆうは勘治が亡くなった事をまだ知らねえだんべ。村がなくなったのも両親が亡くなったのも知らずに、湯治客の面倒を見ているに違えねえ。
 おまんに惣八の事を聞いたら、八兵衛に頼まれて小道具を捜しに行ったと言う。どこに行ったのかは知らなかった。村から出て行ったなら生きてるかもしれねえ。無事を祈るしかなかった。
 妹のおさやと一緒になりてえと言ってた安治も亡くなった。半兵衛の話だと安は馬方に来なかったと言う。狩宿に行ったのなら生きてる可能性もあるが、うちにいたのなら絶望だ。いつも馬方稼業に励んでいたのに、あの日に限って何をしてやがったんだ。俺がいい顔しなかったから、安はまだ、おさやを抱いちゃアいねえだんべ。おさやも安が好きなようだった。こんな事になるんなら、二人をうまく取り持ってやりゃアよかった。
 丑之助は狩宿が無事なら生きてるかもしれねえ。丑が惚れてるおしめは独りぼっちになって生きている。おしめのためにも生きていてほしいもんだ。
 おなつとおなべも死んじまった。俺も惣八も二人が嫌えになったわけじゃねえ。二人共いい女だった。あん時、ここにいたのに何で降りて行っちまったんだ。
 桔梗屋の姉さんも亡くなっちまった。大酒飲みだったが、いい女だった。何かあった時、姉さんと一緒に酒を飲むと何となく心が和(なご)んで嫌な事も忘れられた。
 畜生、何でみんな、死ななきゃアならねえんだ。何も悪(わり)い事なんかしちゃアいねえのに、どうして死んじまったんだ‥‥‥
「市太さ~ん」とおろくが呼んでいた。
 顔を上げるとおろくが観音堂の前に立っている。
「おめえ、雨ん中で何してんだ」
「ちょっと、早く来て」
 市太は隣にいる半兵衛と顔を見合わせ、一緒におろくの側に駈け寄った。おろくが指さす方を見ると、夕闇の中、焼け石が燃えている火が見えた。
「畜生め、まだ、あんなに燃えていやがる」
「そうじゃないのよ」とおろくは首を振った。「あの火がだんだん近づいて来るの」
「何だと」
 改めて、火を見つめるとおろくの言ったように火が近づいて来る。数えると五つの火がこっちに向かって来ていた。
「もしかしたら、松明(たいまつ)か」
「人が来るのか」
 三人は信じられないという顔をして近づいて来る火をじっと見つめた。やがて、話声も聞こえて来た。
「おーい、こっちだア」と市太は大声を上げた。
「誰かいるのかア」と声が返って来た。
「こっちだ、こっちだ」と市太たちは石段の下まで降りた。
「何だ、何だ」と観音堂や若衆小屋からも動ける者たちが出て来た。
「誰だア、そこにいるのは」
「橘屋の市太郎だ。他にも六十人余りいる」
「市太か。俺ア丑之助だ」
「丑か、おめえ、生きてたのか。おい、もうそこは歩けるのか」
「まだ焼けてる。高下駄を履いて来たんだ」
「そうか、気を付けて来いよ。さっきはまだ熱(あち)かったからな」
 やがて、松明を持って、笠と蓑を着込んだ丑之助がやって来た。何から何まで泥だらけ、高下駄を履いて来たと言ったが、下駄の歯はすっかり焼けて、歯なんかほとんどない。丑之助の後に仙之助、おかよの兄の長治、与七の伜の孫八、おみやの兄の三右衛門がいた。
「市太、おめえ、大丈夫か」丑之助は泥だらけの顔で市太を見ながら嬉しそうに笑った。
 市太も嬉しそうに丑之助たちの顔を見回した。助けが来るなんて夢でも見ているようだった。皆で手を取り合って喜び合った。
「まるで、病人の面だぜ」と丑之助は市太の顔を改めて眺めながら言う。
「ここには食う物が何もねえんだよ」と市太は病人たちのいる観音堂の方を見る。
「飲まず食わずで、ずっと、ここにいたのか」
「水だけさ。おめえらは飯が食えたのか」
「ああ、飯は食えた。狩宿は大丈夫だったんだ。ただ、怪我人が何人もいる」
「馬方で死んだ奴はいねえのか」
 丑之助は首を振った。
「死んだ者の方が多い。生き残ったのは二十人だけだ」
「そうか‥‥‥雨ん中で長話をしてる事アねえ。小屋の方に行くべえ」
 丑之助は山守の伜だった。兄の八蔵は延命寺の和尚とお山に登って行って亡くなった。八蔵の妻と二人の子供も亡くなったが、隠居の長兵衛と母親、妹と弟は生きていて、再会を喜び会った。
 仙之助の両親は生きていた。具合が悪かった母親は諦めていた息子が帰って来たので、病も忘れたかのように喜んでいた。
 長治の両親はいなかった。それでも、妹のおかよとおこう、姪のおそめに再会し、よかったよかったと涙を流した。
 孫八は畑にいて助かった与七夫婦の伜で、家族は皆、無事だった。弟の富松も怪我をしているが狩宿にいるという。八人の家族が全員、無事というのは奇跡に近かった。
 三右衛門は酒屋の伜で、あの日の朝早く、父親に頼まれて大戸の分限者であり、造り酒屋もやっている加部安左衛門の所に行っていた。大戸で浅間焼けに会い、慌てて戻って来たが、狩宿から先へは行けなかった。丑之助たちと一緒に焼け石が冷えるのを待って、やって来たのだった。父親と母親、一緒に暮らしていた叔母と叔父が亡くなっていた。それでも、妹のおみやと弟の平次と再会し、苦労して来てよかったと喜んだ。
 丑之助の話によると、土石流が来た時、鎌原を最初に出た馬方たちは、後もう少しで狩宿に着く所だった。次から次へと鎌原を出たので、道には荷物を積んだ馬がずらりと並んでいる。命が助かったのは先頭から二十人までだった。後ろの者たちは、あっと言う間に土砂に押し流されてしまった。生き残った二十人のうち、後方の九人は怪我をした。二頭の馬を引いている者もいたので馬は三十頭近く助かったという。
 すぐに村に帰りたかったが、土石流の後に来た火砕流が焼けていてどうする事もできない。今日になって意を決し、高下駄を履いて焼け石の上を歩いて来た。狩宿から鎌原までは二里(約八キロ)しか離れていないのに、四時(とき)(八時間)余りも掛かったという。
「まったく、すげえもんだ。でけえ岩や太え木がゴロゴロしてやがる。雨が降ってて、お山も見えねえ。辺り一面、焼け石が広がってて方向もわからねえんだ。小宿(こやど)は全滅だった。常林寺(じょうりんじ)もすっかり埋まっていやがった。赤川も小熊沢も埋まっちまったが、雨が降り続いたんで、あっちこっちに川ができていた。焼け石は熱(あち)いし、焼け石のねえとこは泥だらけで足が埋まっちまうんだ。まったく、えれえ目に会ったぜ」
「村の様子はどうだった」と市太は聞いた。
「ひでえもんだ。小宿を見て覚悟はしてたんだが、まさか、こんなにひでえたア思ってもいなかった。村があったってえ形跡なんかどこにもねえ。みんなすっかり埋まってる。ただ、お諏訪様の屋根だけが少し顔を出していた。それで、観音堂の位置がわかって、あそこは高えから無事だんべえってやって来たんだ」
「そうか、お諏訪さんの屋根だけが顔を出してたか‥‥‥」
 市太が呆然としていると、
「永泉坊が見えねえようだけど」と丑之助が言った。「助けを呼びに行ったのかい」
「そうじゃねえんだ。村がなくなっちまったんは永泉坊のせいだってな、みんなして追い出しちまったんだよ」
「追い出しちまったって、どこにも行けなかったんだんべ」
「そうなんだが、どっかに消えちまった。どっかに逃げ道があるのかと捜し回ったんだが見つからねえ。どうやって出てったんだか、未だにわからねえ」
「そうか‥‥‥」
 市太が丑之助から話を聞いているように、他の者たちも狩宿から来た者から話を聞いていた。身内が生きていると聞いて喜ぶ者もいれば、亡くなったと嘆く者もいる。それでも、生存者の数が増えたのは嬉しい事だった。
「惣八も安も死んじまったのか」と丑之助が市太に聞いた。
「ああ、みんな、死んじまったよ」
「そうか‥‥‥」
「幸助はどうした。生きてるのか」と市太が丑之助に聞いた。
 丑之助は首を振った。
「ダメだったか‥‥‥」
「金四郎の奴、怪我をして向こうにいるんだけど、嫁さんの事を心配(しんぺえ)していやがった。奴の嫁さんはどうなんだ」
「ダメだ。金四郎んちはみんな死んじまった」
「そうか。奴が来なくてよかった‥‥‥」
 外もすっかり暗くなった。松明も消えて、すっかり闇に包まれ、人々の話し声もやみ、雨の音と時々、咳き込む病人の声だけが響き渡った。狩宿から来た者たちも身内の側に行ってうずくまった。市太もおろくの側に行ってうずくまり、長く辛い夜を迎え入れた。

目次

1. 四月八日    今日は浅間山の山開き。市太、勘治、惣八の三人は嘘をついて馴染み女郎のいる追分宿へと下りて来た。 2. 四月九日    宿場の若い者が「火の用心、火の用心」と叫びながら走り行く。「浅間焼けだア~」と誰かが叫んだ。 3. 四月十三日    観...